賭け
「そんなものはない、と言っても信じてもらえないんだろうね」
お手上げだという顔で、ユリシーズは両手の手のひらを天井に向ける。
「ええ。……私はずっと、不思議に思っていたんです。血の四日間の後に私が離宮で謹慎させられて、第一王子派の取り巻き連中があなたを説得した時でさえ、その意志は変わらなかったそうですね。かと言ってマーヴィンが王位に就くことに対しては、それほど拒否感はないように見える」
「お前ほどマーヴィンに嫌な思いはさせられてないからね」
コンラッドは鋏を持った兄の後ろ姿と、髭を片方切られて間抜けな顔になったマーヴィンの脅えきった顔を思い出す。
「それはそうでしょう、あんな脅し方をされたら普通の感覚の持ち主なら二度とあなたに手は出せませんよ。……あなたは厳密に言うと、僕を王位に就かせたいのではない。あなた以外の人間が王になればそれでいいと思っているのではないですか?」
昨日の兄との会話を思い出しながら、コンラッドは怒りのおかげで普段踏み込まない領域へと言葉を進めた。だがユリシーズはなおも身をかわす。
「違うと言ったところで否定されるんだろう?」
「そうですね。僕は確信しています。何故そうまで王位を拒むのか……僕に王位を継げと言うなら、あなたには理由を話す義務がある」
沈黙が流れた。
「……やれやれ。恋が叶った直後の男は自分は万能だと思うものだと言うけれど、今のお前はまさにそれだな。いつになく強気で強引な恋人の姿に失望してやいないだろうね、クローディア?」
軽口にもクローディアは何も答えない。
「まさか、噂を本気にしているんですか?」
ロアはぽかんとして二人の王子を交互に見る。
「噂って、何のこと?」
コンラッドが苦い顔をして口を開いた。
「……兄上の母、エスメラルダ妃は元々人妻だったんだ。社交的で、自分というものをしっかり持っている妃を父上が見初めて、かなり強引に離縁させて王妃にしたという経緯がある。だからエスメラルダ妃には、あらぬ噂が立ちやすい」
「ごめん、よくわからない。アラヌ噂ってどんな噂?」
申し訳なさそうに肩をすくめて、ロアはさらに聞いた。コンラッドは珍しく言い淀む。
「それは──」
「国王陛下から寵愛を受けているのをいいことに、母上が次から次に男を摘まみ食いしてるって話なら噂じゃない。事実だよ」
ロアは目を丸くしてユリシーズを見た。ユリシーズは口元を歪めるように微笑む。
「そして僕にも、国王陛下の息子ではなく間男の子だっていう噂がある」
噂に対して何も感じていないかのようにユリシーズは滑らかに言ったが、本人の口から言わせるべきではなかったとコンラッドは少し後悔した。
「お前が言いたいのは、僕が噂を気にして自分以外の誰かが王になった方がいいと考えてるんじゃないかってことか」
ユリシーズは口いっぱいに黒い泥が詰まったような気分で、それでも歪んだ微笑みを浮かべたまま喋り続けた。
「ハッ。真偽不明の噂を信じて王位継承から身を引いてるんだとしたら、僕はずいぶんと慎ましく気の弱いお人よしだね。王にしかできない素晴らしいことなんて山ほどあるって言うのに」
ユリシーズは己を笑った。コンラッドは頷いた。
「兄上は私よりもずっと王に向いています」
「そうだよ! ユリシーズが国王になったら、アクトニカ大陸にだって船団を送れるんじゃない?」
閃いたというようにロアが声を上げる。耳馴染みのない単語に、一瞬コンラッドの思考が止まる。ユリシーズは忌々しげな顔で後頭部に手を当て項垂れた。
「……アクトニカ?」
コンラッドがロアを見る。ロアは明るい顔で答える。
「うん。ソイニンヴァーラの西の海を渡ってずっと向こうにある、」
「今はそんな夢物語をしている場合じゃない」
後頭部をぐしゃぐしゃと掻き、ユリシーズは吐き捨てるように言った。この場に相応しい話題とはとても思えなかったし、そんな話をしたところでコンラッドやクローディアがアクトニカ大陸に興味を持つとも思えなかった。
「夢物語? だってユリシーズ、アクトニカはあるって信じてるって──」
ロアは眉を下げてユリシーズを見た。
「場違いなんだよ、ロア・ジャンメール。なんて顔だ。きみは昨日のことで僕に腹を立てているんだろう、簡単に恨みを忘れてもらっちゃ困るな」
怒気を込めてユリシーズはロアを突き放し、通じないと思いつつも嫌味も言う。張っていた気が切れはしないまでも、緩んで崩れかけてユリシーズはひどい疲れを感じた。
「コンラッド、続けてくれ」
コンラッドはロアをじっと見て、ロアは渋々口をつぐんだ。
「……とにかく。せっせと城下へ降りているお陰で兄上は人気もあるようですし、ウィンフィールドの民もさぞ喜ぶでしょう。王になることは自由の翼より魅力的なのではありませんか?」
ユリシーズは首を横に振った。
「僕は父上のようにはなれない」
「兄上ならきっと父上よりもいい王になれますよ」
コンラッドを見てからユリシーズは項垂れ、ぐしゃぐしゃと執拗にまた髪を掻き乱した。
「駄目だよ、コンラッド。僕じゃ駄目なんだ」
「だから、何故なのですか?」
同じ言葉を何度も繰り返され、コンラッドは焦れたように問う。
「もしかして、あなたの容姿のことで噂を本気にしているのですか? そのことなら、どんな血筋にも少し変わった形質は表れるものです。あなたの交渉も得意で知識も豊富な気質は、間違いなくウィンフィールド王族の血ですよ」
ユリシーズの胸に黒いものが広がる。
「……僕には王になる資格がない」
否定を繰り返して首を振るだけのユリシーズに、コンラッドはため息をついた。
「……」
沈黙が流れる。場違いだと言われてからずっと面白くない顔をしていたロアは、我慢しきれずに口を開いた。
「もう! 無理でも何でもやりなよ、大事な大事な弟のためでしょ!」
ユリシーズは澱んだ目でロアを見た。ロアは鼻息荒く言葉を続ける。
「麗しい兄弟愛はどうしたのさ? 弟が覚悟を決めて必死な今こそ、兄弟愛で応援してあげる時じゃないの!?」
自分自身のダンス中の発言をロアに返され、ユリシーズは心底不快な顔をした。妙なところで記憶力のいい娘だと憎々しく思う。それからすぐにユリシーズはあることに気づいて、話題の矛先を変えられて助かったと内心喜んだ。
「さてはジャンメール騎手、早く天馬に乗る練習に行きたくなったんだね?」
「なっ、」
弄ぶのにちょうどいい玩具を見つけたような顔でユリシーズは言い、迂闊にもロアは言葉に詰まってしまった。コンラッドは眉間に皺を寄せ、ユリシーズは更に笑った。
「いいよいいよ、行っておいで。きみはそもそも邪魔者でしかない。何ならベルンシュタインに帰ったっていいよ」
「い、今は私の話をしてるんじゃないでしょ! あなたの話だよ!」
「部外者には私的な話を聞かれたくないからね。きみが出て行ってから僕の話をしよう」
「……ほんと?」
「嘘だろうな。これが兄上のいつものやり口だ。いつの間にか兄上の話からこちらの話になっている」
ため息をつくコンラッドの言葉に、ロアは怒りを込めて胸を張り鼻息荒くユリシーズを指差した。
「~~~~、大嘘つき! あのねえユリシーズ、あなたが協力しなくたって邪魔したってコンラッドはベルンシュタインに行くよ。覚悟を決めてあなたが国王になって。どうしてもそれが嫌だって言うなら、クローディアがウィンフィールド王妃になれるようにしてよ」
「人を指差すんじゃない。……無理だよ、そもそもクローディアが望んでいない」
コンラッドが険しい顔でユリシーズを見る。
「本当は望んでいるはずです」
「お前の願望だ」
「違う」
「だったら本人に聞いてみよう。クローディア、どうなんだい?」
ユリシーズがクローディアを見た。ロアは急いで口を挟む。
「駄目だよ。カサンドラさんのことがあるから、クローディアは本心は言えないもの」
「埒があかないな」
うんざりだと言うようにユリシーズは両手を後頭部に回した。
「そう。本当に埒があかない。──だからユリシーズ、私と勝負しよう」





