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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第二章 青すぎる空
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ヨゼフィーネ



 数年振りのウィンフィールド王城には、変わってしまったところはそれほどないようだった。だがヨゼフィーネにはあの頃のまま変わらないところより、変わってしまったところばかりが目に付いた。


 ベルンシュタインに来たばかりの頃は死んだ父や兄が恋しくて、ウィンフィールドに帰りたくて泣いてばかりいた。

 だが後宮に上がってからは、ウィンフィールドのことは思い出さないようにしていた。狂気の少年皇帝の愛人として日々を繋ぐ中でウィンフィールドでの生活を思い出すと、胸が裂けるように痛み気が狂いそうになるからだ。


 それでも母を思えば自ら命を絶つことはできなかった。父と兄の処刑後、母は涙ながらに娘を固く抱き締めて、あなたがいるから生き続けていられるのだと何度も口にしていた。

 母の最後の心の支えは自分だ。自分が死ねば母も後を追うだろう。ヨゼフィーネはその一心で己の心を凍らせ、現実を夢の中の出来事のように扱って生き延びてきた。一度心を凍らせてしまえば、度々浮かび上がろうとする幸せな記憶を無理やり封じることは淡々と作業的にこなせるようになっていった。


「……」


 だがこうして窓から数々の思い出のある中庭を見下ろしていると、ウィンフィールド王城での記憶を封印し続けることは不可能だった。

 二人で花占いをした記憶。薔薇の棘でドレスを裂いて叱られた記憶。薔薇のアーチのトンネルの中に隠れてそっと身を寄せた記憶。拙いバイオリンとピアノの音色が蘇る。


 ヨゼフィーネは窓枠に人差し指で触れ、ピアノを奏でるように静かに指を動かした。ぱたぱたと誰かが廊下を駆けてくる足音が響き、軽快なノックの音が響いた。コンラッドとの思い出に浸っているのを訪問者に見られたかのようで、ヨゼフィーネははっと身を翻す。


 不穏な予感がした。ノックの相手が王城の人間か、ジャンメール家の人間である可能性が高かったからだ。皇帝の元から同行している他の使用人達は皆、ヨゼフィーネがどういった立場なのか知っている。特別な用事でもなければ、皇帝陛下のお気に入りの愛人の部屋に気安く出入りしたがる者はいない。

 今度は強く高らかに、再びノックの音がした。


「……どうぞ」


 扉が静かに開き、何かを警戒するかのようにロアが半分だけ顔を覗かせた。窓辺のヨゼフィーネと目が合うと、ぱっと笑顔になる。


「やったー、当たり!」


 ドレスを勇ましい手つきで掴んで、ロアはずかずかと歩いてくる。今は誰かと話したい気分ではないヨゼフィーネは、素直に感情を表情に出した。


「何が当たりなのですか」


「いやあ、さっきはヨゼフィーネの部屋に行こうとして間違えちゃってさ」


 ヨゼフィーネは呆れた。


「ジャンメール家の使用人は、主にそっくりのうっかり者なのですね」


 てっきり付き添いの使用人が部屋を間違えたものと思い、ヨゼフィーネは嫌味を言った。一瞬ヨゼフィーネの言葉の意味が理解できず、少し考えてからロアは楽しげに微笑んだ。


「うん? いや、私が間違えたの。一人で行ったんだ」


 嫌味が空振りとなり、自業自得とはいえヨゼフィーネはますます不快な気持ちになる。今も付添人なしで一人でここまで来たのだろう。


「王子の部屋に、間違えて入っちゃってさ」


「……まあ」


 内心の動揺を悟られまいと、ヨゼフィーネは無表情になる。


「それで、今また王子と話しに行くんだけど。ヨゼフィーネも一緒に来てくれない?」


 マヌエラから聞いた話を覚えておくだけで精一杯で、ロアは今ここでヨゼフィーネから聞く予定のクローディアの話を覚えておく自信がなかった。だからいっそのこと、本人を連れて行って話をしてもらおうと思ったのだ。だがヨゼフィーネは迷いなく首を振った。


「どうして私をお誘いになるのかは分かりかねますが、遠慮いたしますわ」


 妙に毅然とした声と態度に、ロアは瞬きをした。違和感を与えてしまったと気付いて、ヨゼフィーネは弱々しく小首を傾げると微笑んで見せた。そんな演技をしなくてはならない自分が惨めでたまらなかった。


「一国の王子など、目にしただけで足が震えてしまいますもの」


「皇帝陛下には毎日会ってるのに?」


 ウィンフィールドの王子とベルンシュタイン皇帝を比べられることは、ヨゼフィーネにとってひどく辛いことだった。抑えようとしても苦渋の色が声と表情に滲んで、ヨゼフィーネは目を伏せた。


「……自分がお仕えする皇帝陛下とよその国の王子では、全くの別物です」


 ロアは残念そうに視線を床に落とした。


「そうかあ。じゃあ一人で行くね、お邪魔しました」


 これからロアが訪ねるのはコンラッドの部屋ではなく、第一王子のユリシーズの部屋かもしれなかった。だがそれでも何一つ重苦しいものを背負うことなく軽やかに部屋へ向かう背中は、ヨゼフィーネにとってこれ以上ないほど憎らしかった。


「ロア様!」


 感情が跳ねて、語気が鋭くなる。


「わっ。びっくりしたあ。何、どうしたの?」


 ロアは猫の子のように緑の目を丸く見開いて、ヨゼフィーネを振り返った。感情を制御することなど容易いとここ数年思っていたが、まだまだ未熟だったとヨゼフィーネは己の激情と慢心を噛み締めるように唇を引き結んだ。


「……いえ。……一国の王子と接するのですから、くれぐれも失礼がないようになさって下さいね。それに、もうすぐ舞踏会が始まりますからお早めに」


 ヨゼフィーネは己の右手で左手をぎゅっと握り締め、ゆっくりとロアに言い聞かせた。適当な理由を付けてロアが王子の元へ行くこと自体を止めようかとも考えたが、疑われても困ると思ったし自尊心が許さなかった。

 だがロアはヨゼフィーネの異変に気づいて、気遣わしげな顔になった。


「ヨゼフィーネ、何か変だよ。どうかしたの?」


「何も。大丈夫ですよ」


 目を伏せたかったが、ヨゼフィーネは必死にロアの顔を見続けて微笑んで見せた。一刻も早くこの部屋を出て行って欲しかったからだ。ロアは眉を八の字にする。


「だって何だか、おかしいよ」


「そうですか? 関所で倒れたので、本調子に戻り切っていないだけでしょう。王子をお待たせしてはいけませんわ、ロア様」


 ヨゼフィーネの微笑みを見て、例え何か理由があるにしてもヨゼフィーネがそれを話す気はないことがロアにも分かった。心の距離を感じて、ロアはしょんぼりと肩を落とした。数日間行動を共にする中で、ロアの方はヨゼフィーネに親しみを感じているようだった。


「……わかった。行くよ」


「今度はお間違いのないようお気をつけ下さいませ」


 渋々返事をして身体を方向転換させたかと思うと、すぐにロアはヨゼフィーネを振り返った。


「おっと。肝心なことを忘れてた」


 くるくると忙しい主の動きに、ドレスの裾もひらひらと落ち着けない。背を向けられて気を緩め憂鬱な顔をしかけていたヨゼフィーネは、慌てて表情を戻す。


「何ですか」


「ヨゼフィーネ、クローディアって知ってる?」


 一瞬ヨゼフィーネの瞳孔が狭くなる。胸に氷柱を打ち込まれたような気がして、ヨゼフィーネは気づかれないように奥歯を静かに噛み締めた。


「……さあ。どなたのことだか。名字は何と、おっしゃるのですか?」


「えーと、クローディア……クローディア・ハインミュラー。ベルンシュタインの後宮で働いてるらしいんたけど、見かけたことない?」


 クローディア・ハインミュラーなど元々この世にいない。いたのはクローディア・ギビンズだが、彼女ももういない。今いるのはヨゼフィーネ・ヘルダーだけだ。ヨゼフィーネは叫び出しそうになるのを必死に堪え、己の手首をまた強く握った。


「残念ながら、存じ上げません。……その方がどうかなさいましたか」


「えっと、その人、元々はウィンフィールドの人なんだって。でも、色々あって今はベルンシュタインにいるんだって」


「……」


 あの狂乱怒濤の日々は、他人にとっては『色々あって』の一言でまとめられるのだ。のどかな家族の晩餐が夕焼け雲から降りてきた早馬の手紙で一変したあの日から、会ったこともないヘルダー子爵の形だけの養女となり、名もベルンシュタインのものへと変えて皇帝の愛人になるまでのあの日々が。

 ヨゼフィーネの脳裏に早馬の手紙を読んで凍り付いた父の横顔が蘇った。


「ウィンフィールドの王子様がね、その人のお母さんのことを気にしてるみたいで」


 他言無用と言われたのもすっかり忘れて、ロアはぺらぺらと説明した。ヨゼフィーネは目眩がした。


「……ウィンフィールドの王子は、お二方いらっしゃるのですよね。どちらの王子ですか?」


「えーと、コン? カラン? みたいな名前。灰色の髪の、痩せた人だったよ。……ヨゼフィーネ?」


 コンラッドだ。間違いない。痩せたというのは何故だろう。最後の別れの時も特に痩せてはいなかったし、幼い頃はむしろころころと丸い体をしていたのに。病気でもしたのか、それとも……。ざあっと一度に様々な感情かヨゼフィーネを襲った。

 驚いた顔をして、ロアはヨゼフィーネに近付いた。


「大丈夫? 顔色が悪いよ」


 ロアは眉を下げて更に身を寄せてヨゼフィーネの顔を覗き込んだ。ヨゼフィーネはその不躾な行為に苛立ち、ふいと顔を背ける。


「別に何も。問題ありません」


「真っ青だよ。お医者様呼んでくるね」


 不安げな顔をしてぱっと身を翻そうとするロアの手を、ヨゼフィーネは自分も驚くほどの早さで掴んだ。ロアが振り返り、ヨゼフィーネの細い腕のどこにこんな力があったのかと目を丸くする。


「医者を呼ぶ必要は、ありません」


 そう言ってヨゼフィーネは手を離し、目を逸らした。


「でも……」


「先ほども言いましたが、倒れたばかりなので体調が戻りきらないだけです。慣れない長旅の疲れもありますし」


「ここ、一人部屋なんでしょ。倒れたら大変だよ」


 これほど大規模な舞踏会の日に、異国の侍女が狭いながらも一人部屋を与えられることがどれほど異常なことなのか、ロアはまるで気づいていない。

 正確にはベルンシュタイン皇帝の元から旅に同行した使用人達が、与えられた二つの部屋のうちの一つを丸ごと皇帝の愛人であるヨゼフィーネに譲ったのだ。彼らはさぞ窮屈な部屋で過ごしていることだろう。


「心配なさらないで下さい、いつものことなのです。薬も持ってきていますし」


 どちらも嘘だったが、薬があると聞いて安心したのかロアの表情が少し変わった。


「そうなの?」


「ええ、静かにしていればすぐ治ります。王子を──王子をこれ以上お待たせしてはいけませんわ、ロア様」


 胸が苦しい。ヨゼフィーネは力を振り絞って笑って見せた。


「……うん、わかった。でも少しでもおかしいなと思ったら、すぐにお医者様を呼んでね!」


 ロアは真剣な表情でヨゼフィーネの手を両手で軽く握ると、念押しした。母を病で亡くした彼女は病を死の初めの一歩のように恐れて、周囲の人々の病の予兆を見逃したくないと思っているのかもしれない。


 貴族の女性にしては少し固い、血の巡りのいい温かい手だ。天馬の血で気絶したヨゼフィーネを背負っていた時のことといい、自分自身は馬に殺されかけても乗馬を続けているほど図太い癖に、他人のことには意外に心配性なのだなとヨゼフィーネは思った。握られた手を静かに引き、離す。


「ええ、分かりましたわ」


 まだどこか心配そうな顔のロアが部屋を出た後、足音が聞こえなくなるとヨゼフィーネは発作的にテーブルの上の花瓶を掴んで持ち上げた。このまま叩きつけて耳障りな音を聞き破片と花と水が飛び散るのを見れば、少しは気分が収まるかもしれなかった。


 だがヨゼフィーネはしばらくそのままで立ち尽くし、それから震える手で力無く花瓶を元の位置に置いた。たぷんと水音がした。


 ちょうど今が咲く時期なのだろう、花瓶の中のあの白い花が揺れる。思い出の花。ウィンフィールドでしか咲かない花。ヨゼフィーネはのろのろと両手で顔を覆った。


「どうして、どうしてなの。どうしてこんな思いをしなきゃいけないの。私が何をしたって言うのよ……!」


 薄暗いあの国でひっそりと暮らし、ベルンシュタイン皇帝が死ぬか自分が老いればどこぞの田舎貴族に嫁いで生を終える覚悟はできていた。だがこうして明るい日の下に引きずり出され、かつての恋人の元へ行く少女の背中を見送る苦しみを味わう覚悟はしていなかった。


 ヨゼフィーネはコンラッドに会って話すことのできるロアを憎んだ。自分をウィンフィールドへ送ったベルンシュタイン皇帝を憎んだ。自分の誘いを断り自分を見捨てたコンラッドを憎んだ。自分の運命を変えた父と兄を憎んだ。今やたった一人の家族である母さえも憎んだ。母さえいなければ、今すぐここで死んでしまえるのに。


 廊下ではロアに言われてヨゼフィーネの様子を見に来たベルンシュタイン皇帝の使用人が、ノックしようとした手を止めて部屋の中から漏れる泣き声を聞きながら立ち尽くしていた。




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