白昼のまどろみ
バイオリンの音が聞こえる。ピアノとバイオリンのための練習曲の、バイオリンのパートだ。結局二人とも最後まで間違えずには弾けなかった、あの懐かしい曲だとヨゼフィーネは思い返す。
暗闇の中、いつもヨゼフィーネは声と音だけの夢を見る。ベルンシュタインに来てからか、後宮での暮らしが始まった頃からかは覚えていないが、もうずっとこうだ。二つの目玉を祖国に置き忘れたかのように、見るのは音しかない夢だけだった。
不意にノックもなしに扉の開く音がして、曲が止まった。
『コンラッド、……』
私の声だわ、とヨゼフィーネは思った。
『……?』
『……から、…………って』
声はくぐもってよく聞き取れなかった。ヨゼフィーネは夢の中で耳を澄ませる。
『れが……だと? 駄目だ、…………』
『それなら、…………。……ましょう』
懐かしいあの人の声だ、とヨゼフィーネは気づく。胸が痛かった。どれだけ幼く不格好でも、どれだけ青くて恥ずかしくても、初めての恋は特別なものだ。ヨゼフィーネは記憶をなぞるような夢に深く浸ろうと、必死に声を聞き取ろうとした。
『そんなことは──』
『だって、……しかないわ。それが無理なら、私と一緒に来て』
『……』
『ねえ、お願い』
暗闇の中に長い沈黙が流れる。
『…………。駄目だ。そんなことはできない』
実際のあの時は冷たいとしか思わなかった言葉だが、こうして表情も何も見えずに声だけを聞いていると、かすかに震えているのが分かる。あの人も軽い気持ちで断った訳じゃなかったんだわ、とヨゼフィーネは数年遅れの気づきを得た。それともこれは、願望にねじ曲げられた記憶だろうか。
『……そう。それならもう、お別れね』
ヨゼフィーネは名前を呼んで欲しいと願った。もう何年も自分の本当の名で呼ばれていないのだ。せめて夢の中でくらい、本当の自分の名前を味わいたかった。
『私はベルンシュタインへ行く。あなたはここに残る』
ヨゼフィーネは強く願う。長い別れになる前に、他の誰でもないあなたの声で私の本当の名前を呼んで。きっと永遠の別れになる、その前に。
「──ネ」
何の音だろう、こんな時に遠くから雑音が響く。いや、音ではなく声だろうか。
『もう二度と、あなたには会えないのね』
あの人の言葉に絶望しながらも、まだ縋りたい気持ちが強く残っていた。温かな涙が頬を伝い、ヨゼフィーネは暗闇の中で自分が泣いていることを知った。お願い。最後にどうか名前を呼んで。そして、私にもあなたの名前を呼ばせて。ヨゼフィーネは暗闇の中で祈った。
「ゼ──ィーネ」
先ほどの雑音が今度はもっと近くから聞こえる。やはり音ではなく声のようだ。
『……さようなら』
「ヨゼフィーネ!」
乱暴に体が揺らされた。意識が強引に呼び戻される。閉じた瞼をも貫くような強い日差しで、自分が日の当たる場所にいることを知った。眩しくて目が開けられず、ヨゼフィーネは顔をしかめた。
「う……?」
のろのろと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、金茶混じりのどこか向日葵を思わせる髪だった。ロアの頭だ。ヨゼフィーネはロアの背中にいたのだ。どういう訳か子どものように背負われて、見慣れぬ廊下を歩いていたようだった。
目の眩むような明るい中庭では、白銀の鎧を着た兵士達が剣を振るっている。ここはウィンフィールドだ。ベルンシュタインではない。ヨゼフィーネは正しく理解した。
「あ、起きた? よかったあ!」
ロアの声は温かく、彼女が愛する馬のように力強さがある。それを聞くと、朧気な夢とロアのいる現実の落差にヨゼフィーネの脱力感が酷くなった。少し頭が痛い。涙が溢れていたのでヨゼフィーネは目元をそっと拭った。
「すごくうなされてたけど、大丈夫?」
背中に乗せたヨゼフィーネの顔を見ようと、困った犬のような顔でロアは無理に背後を振り返ろうとする。
「……」
「ヨゼフィーネ?」
まだ覚醒しきらないヨゼフィーネは、また夢で懐かしい人の声を聞こうとするように目を閉じた。
「ヨゼフィーネ、また寝ちゃったの?」
違う。呼ばれたいのは、その名前じゃない。呼んでほしいのは、あなたじゃない。
深く眠りたいヨゼフィーネは、ぐっと頬をロアの首筋に押し付ける。すると汗ばんだ肌にぺたりと触れて、途端にヨゼフィーネは我に返った。大きく目を見開き、急いで体を離す。他人の汗は不快だったが、それだけ長い距離を自分を背負って歩いたのだと気づけば、流石のヨゼフィーネも申し訳なく思わざるを得ない。
「す、すみません。ロア様、降ろして下さい」
「いいよ、ゆっくりしてなよ」
ようやくヨゼフィーネから返答らしい返答があったことに、ロアは安堵して笑った。うなされている間中、ヨゼフィーネは微かに嗚咽を漏らしていた。それに不穏な単語も幾つか零れ落ちていたので、ロアは不安になって声を掛けたのだった。
「いえ、大丈夫です。歩けますわ。それにしても、何故こんなことに?」
ヨゼフィーネはロアに背負われていることに対して不愉快そうな声で言った。
「覚えてないの? ヨゼフィーネ、気絶してたんだよ」
ロアは少しだけ楽しそうに言った。
「気絶?」
ヨゼフィーネは怪訝な顔をした。
「そう。私のドレスに付いた天馬の血を見て、ばったり倒れちゃったんだよ。ごめんね」
「あ……!」
その言葉で、ヨゼフィーネの脳裏に天馬の真っ赤な血が緑のドレスをまだらに汚した光景が甦った。思わず口元を手で覆い、ロアの背中を押しのけようとするようにぐいっと身を離す。均衡が崩れて二人の体がぐらりと揺れる。
「おっとっと。大丈夫、ちゃんと着替えたからもうきれいだよ」
ロアは笑った。
「ねえ、大丈夫? ほんとはゆっくり関所で寝かせてあげたかったんだけど、時間がないから急がなきゃいけなくて……ごめんね」
確かにここは城壁の上の関所ではなかった。降りてきたのだろう。女二人で背負い背負われ、全くみっともないとヨゼフィーネは嘆きたくなる。
「と、とにかく、ご迷惑お掛けしました。降ろして下さいませ」
ヨゼフィーネは口元から手を離して口早に言ったが、ロアは首を横に振った。
「まだ無理しないほうがいいよ」
夢の残滓に心を乱されていない普段のヨゼフィーネならば違和感を覚えるほど、ロアの口調は穏やかで静かだった。ヨゼフィーネが気絶していたからと言うよりは、意識のない彼女が漏らした父と兄の処刑などという物騒な言葉を聞いたロアは心配になっていたのだ。
「いえ、大丈夫ですわ。自分で歩けますから」
「いいっていいって。ヨゼフィーネ軽いから楽勝」
人目が気になるヨゼフィーネの悲痛な声にも、ロアは笑って取り合わない。兵士に転ばされた足首や靴擦れを起こしたかかとは痛んだし、踵の高い靴でヨゼフィーネを背負って歩くのはロアにとっても簡単ではなかった。
だが母を埋葬した墓地から離れられずに父に無理やり背負われた帰り道、父の温かな背中が確かに慰めになっていたという古い記憶が、何となくロアにこのまま彼女を背負っていたいと思わせていた。あるいはロア自身が羽落ちのことで傷つき、温もりが必要だったのかもしれなかった。
「いけません。どこの世界に旅の介添人を背負って歩く貴族令嬢がいるのですか、降ろして下さい!」
ヨゼフィーネがきつい口調で言って肩から両手を離すと、ロアはようやく渋々彼女を背中から降ろした。それから探るようにヨゼフィーネの表情を覗き込む。
「私は大丈夫なのにー。調子の悪い時は、無理しちゃだめだよ」
「あなたが大丈夫でも私が嫌なのです。無理などしていません」
一歩下がってロアから距離を取ると、ヨゼフィーネは乱れた裾や袖を直しおかしな癖のついた髪を手でささっと梳いて整えた。それから陰惨な目でロアを睨む。
「……運んでいただいたことは感謝しますし、お詫びもします。ですが、あなたが運ばなくても他に運び手はいたでしょう?」
感謝していると口では言いつつも、その表情は険しい。それに気づいてロアは少し驚くと同時に、ヨゼフィーネがうなされながら泣いていたこともあり彼女が今も何らかの苦悩のただ中にいるような気がした。
「もちろんいたけど、私なら女の子同士でしょ?」
「え?」
ロアはきょとんとした様子で答え、それを聞いたヨゼフィーネも似たような表情になる。
「男の人に背負われるの、嫌じゃない? 恥ずかしいでしょ」
ロアは眉根を寄せ、それを見たヨゼフィーネもまた同じように眉根を寄せた。
「……どちらかというと、体力のない女性に背負われる方が申し訳なくて嫌ですが」
「ええー! そうかな!?」
ロアは納得のいかない顔をして首を傾げたがが、ヨゼフィーネはこれ以上この話を続ける気はなかった。





