結束
「何ですって?」
クローディアは目を見開く。一国の王子が国を捨てることの重みを、クローディアは今ではよく分かっている。コンラッドは動じず続けた。
「ウィンフィールドの王子が渡ってくるんだ、ベルンシュタイン側から見て政治的には悪い話ではないはずだ。流石の皇帝も君を手放すに違いない」
冗談ではないと分かり、クローディアは狼狽えた。ロアも一人ひっそりと狼狽えている。
「何を言っているの? ウィンフィールドに王子は二人しかいないのよ」
「一人残れば十分だ」
「落ち着いて、コンラッド。私の誘いを断った何年も前のあなたの方が、ずっと冷静だったわよ」
「僕は至って冷静だ。あの時の僕が間違っていたんだ」
クローディアは苦く悲し気な顔で首を大きく横に振った。銀の髪が揺れる。
「ああ、コンラッド。これはおとぎ話じゃないの、現実なのよ。夢を追いかけて崖から落ちる訳にはいかないわ」
昔と変わらず、いや昔以上にコンラッドを愛している。だからこそクローディアは彼を危険に晒したくなかった。ベルンシュタインに渡っても彼が皇帝に首を刎ねられることはないかもしれないが、予想も付かない苦しめられ方をするに違いない。だがコンラッドはクローディアの手を握る力を強めた。
「そう、これは現実だ。これまで何度君の夢を見てきたか……これが現実で、本当に良かった」
クローディアはまたゆっくりと首を振った。
「コンラッド、私達は自分の思い通りには生きられないわ。お互いに、守らなくてはいけないものがあるでしょう。あなたとまた会えて嬉しかったし、今までのことに感謝もしてるけれど、私達はこれでおしまいなの」
つい数時間前までクローディアは、コンラッドへの愛情であれだけ苦しんでいた。それなのに彼を危険に晒さないためとはいえ、今はまるで他人のように冷静に彼の愛情を捨てさせようとしている。
数年前はクローディアがコンラッドをベルンシュタインへ誘って断られたが、今はコンラッドがベルンシュタインへ共に渡ると言い張り、クローディアがそれを阻止しているのだ。
おかしなものね、人生何が起きるか分からないわ、とクローディアは心の中で呟いた。
「私達のことは、終わった物語なのよ。どうかあなたは、あなたの国で幸せになって」
つきりと胸が痛む。だがもうクローディアにはその痛みに構う気はなかった。この痛みは一生続くだろう。だが自分と同じように子爵の家で籠の鳥のように生きている母を、自分の行動で死なせる訳にはいかなかった。
ロアにもクローディアが本当にコンラッドを思っていることがよく分かって、たまらなく切なくなった。こうして本心から思い合う二人のやりとりを聞いていると、胸を打たれずにはいられない。
黙ってクローディアの言葉を聞いていたコンラッドが、ようやく口を開く。
「君がいなければ僕の人生に幸福はない。僕の命は僕とともにあるが、僕の幸福は君とともにある」
クローディアは言葉を失う。ロアにもコンラッドの覚悟が伝わって、思わず呻き声を上げそうになった。こんなに情熱的な人だったなんて、とロアは驚く。クローディアは涙ぐみながらも急いでどうにか言葉を絞り出した。
「……ありがとう、コンラッド。ありがとう。でも、駄目なの。分かるでしょう、コンラッド。本当はあなたも分かってるはずよ」
「クローディア、僕は君さえ隣にいてくれればそれでいいんだ。他には何も望まない。きっと何とかなる、してみせる」
「コンラッド──」
泣きたくはなかったが、クローディアは涙声になった。それでも今度は私がコンラッドの手を離す番なのだと、クローディアは懸命に自分自身に言い聞かせる。手を離す方もひどく辛いのだということを、クローディアは身をもって知った。
「それでも私は、帰らなくちゃいけないのよ。お願いだから、分かって……」
ロアは膝の上でぎゅっと両手を握りしめる。二人ともそれぞれに愛する人のために、大切なものを捨てる覚悟をしているのだ。これは現実で、幸せな結末が約束されたおとぎ話ではない。理想ばかり求めれば、クローディアの言う通り悲惨な結末が待っているのかもしれない。でも、とロアは思った。
すうっと大きく息を吸い、呼吸を止めて吸った空気を一度腹に溜めてからロアは口を開いた。
「クローディアは、帰らなくていいよ。私が帰るから」
すっかりロアの存在を忘れていた恋人達が、同じように驚いた表情でロアを見た。
「……え?」
「どういうことだ」
二人の視線を受けて多少勢いを削がれつつも、ロアはゆっくりと自分の覚悟を述べる。
「だから、えっと、私が皇帝陛下を説得してみるよ」
クローディアが目を瞬かせる。
「ロア。あなたは皇帝がどんな人か、噂くらい聞いたことあるわよね?」
「うん」
「本人にも会ったことがあるはずだわ」
「……うん」
沈黙が流れた。クローディアはため息をついて眉根を寄せた。
「だったら分かるでしょう。あの子を説得なんて無理よ。しかもあなたの弁舌じゃ、幾らも口を開かないうちに首を刎ねられるわ」
「さぞ高く飛ぶだろうな」
頭の中身が軽いと言いたげなコンラッドの嫌味に、ロアは気づかない。心の中は正義感と使命感でいっぱいだった。
「そうならないように、頑張るよ」
クローディアはひらりと払うように手を振った。
「やめて。これ以上私の周りで血を流して欲しくない」
「……」
「……父上に頼んでみよう」
コンラッドの言葉に、ロアとクローディアは同時に真逆のことを叫ぶ。
「わあ、いいね!」
「やめてったら!」
ロマンチックな感傷は霧散し、クローディアはほとほと呆れ果てたという顔で言った。
「国王陛下になんてお願いするつもりなの? あなたを殺そうとした男の妻と娘を助けて下さいって?」
「正確には叔父上達は、父上を殺そうとした訳じゃない。この国の体制を変えようとしただけだ。──それに、助けてもらうのは僕の妻の、母親だ」
コンラッドは射抜くようにまっすぐにクローディアを見つめる。クローディアの瞳が揺れた。
「……違う。違うわ。そんなこと、無理よ」
「クローディア」
クローディアはテーブルに肘を乗せ、とうとう両手で顔を覆った。
「駄目よ、誑かすのはもう止めて。叶わない夢を語って楽しめるほど、私は子どもじゃないのよ」
しばらく俯いたままじっとしてたクローディアは、やがて手を離してすっと立ち上がった。そしてガチャンガチャンと乱暴に、コンラッドとロアのカップを自分のそれに重ねた。
「明日も夜会があるんでしょう、もう帰って」
クローディアは重ねたソーサーにカップを載せ、小さなシンクへそれを運んだ。コンラッドはクローディアのか細い後ろ姿を見た。肩が小刻みに震えている。ロアとコンラッドは顔を見合わせ、それからコンラッドは頷いて立ち上がった。
「また来る」
クローディアは何も答えなかった。ロアはその痛々しい背中を見つめて掛けるべき言葉を探していたが、コンラッドに促されて部屋を出た。
二人は無言で廊下を歩いて行く。ロアの自室に続く廊下では、窓から月明かりが敷き詰められた絨毯に落ちてそこだけ模様が輝いてはっきりと見えた。
「……ロア・ジャンメール。心変わりはあったか?」
少し前を歩いていたコンラッドが、輝く模様へと足を踏み入れながら軽く振り返った。今度はコンラッドが月明かりで輝く。
「え?」
「おとなしく彼女をベルンシュタイン皇帝に渡す気になったのかと聞いている」
表情の乏しいコンラッドの顔からは何の感情も読み取れない。足を止めると意識がゆっくりと現実に戻ってくると同時に、悲しみと怒りが込み上げてきてロアは顔を歪めた。
「……なってない。なるわけない!」
短く叫んで口をへの字にすると、ロアは俯いた。
「どうしてヨゼフィーネ……じゃなかった、クローディアばっかり、何度も悲しい思いをしなきゃいけないの?」
「落ち着け、声が響く。彼女の名を出すな」
コンラッドも歩みを止め、近くの部屋へ視線を送る。
「だってこんなの、あんまりだよ……! 自分が人質みたいになってるって知ったら、カサンドラさんだってきっと悲しい」
俯いたロアからぐしゅぐしゅと鼻を啜る音が響く。普段のコンラッドなら苛立つ場面だが、不思議と感情を露わにして泣くロアを見ていると胸がすいた。きっと自分もそうしたい気持ちだからなのだろう。
おかげでどんどん頭が冷えて、コンラッドは月を見上げながら己の顎に触れた。
「お前にしてはまともな意見だが、泣くな」
「泣いてない! 私は怒ってるの!」
ロアは両手を握りしめ、肩に力を込めた。クローディアを思い義憤に揺れる肩を見て初めて、コンラッドはロアを初めて一人の人間として認識した。それと同時に、思いがけず仲間意識が湧いた。
人付き合いが悪く言葉もきついので誤解されがちだが、コンラッドは意外と単純なのだ。
「そうか。それなら目からダラダラと垂れ流しているそれは何だ」
「知らないよ!」
女性らしさの欠片もない力強さで、ロアは手の平の付け根でぐいと涙を拭った。クローディアの前では必死に堪えていた分、堰を切ったようにあふれて止まらない。コンラッドは短く笑った。
「自分の顔から出るものの名前も知らないのか」
「汗でしょ! じゃなかったら、さっき飲んだお茶!」
引き下がれなくなったロアの滅茶苦茶な返答に、コンラッドは眉を上げる。
「おまえの顔の造りはどうなってるんだ……」
「そんなことよりコンラッド!」
ぱっと顔を上げたロアの目は闘志を宿していた。
「国王陛下に、お願いしてくれるんだよね? 私に何かできることはある?」
なるほど、ただの小娘ではなかったなとコンラッドはロアが騎手であることを思い出す。負けん気は並の男よりありそうだ。これまでより更に声を潜めて、コンラッドは頷いた。
「ああ。だがその前に、話を付けなければならない相手がいる」
ロアはきょとんとコンラッドを見た。
「……誰?」
コンラッドは窓の月を見上げて目を細めた。
「一番の味方にも、一番の敵にもなるかもしれない人物だ」





