空に舞う
天馬に乗って城壁を飛び越えると、なだらかな丘と平原で構成された地平線が見えた。
「わあああっ、すごい、すごい……!!」
「シッ。あまり大声を出すとシェーガーが驚くよ」
注意されてロアはぱくんと口を閉じる。馬に乗っているのにいつものあの振動はなく、代わりに羽ばたきによる上下の緩やかな浮き沈みがある。体重移動の度には、ロアはユリシーズと呼吸を合わせて同じ動きをするよう努めた。それに気づいて、まだ何も指示していないのにとユリシーズは内心舌を巻く。
「すごい、高いのにどんどん進む、すごい……」
同じ言葉を何度も繰り返し、ロアは空の風の強さに目を細めた。高いところから景色を眺めたことはあるが、その景色がぐんぐん進んで流れていく光景は驚きだった。
真上から見る、緑の綿の固まりのような森。精巧な玩具のような民家。井戸で水汲みをしていた子どもが、天馬に気づいて笑顔で手を振った。感動のあまり涙が溢れて、ロアは慎重に前橋から片手を離してその子に手を振った。
だがあっという間に子どもの姿は遠ざかってしまい、ロアが手を振る姿は子どもには見えなかったかもしれなかった。
「……」
両親の、たった一度だけの高乗りの話を思い出す。ロアの母はソイニンヴァーラ王国の出身だったので、天馬を乗用するのは恐れ多いことだと思っていた。だが父は天馬を乗用にするチェッリーニ司教国にルーツがあり、実際チェッリーニで天馬に乗ったことは何度もあった。
新婚旅行でチェッリーニに寄った際に、母は父の誘いに折れて白くない二枚羽の天馬なら乗ってもいいことにすると決めたのだ。ソイニンヴァーラの天馬は全て白毛で二枚羽はいなかったし、逆にチェッリーニの天馬に白毛は少ない。苦肉の策だった。
二人は束の間の遊覧飛行を楽しんだらしく、記念にその時の天馬の羽根を羽根ペンにして大切に取ってあるほどだ。
母も初めて天馬に乗った時はこんな気分だったのだろうか、とロアは思った。自分は今、空を飛ぶ馬に乗っている。かつて母のいる天国と重ねて見上げていた白い雲の群れはここよりもまだ高く遠かったが、それでも十二分におとぎ話の絵本の中にいるようだった。
「どうだい、これが空から見るウィンフィールドだ」
ロアは胸がいっぱいでユリシーズの言葉に返事が出来ず、子どもに手を振った手でただ涙を拭った。
「こら、手を離しちゃ危ないよ。……あれ、まさか泣いてるのかい?」
片手を鞍から離しているロアに気づいてユリシーズは驚き、それからロアの顔をからかい半分に斜め上から覗き込もうとした。負けず嫌いのロアは、咄嗟に反対方向へ身を屈めるようにしてぷいと顔を背けた。それだけのことでも、ほんの僅かではあるが馬体が傾ぐ。
「おっと、急に体を動かしちゃ駄目だよ」
「ご、ごめん。でも、泣いてないよ。感動しただけ!」
そう言い終えるなりぐしゅりと鼻が鳴って、ユリシーズは笑った。
「ハハ。気に入ってもらえたみたいだね」
感動を邪魔しないよう、ユリシーズは口を閉じた。天馬を愛する一人のウィンフィールド人として、ロアの反応はとても嬉しいものだった。満足そうに微笑んだまま、ユリシーズはしばらく無言で空を飛んだ。
しばらくして、次に口を開いたのはロアだった。
「……ねえ、ユリシーズ。初心者には二枚羽と四枚羽、どっちがいいの?」
いつものように貴婦人と優雅に相乗りしている気分になりかけていたユリシーズは、急に異国の騎手と相乗りしている現実に引き戻された。地平線からロアのざっくりとした切り髪に目を戻す。
「本当に天馬レースに出る気なのかい?」
「もちろん」
ユリシーズは短く息を吐いた。ベルンシュタイン帝国の少年皇帝の思惑が何であれ、この娘に他意はないことは明らかだ。ならばレースに出ることを止める必要はないのかもしれない。万一事故があっても騎手としてウィンフィールドに来た以上、皇帝もそこまで表だって非難はできまいとユリシーズは考えた。
それに何より、退屈な舞踏会が面白くなりそうだ。
「そうか。それなら初心者には四枚羽の方がいいよ、平衡を保ちやすいし速度も安定してる」
「二枚羽の方が、地上の馬に近い動きのように思うけど」
「そうかもしれないけど二枚羽は初速が遅いし、スタミナもなくて扱いが難しいからね。何より翼が片方でも折れたら真っ逆さまだ、兵士が落馬で死ぬのはほとんど二枚羽さ」
ユリシーズはわざとロアを脅かそうとした。
「それなのにどうして、みんな二枚羽にも乗るの?」
「もちろん二枚羽にもいいところはあって、小回りが利くし、一度スピードに乗ってしまえば四枚羽より速度が出るんだよ。ち……今の国王陛下は、二枚羽が好きなんだ。ウィンフィールドで二枚羽が増えたのは陛下の功績だ」
「国王陛下が?」
「ああ。元々はアン王妃──今の国王陛下の祖父の祖父の、そのまた祖父の妻が二枚羽を増やしていてね。それから一度廃れて数が減っていたんだけど、今の国王陛下が若い頃にまた増やし始めたんだ。今じゃすっかり盛り返して、ウィンフィールドの天馬は半分近くが二枚羽だよ。軍馬に至っては七割だ」
「そうだったんだ。そのうちチェッリーニみたいに二枚羽だらけになるかもね」
チェッリーニ司教国もウィンフィールドと同じように品種改良を進めたのか、二枚羽がほとんどのはずだ。
「流石に詳しいね。でもソイニンヴァーラの聖ピロタージュ教会からは、二枚羽のことで文句を言われてる」
ソイニンヴァーラ王国には、大陸で最も信者の多いピロタージュ教の総本山がある。天馬を神の使いとして神聖視する聖ピロタージュ教会は、天馬を乗用するウィンフィールド王国とチェッリーニ司教国に対しいつも批判を繰り返している。
「二枚羽に? どうして?」
「天馬を掛け合わせて翼を作り替えるなんて、神のご意志にも自然の摂理にも反するってことでひどくお怒りなのさ。そもそも天馬は人間の乗り物ではないっていうのが、彼らの考えだからね。『聖域すなわち天馬の背』、というやつだ」
「ああ、聞いたことがある」
「そのせいでウィンフィールドもチェッリーニもピロタージュから分派して、国教会にしたくらいだからね」
教会が二枚羽に反対するもう一つの理由には触れずに、ユリシーズは説明した。ソイニンヴァーラには六枚羽と四枚羽の天馬しかおらず、乗用は禁忌だということはロアも知っていた。だがそのことでソイニンヴァーラと天馬に乗る二国が、宗教的に対立していることまでは知らなかった。
「変わっていくことが生き物のさだめだと、僕は思うよ。家畜だって野菜だってそうだ、人の手で改良を繰り返されてる。それが悪いこととは思えないな」
「そうだねえ。もしこの世に六枚羽の天馬しかいなかったら、天馬には乗れなかったんだろうし」
ユリシーズは頷いて、目に笑みを湛えてロアのつむじを見下ろす。
「僕たち人間だって、裸足で獲物を追いかけてた時代とはどこかしら変わってるはずだからね。まあ今の時代でも、裸足で馬に乗るお嬢さんはいるけど」
「ん。それって、私のこと?」
確信は持てなかったが、ロアは困ったような怒ったような顔ですぐ後ろのユリシーズを振り返ろうとした。
「急に体勢を変えちゃ駄目だよ、ちゃんと前を向いて」
普通の速度で振り返るくらいの動作なら問題はないのだが、笑いを含んだ声でロアを注意してユリシーズは地平線に目を凝らした。
やがて平原を流れるクノク川が見えてきた。青鷺が一羽、上空を渡っていくのを軽く見上げる。風は緩やかだしシェーガーに疲れはまだないが、念のためモーリスの言うとおりロアを降ろした方がいいだろう。それを残念に思う自分がいることに、ユリシーズは少し驚いた。
「おっと、うっかりしていたな。寒くないかい?」
空の上は気温が低く、風も強い。自分としたことが女性への気遣いを忘れていたと、到着は近かったがユリシーズは器用に片手でジャケットを脱いでそれをロアに被せた。ロアは温もりの残るそれを羽織った途端にぶるりと震えて、自分の身体がどれだけ冷えていたか気づいた。
「うわあ、寒い! すごく寒かったんだなあ。ありがとう、ユリシーズ」
身を縮めて言ったロアの礼のおかしな言い回しに、ユリシーズは小さく笑った。
「でも、ユリシーズが寒くなっちゃうんじゃない?」
ロアはまた背後を振り返ろうとしたので、ユリシーズはその背中をそっと押して制した。
「大丈夫だよ。前だけ見ててくれ」
言われた通りにロアは前を見た。川幅の広いクノク川が太陽の光を反射してきらきらと輝いている。近づくにつれて白鳥や鴨などの水鳥が何羽も休んでいるのが見えた。淡い若芽色の葉を広げ始めた木々が風に揺れている。
きっとベルンシュタインに帰ってから何度も思い出す、忘れられない光景になるだろうとロアは思った。





