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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第三章 欠けてゆく月
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手放せないもの



 クローディアは軽い嘲笑ともため息ともつかない息を吐いた。それから耳が痛いほどの静寂が訪れ、ロアははらはらと二人を見守る。ユリシーズは己の耳をごしごしと擦った。


「悪い。もう一度言ってくれ、よく聞こえなかった」


「私がクローディアと一緒にベルンシュタインへ行くと言ったのです。彼女は王妃になれなくていい。王弟の妻にもなれなくていい。私の妻になれさえすればいいのです」


 もう一度さらに強い声で同じことを繰り返したコンラッドの度胸に、ユリシーズは内心少しだけ感嘆しつつも笑う。


「なるほど、父上が卒倒どころか憤死する名案だ。飛ばしの新聞記事でも不敬罪で捕まる」


「私は本気です」


 ユリシーズは天を仰いで脱力し、ふうっと長く息を吐いた。それから髪をわしゃわしゃと掻き乱す。


「そんなことはさせられない」


 ユリシーズは束の間目を閉じ、それからゆっくりと目を開けてコンラッドを見た。色味も似ているせいで、鷹のような目だとロアは思った。


「何故ですか?」


 ユリシーズは大きく首を横に振る。


「理由なんて腐るほどあるだろう? そんな滅茶苦茶な話が通ると思っていたなら、僕はそっちに驚くよ」


「王位は兄上が継げばいい。ベルンシュタインと協力関係が結べるなら、決してウィンフィールドにとっても悪い話ではないはずです」


「あのベルンシュタイン皇帝が、お気に入りの愛人を黙って寝取られると思うか? 皇帝はこうなることも十分予測して、クローディアを送ってるんだぞ。何か仕掛けがあるに違いない」


 うなじを掻きながら下卑た言葉を吐くユリシーズに、コンラッドは不快そうに口元を歪めた。クローディアは何も反応を示さなかったが、心の内ではユリシーズに同意していた。


「向こうへ渡ったって、帝国にとってはおまえは厄介者だ。無下にできないのは事実だろうが、形だけの適当な役職をもらって東の辺境にでも追いやられて、一生飼い殺されるのがせいぜいさ。クローディアと二人、異国の片隅で世捨て人のように暮らしたいのか?」


 コンラッドが喉の奥を震わせるように笑った。瞳に覇気が篭もる。


「望むところです」


 ユリシーズは目を細め、小声で呟いた。


「──お前も恋に狂って全てを捨てるのか」


「え?」


 問い返すコンラッドの声は聞こえなかったかのように、ユリシーズは再び口を開いた。


「もしもウィンフィールドとベルンシュタインが戦になれば悲劇だね。お前達はいっそ皇帝に首を刎ねられた方がましだったと思うだろう。お前達はウィンフィールドの象徴だ。服を引き毟られて、街中を素足で引き回されて、ベルンシュタイン人どもに罵られて石をぶつけられて──お前とクローディアだけじゃない、その時お前達に子どもがいればその子どももだ。何の罪もないのに」


 クローディアはまるで眠いというかのように、静かに浅く小首を傾げた。その仕草はベルンシュタイン行きの希望が叶うとは全く思っていないようで、コンラッドは焦った。


「それは……ただの可能性です。むしろ私が渡れば、二国間の戦争は遠のくはずです」


 言葉とは裏腹にコンラッドが揺らいでいるのを、ロアは見て取った。当然、それを逃さないユリシーズではない。


「それもただの可能性だよ、コンラッド。相手はあの狂人と名高い少年皇帝だぞ? 父上やお前の母や国民を失望させて混乱させて、更には未来の甥や姪が酷い目に遭うかもしれない決断を、僕は了承なんてできない」


 コンラッドはひと時黙り込んだ。下手に喋れば兄にとって反論の材料にされてしまうからだ。


「クローディア、きみの意見も聞こう。張本人なのに澄ました顔をしていつまで黙りこくっている気だい」


 ユリシーズは少し苛立ちを滲ませながらクローディアを見たが、それでも彼女は何も答えなかった。


「きみが一番ベルンシュタイン皇帝の恐ろしさをよく知っているはずだ。気の毒な元侯爵夫人があの地でまだ生きている以上、きみは皇帝を裏切ることはできない」


 ユリシーズの読みは当たっている。コンラッドは口をつぐんだ。


「違うかい、クローディア?」


「…………。私は、一人で帰ります」


 大きな吐息の後に響いた物憂げなクローディアの口振りは、何もかも諦めた老人を思わせるものだった。ロアはぎゅっと自分の手を握った。ユリシーズはしたり顔でコンラッドを見る。


「聞いたか、コンラッド。彼女は一人で帰りたがってる。お前が我を通せば健気な彼女の思いを踏みにじることになるぞ」


「……」


 クローディアへの気持ちは微塵も変わりなかったが、コンラッドはとうとう何も言えなくなった。それを見てユリシーズは僅かに満足げな顔をして、それから哀れむような声で言った。


「彼女の選択を尊重して見送ってやれ。それだけが、それこそがお前のクローディアへの愛情の証だ」


 沈黙が流れた。俯いてしまったコンラッドの代わりに、ロアが口を開く。


「……カサンドラさんは、そんなこと望んでないと思うよ」


 ぴくりとクローディアの肩が揺れ、ユリシーズは鋭い目でロアを見た。そもそも全くの部外者のロアが、少なくともこの場にはそぐわない間の抜けた服装でここにいること自体、ユリシーズはずっと不満に思っていた。


「何だって?」


「カサンドラさんは、そんなこと望んでないと思う。だってヨゼフィーネ──じゃなかった、クローディアは、お父様とお兄様を亡くして、好きでもないよその国の皇帝の、……、……」


「愛人」


 クローディアを気遣って皇帝の愛人とははっきり言えないロアに、言葉を足してやりユリシーズは微笑んだ。ロアはキッとユリシーズを睨んで、先ほどより大きな声で話を続ける。


「それ。に、させられて。それで今は、初恋の人とまた会えたんでしょう? カサンドラさんは自分はどうなってもいいから、クローディアには幸せになってほしいって言うんじゃないかな」


 ロアは話しながらちらりとクローディアの顔を窺ったが、その表情は変わらなかった。

 父と兄を失って失意の日々を送っている今、確かに母は自分の幸せを一番に望んでいるかもしれないとクローディアは思った。だがそんな確証はなかったし、もし母がそう望んでいたとしても母を捨てて幸せになる気は微塵もなかった。ユリシーズは怒りを込めて低い声で答える。


「全ての母親が、愛のために自己犠牲を選ぶ母親とは限らない。それはただのきみの願望だろう」


「ヨゼ──クローディアのお母様は、優しいよ。クローディアを心配して、いつも手紙をくれるんだって。ね?」


 ロアは先ほどのクローディアとの話を引き合いに出し、期待を込めてクローディアを見た。クローディアは頷きともそうでないとも取れる曖昧な角度で俯いた。


「そうか。生まれてくる前に正しい親選びをしたきみ達の幸運をお祝いするよ、ベルンシュタインのお嬢さん方」


 乾いた声が響いた。ユリシーズの母の人となりを知るコンラッドは、はっとして顔を上げた。三人がユリシーズに目を向ける。


「だけどクローディアが皇帝の怒りを買って、元侯爵夫人が彼女の夫や息子と同じように首を刎ねられて死んだ時、クローディアはどう感じるかな」


 さらりと処刑の話まで持ち出したユリシーズの心には、まるで血が通っていないかのようだった。ロアは動揺して気遣わしげにクローディアを見、コンラッドは唇を引き結んだ。クローディアは顔色一つ変えてはいなかったが、ロアは冷酷なユリシーズを睨んだ。


「この場合は元侯爵夫人の意志より、クローディアの意志の方が大切なんじゃないのかい?」


 ユリシーズはゆっくりと話しながら、一人一人の顔を順にじっと見た。コンラッドは場の空気が兄に飲まれていくいつもの感覚に抗おうとしたが、焦るだけで何も言葉が浮かばなかった。


「こ、殺されるとは決まってないでしょ。皇帝陛下が騒ぐ前にカサンドラさんをここに連れて来られれば、」


「そんなことはできない。皇帝がさせない。決してね」


 ユリシーズはまるで皇帝本人かのように威圧的に断言した。ロアは眉根を寄せる。


「どうして言い切れるの?」


「さっきも言ったけど、ベルンシュタイン皇帝はこうなることも予測してクローディアをこの国へ送ってるんだ。今カサンドラの住む城をベルンシュタイン軍が総掛かりで防衛してるとしても、僕は驚かないね」


 クローディアは私も驚かないわ、と心の中で呟く。実際に後宮から何人もの使用人がカサンドラの暮らすゴリッツ子爵の城に送り込まれていることは、この場の誰もまだ知らなかった。


「私は驚く」


 更に眉根を寄せて言い張り、ロアは口をきつく結んだ。


「何ならカサンドラも後宮に上げられて、娘と同じように皇帝のベッドに潜り込んでいるかもしれないね」


 ユリシーズは鼻で笑うように言った。


「なっ……!!」


 ロアは怒りに頬を紅潮させたが、コンラッドは兄がわざとこの場を煽ろうとしていることに気づいていたため、懸命に冷静であろうとした。ユリシーズは濃い睫毛に縁取られた目に力を込めた。


「ロア・ジャンメール。権力を持った男の天井知らずの欲望を、きみは知らない」


「……!」


「そんな男を相手に、馬に跨がって速く走ることしか能のないきみがどう戦うって言うんだい?」


 ユリシーズは幼い子どもに言い聞かせるように柔らかな声色で、嘲りながらロアの牙を抜こうとしていた。だが幸か不幸か、厳しい伯母のおかげでロアは自分が無能扱いされることには慣れていた。女性の身で、それも男爵の娘でありながら騎手となったロアは社交界でも噂話の格好の的だった。相手が赤の他人ならば、嫌味にも皮肉にもそれほど傷つくことなく受け流せる。


 しかし自分の乗馬技術を褒めてくれて一緒に天馬にも乗ったユリシーズに嘲られるのは、悲しかったし腹も立った。


「……昨日、私を窓から突き落とそうとした男を相手に、今果敢に戦ってるところだけど?」


 一言一言はっきりと答えて、ロアは瞼を三分の一ほど下ろした。


「なるほど、そう来たか」


 ロアの切り返しに、ユリシーズは少し目を見開いて面白がるような見下したような顔をした。再び物騒な言葉を聞いて、コンラッドの怒りは小休止する。


「先ほどの話ですね。兄上、どういうことなのですか」


「確かにそうだ、忘れていたよ。きみの勇気は讃えなくちゃいけないな。でもベルンシュタイン皇帝は、悪戯が好きなだけのその男ほど小物じゃない。きみでは皇帝には太刀打ちできない」


 コンラッドの問い掛けをユリシーズは無視して、ロアを見下ろした。ロアは凜とした眼差しで真っ向から琥珀色の瞳を見上げて、僅かに顎を上げた。


「そんなの、やってみないとわからないでしょ」


「やれやれ、気の強いお嬢さんだ。その賭けに負けて失うのはきみの命だけじゃないと、正しく理解してくれているのかな?」


 意味がよくわからず、ロアはしかめ面をする。


「クローディアとその母親はもちろん、きみの父親も長年の付き合いの使用人も大勢巻き込んで、全てを失う結果になっても後悔しないならそうするといい」


「──」


 ロアが口を尖らせて何か言うより早く、ユリシーズは小さくため息をついた。


「大体きみは、クローディアの何なんだい? 僕が調べた限りでは、旅に出るまできみ達二人の接点は見つけられなかったけど」


 いつの間に調べたのかとロアは驚く。ユリシーズは、こうしてベルンシュタイン皇帝にさえ楯突く覚悟ということは、二人には浅からぬ縁があるのだろうとロアに目を光らせている。予想もしていなかった質問に、ロアはぱちぱちと瞬きしてからクローディアを見つめた。


「何って、ええと、何だろう。形としては旅の介添人と、主人?」


「それだけの関係のはずはない」


 ユリシーズは表情を曇らせる。


「うーん、友達だったらいいなって、私は思ってるけど……」


 ロアは腕組みをして考え込んでから答えて、反応を窺うようにクローディアの顔を見た。クローディアは冷めた咲茶の入ったカップに口を付けるだけで、何の反応も見せなかった。


「……違うみたい」


 ロアはしょんぼりと少し肩を落とし、関係性を訂正した。



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