罪
「なるほどな、異国人か。突飛なことをするわけだ」
兵士達はにやにやと笑った。ロアは努めて冷静に話そうとして、まずは気を落ち着けるためにごくりと息を飲んだ。この馬は彼らの軍の馬だし、自分は軍属どころかこの国の人間でさえない。感情的になれば逆効果だろう。
「……すぐ終わるから、手当てさせてよ。簡単なことしかできないけど」
「手当なんざ要らねえよ。こいつはもう死ぬんだ」
だから天馬の怪我を気遣うことなど無駄だと、癖毛の兵士は肩をすくめた。死が身近にある兵士だからなのか、軽く語られる死という言葉に喉に何かがつかえたように息が詰まる。門の前でロアを止めていた門番の兵士が、血相を変えて走ってきた。
「何をやってる、馬車に戻れ!」
ロアは歯を食いしばった。
「戻らない。飛べなくなったからって怪我したままにしておいたあげくに、死なせてしまうなんてあんまりだよ!」
「はあ?」
手綱を引いていた兵士が呆れた声を出し、やれやれといった顔で眉を上げた。
「ベルンシュタイン人には分からねえだろうな。天馬は、あんたの知ってる地べたの馬とは違う」
「骨が弱いんだよ。馬車は牽けない、荷物も運べない、早くも走れない。雌なら繁殖に回せるんだが、あいにくこいつは雄だからな」
癖毛の兵士がぽんと天馬の胴に触れた。
「可哀想に、地上じゃただの穀潰しだ」
「そんな……。あなたたちを乗せて、今日までがんばってくれた軍馬なのに、そんな言い方……!」
唇を震わせたロアの言葉に、門番の兵士は少しだけロアに同情する顔になりながらため息をついた。
「だからこそ、だ。城壁の外へ放してやったって、血の匂いを嗅ぎつけた狼に食われるだけさ。ひと思いに殺してやるのが、せめてもの情けなんだ」
兵士の言ったことは正しいのかもしれない。ただし人間の正しさだ。ロアは唇を噛んだ。胸は馬への罪悪感と自分達人間への怒りでいっぱいだった。長身の門番の兵士が寂しげに首を振った。
「俺たちだって同情はしてる、助けられるものなら助けてやりたい。でも、どうしようもないんだ」
「ベルンシュタイン人には、絵本で見るようなお綺麗な天馬のイメージしかねえんだろうな。気の毒だが、これが天馬の現実だ」
癖毛の兵士は両手を広げ、大袈裟に憐れむ表情を作った。
「分かったらとっととどけな」
ロアは天馬を振り返った。折れた翼は今にも千切れ落ちそうにぷらぷらと揺れ、白い毛は赤く染まりたてがみの一部が血で固まっている。決して深くはないが、尻から右の後ろ脚には裂けたような傷もあった。ロアは騎手だが、大怪我をした馬をまだ見たことがなかった。
最初の一頭がまさか天馬になるとは、これまで予想もしていなかった。一度だけ目元を手のひらでぐいと拭い、ロアはまっすぐに兵士を見上げる。
「──だったら、私にちょうだい」
兵士達は顔と顔を見合わせ、一拍置いてから馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「何だってぇ?」
「その天馬、私がベルンシュタインに連れて帰る。お金なら出すから、ちょうだい」
それ以外の方法を思いつかない自分の無力さを呪いながら、ロアは暗い声で言った。兵士のうち二人はげらげらと笑い、門番の兵士は複雑な顔でただ立ち尽くしている。
この天馬を連れて帰れたとしても、無数の天馬がこれからも犠牲になり続けるだろう。そして母国であるベルンシュタインでも、翼のない馬達が競技の犠牲になっている。ロアは自分の愚かさも呪った。
何年も騎手として馬に乗り続けていながら楽しいところだけを追って、馬の殺処分からは目を背け続けていた自分が心から恥ずかしかった。
「呆れたガキだな、片羽の天馬をどうする気だ?」
「部屋に飾っておくのか? すぐに部屋中が糞だらけだぜ!」
そう言って兵士達はまた笑った。天馬が人間の言葉を理解できないのはもちろん分かっているが、ロアはこんな言葉を天馬に聞かせたくはなかった。無言でずんずんと手綱を持つ兵士に近づくと、黙って手を差し出す。
「言い値で払うから。ちょうだい」
ロアの目は真剣だった。手綱を持つ兵士はようやく笑みを消した。
「……軍馬の払い下げにゃあ、上官の許可がいるんだ」
「諦めな、心優しぃい、ベルンシュタインのお嬢ちゃん」
癖毛の兵士のわざとゆっくりと伸ばされた言葉と下卑た笑みに、ロアはカッと頭に血が昇るのを感じた。手綱を握る兵士の指を強引に開こうと、実力行使に出る。
「いてっ。おいガキ、いい加減にしろよ!」
手綱を握る兵士は顔をしかめて、ロアの肩を突き飛ばした。腐っても兵士と言うべきかその腕の力は強く、履き慣れないハイヒールのせいもあってロアは尻餅をつく格好になった。
「お止めなさい!」
鋭い声が響いた。全員がそちらへ視線を向ける。叫んだのは検閲を終えたヨゼフィーネだった。兵士達は遠目にも分かるその美しさに息を飲み、一人が下卑た口笛を吹いた。
「あなた達、一体何をしているの。その方はベルンシュタインを代表してウィンフィールドに来られた姫君なのよ。ベルンシュタイン皇帝の怒りを買いたいのかしら?」
ヨゼフィーネはつんと顎を上げて、普段より背筋を伸ばして兵士一人一人の顔を順に見た。ロアはヨゼフィーネの意外な勇敢さと、自分を助けようとしてくれている優しさに目を瞬かせた。一方兵士達は、残虐と評判の皇帝の名を出されてさっと青ざめる。手綱を持っていた兵士はヨゼフィーネに敬礼すると、いち早くこの場を逃げ出した。
「上官に、払い下げの許可を貰って参ります!」
「あ、待てよ! ……し、失礼しました!」
残された二人の兵士も、へこへことロアに頭を下げ愛想笑いをしてから天馬を連れて去って行った。先ほどとは打って変わって異様なまでに天馬に気を遣って歩くその背中を、ロアは呆気に取られてぽかんと見送った。
「ロア様! お怪我はありませんか?」
マヌエラ達、ジャンメール家の使用人達がロアに駆け寄る。
「……うん、平気」
皇帝の名一つで兵士達は態度を急変させた。ロアは複雑な気分でマヌエラの手を取り、よろよろと老婆のように立ち上がった。
「ウィンフィールドに着いて早々に騒動を起こすなんて、流石はロア様です。トラウゴット様もさぞお喜びになることでしょう」
大嫌いな高所の旅とロアへの暴走で散々肝を冷やしたマヌエラは、嫌味たらしく言った。
「……私だって、揉めたくて揉めたんじゃないよ」
反論するロアの声は思ったよりも静かで、マヌエラはおやと手を止めて眉を上げた。ロアは俯きがちにヨゼフィーネに近づいた。くじいたと言うほどではなかったが、足首が痛んだ。靴擦れを起こしたかかともまだ痛い。
「ありがとう、ヨゼフィーネ」
ヨゼフィーネは何とも言えない顔でロアを見た。天馬馬車に乗り換えた際のキラキラと輝く表情はどこへやら、ロアの顔は雨空のように暗い。
「礼には及びませんわ。貴族に対する庶民の無礼を、許せなかっただけです」
「でも助かったよ。喧嘩になるところだった」
慣れない大声を出したせいでひどく疲れて、ヨゼフィーネはふうっと長く息を吐いた。
「まったく、ウィンフィールドも兵士の質が落ちたものですわ」
ロアが少し驚いた顔をする。
「え? ウィンフィールドに来たことがあるの?」
ヨゼフィーネはベルンシュタイン後宮で働く宮女だ。皇城の最奥で暮らすはずの宮女が、ベルンシュタインとあまり国交のない異国を訪れたことがあるというのは、ロアにとって不思議な気がした。ヨゼフィーネは己の失言に気づいて言い淀み、とっさに嘘を探して俯いた。
「……ええ、まあ小さい頃に一度だけ──、ッ!!」
下を向くと視界にロアのドレスが入り、ヨゼフィーネは途端に声にならない短い悲鳴を上げた。赤い血。皇帝が切り裂いた宮女の記憶が瞬時に蘇る。
「ヨゼフィーネ!?」
その場に崩れ落ちるヨゼフィーネを慌てて抱き留めたロアのドレスには、べったりと天馬の血が付いていた。





