爪
「やっぱりか。きみはどこまでも先行逃げ切り型らしい」
ロアの無計画なペース配分を馬に例えて、ユリシーズは眉を上げて予想通りの結果にため息をついた。
「どうして知ってるの?」
差し馬や追い込み馬に乗ってもまず勝てないので、逃げ馬か先行馬にしか乗らないためロアは騎手としても先行逃げ切り型だ。自分の騎手としての特徴を言い当てられたのかとロアは目を丸くする。ユリシ-ズは呆れた。
「やれやれ。きみのかかとに蹄鉄が付いていないのが不思議だよ」
ロアは嫌味にも気づかず言い訳のように口を尖らせた。
「普段こういう靴、履きなれてないから」
「だろうね」
「どうして踊るのに、こんな動きにくい靴をみんな履くんだろう? 踊る時くらい、男の人の靴みたいな靴にすればいいのに」
「それはもちろん、脚を美しく見せるためさ」
「はあああ」
ロアは理解できないというように半眼になった。ユリシーズはくすりと笑う。
「足が痛いなら、サロンで少し休むといい」
「そうしようかな。ありがとう」
ため息をついてロアは頷いた。
「今すぐ休みに行きたいかもしれないけど、この曲が終わるまでは我慢してくれよ」
「もちろん。私にだってそれくらいの常識はあるよ」
「そうかい?」
ユリシーズが口元を歪めるとロアはそれを見上げて眉根を寄せた。
「ダンスの途中で相手を放り出すほど、非常識に見える?」
問いには答えずに、ユリシーズは黙って自然にロアを抱き寄せた。ロアは少し目を見開く。
「な、何?」
「コンラッドの真似さ」
ユリシーズは先程のコンラッドよりも器用に、ほど近い距離で他人に聞かれないようロアに囁く。
「ロア・ジャンメール。きみと踊ってから、コンラッドの姿が消えた」
「え?」
ロアは大広間を見回した。大勢いるためすぐには確認できないが、少なくとも目立つ位置にはコンラッドの姿はないようだった。
「どこに行ったの?」
自分を見上げて尋ねるロアの素直な目に、ユリシーズは軽く意表を突かれる。
「こっちが聞きたいよ。あいつは舞踏会じゃよく中抜けするけど、仕事を残したまま抜けるのは珍しい」
「仕事?」
「王族の務めさ。最初の晩に少なくとも一度は、一通りの目ぼしい女性客と踊らなくちゃならない。コンラッドと何かあったのかい?」
困惑した様子でロアは首を小さく横に振った。
「わからない」
「最後にあいつと何を話したか、覚えているかな」
「……カサンドラさんの話」
ロアの頭からは、コンラッドに言われた他言無用の言葉はすっかり消えてしまっていた。
「カサンドラ?」
コンラッドと知り合いであろう女性の中に、同じ名の女性は何人もいる。だが次のロアの言葉で、それがどのカサンドラなのかをユリシーズは知った。
「うん。それと、クローディアさん」
ユリシーズはぴくりと眉を小さく上げ、口を閉じた。普段は庶民的で愛嬌のある目が、冷えた暗いものとなってロアを見つめる。まるで人が変わったように見えて恐ろしく、ロアはどきりとした。
「──なるほど。彼女について、どんな話をしたんだい」
ロアの背中に回した手に、ユリシーズは静かに力を込めた。声の響きが先ほどまでより硬い。普通の会話であるはずなのに、ロアは尋問されているような気持ちになった。
「ええっと、クローディアが今どうしてるかっていう話で、ベルンシュタインの後宮にいるって教えたんだけど……何かあるの?」
ユリシーズはロアの言葉を聞いて天を仰いだ。ガラス越しの紫がかった星空が頭上には広がっている。
いつかこんな日が来るとは思っていたが、何も弟が結婚相手を選ぶと覚悟を決めたばかりの今でなくとも良かっただろうに、とユリシーズは顔を歪めた。ここに至るまで自分がどれだけ苦労して、弟の前に丁寧にレールを敷いてきたことか。ユリシーズは神に悪態をつきたい気分だった。
「そうか。彼女のことを、知ってしまったのか……」
まるでクローディアの現状について自分は知っていたかのようなユリシーズの口振りに、ロアは混乱した。
「どういうこと? あなたはクローディアさんが後宮にいることを知ってたの?」
曲は終わりへと差し掛かっていた。ユリシーズは普段の愛嬌のある目に戻ってゆっくりと言った。
「帰って皇帝陛下に聞いてごらん」
「そんな、聞けるわけないでしょ。ベルンシュタインの皇帝陛下はおそろしい人なんだよ」
世事に疎いロアの耳にも届いている、皇帝陛下の恐ろしい逸話の幾つかを思い出す。父であるジャンメール男爵が謁見前のロアにそうしたように、ロアはユリシーズに言い聞かせるように言って眉根を寄せた。
「だろうね。それなら諦めてくれ、そもそもきみが知る必要のないことだ」
ユリシーズは意に介さず目を逸らし、話は終わりとばかりに次に踊るべき女性客を探す。目当ての女性客はちょうどマーヴィンと踊っているところだった。
「知る必要はないかもしれないけど。気になるよ」
ヨゼフィーネの反応を思い出して、何か重大な話らしいとロアもようやく察する。
不満そうなロアを無視して、ユリシーズは次の女性客に視線を送り続けた。ようやくこちらに気づいた女性と視線が合うと、いつもの顔でにっこりと笑いかける。女性は少しだけ驚いた後で、嬉しげな微笑みを返した。
一緒に踊っている女性が余所見をして微笑むのを見たマーヴィンは、むっとした顔で女性の視線を辿る。視線の先にいるのがユリシーズだと分かると、マーヴィンは苦い顔をしてすぐに視線を女性に戻した。間もなく曲が終わる。
「ねえ、ユリシーズ」
ロアの追求を振り払うように、最後にユリシーズは繋いだ手を高く掲げてロアにスピンを要求した。
悔しかったのでユリシーズの予想以上に速く長く回ってやろうと、ロアはまた足に無理をさせた。体を止めるとネックレスが勢いよく鎖骨にぶつかって痛みを感じた。ドレスはまだ回って、ふわりと緩やかに舞い下りる。足の古傷が見えてしまったかもしれないが、そんなことはどうでもいい気分だった。
周りの客が歓声を上げた。酔いのせいもあって、流石に目が回ってしまった。靴擦れがずきずきと痛む。足が痛い癖によくやる、と内心呆れながらユリシーズは目を細めた。
「クローディアさんって、どういう人なの?」
黙って手を離そうとするユリシーズに、整わない息で尋ねる。クローディアの名を気軽に出すなと、ユリシーズは無表情でロアに向かって人差し指を己の唇に当てた。
「その名前は出しちゃいけない」
「どうして?」
引く気のないロアにユリシーズは微笑んで見せた。
「……脳天気なベルンシュタインのお嬢さん。好奇心猫を殺すって言葉を知ってるかい?」
「知らない」
ユリシーズは何ごとかを考えて無表情のまま黙った。身長差はあるものの、二人の視線が真正面からぶつかる。朗らかで親切という、ロアのユリシーズに対する第一印象は崩れつつあった。
「わかった。もういいよ、コンラッド王子に直接聞くから」
すっかり気を悪くして手をふりほどこうとしたその瞬間、ユリシーズはギュッと強くロアの手を握り締めて手を引いた。そのまま抱き留められたことと手の痛みに驚いてロアがユリシーズの顔を見上げると、先ほど見たばかりのあの冷たく暗い目が間近にあった。
何もかも台無しにしてなお首を突っ込もうとしているロアに、ユリシーズはふつふつと怒りを感じていた。
「……いいだろう、教えてあげるよ。北側の第四サロンで待っているといい、あそこなら厩舎も見えるからね。僕も後で行く」
周りに聞こえないように低い声でユリシーズが囁く。だが厩舎が見えるという情報に喜ぶどころか、ロアの背筋には鳥肌が立っていた。耳に唇がかすめたというのもあるが、ユリシーズの声色の冷淡さに驚いてもいた。
「──」
「ただし、猫になる覚悟でね」
背中を向けて突き放すような言葉を残し、ユリシーズはロアと踊りながら笑みを交わし合った女性客の元へ歩いて行った。マーヴィンにも何事もなかったかのように声を掛け、女性客とにこやかに談笑している。
普段通りのユリシーズのその姿と、たった今自分が掛けられた言葉やあの冷たい目とのギャップにひどく混乱する。ロアは寒気を感じて、自分の裸の肩を両手でそっと抱いた。
お読み頂きありがとうございました!
10/1 イラストを付けました。
何気なく描いたものを流用したので、小説内のドレスとはデザインが違います。
すみません。





