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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第二章 青すぎる空
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豆畑の邂逅



 一頻り泣いた後で、ヨゼフィーネは思い切って部屋を出た。舞踏会が終わるまでは極力部屋に籠もっているつもりだったのだが、あれ以上一人で部屋にいたら気が狂ってしまう気がしたからだ。それに舞踏会中ならば、万が一にもコンラッドを見かける心配はないはずだ。


 よく知った王宮の、使用人だけが使う見知らぬ廊下を歩く。数ある裏口の一つを見つけて扉を押し開けると、入ってきた風が全身にまとわりつくように吹き抜けた。今は寒さの厳しいベルンシュタインに住んでいるとはいえ、温度管理された後宮暮らしに慣れきったヨゼフィーネにとって夕暮れの春の風は冷たかった。


 ヨゼフィーネは扉を閉めると、しばらく裏口を出てすぐの日陰から日向を眺めた。本当ならばたくさんの思い出のある薔薇園や、花壇や大きな噴水で賑わう中庭へ行きたかったが、自分はウィンフィールドでは少々顔を知られている。ダンヒル子爵のように王都に縁遠い辺境の貴族は別にしても、何年も経って面変わりしたとはいえ舞踏会の参加者達に気づかれない自信はなかった。


 惨めな思いで、ヨゼフィーネは中庭を諦めて裏庭へ足を進めた。裏庭ならばよほどのことがない限り客人の目に触れない。花壇や水辺はなく、芝生のほかには物置小屋や小さな畑や果樹が何本かあるだけだ。物置小屋の更に向こうには少し大きな畑と井戸、反対側の果樹の向こうには厩舎などが見える。


 大広間の演奏がかすかに聞こえてきて、ヨゼフィーネは切ない気持ちになった。社交界に出てから初めてコンラッドと踊った曲だ。自分が二度と行くことのない大広間で、コンラッドは今誰と踊っているのか。夕暮れの光の中を白い蝶が二匹、競り合うように絡み合って飛んだ。


「…………」


 どうしようもない気分になって、ヨゼフィーネは目元を拭って日陰を選んで進んでいく。物置小屋の横を抜けると、キャベツや棘菜などが並ぶ葉物の畑がある。


 更に進むと、コンラッドが秘密のトンネルと呼んでいたうちの一つ、豆の畑に差し掛かった。当時と変わらず三日月豆を植えているので大きな葉が茂り、支柱も普通の豆のものより高い。しかも普段使われている部屋からはちょうど死角に入るため、畝と畝の間は子どもには格好の隠れ家になっている。


 王城を訪れてコンラッドが自室にいない時は、よくここに彼を探しに来たものだ。彼はいつもここで本を読んでいた。ヨゼフィーネは野菜の畑など卑しいものと思っていたし、靴が土で汚れるのも嫌だったので当時は誘われても足を踏み入れることはなかった。ヨゼフィーネは日陰の終わりで足を止めた。


 今時期は三日月豆の花の咲く時期で、ごく控えめな薄紫の花が葉の隙間からところどころに顔を覗かせていた。

 何となく来てしまったが、ここで何をしたい訳でもない。このまま立ち去るべきか迷った時、ヨゼフィーネが通ったのは別の方向から誰かが歩いてくる音が聞こえた。使用人だろうか。ヨゼフィーネはとっさに人目から逃れようと、ドレスの裾をまとめて畑の中へ入った。


 耕された柔らかい土にヒールが埋まって転びかけながらも、どうにか二つ目の畝と三つ目の畝の間へ身を滑り込ませる。これなら近づいてよく見ない限りは見つからないだろう。


 こんな形で豆畑に踏み入れることになるなんて、と皮肉に思いながらも、ひとまずほっとして緑のトンネルの中でしゃがみ込む。ドレスが土に触れたがそれどころではなかったし、何だかもうどうでも良くなってしまっていた。汚れるのは侯爵の娘のドレスではない、異国の宮女のドレスだ。汚れたところでそれを叱る母や使用人はここにはいない。


 大人になった体にはここは狭かったが、それでも一人なら不都合はなかった。白い肌に豆の葉越しのまだらの夕日の光が落ちるのを、ヨゼフィーネは軽く腕を上げて眺めた。

 ベルンシュタイン後宮では庭にさえ出ていなかったので、日の光が作る入り組んだ影が新鮮だった。だが足音は豆畑に近づいてくるようだった。豆の手入れに来た使用人だろうと予想し、運が悪いとヨゼフィーネは己の行動を悔やみながら背を丸めた。


 足音は豆畑の中へ踏み込んできた。ヨゼフィーネの心臓が高鳴る。息を殺して身を縮めると、二つ向こうの畝と畝の間で人影が動いて葉の擦れる音がした。


「……誰かいるのか?」


 豆畑の訪問者は、張りつめた声で尋ねた。声は男性のものだ。ヨゼフィーネはいい大人になった自分が豆畑なんかに入り込んだことが恥ずかしくなり、相手に返事はせずに反対側から緑のトンネルを出て自室に引き返そうとした。


「おい、待て」


 先ほどは急な声掛けでよく分からなかったが、今の呼びかけの声にはどこか聞き覚えがあった。何かの予感にトンネルを抜け出そうとする足を止め、ヨゼフィーネは振り返って無数の豆の葉や花や蔓や支柱の向こうにいる誰かを見ようとした。


「──クローディア?」


 葉の隙間から見える人影が動き、灰色の目の一つと目が合う。その目を見開き、信じられないという響きの上擦った声色で訪問者は言った。コンラッドだ。間違いない。ヨゼフィーネは確信を持った。


 間に遮るものがあるとはいえ、数メートルと離れていない距離にコンラッドがいる。舞踏会の真っ最中なのに何故彼がここにいるのかと頭が混乱する。このままでは今の自分の姿を彼に見られてしまうと思った途端、背筋に寒気が走った。


 ヨゼフィーネは何も答えずに、精いっぱい走って畑を出た。靴が片方脱げてしまったが、拾う余裕はない。バランスが悪くなったのでもう片方を脱いで手に持ち、恥も外聞もなく裸足で走る。


「あ……待ってくれ!」


 人影も畑を出る気配がした。追いかけられるかもしれない。幸い転ぶことなくヨゼフィーネは自分の通った裏口に辿り着き、扉を開けた。そして中の通路にいた使用人が驚くのに目もくれずに、一目散に自分の部屋に飛び込んだ。


 扉を背にして荒い息を整え、震える足を楽にするためにずるりと座り込む。廊下の声に耳を澄ませたが、ヨゼフィーネの息が整う頃になってもコンラッドは来なかった。ヨゼフィーネを──クローディアを見失ったのかもしれないし、そもそも追いかけては来なかったのかもしれない。だが間違いなく後ろ姿は見られただろうとヨゼフィーネは思った。


 持っていた靴を八つ当たりのようにマットの上に放る。乾いた土のついた右の靴がごろんと転がった。クローディアは曲げた膝の上に顔を伏せた。何てこと。こんなタイミングで、よりによってあんな豆畑なんかで会うなんて。でも、ああ。


「コンラッド……」


 ヨゼフィーネはできる限り小声で呻いた。ウィンフィールドを離れてから、その名を声に出したのは記憶にある限り初めてだった。


「コンラッド、コンラッド……!」


 先ほどの涙とは質の違う、熱い涙がヨゼフィーネの目から溢れた。涙が落ちてドレスの色を濃く変えた。


 彼を憎んでいるのか愛しているのかもう分からないと思っていたが、憎しみはもうとっくに擦り切れていることをヨゼフィーネは知った。

 きちんと会って話すことができない悲しみも苦しみも深かったが、声を聞けた喜びがそれを凌駕してしまっていた。コンラッドの声が、自分の名を呼んだ。本当の名前を。


 ヨゼフィーネは背中を丸めて膝を抱え、子どものように泣き続けた。



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