血の四日間
何せ舞踏会が始まるまでに時間がない。ロアは全速力で走った。目を丸くする王城の使用人達とすれ違い、振動で廊下の繊細な装飾品をカタカタと揺らしたりもしながら自室へ飛び込んだ。
「マヌエラ! ハインミュラーについて教えて!」
扉を開けるなりそう叫ばれて、流石のマヌエラも箒で床を掃く手を止めて目を瞬かせる。
「何ですって?」
ロアは息を切らせてマヌエラに近づいた。
「ハインミュラー、公爵家。マヌエラも知ってるでしょ?」
「知っていますがが、どうしてまた急にハインミュラー家のことを?」
訳が分からずマヌエラは眉根を寄せた。
「聞かれたから」
「どなたにです?」
「ウィンフィールドの王子に」
「まあ!」
マヌエラは目がこぼれ落ちそうなほど見開いた。二間続きの隣の部屋でアイロンを掛けていたそばかすのある年若い侍女が、耳聡くそれを聞きつけて部屋へ入ってきた。
「まあまあロア様、さっそく王子とお話しなさったのですか!?」
そばかすのある侍女は両手の指を組み合わせ、目を輝かせてロアを見た。
「それはそれは、皇帝陛下も驚かれる早業ですね」
年嵩の侍女も箒を持つ手を止めて、ほうっと息を吐く。
「王子はお二人いらっしゃいますよね。どちらの王子ですか?」
「さあ。でも名字がウィンフィールドだったのは覚えてるよ」
「それはそうでしょうね」
覚えていることを誇るロアに、そばかすの侍女が呆れる。この国の名と同じ姓を忘れるはずがない。
「うーん、何かカランコロン的な響きの、」
「第二王子のコンラッド様ですね」
ロアが最後まで言い終えるのを待たずに、冷淡にマヌエラが正当を導き出す。
「人嫌いで有名だそうですけど、どんなお方でしたか?」
好奇心に駆られ、そばかすの侍女がずいとロアに近づいた。
「どんなって、少し怖い感じかな。とにかく、マヌエラに詳しく聞いてくるって言ったから、カサンドラさんのこと教えに行かなきゃいけないんだ」
ロアはもどかしそうに短くそれに答え、ぱっとマヌエラを見た。
「カサンドラ?」
「うん。えっと、カサンドラ・ギビンズさん、だったかな。その人について知りたいの。マヌエラはそういう話、私や父上より詳しいでしょ?」
自身を噂好きと認めたくないマヌエラは、こほんと咳払いをした。
「男爵家にお仕えする使用人として、最低限度の情報は押さえているだけです」
「それで、ハインミュラーの出戻りって何?」
「『何』ではなく、『誰』です。出戻りというのは訳あって婚家から生家に戻ってきた方のことですから、ハインミュラー家ではカサンドラ様のことですね」
「ああ、そうなんだ」
「カサンドラ様は、ハインミュラー家の先代のご当主の妹御でいらっしゃいます。縁あってウィンフィールドのギビンズ侯爵家に嫁がれたのですが、数年前の血の四日間と呼ばれる政変で、侯爵とご子息が処刑されてしまったのです」
「しょ、処刑!?」
突然の血生臭い展開におののきながらも、ロアは処刑という言葉を聞いたばかりのような気がして記憶を辿る。
それは気絶したヨゼフィーネがうなされながら呟いた言葉だった。同時に、コンラッドという王子の名に聞き覚えがあったのは、あの時ヨゼフィーネがうわごとで言っていたからだと気づいた。
「ロア様、血の四日間をご存知ですか?」
「ううん」
ロアは首を振る。ロアの歴史の知識量をよく知っているマヌエラは、どこから説明したものかと考えながらきゅっと唇を引き結ぶ。
「端的に言うと、ウィンフィールド国王とその一族の代わりに庶民が国を治める方がいいと考える人々がいて、その人々が国王を追い落とそうとしていたことが露見して、何十人もの人々が処刑された四日間のことです」
「ロケン?」
「明らかになった、ということです」
マヌエラが眼鏡を押し上げながら説明する。
「じゃあそのギビンズ侯爵も、ウィンフィールドの国王を追い出そうとしてたってこと?」
「そうなりますね。この辺の事情については、王子の方がお詳しいでしょう」
「そうか、ウィンフィールドで起きたことだもんね。それで、カサンドラさんはどうなったの?」
「カサンドラ様はご息女のクローディア様とともに国外追放となり、ご生家であるベルンシュタインのハインミュラー家に戻っていらっしゃいました。ですがハインミュラー家の当主だったカサンドラ様のお兄様はカサンドラ様がご結婚された後に亡くなっていたので、お戻りになった時にはハインミュラー家の当主は代替わりしていらしたのです。あそこはあまり男子は長生きしない一族なのですよ」
「ふーん」
「カサンドラ様の甥のマンフレート様が当主だった訳ですから、カサンドラ様とクローディア様は居心地は悪かったでしょうね」
「どうして?」
マヌエラは渋い顔をする。
「当主から見て妹ならばまだ情もあるでしょうが、自分が子どもの頃に異国に嫁いで出戻った叔母となると……特にマンフレート様は誇り高い方ですから、ハインミュラー家の人間が罪人の元妻として戻ってきたのが許せなかったのでしょう」
「そういうものなの?」
ぴんと来ない顔でロアは問う。
「そういうものです。ベルンシュタインに戻られてから一ヶ月と経たずに、クローディア様は皇帝陛下からお声が掛かって後宮へ上がられました。これにはマンフレート様の強いご意向があったと聞いております。カサンドラ様もそれからすぐに、南部のゴリッツ子爵に嫁がれました。再婚した後は社交場においでになることがないので、今現在カサンドラ様がどうお過ごしなのかはわたくしは存じ上げません」
「はあ」
貴族社会のどろどろした話に、ロアが急速に話に興味を失っていくのが分かってマヌエラは一息ついた。
「クローディア様については、ヨゼフィーネさんが詳しいでしょうね」
「ヨゼフィーネが?」
意外そうにロアがマヌエラを見た。マヌエラは頷く。
「ヨゼフィーネさんもベルンシュタイン後宮で働いていらっしゃるのでしょう? もしかしたら、クローディア様とお知り合いかもしれませんよ」
「あ、そうか。そうだね。ところでマヌエラ、ヨゼフィーネの部屋ってどこだったっけ?」
「使用人の棟の北側の一階の、突き当たりですが」
マヌエラが怪訝そうな顔をする。ロアは先ほど散歩に同行してもらおうとヨゼフィーネの部屋に行ったはずなのだ。ロアはそれで納得できたというような顔をした。
「ああ、そうだったんだ。全然違った」
「……ヨゼフィーネさんと一緒だったのではないのですか?」
「ん? いや、まあ、いろいろあってさ」
急に語気を弱めて目を伏せるロアに、マヌエラは嫌な予感がした。
ロアは会うはずだったヨゼフィーネには会っておらず、会うはずではなかった王子には会ったと言う。そしてロアがこの部屋を出てからまだ三十分と経っていない。一体ロアは誰の部屋を訪ねたのか。
「ロア様あなた、もしかしてお部屋を……」
「あー、王子様を待たせちゃってるから、行ってきまーす!」
マヌエラの疑念を察したのか、ロアは身を翻すと部屋に戻ってきた時と同じように騒がしく出て行った。年嵩の侍女が笑った。
「やれやれ。うちの跳ねっ返りのお嬢様が忙しないのは、ウィンフィールドに来ても変わらないわね」
「でも、王子はどうしてカサンドラ様のことを気にしておられたのかしら?」
そばかすのある侍女が言ったが、その質問に答えられる者はこの部屋には一人も居なかった。





