人生のすべて
「勝負?」
突拍子もない誘いに、ユリシーズは腕を下ろしてまじまじとロアを見た。その目は至極真剣だった。
「最後の夜の、天馬レースに出てよ。私が勝ったら、あなたは王様になって二人の結婚に協力する。どう?」
ユリシーズは心底呆れた声で答えた。
「へえ、驚いたな。勝つ可能性があると思ってるんだね。それで、僕が勝ったら?」
「あなたが勝ったら、私はおとなしくクローディアとコンラッドとベルンシュタインに帰る。簡単でしょ?」
「何を言ってるんだ、私達のことを勝手に決めるな」
コンラッドの語気鋭い言葉に、ロアはふてくされたように眉を下げた。
「だって、ユリシーズが頑固なんだもの。もう他に思いつかないよ」
「それはそうだが、だからと言って──」
「私は構わないわ」
しばらく言葉を発していなかったクローディアが、ティーカップを置いてから言った。コンラッドは驚愕の表情でクローディアを見る。
「クローディア! こんなに大切な人生の選択を、勝ち目のない賭けに託すなんて……!」
「こんな先の見えない話し合いにはもう耐えられないわ。それであなたの諦めがつくのならいいじゃない」
クローディアはコンラッドにそう言うと、うんざりしたような嫌悪の顔でユリシーズを見た。
「ユリシーズ、あなたはどうなの? 天馬の素人との勝負から逃げる?」
「逃げるも何も、今の内容だと僕が勝っても利がないよ」
滅茶苦茶なロアの提案に、ユリシーズはまともに話し合う気は失せていた。ロアは仕方なく尋ねる。
「じゃあ、あなたが勝ったらどうしてほしいの?」
ユリシーズが口を開くより早く、コンラッドの冷たい声が飛んだ。
「兄上、私はそんな下らない賭けには関わりませんよ。もし兄上が勝って、クローディアを諦めろと言われても諦めませんからね」
コンラッドは腕組みをして警戒する獣のように軽く背を丸めた。ユリシーズは首を左右に倒して筋肉の凝りをほぐしつつ、半眼でロアを見た。
「そうか。コンラッド、お前が何も賭けないと言うなら──そうだな、ロア・ジャンメール、きみにコンラッドの分のチップも賭けてもらおうか」
城下町に降りて賭博場にも出入りしたことのあるユリシーズとは異なり、賭け事などしたことも見たこともないロアはよく意味を理解できずに目を瞬かせた。
「チップ?」
「ああ。きみが負けたら、きみは今後一切馬に乗るのを止めるんだ」
しんと場が静まり返った。ユリシーズはその空気を楽しむように、打って変わって楽しげに微笑んだ。
「きみがその条件を飲んで、コンラッドが王位に就くと約束してくれるなら。きみが勝った時に、僕は二人の結婚のために全力を尽くすよ」
「ほんとに?」
伝令だというユリシーズの嘘にずっと騙されていたロアは、さすがに信じ切れずに訝しむ視線を送る。ユリシーズは大きく頷いた。
「ああ。クローディアには別人になってもらって、疑われても表向きは他人の空似で押し通そう」
「別人?」
ロアはユリシーズの語る計画を理解できず、軽く眉根を寄せた。
「そうだ。クローディアが名と身分を変える際に彼女を養子にする貴族も、僕が見繕おう。クローディアがウィンフィールドを出てから何年も経っているし、面変わりもしているからやってやれないことはないはずだ」
「父上は気づきますよ」
コンラッドが素早く口を挟む。ユリシーズも同意した。
「もちろん。この城の中で起きていることを父上の長い耳から隠すのは難しい」
「じゃあ、今こうして話していることも?」
ロアは慌てて尋ねる。
「王族は別さ、人払いをする権限があるからね。とはいえ油断はできないけれど」
生まれてこの方父親に警戒などしたことがないロアの目には、ユリシーズの己の父親への警戒心が奇異に映った。
「父上をどう説得するおつもりですか」
「情に流される方ではないからね、交換条件を出して受け入れてもらえるよう掛け合うよ。そしてもしもかつてのギビンズ侯爵夫人をベルンシュタインから連れ出したいと言うなら、それにも協力する。ギビンズ家は取り潰されてもうないけれど、彼女が親類の家で安心して暮らせるよう手配するよ」
「……二人が結婚する方法は、あったんだね。さっきまでは絶対無理だって言ってたのに」
国内で結婚のための方法を滔々と説明するユリシーズの言葉に、ロアは恨みがましい顔で口を尖らせる。
「僕が協力しない限りは絶対に無理さ、あの父上がいる限りはね」
ユリシーズは傲慢に笑った。
「さあ、異国から来た救世主気取りのお嬢さん。きみはたった数日前に出会った、残念なことに友達とさえ思ってもらえていないクローディアのために、きみの人生の全てである乗馬を捨てられるかな?」
残酷に言い放ち、ユリシーズは期待と嘲りの滲む顔で笑っている。
「……」
ロアが乗馬を止めてもユリシーズには何の得もない。ロアが乗馬を手放せる訳がない、ただロアを苦しめたいだけなのだと気づいたクローディアは、どこか自分とユリシーズが重なって見えた。それは嬉しい気づきではなかった。
そして更に、相手に無理難題を押しつけてその苦悩を楽しむ姿がベルンシュタイン皇帝とも重なって、クローディアは寒気を感じて軽く身をすくめた。
「…………」
自分の言い出したことで極限の選択を迫られ、混乱してロアは足元に視線を落とした。乗馬のできない自分など想像もできなかった。自分がこんな危険な賭けをせずとも、二人は幸せになれるかもしれない。しかし、そうはならないかもしれない。どうなるかは今この時点ではきっと、誰にも分からない。
ロアはユリシーズを見た。楽しげに笑っているユリシーズが、同じ王子のコンラッドよりも狡猾で物事を動かす力のある人間であることはロアにも分かった。そしてそのユリシーズが警戒する国王陛下は、ユリシーズと同等かそれ以上の人間であるらしいことも。
クローディアの顔を見ると、視線がかち合った。止めておきなさいと命じているような表情だった。コンラッドが幾らベルンシュタインに渡ると言ったところで、クローディアもユリシーズも国王陛下もそれを許さないだろう。
だが昨日のクローディアの涙を見る限り、それは彼女の真意ではない。母親のことがなければきっと、違う道を選ぶだろう。ここで自分が諦めれば、クローディアを見捨ててしまうこととほとんど同義なのではないかとロアは思った。これはきっと、彼女がコンラッドと幸せになれる最後のチャンスなのだ。
脳裏にふと輪郭が朧気な母の笑顔が浮かんだ。悲しいことに、母の声はもうほとんど忘れてしまった。だが忘れられないこともある。誰かを助けに行く、物語。
ロアは白馬に乗った王子ではない。屈強な戦士でも賢い魔法使いでも何でもない、馬に乗ることだけが取り柄のただの人間だ。
ただの人間は、犠牲を支払わずには誰かを助けたりできないのかもしれない。ロアは自分のできることには限りがあることを理解し、納得した。そしてゆっくりと顔を上げた。
「……いいよ。私が負けたら、二度と馬には乗らない」
言葉にすると現実味が出て一気に恐怖に襲われ、ロアは二の腕を抱くように僅かに身を縮めた。
「何ですって!?」
まさか条件を飲むと思っていなかったクローディアが叫んだ。コンラッドは驚き、ユリシーズは高笑いをした。
「ハハハ! よし、確かに聞いたぞ。交渉は成立だ」
クローディアは立ち上がってつかつかとロアに走り寄り、その肩に手を掛けて揺さぶった。それを見てコンラッドは目を丸くする。クローディアが自分以外の他人に対して、これほど感情的になるところは見たことがなかった。
「あなた、自分が何を言っているか分かってるの!?」
「わかってるよ」
ロアはひどく複雑な顔でクローディアを見た。クローディアはわなわなと唇を震わせた。
「まあベルンシュタインに帰ってしまえば、僕はきみが何をしているかなんて知り得ないからね。良心が痛まなければ乗るといいさ」
追い打ちを掛けるように、ユリシーズは揉める二人を見ながら軽く言った。ロアはキッと鋭い目でユリシーズを見た。
「そんな卑怯なことしない!」
「ロア、お願いだからよく考えて。あなたから馬を取ったら何が残るっていうの?」
クローディアは哀れみを込めてゆるゆると首を横に振った。
「大丈夫だよ、絶対勝つから」
「ユリシーズ王子は子どもの頃から天馬に乗っているのよ。あなたはウィンフィールドに来るまで天馬を見たことさえなかったじゃない」
「でも、騎手だし」
「天馬と馬を同じに考えるなんて、鳥と兎を同じに考えるようなものだわ!」
クローディアの必死な説得を聞いて、そんな状況ではないと思いつつもコンラッドはロアに嫉妬に似たものを感じている。
「ねえ、そんな賭けはするだけ無駄よ。あなたまで不幸になることはないわ、かえって私が余計に心苦しくなるだけ。今の話は取り消してちょうだい」
「大丈夫だってば。今から練習して、ちゃんと乗りこなせるようになるから」
ロアはクローディアを安心させようと笑いかけて見せたが、それは賭けへの不安からいつもより少し弱々しいものだった。
「無理よ。乗れるようになったくらいの腕前じゃ、ユリシーズ王子には勝てない」
「まだ負けるって決まってないよ」
「負けるに決まってるでしょう!」
クローディアが声を荒げる。
「身の程知らずというのはきみのためにある言葉だね」
二人の遣り取りを冷めた目で見ていたユリシーズは、思い上がりにしか聞こえないロアの発言を鼻で笑った。
「なっ、」
口を返そうとするロアを、コンラッドが軽く手で制した。頭は先ほどまでより幾分冷えている。
「兄上。本当に天馬レースに出るおつもりですか?」
ユリシーズはにこりと笑った。
「ああ」
「ジャンメール。兄上は天馬レースで負けたことはないんだぞ。他の騎手もお前の敵になる」
ユリシーズの腕前が国内一という訳ではなく、王子の出場するレースでは他の騎手が遠慮するので負けがつかないのだ。それ故にロアに勝ち目がないことはコンラッドにはよく分かっていた。ロアはそれでも引き下がらなかった。
「それでも勝つよ」
「ハッ、これだけ舐められて黙っている訳にはいかない。ベルンシュタインに帰った後に、ウィンフィールドに続く西の空を二度と見上げられないくらいの屈辱的な負け方をしてもらおう」
ユリシーズとロアの視線がぶつかる。ロアはすうっと息を吸って胸を張った。ネックレスの薔薇色のロードナイトがシャンデリアの光を反射する。
「絶対、負けないから」
「一度も天馬に乗ったことがないのに、僕に勝てると本気で信じてるのかい? 曇天の国に産まれたのに、きみの頭の上だけは常に太陽が出ているようだね」
回りくどい言い方でロアを脳天気と称して、ユリシーズは笑う。だがロアは開き直るようにつんと顎を上げて頷いた。
「そうだよ、『雲の上はいつも晴天』ってね」
「何だって?」
耳慣れない言葉に、ユリシーズが顔をしかめる。誰も説明する者がいなかったので、仕方なくクローディアが口を開く。
「……何か悪いことが起きた時に、ベルンシュタインではそう言うのよ。雨や曇りの日でも見えていないだけで、太陽はきちんと空に存在してるって意味」
「へえ。ベルンシュタイン人は雨続きで黴の生えそうな日々を、そういう言葉で慰めている訳か」
見下すような声色に、屈辱感でロアは肩を怒らせる。
「たまに晴れると、太陽のありがたさがすごくよく分かるんだよ。あなたは負け知らずみたいだから、たまには負けてみるといいよ。きっと勝利のありがたさが分かるようになるから」





