皇帝からの手紙
「皇帝陛下が、うちに何の用があるの?」
ロアは困り顔で手紙を見下ろす。
男爵家とはいえ、ジャンメール家は辺境にあり領地も狭い。それに元々はチェッリーニ司教国からベルンシュタイン帝国に渡ってきた一族なので、ベルンシュタイン皇帝との縁は薄いはずだった。
眉根を寄せて、目元に流れる雨を手のひらの付け根で拭いながら手紙の文字を目で追う。
「ええと、雨、煙り、大地、こ、肥ゆる、じ、じ、じ……」
何事かと近寄ってきたニコラが、しかめっ面で苦戦するロアを見かねて手紙を覗き込む。
「時候、だね。雨煙り大地肥ゆる時候に入り、って書いてある」
堅苦しい言葉の意味がよく分からず、ロアは自分で読むのは早々に諦めてニコラに手紙を差し出した。ニコラは騎手だが、普段は夫とともに孤児院で子どもに勉強を教える教師でもある。
「お願いニコラ、読んでくれる?」
差し出した手紙はあっという間に雨で濡れていった。安物のインクならば字が滲んで読めなくなっていただろう。皇帝陛下からの手紙が濡れてしまったことに、フランツは内心戦いていた。
「いいけど。雨煙り大地肥ゆる時候に入り、グラットコール地方の領主である貴公においては…………うわ」
手紙を受け取ったニコラは、文章を読み進めて顔をしかめた。
「何て書いてあるの?」
ニコラは片手で口元を覆い、手紙から顔を上げて冷やかすように笑った。
「あんたをベルンシュタイン帝国の代表として、ウィンフィールド王国の大舞踏会に行かせるってさ」
「はあ?」
ロアは思い切り間の抜けた声を出した。
ウィンフィールド王国はベルンシュタイン帝国の西側にある。帝国より領土はずっと狭いものの、天馬騎士を擁する空の軍事力は決して侮れず、しかも文化の面では帝国を凌ぐ華やかな国だ。昔から多くのウィンフィールド王族が各国と婚姻関係を結んでおり、ソイニンヴァーラ王国と並んで周辺諸国への影響力は高い。
だがウィンフィールドの大舞踏会と言われても、ロアには何のことかさっぱり分からなかった。ウィンフィールドはベルンシュタインとは国交があまりないのだ。
「ロア・ジャンメールが、花のウィンフィールドの大舞踏会に出るって? あはははは!」
腹を抱えてドゥラカが笑った。それもそのはず、男爵の娘でありながらロアはレース後の晩餐会さえも苦手としている。
「どうするよオイ、王子サマとギリヤの民のダンスでも踊るか?」
ドゥラカはまだ笑っている。確かに彼女に教わったギリヤの民のダンスなら、テンポが速くてロアは好きだった。だが男性とぴったり寄り添って踊るスローダンスは苦手だったし、社交場でのおしゃべりはもっと苦手だった。レースと無関係の地元の舞踏会など、ここ数年騎手の仕事が忙しいことにして顔を出していないほどだ。
「ど、どういうこと? 大舞踏会って何?」
苦手な分野の話に、ロアは混乱しながら尋ねた。ニコラは呆れた顔をして、濡れた前髪を掻き上げた。
「知らないの? ここには詳しく書いてないし、私もよくは知らないけど。独身の王子二人に花嫁を選ばせるために、ウィンフィールドで大規模な舞踏会をやるって話は有名だよ。うちの子ども達だって知ってる話なのに」
ドゥラカはにやにやしている。
「おまえが花嫁候補か。さぞすばらしいウィンフィールド王妃になるだろうよ」
花嫁候補という言葉に、ロアは思わず着飾った娘達と一列に並ぶ自分を想像した。ぞっとして鳥肌が立ち、一気に気持ちが暗くなる。
「む、無理無理無理」
小さな頃から女の子のする遊びには興味がなく、馬にばかり乗っていたロアは同じ年頃の少女達にとって異質な存在だった。社交場で壁の花になっているロアを、遠くからくすくすと笑う少女達の転んだ半月のような目が思い出される。
騎手になってようやくそういう世界とは離れられたのに、何故今頃になってまた、とロアは濡れた手袋をぱしんと己の体側に叩きつけた。
「大体、意味がわからないよ。どうして私が花嫁候補なの!?」
「さあね」
「私、よその国の王妃様になれるような要素なんて何にもないよ!?」
混乱し弱り切ったロアの声に、ドゥラカもニコラも頷いて同意する。
「知ってるよ」
ロアの顔も服も、跳ねた泥だらけだ。未来のウィンフィールド王妃どころか、男爵の娘だという事実さえこの身なりでは怪しく見える。
「まあ、どうせ断られるんならまともなお姫サマ送って恥かくより、お前みたいなイロモノ送って茶化してやれって魂胆だろ。どの国のどんなお姫サマでも断る、気むずかしい王子サマたちらしいからな」
ドゥラカの言葉に頷き、ニコラはお手上げだという顔でロアに手紙を差し出した。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。あの皇帝陛下の考えることなんて、私達みたいな庶民に分かる訳がないよ。お気の毒様」
手紙を受け取ったロアは、救いを求めるような哀れな顔でフランツを見た。慌てたフランツはぶるぶると首を振る。
「お、俺も理由なんて知りませんよ。トラウゴット様も、全く意味がわからないとおっしゃってました」
「父様にもわからないんじゃ、私にわかるはずないよ……」
皇帝陛下の命令では逆らえるはずもない。ロアは泣きそうな顔でため息をついた。ドゥラカがふと真顔になり、馬上で腕組みをする。
「そういや、確かウィンフィールドじゃ夜会で天馬レースをやるらしいぜ。ひょっとしたら花嫁候補じゃなく、騎手として呼ばれたのかもな」
「騎手として?」
ロアが目を瞬かせた。
「なるほど。さすがはドゥラカ様、未来のキリヤコフ大公夫人。社交界には詳しくていらっしゃる」
ニコラがドゥラカをからかう。数ヶ月前にレースを観戦したキリヤコフ大公国からの客人が、いたくドゥラカを気に入っていることについての冗談だ。ドゥラカはカッと頬を染めた。
「うるせえ! 誰があんな熊みたいな男……!」
「そういうことかー、ああびっくりした!」
ドゥラカがニコラに反論する中、ロアは場違いに明るい声を上げた。花嫁候補ではないらしいことにほっとして、胸を撫で下ろす。
大舞踏会のことは知らなかったロアも、ウィンフィールドの夜会の天馬レースのことは知っている。馬に関することだからだ。フランツが転がっていたロアの泥まみれのヘルメットを拾い上げて、三人の元へ戻ってきた。
「ロア様、とにかくトラウゴット様がすぐ城に戻るようにと」
「うん、わかった。うわー、天馬に乗れるなんて最高!」
先ほどまでとは打って変わってすっかり上機嫌になったロアは、のん気にはしゃいだ声を上げた。ドゥラカは呆れた顔でロアを見た。
「おいおい、まだ騎手として行くって決まったわけじゃねえぞ」
「そうに決まってるよ。私みたいなのが花嫁候補のわけないもの。みんな、お土産買ってくるからね!」
ロアはそうと決めつけ、笑顔で仲間の騎手達に軽く手を振った。それから馬の手綱を引き、しかめっ面の係員に促されて表彰台に向かう。その後ろ姿をドゥラカとニコラは雨に濡れながら目で追った。
「単純バカだな……。大体騎手として呼ばれたとしたって、羽の生えた馬に一朝一夕で乗れるもんなのかね」
ドゥラカは訝しんで小首を傾げた。
「さあ。何にせよ、泣いて帰ってこなきゃいいけど」
ギリヤの民として皇帝陛下の恐ろしさを知るドゥラカは、ニコラの言葉にやや固い表情でひらりと馬から降りた。泥が派手に跳ねて、ニコラの牽いている馬が嫌がる仕草をした。
「泣くだけで終わりゃ御の字だ、あの皇帝陛下だぜ? 失敗すりゃあ首を刎ねられる」
ドゥルカはべえっと舌を出し、平たくした手で首をちょんと切る真似をした。それを見たニコラは表情を曇らせる。係員が二位入賞のドゥラカを呼びに来た。表彰台の近くではレースの主催者がロアに握手を求め、握手を終えるとロアも主催者の使用人の差す傘の下へ入った。
雨はまだ降り続いている。二児の母でもあるニコラは、自分より子どもに年の近いロアの先行きがひどく心配になった。