黄昏の鳥籠
ベルンシュタイン皇帝が私室に戻ると、部屋には夕日が差し込みあらゆるものが半分橙色に染まっていた。数々の宝石で飾られた豪奢な杖をつき、軽く足を引きずる奇妙な足音を立てて皇帝はゆっくりと天蓋付きの大きなベッドに近づく。
ベッドにはまだ一人の宮女が眠っており、皇帝はその銀色の髪の宮女の横へ腰を下ろした。ベッドが浅く沈み、宮女は身じろぎをして寝返りを打つ。瞼が震え、現れた淡い青色の瞳が皇帝を見上げる。
「……お帰りなさいませ、皇帝陛下」
皇帝は窓の外を指差した。
「見よヨゼフィーネ、そなたが今日初めて見る太陽はもう沈む」
「まあ、とんだ寝坊を。申し訳ありません」
だが謝罪の言葉とは裏腹に、ヨゼフィーネは緩やかに目を閉じた。
「もたもたしていると次がつかえる」
ヨゼフィーネは形のいい唇に笑みを浮かべ、目を閉じたまま呟いた。
「今日も私がお相手ではご不満ですか?」
皇帝は表情を変えずにヨゼフィーネの髪に指先で触れた。指の上に乗る銀色の髪の毛が夕日の光を受けて輝いている。
皇帝も彼女とよく似た銀色の髪だったが、この髪の色はベルンシュタインでは珍しい。出自の特異さやこの髪色のこともあって、皇帝はヨゼフィーネをことさら寵愛していた。皇帝は髪に唇を寄せた。
「余がそなたに不満があると思うか」
「どうかしら。満足していただけるよう努力はしているつもりですが」
ヨゼフィーネは目を半分だけ開けて滑らかな絹のシーツの中でゆっくりと足を組み替え、くすくすと笑った。初めて会った時の面影の欠片もない挑発的な仕草にも表情を変えずに、皇帝はそれを静かに見下ろす。
「ウィンフィールドへ送る娘が決まった」
懐かしい響きに、ヨゼフィーネは微笑みを残したまま目を伏せた。夕日が長い睫毛の影を頬に落とす。
「馬狂いの、男爵の娘だ」
「ああ。馬術大会で優勝したとかいう子ですね」
後宮から出ることのないヨゼフィーネだったが、宮女達はお喋り好きだ。女だてらに優勝した騎手がいるという話が耳に入ってきたことはあった。
「そうだ。来月には彼の国へ発たせる」
馬鹿にしたように少し笑い、ヨゼフィーネは身を起こした。興味はないという態度で乱れた髪を指で後ろへ流す。
「騎手なら馬車でなく、自分で馬に乗って行けばいいのに。さぞウィンフィールド人に驚かれることでしょうね」
軽口にも皇帝は答えず、その全てから何かの証を読み取ろうとするかのようにじっとヨゼフィーネを見下ろしている。ヨゼフィーネは皇帝の射抜くような視線に気づいていることに気づかれないよう、細心の注意を払って警戒する。
「そうそう。陛下がパッツィーニに描かせている私の肖像画が、色塗りに入りましたわよ」
「そうか。あれはどんな顔をしていた」
皇帝の質問にヨゼフィーネは小首を傾げつつ、両脚をベッドの外へと滑らせた。
「左手一本で描くのは大変なのか、楽しくはなさそうでしたわ。けれど器用に描くものですね、肖像画家になれるかもしれませんよ。ご覧になります?」
パッツィーニに描かせている絵を見せようと床へ足を下ろそうとしたヨゼフィーネの足首を、皇帝が掴んで止める。冷たいがじっとりと湿った小さな手のひらに、じわじわと力が籠もっていくのをヨゼフィーネは感じた。
「……肖像画より、本物がお好みですか?」
動揺を微塵も見せずに、ヨゼフィーネは艶然と微笑んだ。皇帝の薄氷のような色の瞳が淡い青色の瞳を見つめる。
「クローディア・ギビンズ。そなたをウィンフィールドに送っても良かったのだぞ」
元の名で呼ばれ、ヨゼフィーネは驚きと不快感と胸の痛みから僅かに視界を狭めた。
「私を?」
次の瞬間、ヨゼフィーネは体を仰け反らせてヒステリックに笑った。だが皇帝は怒りも笑いもしなかった。
「恐ろしい方。私をウィンフィールドの王子に嫁がせて、あなたの子にあの国を乗っ取らせるおつもり?」
思わせぶりに腹をさすったが、そこにはまだ子はない。当然、ベルンシュタイン皇帝の子を孕んだままウィンフィールドに嫁いで血の書き換えをするようなことは不可能だ。本気ではなくただの冗談だった。
子どもができれば嫌でも後宮の陰謀詭計に巻き込まれることになるため、もはや今以上の生活も今以下の生活も望まないヨゼフィーネは、子を成すにはまだ皇帝は幼すぎるにも関わらず子を成せなくなるという忌まわしい薬を既に密かに飲んでいた。
皇帝は前屈みになり顔をヨゼフィーネの耳へ近づけた。
「祖国へ帰りたくはないのか」
ヨゼフィーネは元々ウィンフィールドで生まれ育った娘だった。だがこれが罠であることを彼女はよく知っていた。
ベルンシュタイン帝国第十五代皇帝は、人の命を天馬の羽ほども重く見ない。ヨゼフィーネが後宮に上がってからの数年だけでも、数十人以上の側近や使用人や宮女達が殺されている。
「父と兄を殺した国へ、なぜわざわざ行かねばならないのですか」
ヨゼフィーネは薄目で皇帝を睨めつけ、わざと冷たい声で言った。ヨゼフィーネことクローディアの父、ウィンフィールド王国のギビンズ侯爵は数年前、王政を廃止し民主政治を望む政治活動家らと通じた罪で息子とともに処刑されている。
わずか四日の間に貴族階級から七人、庶民からは二十人もの人々が処刑され血の四日間と呼ばれている事件だ。その後ヨゼフィーネと母は国を追われ、やむなく母の生家のあるベルンシュタインに身を寄せたのだった。当然皇帝もその事情は知っている。
皇帝はヨゼフィーネの細い顎をくいと持ち上げた。
「故郷を懐かしく思うこともあろう。だが今日まで一度もそなたの口からウィンフィールドという言葉を聞いたことはない」
「故郷を思い出して悪夢にうなされることならありますわ。よくご存知でしょう?」
ヨゼフィーネは戦っていた。皇帝とではなく、自分の揺らぎと戦っていた。
「伯母に会いたくはないのか」
「保身に走って父と兄を庇ってくれなかった薄情者に会っても、唾を吐きかけるくらいしかしたいことはありません」
「第二王子はどうだ」
皇帝の口から第二王子という言葉が出たのは初めてだった。ウィンフィールド王国の第二王子の母はヨゼフィーネの父ギビンズ侯爵の姉であり、ヨゼフィーネと第二王子は従兄弟にあたる。
そのことを皇帝が知らない訳はないと思っていたため幸い覚悟はできていたが、ここは慎重にならなくてはならない。過剰反応は怪しまれる。目の前の子どもは並の大人以上に聡い。
半眼のままヨゼフィーネは静かに息を吸い、心を更に凍らせた。皇帝のピンの先のように小さく絞られた瞳孔が、長い睫毛に縁取られたヨゼフィーネの瞳を抉るように覗き込む。
「コンラッド王子とそなたは随分と親しかったと聞くぞ」
自分と第二王子コンラッドのことをどこまで知っているのだろう、とヨゼフィーネは素早く考える。皇帝が全てを知っているならばわざわざこうして自分の反応を確かめるまでもないはずだ。他愛ない貴族諸侯の噂話程度までしか知らないに違いない。
ヨゼフィーネはまた息を静かに長く吸い、一度そっと止めてから話し始める。
「……ええ、子どもの頃は。ですが伯母も従兄弟も、残念ながら今は父と兄の仇としか思えません。二人がもっと親身に庇ってくれていたら、父を救うことは無理でも兄は殺されずに済んだかもしれないのです」
嫌悪感を露わにして、ヨゼフィーネは眉間に皺を寄せた。口にした言葉は嘘ではない。それもまた彼女の本心の一つだ。
心臓の鼓動の早さを万が一にも皇帝に気づかれないよう、胸元を整える振りをして身体と寝着の間に隙間を作る。そして表情を緩めると皇帝に身を寄せて艶のない頬に口づけ、ヨゼフィーネはほんの少し微笑んでみせた。
だが皇帝は笑わなかった。皇帝は彼女の顎に掛けていた指を頬に這わせ、また降りて再びヨゼフィーネの顎に触れた。顔が近づき、無感情な瞳がヨゼフィーネの視界を侵食する。
「その言葉に偽りがないかを余は知りたい。父と兄を殺した祖国でそなたの心に何が起きるのか。これまでそなたが守ろうとしてきた母よりも優先するものがそこにあるのか」
温かい息が顔に掛かる距離で、皇帝の生気のない人形のような声が響いた。
「ウィンフィールドでそなたの心にどのような波が立ちどこまで深く揺さぶられるのか──余は見ているぞ」