ダンスはうまく踊れない
やがて演奏家達の本格的な出番となり、ダンスが始まった。二人の王子は期待を裏切らずダンスには慣れているようで、流れるような所作でダンスをこなしていく。
ユリシーズは少なくとも遠目には楽しんでいるように見えたが、コンラッドは皮肉気な微笑以外に笑顔は見せずに、曲が変わるごとに疲れていくようだった。そしてコンラッドの三曲目のダンスの相手は、ロアだった。
「ロア・ジャンメール嬢、こちらにいらっしゃいましたか」
ダンヒル子爵夫人に促されて公子だという熊のような男と一曲踊ってからは、ロアはなるべく目立たないように子爵夫人の影に隠れていた。
だがコンラッドは目ざとくロアを探し出して隣へ来た。とはいえコンラッドも決してロアと踊りたかった訳ではなく、宮廷舞踏会ではダンスの順番も政治でありほとんど決まっているので仕方なく来たのだ。特に最初の一巡にはそれぞれの国の面子も掛かっている。
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、コンラッドの目には怒りに近いものが見て取れてロアはおののく。あの後ロアがコンラッドの部屋をもう一度訪ねて来るのを、律儀に待っていたのかもしれない。
「ダンヒル子爵夫人。お久しぶりです」
コンラッドは子爵夫人に気づいて表情を少し緩めた。
「まあ、コンラッド王子。すっかりご無沙汰しておりますわ」
「お変わりありませんか」
「ええ、おかげさまで」
「先ほどは兄上がウィットバーンにお邪魔したようですね」
コンラッドが苦々しい表情に変わったのを見て、子爵夫人は面白そうに笑った。
「ええ、そのようですわね。わたくしはもうこちらに来ていましたから、詳しくは存じ上げませんけれど」
「子爵はまだいらしていないのですか」
「ええ。何だか後片付けがあるとかで、少し遅れて城を出る予定らしいですわ」
ふと間が空いた。曲が始まる。口を開いたのは子爵夫人だった。
「さあさ、ベルンシュタインの赤い薔薇がお待ちかねですわよ」
「ば、薔薇?」
美しく着飾った娘達の中で自分は華のある方ではないという自覚のあるロアは、夫人の言葉を真面目に受け止めて動揺する。似つかわしくない言葉は冗談のようにしか聞こえなかった。コンラッドの表情がすっと消えた。
「ロア・ジャンメール嬢、雨煙るベルンシュタインからはるばるウィンフィールドへようこそ。一曲お相手をお願いいたします」
似たような声掛けを繰り返してきたのだろう、機械的な声色と会釈だった。ロアは助けを求めるように子爵夫人を見つめたが、普段から愛想のないコンラッドを見慣れているのか、何も知らない夫人はにこにこと微笑むだけだった。
「行ってらっしゃい」
コンラッドが手を差し伸べた。その白く薄い手にやむなく己の手を乗せる。一度部屋に戻った際に皺になったイブニンググローブを取り替えたので、今はめているものに皺はない。だがレースのせいで肘の内側がチクチクした。
曲は先ほどとは異なり、運の悪いことにロアには耳馴染みのないものだった。緊張と慣れない酒の影響もあり、曲に入れず足がもたつく。コンラッドの鋭い視線が飛んだ。
「おい」
「し、知らない曲なんですよ。ちょっと待ってください」
コンラッドはロアにだけ聞こえる音量で舌打ちをした。第二王子がベルンシュタイン娘と踊るというので、二人の周囲の人々の視線はロアとコンラッドに注がれている。
「人が見てるぞ、早くしろ」
「そんなこと言ったって──あっ!」
ロアの足が何かをぐにりと踏んだ。石かとロアは思ったが、大広間に石が落ちているはずもない。それも少し弾力のある石が。
「…………」
人々はざわつき、コンラッドは鬼の形相でロアを見下ろす。
「ご、ごめん、ごめんなさい!」
一部の観客達がくすくすと笑った。この上ない屈辱に、足を踏まれたコンラッドは歯噛みする。
「喋るな。踊れ」
短い言葉にコンラッドの苛立ちが嫌と言うほど込められていた。ロアは汗をかきながらステップに集中し、唇で小さくリズムを刻む。
「……あ。うん、いい感じになってきたかも」
黙れというコンラッドの強すぎる視線には気づかず、ロアの目に生気が戻る。
「どうですか、ほら!」
ついにリズムを掴んだロアが満面の笑みで得意げに言う。だがコンラッドは何かを探すように視線を会場のそこここへ向けていた。
「ね、ちゃんと踊れたでしょう?」
「喋るなと言ったはずだ」
褒めるどころか認められもされずに凄まれて、ロアは不満顔になり口を尖らせた。
「じゃあ、カサンドラさんのことも喋らなくていいんだね」
コンラッドの視線が素早くロアの顔へ戻り、顔色が変わる。敬語を使わなかったからではない。それまでロアに触れると汚れが付くと言わんばかりに体の距離を開けていたコンラッドが、急に彼女を抱き寄せた。
「わ!」
驚いたロアだけでなく、ダンヒル子爵夫人をはじめ数人の女性客が勘違いして小さく歓声を上げた。
「カサンドラのことで何か分かったのか」
誰にも聞かれないよう、耳元で囁く。ロアは顔をしかめて、至近距離で囁かれてざわついた感触を消そうと耳を擦る。
「うぇえ、耳にしゃべるのやめてよ」
「答えろ」
「カサンドラさんは、ベルンシュタインの貴族と再婚したって」
「……クローディアは」
「だからー、耳にしゃべるのやめてってば!」
ロアは踊り続けながらもまた耳をごしごしと擦り、コンラッドの肩を軽く押しのけた。コンラッドは何も言わず押されて少しだけ傾く。また観客がざわめく。
「クローディアはどうしている」
「後宮に上がったって」
不服そうな顔のままロアは答えた。コンラッドにとって予想していた答えの一つではあったが、それでも心臓が痛いほどに脈打つのを感じた。
美しい娘が後宮に上がることの意味は王族のコンラッドもよく理解している。クローディアほどの容姿なら、ベルンシュタイン皇帝の目に留まらない方が不自然だろう。当然の流れだ。コンラッドは自分にそう言い聞かせた。
「……それは、彼女の意志なのか?」
縋るように、掠れた声で問う。クローディアの意志でなければどうだと言うのだろう。後宮に乗り込んで攫うとでも言うのだろうか。コンラッドは自分が滑稽に思えた。
「さあ。でもハインミュラーの今の当主が、カサンドラさんとクローディアさんのことが邪魔でそうしたんだって、マヌエラは言ってたよ」
コンラッドとクローディアの事情を何も知らないロアの口調は軽い。クローディアの母であるカサンドラの兄が既に亡くなっていることは、コンラッドも知っていた。その兄の息子がどんな人物かまでは知らなかったが、由緒正しい公爵家の当主として、家名に泥を塗る存在の母娘を一刻も早く家から追い出したかったというのは理解できる話だ。
もしクローディア本人が望まないまま後宮へ上げられたのならば、今彼女はどんな心境でいるのか。ウィンフィールドを去ったクローディアを忘れようとして、これまでコンラッドはベルンシュタインに渡った彼女がどうしているのか調べることはしていなかった。だが今こうして受けた衝撃の大きさを思うと、それは間違いだったのかもしれない。もっと早く知るべきだったと、コンラッドは唇を噛んだ。
曲が終わった。コンラッドは挨拶もせずにふらりとロアから離れていった。
「……?」
ロアはほっとしつつその背中を不思議そうに見送る。ダンヒル子爵夫人がいそいそと近づいてきて、新しいグラスを差し出した。
「お疲れ様。とおってもお似合いだったわよ、最初はどうなることかと思ったけど」
子爵夫人は茶目っ気たっぷりにウィンクした。ロアは戸惑う。
「コンラッド王子があんなにぴったり寄り添って女性と踊るところ、わたくしは初めて見たわ」
感嘆の目で夫人はロアを見る。ただの誤解なのでロアは申し訳なくなり、目を伏せた。
「いえ、別にそういう訳では……」
「コンラッド王子は内向的な性格だから。貴族らしいもの静かなお嬢さんより、あなたのような元気な娘さんの方が合うのかもしれないわねえ」
子爵夫人はロアを眺めながらしみじみと言った。ロアは逃げ出したい気分になりながら、仕方なく適当に話を合わせる。
「た、確かにコンラッド王子は、明るくはないですね」
苦し紛れのロアの返答に夫人は深く頷いた。
「そうなのよ。でも意外と情熱的だったみたいね」
人懐こい夫人の笑みに、ロアは夫人の言葉を否定も肯定もできずにただ話を逸らす。
「ええと……コンラッド王子は、ユリシーズ王子とはあまり似ておられませんね」
「そうね。コンラッド王子は、あの子のお祖父様に似ているのよ」
「先代の国王陛下ですか?」
話が変わってロアは安堵し、更に質問する。
「ええ。子どもの頃はそうでもなかったけれど、大きくなって痩せてからは本当にそっくりだわ。髪の色もそうだし、あの薄い唇と鋭い目つきなんて特にね」
「へえ。ユリシーズは誰似なんですか?」
壇上の国王陛下もユリシーズに似たところはないなとぼんやり考えながら、ロアは呟いた。子爵夫人はふと言葉に詰まり、視線を床の大理石の模様に落としてゆらゆらと扇を揺らす。
「そうねえ……確かにユリシーズは、王族の誰とも似ていないかもしれないわね。でもどこの家系にも、そんな子は一人二人出るものよ」
「僕は一族の鬼っ子なんだよ、ベルンシュタインのお嬢さん」
ふいに背後から声を掛けられ、ロアは持っていたグラスを落としそうになった。





