父への土産
翌々日。
ロアは無事に、愛想のない灰色一色の居城に着いた。愛馬のシュリュッセルを馬丁のフランツに預け、乗馬用のブーツのまま玄関の靴拭きで靴底を拭いもせずに廊下を走る。
「父様!」
ノックもせずに壊れるかと思うほどに、激しく大きく書斎の扉を開ける。それと同時に、ロアはびしょ濡れの体のまま転がるように部屋へ入った。
「おお、来たかロア。……馬車で帰ってくるよう言付けたはずだが、どうしてそんなにびしょ濡れなんだね」
手元の書状から娘へ視線を移したロアの父、トラウゴット・ジャンメール男爵は呆れたように言って眼鏡を外した。表情は明らかに困り切っている。
「だって、馬車より単騎駆けの方が早いでしょ?」
ロアは短く返事をすると、つかつかと男爵に歩み寄った。点々と床にささやかな泥水の足跡が残る。ベルンシュタインは雨の多い国だ。
「それより! 皇帝陛下が、私をウィンフィールドに行かせるって?」
肩で息をしながら机のすぐ前に立つと、ロアは両手を机についた。ぽたぽたと滴が机の上に落ち、男爵は濡れては困る書類などをさっと手前に引いた。
「ああ、そうだ。だが何故そんなに嬉しそうなんだね、ロア」
手紙を受け取ってからずっと憂鬱だった男爵は、喜色満面の娘をどこか恨みがましい目で見た。
「だって、天馬に乗れるんだよ。嬉しくないはずないでしょ!」
ロアははしゃいだ声を上げ、夢見る瞳でうっとりと昔の記憶を思い出した。小さな頃から絵本に出てくる天馬騎士が大好きだった。それに母が死んでからは、雲の上に行けば母に会えるような気がしてますます天馬に憧れるようになっていた。
もちろん、今はもう雲の上に天国などないことは知っている。だがそれでも、ロアにとって雲の上は幻想的で神秘的な特別な場所だった。
「子どもの頃は、よく天馬騎士ごっこしたよね。白馬に羽をつけようとして蹴られたの、あれは何歳の時だったっけ。父様、覚えてる?」
浮かれて思い出話をする娘とは対照的に、ジャンメール男爵は顔をしかめた。
「何を言っているんだ。おまえはウィンフィールドの王子二人の、花嫁候補として行くんだぞ」
「え。天馬レースの騎手じゃないの?」
きょとんとした顔をしてロアは男爵を見た。
「何だって?」
「ウィンフィールドの夜会では、天馬レースをするんでしょ? 私はそれに出るんじゃないの?」
ジャンメール男爵は顎に握り拳を当てて考え込む。確かに娘の言うとおり、ウィンフィールドでは夜会の余興に天馬レースをすると聞いたことはあった。
「……む。その可能性もあるか」
男爵は改めて皇帝陛下からの手紙の写しを見た。文面には花嫁候補としてとも騎手としてとも、はっきりは書かれていない。もしも騎手として行くなら幾らか気が楽だと考えて、男爵は顎から手を離してため息をついた。
「まあいい。とにかくウィンフィールドの前に帝都へ行かなくては」
父の言葉に驚き、ロアは目を見開いた。またぽたりと滴が落ちる。
「帝都に? どうして?」
「やれやれ、手紙を最後まで読んでいないようだな。来月の始めに皇帝陛下と謁見だ、陛下直々にウィンフィールド行きの命を下されるのだろう。──おい誰か、拭くものを持ってきてくれ。書斎に雨が降っているぞ」
たまりかねた男爵が声を掛ける。すぐに背の高い眼鏡の侍女が乳白色のタオルを手にして、ずぶ濡れのロアに近づいた。失礼しますと呟き、そのまま顔にタオルを押しつける。
「むぐっ」
「全く、おまえが陛下に謁見などどうなることやら」
男爵はまたため息をついた。顔を拭われた後は髪を力強く擦られて揺れながらも、ロアは明るい声を上げた。
「レースの後の表彰式では、何度か皇帝陛下から声を掛けてもらってるよ。慣れてるから大丈夫」
呆れた男爵は苦い顔をして机の上に肘をつく。
「陛下の祝辞におまえが礼を言うくらいで、陛下ときちんと会話をしたことはないだろう。万一花嫁候補だとしたら、騎手ではなくジャンメール家の息女として陛下にお会いするのだぞ。どういう会話が望ましいか分かっているのか?」
ベルンシュタイン帝国には、社交界にデビューした貴族の子女は皇帝に挨拶に行く風習がある。ロアが騎手としてではなく、男爵令嬢として皇帝に会ったのはそれが最初で最後だった。だがその時も会話らしい会話などなかった。男爵は不安で仕方がなかった。
「まあまあ、何とかなるって」
ロアはけろりと笑って父の心配を受け流す。
「おまえは皇帝陛下がどんな方か分かっておらんのだ。あの方には人の心がない。即位の時こそ善悪のつからないほんの子どもだったが、十を過ぎた今でもまだことあるごとに人の首を刎ねておられる」
男爵はしかめっ面で娘を見つめ、声を潜めた。辺境の小さな領地しかない男爵が帝都に行く機会などほとんどないが、そんなジャンメール男爵の耳にも少年皇帝の悪評は届いている。
ロアもちらほら噂を耳にすることはあったし、怖いとも思ってはいるが、本当に自分の首が刎ねられるとはとても思えなかった。
「大丈夫だってば、ちゃんと気をつけるよ。ねえ父様、シリュッセルをウィンフィールドに連れて行ってもいいかな?」
愛馬の同行を乞う娘に、男爵は一瞬言葉に詰まった。
「……まさか向こうで乗る気か?」
「うん!」
男爵は頭を抱えた。
「駄目に決まっているだろう!」
「えー、どうして?」
ますます背を丸め、男爵は苦悩を露わにする。
「ああ、こんなことならおまえをもっと社交界に出して、経験を積ませておくべきだった。まさか片田舎のグラットコールのじゃじゃ馬娘に、こんな機会があろうとは……」
「父様ったら、今からそれじゃ当日までに胃に穴が空いちゃうよ」
ロアは悲嘆にくれる父を大袈裟だと笑った。男爵はそれを見て大きなため息をついた。
「まったくとんだことになった。今既にもう胃が痛いよ」
「もう? 大丈夫?」
男爵は何も言わずにただ頷いた。
「じゃあ父様へのウィンフィールドのお土産は、胃の薬ね。マヌエラたちにもお土産買ってきてあげるからね。もちろんシリュッセル達にも!」
髪と顔を拭き終えた使用人のマヌエラに、ロアは楽しげにへらりと笑いかけた。
「私はロア様に同行することになっています」
「そうなの? マヌエラがいるといろいろ怒られそうだなあ」
男爵は半眼になり、低い声で言った。
「そのためにマヌエラを付けるのだ」
「今から私に怒られるようなことをするおつもりですか?」
マヌエラの眼鏡の奥の目がきらりと輝く。ロアはうっと言葉に詰まって肩を竦めた。
「いや、別に、悪いことするつもりはないよ。でも細かいことで怒られそうだから……」
そんな娘の様子を見て、男爵は大きなため息をついた。
「ロアの支度を整えたらすぐにレッスンだ。マヌエラ、礼儀作法と社交ダンスを磨いてやってくれ」
「えー!?」
こうなることを予想もしていなかったロアは悲鳴を上げた。
「お言葉ですがトラウゴット様、元々ないものは磨けません」
マヌエラは眼鏡の奥からロアを一瞥し、男爵の苦悩に追い打ちを掛けた。