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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第二章 青すぎる空
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名前



 ヨゼフィーネの部屋にノックの音が響いた。眠れはしないと分かっていてもベッドに深く潜り込んでいたヨゼフィーネは、どきりとして身を起こす。


「……誰?」


「私。ロアだよ。ちょっといい?」


 周囲を気にして囁くような声で、それでいて扉の向こうにきちんと聞こえるようにロアは声を張る。そのおかしな声と訪問客がコンラッドでないと分かったことで気が抜けて、ヨゼフィーネはまた布団に潜り込んだ。


 涙を流してばかりで目蓋は赤く腫れている。こんな顔で誰にも会いたくなかったし、まして舞踏会でコンラッドとも踊って来たのであろうロアの顔など見たくもなかった。


「ねえ、開けてよヨゼフィーネ」


 切羽詰まった声だった。ヨゼフィーネは眉間に皺を寄せたがベッドからは降りない。廊下のロアは、自分の姿を誰かに見咎められるのではないかと焦る。

 仕方なく、小声でヨゼフィーネが無視できないであろう名を呟く。


「コンラッド王子のことで、話があるんだけど」


 ヨゼフィーネは飛び起きた。怒りを滲ませた顔で髪を手櫛で整えながら扉へ歩いていき、ドレスの乱れを払う。だが皺は取り切れなかった。どうせ会うのはロアだから、とそのまま扉を開ける。


「……、ありがとう」


 ヨゼフィーネの泣きはらした顔を見てロアは一瞬息を飲み、それから礼を言った。ヨゼフィーネはもはや取り繕って愛想笑いをする気もない。ユリシーズの脅しといい、ロアはやはりヨゼフィーネとコンラッドには浅からぬ縁があるということを確信した。


「お入り下さい」


 いつもより低く掠れた声で招き入れ、扉を丁重に閉める。ヨゼフィーネは少し立ち尽くし、それから小さなテーブルの前の小さな椅子を引いてロアを座らせた。皇帝以外の人間に侍女の真似事をするのは屈辱的だった。


「それで? コンラッド王子がどうかなさいましたか?」


 咲茶を淹れる振りをして、ヨゼフィーネはロアに背を向けた。


「ヨゼフィーネは、コンラッド王子と知り合いなの?」


「……いいえ」


 ヨゼフィーネはきっぱりと否定する。ベルンシュタインに渡るまでは、自分で茶を淹れたことなどなかった。ベルンシュタイン皇帝がウィンフィールド人のヨゼフィーネに咲茶を淹れさせたがり、初めて茶の手順を覚えたのだった。


 今日はロアのために、正確にはロアと真正面から向き合いたくない自分自身のために安物の白いカップに茶花を入れる。花びらが二枚外れた。粉さえカップの底に散らばった。雑な乾燥法で開きすぎて色も悪くなった安物の茶花だ。


 だがそれが、ウィンフィールド王城がヨゼフィーネ・ヘルダーのために用意した茶花なのだ。虚しい気持ちと、不当な扱いを受けたかのような恥辱が広がる。


「私はただの使用人ですよ、王子と知り合いのはずがありませんわ。どうしてそんなことをお聞きになるのです?」


 自分に言い聞かせるようにヨゼフィーネは言った。使用人の部屋に茶花が用意されているだけましなのかもしれない。


「さっき、見ちゃったんだ。裏庭で、ヨゼフィーネをコンラッド王子が追いかけるところを」


 盗み見したようで罪の意識があり、ロアは肩をすくめた。ヨゼフィーネはポットの湯が冷めかけているのも気にせず、カップに勢いよく湯を注ぐ。


「……人違いではありませんか? 私はずっとこの部屋にいました」


 ヨゼフィーネの流れるような嘘に、ロアは目を瞬かせる。


「コンラッド王子とは、お会いしたことはございません」


 畳みかけられてロアは揺らいだが、ユリシーズが何かに確証を持っていた様子を思い出して迷いを捨てる。


「ユリシーズは、クローディアのことを知ってたよ」


 脆い茶花が強すぎる水流に押されて大きく円を描き、崩れた花びらが更に一枚外れてしまった。だがどうせベルンシュタイン人に、ましてやロアに咲茶の風情や味など分からないだろうと高をくくる。ヨゼフィーネは自分の心がひどく荒んでいるのを自覚した。


「……」


 昔からヨゼフィーネは、ユリシーズのことがあまり好きではなかった。

 幼い頃は自分とコンラッド、それにユリシーズや兄も入れて四人で遊ぶこともあったが、当然ながらコンラッドとヨゼフィーネが喧嘩をすれば彼はいつもコンラッドの肩を持つ。それに、長じてからは時折、鑑定でもするような冷静で容赦のない眼差しで密かにヨゼフィーネを見ることがあった。


 表面的には気さくで温和だが、腹の底では何を考えているのか分からない人。それがヨゼフィーネのユリシーズへの印象だった。


「……まあ。ロア様はコンラッド王子だけでなく、ユリシーズ王子とも親しくなられたのですね。ジャンメール男爵も皇帝陛下も、さぞお喜びでしょう」


 ヨゼフィーネの嫌味を聞き流し、ロアは真っ直ぐにヨゼフィーネを見て性急に本題に切り込んだ。


「ヨゼフィーネ。本当は、クローディア・ビギンズを知ってるんでしょう?」


 ヨゼフィーネはがちゃがちゃと音を立て、引き出しから曇った銀色のティースプーンを取り出した。スプーン選びにたっぷりと時間を掛けたのは、なるべく長く手を動かしてロアから顔を背けていたかったからだ。

 ビギンズじゃないわ、ギビンズよと心の中で小さく罵る。


「知りません」


 自分の名を否定しなければならないというのは奇妙な感じだった。ヨゼフィーネ・ヘルダーがクローディア・ギビンズを殺していくような気がした。それも真綿で首を絞めるように、じわじわと。


「ほんとに?」


「本当です」


 この茶花は本来ティースプーンで混ぜる種類のものではないのだが、ヨゼフィーネはとにかく手を動かしていたくてカチャカチャと無駄に音を立てて茶を混ぜる。

 薄すぎて水分を吸って半透明になってしまった茶花の花びらは、乱暴な回旋でばらばらになり薄汚く湯の中を漂った。子どもが遊びで淹れる咲茶の方がまだましかもしれない。


「聞いたこともない人のことでしつこくあれこれ疑われると、困ってしまいますわ」


 固い、切り捨てるような険のある声になってしまった。ヨゼフィーネは振り返り、声質を取り繕うように弱々しく笑って見せた。

 こうまで頑なに否定されると、交渉術など皆無のロアは簡単に手詰まりになってしまう。ヨゼフィーネはカップをロアの前に置いた。


「どうぞ」


「……ありがとう」


 困り果てたロアの指がカップの取っ手に触れた時、ノックの音がした。ロアとヨゼフィーネの目が合う。


「どなた?」


 ヨゼフィーネは使用人らしからぬ口調で扉の向こうの誰かに尋ねた。


「ヨゼフィーネ・ヘルダー様ですね。夜分にすみませんが、中へお邪魔しても宜しいですか?」


 廊下から真面目そうな侍女の小さな声が早口に響いた。少し前にマヌエラを呼び出した生真面目な侍女だ。


「駄目よ、立て込んでいるの」


「あなた様に、主からお願いがあるのですが」


 ヨゼフィーネはちらりとロアを見た。


「主というのはどなた?」


「大変申し訳ないのですが、それは伏せるよう言われております。ですがヨゼフィーネ様も主のことはよく知っておられます」


「そう。それならそこから用件を話してくれるかしら」


 生真面目な侍女はヨゼフィーネの返答に戸惑ったのか、少しの間があった。


「……主があなた様に、どうしても手伝って頂きたいという仕事がありましてお願いに参りました」


 ヨゼフィーネは首を振った。


「無理よ。今ロア様が来ているの」


 ロアにもこの会話を聞かれていたと分かり、廊下の侍女は僅かに慌てる。


「それは大変失礼いたしました。ではまた後ほど伺います」


「それも駄目ね。今夜はロア様はここに泊まるもの」


 ヨゼフィーネがそう言ったのは廊下にいる侍女の再訪を遠ざけたいだけだったが、何も知らないロアは予定にない言葉に驚いて目をくりくりさせた。それを見てヨゼフィーネは薄く笑った。


「……そうですか。ではまた、明日にでも参ります。失礼いたしました」


 ロアとヨゼフィーネは知る由もないが、王城の侍女は誰もいない廊下で丁寧に頭を下げていた。足音が静かに遠ざかる。ロアは気まずそうに身じろぎをした。


「良かったの?」


「構いませんわ。いくら人手が足りないとしたって、異国の客人の従者の手を借りようとするなんて非常識よ」


 主というのは恐らくコンラッドだろうが、もしかしたらユリシーズかもしれない。国王陛下という可能性もあるだろうか。

 頭を回転させながらも、ヨゼフィーネは平静を装って自分のカップにミルクを注いだ。僅かにミルクがテーブルに撥ねた。ロアが慎重に話し出す。


「今の、主っていうのはさ。コンラッド王子なんじゃないかなって、思うんだけど」


「……あら。何故そう思われますの?」


 大袈裟に意外そうな表情を作ってヨゼフィーネはロアを見た。ロアはぼそぼそと話しにくそうに答えた。


「舞踏会で踊った時に、コンラッド王子とクローディアの話をしたんだ。クローディアが今ベルンシュタインの後宮にいるって言ったら、すごくショックを受けたみたいで」


「……」


 ヨゼフィーネは椅子に座りもせず立ち尽くした。舞踏会の前にこの部屋に来た時のロアとの話で、自分が王城に来る前からコンラッドは既に自分が後宮にいることを知っているのだと思い込んでいた。

 だが、そうではなかったようだ。コンラッドがその事実を知ったのは今日だった。


 クローディアが、自分が今、どんな風に暮らしているかをロアの口から聞いたのだ。彼は何を思っただろうか。ヨゼフィーネはぎゅっと自分の手を握り締めた。この子が、コンラッドに教えてしまった。

 ヨゼフィーネの何かが弾けた。


「……のつもり?」


「えっ?」


「何様のつもりなの。あなたに何の権利があって、あの人にそんなことを吹き込んだの?」


「え、だって、聞かれたから……」


 突然の激昂に驚き、ロアはおろおろと愚直に答えた。ヨゼフィーネは眦を吊り上げてこれまで溜めてきた言葉を吐き出す。


「私達のことを何一つ知らない癖に、どうしてそんな勝手なことができるの? さぞあっけらかんとべらべら喋ったんでしょうね、目に浮かぶようだわ」


 腫れた目で薄く笑ったヨゼフィーネに、普段の気品はかけらもなかった。ロアは圧倒される。


「私とコンラッドの間のことを、土足で踏み荒らさないで。これはあなたなんかが立ち入っていい話じゃないわ。あなたは馬のことだけ考えて、一生馬とだけ暮らしていればいいの」


「ヨゼフィーネ、」


 ヨゼフィーネは思い切り顔をしかめた。


「そんな名で呼ばないで! 私はよく働くことだけが取り柄のベルンシュタイン女なんかじゃない。私はクローディア・ギビンズ、そうよ、私がクローディアなのよ。コンラッドの従姉妹で、謀反人の娘で、皇帝陛下の愛人」


 ヨゼフィーネは──クローディア・ギビンズは、一息にすべてを露見させて挑むような目でロアを見て笑った。



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