愚者の大回旋
「ユリシーズ!」
「シーッ、声が大きいよ」
振り返ったロアが叫ぶと、ユリシーズは笑って人差し指を自分の口に当てた。それを見て子爵夫人はさもおかしそうに顔を綻ばせる。
「まあまあ、いつまで経っても悪戯っ子ねえ。わたくしの背中によじ登っていた頃と変わらないわ」
「お久しぶりです、ダンヒル子爵夫人。お元気そうで何よりです」
子どもの頃の話を持ち出され、ユリシーズは少し困ったように笑った。
ダンヒル子爵夫人はユリシーズが子どもの頃からよく知っている相手なので、こうして親しく話していてもまた既婚女性に手を出す悪い癖が出たなどと周囲に余計な詮索をされずに済む。ユリシーズとしては子爵夫人が相手だとそういう意味では気が楽だった。
「ええ、あなたもね」
子爵夫人は少し寂しげな優しい笑顔でユリシーズを見つめた。それからロアを見て明るい声で問うた。
「わざわざロアさんをお迎えに上がったそうね。久しぶりのウィットバーン城はどうだったかしら?」
「ええ、居心地の良さは変わりなかったですよ。ジョーもずいぶん大きくなりましたね」
「すっかり一人前でしょう。今じゃ天馬の誘導も一人でやってるわ」
「まったく、僕も年を取る訳です」
「わたくしももうすっかりおばあさんよ。早く孫の顔を見せてちょうだいな、ユリシーズ」
子どものいない子爵夫人は、思わせぶりな流し目をロアに向けた。ユリシ-ズは苦笑し、意味が分からないロアはただ居心地の悪い思いをした。
「コウノトリに順番を間違えてもらっては困ります」
「まあ」
ユリシーズの軽口に、二人はくすくすと笑った。互いに幼少期から叩き込まれた社交術で続けられる軽い会話は、傍目にはごく自然で親しげなものだった。ウィットバーン城でのダンヒル子爵とユリシーズも、今のこの二人と同じかそれ以上に楽しく会話しているようにロアには見えた。
ならばユリシーズの足がウィットバーン城から遠のいた原因は何なのだろうと、ロアはぼんやり思案した。忙しくなったからか、ただ単に国境見学に飽きたのか。
「おっと、次の曲が始まるぞ。僕と一曲踊って頂けますか、ベルンシュタインのお嬢さん」
ユリシーズは恭しく頭を下げ、手を差し伸べる。ロアは小さくため息をついてからその手を取った。
「お城の伝令でも貴族でもなくて、王子様だったなんて。とんでもない嘘をついたんですね」
ロアが恨みがましく言うと、ユリシーズは満足そうに笑った。
「ウィンフィールド流の冗談さ」
流れてきた今度の曲も知らない曲だったが、かなりテンポが速めの曲だったのでロアは安堵した。このくらいのテンポなら相手に合わせようとするよりも、自分の身体の動きに集中した方が呼吸が合うのでかえって楽だ。
「ああ、速い曲は好き」
くるりとロアが回った。ドレスの裾がぴしりとユリシーズの足に当たるほどの速さだった。先ほどの鬱憤を晴らすかのように自由に楽しげに踊り出すロアを見て、ユリシーズをタイミングを合わせながら踊り出す。
「おいおい、無理はしないでくれよ。きみの可哀想な足に負担が掛かる」
演奏されているのが比較的長い曲だと知っているユリシーズは、ロアの靴擦れだらけの足が保つか心配になる。
「大丈夫大丈夫!」
ロアは敬語をすっかりどこかへ忘れて身を翻した。その踊りはウィンフィールドでは女性らしくない激しいものだったので、周囲の人々はまず目を丸くした。
ユリシーズは途中から完全にロアに合わせることだけに集中し、彼女の踊りを注視した。奔放で弾むような軽やかさだが力強さもあり、仔犬や仔馬と言うよりは若駒や若犬のじゃれ合いを思わせる動きだ。おそらくは即興の、ふざけたようにも見える細かな仕草や感心するほど素早い動きが見る者を惹きつけ、また別の見る者の顔をしかめさせた。
速いスピンで戻ってきたロアを、ユリシーズは慎重かつ丁重に抱き留める。振り回されたロードナイトのネックレスがロアの胸で弾んだ。並の男性ならよろけるほどの遠慮のない強い衝撃だ。
「ありがとう!」
溌剌とした笑みでユリシーズに礼を言うロアの額には、うっすらと汗が光っていた。身体も熱い。表情は生き生きとしていて、彼女が心からダンスを踊ることを楽しんでいると分かる。
人と接する時には言葉や表情だけでなく相手の態度や視線、会話の間や話題の変え方などからも相手の意思を探る癖のあるユリシーズにとって、年若いとは言えこうまで感情があけすけで分かりやすい娘は初めてだった。探ろうとするまでもなくロアの感情はそこにある。彼女を探ろうとすることが馬鹿馬鹿しく感じられて、ユリシーズは笑った。
曲は後半に差し掛かると転調し、ゆったりとしたテンポに変わった。調子に乗って踊りすぎて靴擦れを悪化させていたロアは、内心ほっとした。
「驚いたな。コンラッドと踊っていた時は、余程緊張してたのかい?」
危なっかしい先ほどの二人のダンスを見ていたユリシーズは、ロアの変わりように驚きを隠さない。ロアは気まずそうに肩をすくめた。
「ゆったりしたのは元々苦手なんだ。コンラッド王子はいつも怒ってるから、確かに緊張もあったけど」
「確かに今きみが踊ったのがベルンシュタインの踊りなら、さっきの曲調じゃ物足りないだろうね」
ベルンシュタイン人が皆ロアのように激しく踊るわけではなく、むしろベルンシュタインでも浮いてしまうほどなのだが、ユリシーズは誤解したまま周囲を見渡して微笑んだ。
「見てごらん、きみはここにいる皆の度肝を抜くことに成功したよ。ベルンシュタイン皇帝もさぞお喜びだろう」
言われて辺りへ目を向ければ、確かに視線は良くも悪くもロア達に集中している。それに気づいた途端にロアの身体は固くなり、動きもぎこちなくなった。精神的なものなのか、靴擦れの痛みもぐっと増した気がする。ロアは居心地悪そうに俯き、オフショルダーの袖をそっと引き上げた。
「ん、どうかしたかい」
ロアの変化に気づいて、ユリシーズがつむじを見下ろす。ロアは目を逸らした。
「えーっと、大丈夫」
「疲れた?」
「ううん」
ロアは俯いたまま首を横に振った。
「本当に?」
「大丈夫だよ」
一向に顔を上げないロアが心配になり、ユリシーズは少しだけ身を屈めてロアの顔を覗き込んだ。人懐こい琥珀色の瞳がロアに微笑みかける。明るい目の色なので、逆光になり影に入るとずいぶん虹彩の色味が変わる。どこかからかうような楽しんでいるような笑みだった。
「明らかに元気がないよ。正直に言ってごらん」
ロアは顔をしかめて、軽く仰け反って距離を開ける。
「あ、足が痛いだけ。調子に乗りすぎちゃった」
お読み頂きありがとうございました!
何も考えずに描いた絵を挿絵にしたので、場面と微妙に色々違っててごめんなさい。





