謁見
「は、初めまして。トラウゴット・ジャンメール男爵の娘の、ロア・ジャンメールと申します。お目にこ……か、かかれて、コーエイです、皇帝陛下」
皇城の謁見の間に、村娘のようなたどたどしいロアの挨拶が響く。灰色の柱に刻まれたうねる彫象達が、黒目と白目の境のない目でそれを見下ろしている。
父であるジャンメール男爵は、娘の隣でさっと青ざめた。あれほど練習したのに初手からこれでは絶望しかない。
当然ながら壇上のベルンシュタイン帝国第十五代皇帝は少し眉をひそめたようだったが、元々表情が乏しいため分かりにくかった。少女と見紛うような中性的な容姿は、祖父である第十三代皇帝に瓜二つだ。
今年やっと十三歳になる少年皇帝の隣には、道化なのか側近なのか区別の付かない四十歳前後の隻腕の男が経っている。長靴のような茸のような奇妙な帽子を被った、ロアの半分ほどの背丈の道化が隻腕の男の横にいる。皇帝は全く感情のない無機質な目でロアを見下ろした。
その虹彩は近くで見れば薄水色なのだろうが、男爵達からの距離だとほとんど白く見えた。瞳孔だけが目立って不気味だ。
「そなたがジャンメール男爵の娘か」
唇をあまり動かさない、喉の奥から聞こえるような奇妙な声だ。発音が平坦で抑揚がない。声変わり前の高い声が玉座に不似合いだった。
「先の競技会では見事な手綱捌きであった」
予期せず去年の馬術競技会の話題が出て、大会の優勝者であるロアの顔はぱっと輝いた。ほらやっぱり騎手として呼ばれたんだよ、と言いたげなロアからの視線を男爵は左側から感じた。
「あ、陛下も見てたんで……痛っ。えっと、ごらんになっていたのですね!」
肘で肩を突かれ、ロアは思わずうめき声を上げた。男爵は背が高いので肘が脇腹ではなくほとんど肩に当たる。父としては娘の雑な言葉遣いをたしなめたかったのは勿論のこと、そもそもあれは皇帝のために開かれている大会なのだということを思い出してもらいたかった。
閉会式で皇帝から祝いの言葉ももらったはずだが、ロアは忘れているらしい。男爵としては小突かない訳にはいかない。
皇帝の隣の道化が長靴のような形の帽子の天辺を両手でぎゅっと押して潰し、甲高い声で笑った。その帽子がゆっくりと元に戻っていくのを手助けしながら、ギリヤの民らしい容貌の隻腕の男もくすくすと笑った。
だが、皇帝はぴくりとも笑わなかった。
「女の身で二度の優勝とは大したものだ」
「ありがとうございます! 今年も絶対に優勝します!」
ロアは背筋を伸ばし、場に不似合いに屈託なく晴れやかな笑顔を向けている。皇帝はそれを珍獣でも眺めるかのようにしげしげと見つめた後で、深く玉座の背に身体をもたせかけた。
皇帝の表情の変化に見慣れた人でないと気づかない程度だが、ほんの少しだけ口端を吊り上げている。
「なるほど。噂に違わぬ変わり者のようだな、パッツィーニ」
娘が皇帝の気分を害してしまったのだと思い、男爵の背中に冷たいものが走った。皇帝に呼びかけられた隻腕のパッツィーニが、大きく頷いて右足から左足に体重を掛け替える。
「なればこそ、皇帝陛下のご選択は正しかったという訳です」
「女だてらに馬に跨がり鞭を振る断髪の馬狂いー、脳天気の国にはぴったりぴったりー」
幼な子のように小さな身体の道化が、ソイニンヴァーラ王国訛りでキキキと笑ってぴょんと跳ねた。奇妙な帽子がずれて落ちそうになり、それを節くれ立った手で押さえる。
短い髪の女性はベルンシュタインの職業婦人の間では少しずつ増えているが、貴族階級では見慣れない。事実皇帝も髪の短い女性を見るのは初めてだった。
「ジャンメール男爵。我がベルンシュタイン帝国の代表としてそなたの娘を借りるぞ」
寝言のような呪文のような、聞き取りにくい声だった。年寄りに囲まれて育ったため、皇帝の話し方に実年齢に不似合いな古めかしさがある。
もう少し年を取ればそれが威厳になるのだろうが、髭も生えていないあどけない顔でこの口調では滑稽を通り越して気味が悪い。
「身をわきまえず選り好みばかりしておるあの国の王子どもにひと泡吹かせてやろう」
男爵は背を逸らした。やはり騎手としてではなく、花嫁候補としてロアを送る話だったのかとどっと汗が噴き出る。
「……例の大舞踏会のお話でございますね?」
ウィンフィールド王国の国王が一向に結婚しない王子達に業を煮やし、半ば強制的に嫁を選ばせようと大規模な舞踏会を開くという話は、皇帝から手紙が届く前から世事に疎い男爵の耳にも入っていた。
だが当時は、まさか我が娘が候補となるとは夢にも思っていなかった。隣国ながらウィンフィールドと国交のあまりないベルンシュタインからは、花嫁候補はこれまで一人も渡っていなかったからだ。美人と誉れ高い各国の王侯貴族の娘達でも、縁談が上手く行かずに終わっている。
そんな気難しい王子達の元へロアを送り込むなど、下手をすると国際問題に発展してしまうと男爵は焦る。
「お、お言葉を返すようで大変申し訳ありませんが、娘には無理かと」
男爵は決死の覚悟で皇帝陛下に考え直すことを勧め、額の汗をハンカチで拭った。だがそんな親の気も知らずに、ロアは歓声を上げた。
「無理じゃないです! 天馬だって馬のうち、きっとレースでいい成績を残して見せます!」
レースという単語を聞いて、何の感情も読み取れないほど変化の乏しい皇帝の目が一瞬呆れたように僅かに見開かれた。皇帝はこの時初めて、ウィンフィールドでは夜会の余興にしばしば天馬レースが行われることを思い出したようだった。
「娘は乗り気だ」
皇帝は目を細めた。皇帝にしては珍しい表情だと、パッツィーニと道化は横目でちらりと皇帝を見た。男爵は忌々しげに娘を見下ろした。
「で、ですが娘はこの通り、特に美人という訳でもありませんし、髪は洗って乾かす時間が無駄だと切り落としてこんな有様で……それにとにかく礼儀知らずで口下手でダンスも下手で、ワルツなどそれはもう見るに耐えないありさまでして。クルミと一緒にフライパンで炙られた鼠のようなダンスだなどと陰口を叩かれる始末でして、ええ」
何としても娘のウィンフィールド行きを阻止すべく、男爵は必死に弁舌を振るった。嘘偽りなくロアは社交界での会話は大の苦手で、失言なく何時間も過ごすことは不可能に近いだろう。
片やダンスは、アップテンポの激しいものは上手い。だが舞踏会でメインとなるスローテンポのものは、相手に合わせるのが下手なのと気恥ずかしいのとでちぐはぐになってしまう。それに娘はギリヤの民のダンスが好きなのだと言い掛けて、男爵は慌てて口をつぐんだ。
ギリヤの民は国を持たない流浪の民で、一般的には下層民と見なされている。目の前のベルンシュタイン皇帝もまた、先代皇帝以上にギリヤの民に厳しい姿勢を見せている。
特区を作ってそこにギリヤの民を隔離するという噂さえ出ていることを、男爵はギリヤの民の女性騎手と親しい娘から聞いていた。
娘が花嫁候補になるのを阻止するためだとしても、皇帝にそれを知られるのは不味いと男爵はまたハンカチで汗を拭った。
「酷い汗だな。余が恐ろしいか」
ふいに皇帝陛下が男爵に聞いた。何の心の動きも読み取れない白い瞳で見据えられ、男爵はますます汗をかく。
「と、とんでもございません。田舎者故に、皇帝陛下のご威光に圧倒されてしまい、このように汗を……お見苦しいところお見せして、申し訳ございません」
ふ、と皇帝が短く息を吐いた。ひょっとして笑ったのだろうかと男爵は思う。
「そなただけではない。皆が余を誤解しておる。余は世の噂のように怒りに任せて無慈悲に無辜の民の首を刎ねる暴君などではない」
「は、もちろんそのようなことは……」
首を刎ねるという言葉が皇帝から出ただけでも脅しのように感じられ、男爵は必死にハンカチで額を拭った。
会話の流れとして考えると恐怖を取り去ろうとして言った言葉なのだろうが、逆に男爵はますます皇帝に恐怖を感じた。怒りや憎しみで人を殺している訳ではないなら、余計に皇帝の心が理解できない。
「余はあらゆることを試しその結果何が起きるのかを知ろうとしているだけだ。そこに罪があるのならば罰を与えなくてはならぬ。だが罪無き者の命を奪ったことは一度も無い」
「知りたがり屋の皇帝陛下ー、鍋を覗いて温かなスープを知る、宮女を切り裂いて温かな心臓を知るー。宮女が動かなくなったのは何故ー?」
道化が自分の胸を押さえて歌い、身体を左右に揺らして笑った。先月調理中に皇帝に斬り殺された宮女のことを歌ったのだが、何も知らない男爵とロアはただ戸惑うだけだった。皇帝が足を組み替え、冷たく道化を見る。
「こらこら、お喋りが過ぎるぞ」
パッツィーニが子どもを叱る父のような顔で言って帽子を取り上げると、道化はぴょんぴょんと跳ねて帽子を取り戻そうとした。皇帝は視線を男爵に戻した。
「男爵。余は誠心を尊ぶ。そなたが正直で善良な人間であるならば余を恐れる必要は微塵もない」
「はっ……!」
皇帝自身は本気でそう自認しているのかもしれないが、男爵にはとてもそれが皇帝の本質だとは思えずそれ以上は何も言えなかった。俯いた男爵をしばらく見つめてから、皇帝は暗い場所でも不思議と常に引き絞られたままの瞳孔をロアに向けた。
「娘よ。天馬と言ったな。天馬レースに出るつもりか」
ロアははらはらしている父の気など知らずに、無邪気に両手を合わせて頷いた。
「はい。私、子どもの頃からずっと天馬に乗ってみたかったんです。お手紙をいただいてから調べたんですけど、ウィンフィールドの今の国王陛下は馬がお好きみたいですね?」
男爵は余計なことを喋るなと目に怒りを込めて娘を見たが、娘の舌は止まらない。
「レースの後で色々お話できるかもしれませんね! 私、ベルンシュタインにも天馬がいたらいいなあって思ってて」
何度も飛び跳ねてようやくパッツィーニから帽子を取り返した道化は、ロアの言葉を聞いて甲高く叫んで笑った。口が頬の中程まで裂けたかのような恐ろしい笑顔だ。
「花の国の王と仲良くお話ー! おまえの舌を切り裂くのは銀の剣、それとも薔薇の棘ー?」
銀の剣は、先月皇帝が宮女を切り裂いた際の得物だった。皇帝は道化を視界の端に据えたまま意識だけで見つめ、無表情のまままたふっと息を吐いた。
「面白い。ウィンフィールドのじゃじゃ馬馴らしだ。我がベルンシュタイン帝国が誇る最高の騎手の一人として乗りこなして見せよ」
「はい! がんばります!」
男爵は言葉を失った。皇帝の言うじゃじゃ馬がウィンフィールド王国の二人の王子を意味していることなど知らずに、ロアは満面の笑みでぎゅっと両手の拳を握り締めている。道化は怪鳥のような歓声を上げると、奇妙な形の帽子を真上に放り投げた。
「お、お待ち下さい皇帝陛下──」
なおも男爵は懸命に縋ろうとしたが、無情にも皇帝は椅子の肘掛けをパンと叩いて謁見終了の意を周囲に知らせた。
男爵の肩はびくりと震え、ロアはきょとんとし、衛兵はかしこまって槍を持ち直し、そして使用人達は玉座の間の扉を恭しく開いた。あれやこれやと天馬に夢を膨らませる娘を尻目に、男爵は静かに絶望した。
使用人が二人に近づいて退出を促す。ベルンシュタイン皇帝は生まれつき足が悪く、客より先に退出しないし客より後に入室もしない。
道化は受け止めた帽子をくるくると回しながら、陽気な足取りでいち早く扉の向こうに消えた。
「……それじゃ、花の国の不運な王子によろしく」
去り際に、パッツィーニが憐れむような微笑みで言った。