誤算
日付が変わる頃、ようやくロアは天馬の乗馬練習を終えて自室に戻ってきた。
日付が変わったら迎えに行こうと待機していたマヌエラが、急いで扉を開ける。うとうとしかけていたそばかすのある侍女も、はっとして顔を上げた。年嵩の侍女と丸顔の侍女は、既に隣の部屋で休んでいた。
「お帰りなさいませ、ロア様」
「マヌエラぁ~……」
ロアはマヌエラの顔を見るとほっとして、情けない声を上げた。マヌエラもロアのぼろぼろの姿を見て思わず小さく叫ぶ。
「まあ!」
無残にも、ロアは髪と言わず肩と言わず土と草まみれだった。玄関で泥だらけ過ぎると見咎められて履き替えさせられた借り物の靴だけが、不均衡な光沢を放っていた。手には本を一冊持っている。
マヌエラはとりあえず本を受け取り、背後で同じように驚いているそばかすの侍女に向かって浴室を指差した。
「ロア様、まずはシャワーです。話は後でゆっくりお聞きしますから」
マヌエラは本をさっと拭いてから、ベッドの横のナイトテーブルへ置いた。
そばかすの侍女は丸顔の侍女を起こして、事情を説明した。それからロアが脱いだ泥だらけの乗馬服を手に部屋を出て、今の時間は開いているだろうかと心配しながら洗濯室へ急ぐ。丸顔の侍女はあくびを噛み殺しつつ、浴室へロアの世話をしに向かう。
マヌエラは夜食代わりの籠に入ったパンを棚から取り出してテーブルに置き、それからロアが借りてきた靴を入念に磨いた。
ウィンフィールド王城の使用人にこの靴を返した時に、ベルンシュタインの使用人は靴の手入れが下手だと笑われるのは絶対にごめんだった。恐らくは預けたロアの乗馬靴も、泥だらけだったことが信じられないほどぴかぴかに磨かれて返ってくるだろう。
「ふぃー、さっぱりしたぁ」
バスローブ姿で浴室を出て来たロアは、部屋に帰ってきた時よりは和らいだ表情で桃色の頬をタオルで擦った。それを見てマヌエラも幾らかほっとする。
「人心地つきましたか」
「うん」
「一体何があったんです?」
ドレッサーの椅子に座ったロアの髪を、マヌエラはタオルでごしごしと拭いて乾かす。朝まで時間のないこんな時だけは、ロアが短い髪で良かったと思う。
「んー……」
「初日より酷い格好でしたよ」
「……あのね、天馬に嫌われちゃったみたい」
落馬して打ち付けた肩を擦りながら、ロアは眉を下げてくぐもった声でしょんぼりと答えた。マヌエラは眼鏡の奥の目を見開いた。
「まあ、お珍しいことですわね。動物に好かれることだけが取り柄のロア様が」
「でも、昨日は何ともなかったのでしょう?」
浴室の清掃を終えた丸顔の侍女が、エプロンで手を拭いながら戻ってきて尋ねた。
「うん、昨日は背中には普通に乗せてくれたよ。でも、どうしてだろう、今日は全然だめだったんだ。近づくだけで嫌がられて、隙をついて背中に乗ってもすぐ振り落とされて……」
説明するうちに泣きたい気持ちになり、ロアはごしごしと目元を擦った。
「そんなに強く擦っては瞼が腫れますよ。指導役の方は何と仰っていたのですか?」
「天馬は人を選ぶんだって。三頭も馬を替えてくれたけど、どの馬もだめだった」
「今日になって急に嫌われた原因については、お聞きしたのですか?」
「もちろん。でも、地上の馬に慣れすぎてて私に変な癖があるんじゃないかとか、あとはさっきの天馬は人を選ぶってことしか教えてくれなかった。気のせいかもしれないけど、あんまり私に色々教えたくないみたい」
ロアは寂しげに呟いた。
「ユリシーズ様の指示でしょうか」
万が一にもロアにレースで勝利されては困ると、ユリシーズが調教師や馬丁達に指示を出しているのかもしれないとマヌエラは疑う。
「分からないよ。もうレースまであまり時間がないのに、どうしよう?」
ロアは涙目でドレッサーの鏡の中のマヌエラを見た。だが幼い頃から散々苦労して育ってきたマヌエラは、弱ったロアが望むような甘く優しい言葉など持ち合わせてはいない。
「情けないことを仰らないで下さい、どうしようもこうしようもありません。誰に頼まれた訳でもないのにロア様が好きで首を突っ込んだのですから、最後までやり抜くしかありませんよ」
ぴしりと言い切られて、ロアはぐうの音も出ずに項垂れる。
「そうだけど……」
「まあまあ、天馬のことは天馬の専門家に聞くのが一番ですよ」
丸顔の侍女が仲裁に入る。
「そうね。王城の騎手や馬丁がロア様の味方でないなら、それ以外の天馬に詳しい人に原因を聞いてみてはいかがですか」
「でも三日前にウィンフィールドに来たばかりの私達に、天馬の専門家の知り合いなんているかしら?」
自分で言い出したことながら、丸顔の侍女がマヌエラに首を傾げて見せた。
「天馬の専門家…………あ!」
ロアが短く叫ぶ。
「心当たりがおありですか?」
「モーリスに聞いてみよう! それにジョーにも!」
椅子から立ち上がって部屋を飛び出そうとするロアの肩を、断固とした態度でマヌエラが押しとどめる。
「いけません。今何時だと思ってらっしゃるんです!」
「あっ、そうか。そうだね。じゃあ明日行こう」
我に返ったロアは、再びドレッサーの前の椅子の上にすとんと腰を落とした。
「モーリスさんとジョーさんと言うのは、ウィットバーン城でお世話になったと仰っていた馬丁ですか?」
「そうだよ。あの二人ならきっと力になってくれると思う!」
弾む声で言って笑顔で頷くロアの髪を、マヌエラはまだ丁寧にタオルで擦る。
「良かったですわね。ところでロア様、おなかは空いていませんか?」
「大丈夫だよ」
「たくさん動いて来たのですから、一つだけでも食べて下さいませ。ドレスのサイズが合わなくなってしまいます」
多少の体型の変化はホックの位置などで調整できるが、あまり大きく変わってしまうとドレスの生地をばらすような本格的な繕いが必要になってしまう。
丸顔の侍女にパンを勧められ、仕方なくロアは一つを手にとってそれを千切って食べ始めた。それからふとバスローブの袖に鼻を押しつけて、くんくんと嗅いだ。
「何てはしたない。せめて王城にお邪魔している時くらい、お行儀の悪いことはお止め下さい」
マヌエラが顔をしかめると、ロアは素直に腕を離した。
「はーい」
「バスローブの匂いが気になりましたか?」
きちんと洗濯しているはずだと、丸顔の侍女がカップにミルクを注ぎながら困ったような顔をする。
「ううん。天馬用の乗馬靴も鞍も花のオイルがかかってたから、その匂いが鼻に残っちゃってるんだ。だからこうして食べてると、花の味のパンみたい」
すっかり上機嫌になったロアは、最後のひとかけらのパンを口に押し込みながら笑った。
丸顔の侍女に差し出されたカップを手に取ると、マヌエラがタオルを動かす手をいったん止めた。ロアは首を反らしてミルクを一気に飲み干す。丸顔の侍女がナフキンでロアの口元を拭い、空になったカップを受け取った。マヌエラがタオルを持つ手を再び動かす。
「ウィンフィールドでは、そんなところにまで気を配るんですね」
「とことん花、花、花の国だよね」
そう言ってロアは体を伸ばして枕元に置いていた本を手に取り、ぺらりとめくる。
「ロア様、その本は?」
「天馬レースのルールブックだよ。地上の馬のレースと同じ部分もあるけど、けっこう違うところも多いから覚えないと。レースで高低差なんて、考えたことなかったからねえ」
真剣な表情で文字を追うが、タオルで髪を擦られているせいで視界は遮られたり揺れたりする。そもそもロアは文章を読むのはあまり得意ではないため、なかなか頭に入っていかない。





