踏査
時刻はヨゼフィーネが中庭に足を踏み入れるより僅かに前。
足の痛みで大広間からこっそり退出したロアは、三階の第四サロンで呻いていた。第四サロンにはロアと給仕係の侍女の二人しかいない。踊り疲れて、あるいは話し疲れて休むには大広間から遠すぎたし、階段を上るのも大儀だからだろう。
「見えない! ギリギリで見えない!」
ユリシーズから聞いていた話と違い、ここからでは厩舎は見えそうで見えなかった。馬丁らしい人物が馬具と木桶を抱えて通ったので、辛うじて近くに厩舎があるのは本当らしいと分かる。
「あの角部屋が吹き飛べば、見えるんだけど……」
物騒なことを呟きつつ、どうにかして見てやろうと無理に窓ガラスに頬と手のひらを押しつけるロアの滑稽な姿が夕日に照らされる。向かいの部屋に人がいたなら、さぞかし驚くか吹き出していたことだろう。
「……ああもう、全然見えないよ! ユリシーズの嘘つき!」
ようやく頬を窓から引き剥がし、絶妙な嫌がらせにロアは立腹した。ガラスが割れるのではないかとずっとはらはらしていた侍女は胸を撫で下ろす。その時、見たことのある人物が裏庭に姿を現した。
「あ、ヨゼフィーネ」
予備の予備のような、王宮のサロンの中ではごく小さな一室にロアの間抜けな声が響く。
ヨゼフィーネは物憂げな顔でゆっくりと歩き、厩舎とは反対側へと消えていった。何をしていたのだろうと、ロアはまさに好奇心に駆られた猫のようにヨゼフィーネが再び現れるのを待った。
どれほどの時間が経過しただろうか、飽きっぽいロアが厩舎があるらしい方角へ未練がましく視線を向けていた頃、ヨゼフィーネが畑の方から走って戻ってきた。
足は裸足で、靴を片方だけ握り締めている。普段のヨゼフィーネにはあるまじき行動に、ロアは目を丸くした。ヨゼフィーネが裏口から建物へ入ると、少ししてその後を男が追いかけてきた。その姿を見て、ロアは更に目を丸くして叫んだ。
「コンラッド!?」
「もう呼び捨てか」
室内から響いた声に驚いて振り返ると、ちょうどユリシーズがサロンへ入ってきたところだった。ジャボと首の隙間に人差し指を突っ込んで首元をぞんざいに緩めながら、ロアに近づく。
「たった数十分かそこらの会話で、よほど弟と親しくなってくれたようだね。それとも以前からの知り合いなのかな?」
「え?」
コンラッドとは今日会ったばかりだ。どういう意図でそんな質問をするのか分からず、ロアはきょとんとする。窓から何を見ているのか気になったらしく、ユリシーズは隣に並んで裏庭を見下ろした。
「……あ」
コンラッドはしばらくヨゼフィーネの消えた方向を見つめて佇み、やがて諦めて来た道へと引き返して行った。夕日は沈み、高い城壁や建物に囲まれた中庭は次第に薄暗くなっていく。
「コンラッドが、ヨゼフィーネを追いかけてた……?」
事情が飲み込めず、ロアは呆然と今は誰もいない裏庭を見つめる。ユリシーズが侍女に目配せすると、侍女は一瞬で意味を理解して軽く頭を下げて無言で退出した。ユリシーズは扉の閉まる音を背中で聞き届け、前髪をやや乱雑に掻き上げた。
「──さて。ヨゼフィーネというのは誰だい?」
ロアははっとして意識をユリシーズに戻し、それからむすりと唇を引き結んだ。
「教えない」
「へえ?」
ユリシーズは傲慢な笑みを浮かべた。
「嘘をついてばかりの人には、本当のことは何にも教えない」
「ハッハッハ、そう来たか」
ロアの返答を聞いたユリシーズは高笑いをした。その笑い声にはどこか侮蔑の響きがあった。ロアは真面目な顔でユリシーズを見上げる。
「でも、どうしてコンラッドがクローディアさんのことを気にしているのか教えてくれたら、ヨゼフィーネが誰か教えてあげる」
「その交換条件には応じられないね。質問を変えよう、何せ時間がない」
そう言ってユリシーズは時計を見上げた。舞踏会の初日は何かとやることが多く、ましてやコンラッドが不在の今、ユリシーズまで大広間を離れるというのは本来ならば避けるべきことだった。
「ひょっとして僕らには内緒で、きみの他にもベルンシュタインから姫君が来てるのかな?」
「……来てないけど?」
ユリシーズの質問の意味がまるで分からず、ロアはきょとんとして思わず正直に答える。
「ヨゼフィーネというのは、きみの使用人?」
「違……わ、ない、こともない、けど、秘密だよ!」
ジャンメール家の使用人ではないが介添人として同行している宮女なので、ロアはどう答えたものかと小首を傾げる。根が単純なので聞かれたことについ答えてしまったが、どうにか有耶無耶にできたとロアは自分に及第点を与える。
「それじゃあヨゼフィーネは、皇帝陛下が用意した旅の介添人といったところかな?」
言い当てられてロアはぴくりと肩をそびやかす。
「なるほど。皇帝の方か」
ユリシーズの満足そうな表情を見て、ようやくロアはユリシーズが質問を重ねることでヨゼフィーネが何者か予測する範囲を狭めていたことに気づいた。
「ずるい! ユリシーズ、ずるいよ!」
「きみが愚かなだけさ」
ヨゼフィーネというのはベルンシュタインの女性の名前だったし、自分が知らない彼女をロアが知っていたことから、ユリシーズはヨゼフィーネがベルンシュタインの関係者だと目星を付けていた。
「卑怯だよ、ユリシーズ!」
ユリシーズが考えに耽っている間も、ロアはまだ騒いでいる。
「きみはもう少し喋る前に考えた方がいいね」
恨みがましい目を向けるロアを軽蔑の目で見下し、淡々と答えてユリシーズは一歩ロアに近づいた。窓と窓の間の壁に腕を当て体をもたせかけ、軽く身を屈めた。
本来ならもっと時間を掛けて粉砂糖をまぶして、この喧しい客人の好奇心を別の方へ向けてしまうところだが、今回は時間も心の余裕もなかった。所詮は世間知らずの十代の小娘だろうと、ユリシーズは手っ取り早くロアを脅すことにした。
「いいかい、ベルンシュタインのお嬢さん。クローディアのことは忘れるんだ」
穏やかな声色だがどこかに凄みのようなものを感じて、ロアは顔をしかめる。使用人の部屋でのヨゼフィーネの様子がおかしかったことが思い出された。それにコンラッドはヨゼフィーネを追っていた。もしかすると二人は、何か事情のある知り合いなのかもしれない。ロアは首を横に振った。さらりと切り髪が揺れる。
「……嫌だ」





