皇帝の刺客
天馬に乗ってみたいというロアの大胆な申し出に、ユリシーズは驚いて目を見開いた。それから瞼を下ろして狭い視界でじっと彼女を値踏みする。ロアは親に玩具をねだる子どものような目で真っ直ぐにユリシーズを見上げている。断りにくいなとは思いつつも、ユリシーズは眉を下げてゆっくりと口を開く。
「無茶だよ。今日まで天馬を見たことさえなかったんだろう?」
「そうだけど、私は騎手だし」
「天馬に関しては初心者だ」
「誰だって最初は初心者だよ」
食い下がるロアのしつこさにユリシーズは辟易し、言い聞かせるようにゆっくりと口を開く。
「いいかい、きみが地上の馬に初めて乗った時のことを思い出してごらん。いきなり一人で馬に乗ったかい?」
言われた通り、ロアは胡乱に空を見上げて遠い記憶を呼び起こしてみた。
「ううん」
「そうだろう?」
「じゃあ二人乗りならいいんだね」
「え」
「あなたと一緒に乗るなら、いいってことでしょ?」
緑の目を期待に輝かせたロアが、ずいとユリシーズに近づく。ユリシーズは僅かに身を反らして困り顔で首を横に振った。
「天馬の専門家でもないのに、初心者のきみと相乗りするなんて危険すぎるよ」
乗馬経験のない女性と高乗りに行ったことは何度もあるユリシーズだが、ここはロアとの相乗りを回避するためにさもそんなことは非常識だと言いたげな口調で答える。
「大丈夫だよ。私が初めて馬に乗った時、一緒に乗ったのは騎手でも馬の調教師でもない父様とだったもの」
ユリシーズは唇を歪めるように微笑んだ。
「それはそれは。父親と仲が良くて何よりだ。でも僕は、愛情深いきみの父親のようにきみを守り切る自信はないね」
「私が私を守るから平気だよ。だから、お願い!」
ロアはパンと音を立てて両手を合わせると、指を組んで祈りのポーズで目をギュッと瞑って頼み込む。ユリシーズは情けない顔になりながら後頭部に手を当てた。
「うーん、困ったな。分かってくれ、きみを落っことす訳にはいかないよ」
「そんなことには絶対ならないよ、あなたは天馬には乗り慣れてるでしょ? 私は鞍にしがみついてじっとしてるから、一緒に乗らせて下さい、お願いします!」
ロアは指を組み合わせた手を額に押しつけ、祈りを捧げるように軽く身を縮める。
そんな仕草に呆れながら、ユリシーズは更に口端を歪めて考えを巡らせた。このまま厳然と断って緑の瞳に失望の涙を浮かべてやりたい嗜虐心が全くない訳でもなかったが、初めて天馬に乗ったロアの反応を見てみたい気持ちが最後には勝った。
「やれやれ、なんて押しの強いお嬢さんだろう。ベルンシュタインの女性が全員きみみたいな性格だとしたら、僕はベルンシュタインの男に同情するよ」
ぱっと頭を上げたロアは、表情から許可か不許可かを読み取ろうと食い入るようにユリシーズを見た。ユリシーズは小さく両手を上げた。
「降参だ。きみの勝ち。風切る空の旅にエスコートするよ」
「ぃやったあ!! ──いったあ!!」
ロアは喜びのあまり反射的にぴょんと飛び上がったが、着地した時のかかとの痛みに背を丸め顔を歪めて呻いた。ユリシーズはそれを見て心から愉快そうに笑った。
「でも軍馬でもない二枚羽に二人乗りするのは負担が大きいから、長くは乗せてあげられないよ」
「うん、わかった! うわあ、天馬! どうしよう、嬉しすぎる! ほんとにほんとにありがとう!!」
ロアは一人わたわたとばたつき、それから急な動きでユリシーズの両手をガシッと捕らえた。貴族の女性としては情熱的過ぎる反応に流石に面食らい、ユリシーズは思わず苦笑した。
「もし何か起これば、僕も君と心中することになるからね。おとなしくしてると約束できるかい?」
「できる! 柱時計みたいにおとなしくしてるよ! 約束します!」
ロアは手を離してピシリと体側に腕を付け、おとなしくする真似をして見せた。ちょうどその時、中庭の白い石を敷き詰めた小道をダンヒル子爵が歩いてきた。ロアとユリシーズが部屋に来るのを待っていたが、なかなか来ないので迎えに出ることにしたのだ。
「やあ、ずいぶん話が弾んでいるようだね」
ユリシーズはほんの一瞬無言で子爵を見つめ、それから微笑んで両手を軽く広げた。
「……ダンヒル子爵。お久しぶりです」
「ユリシーズ。君とウィットバーン城で会うのは一体何年振りかな」
親しい間柄らしく、ダンヒル子爵は両腕を広げて歓迎の意を示した。ユリシーズは右手を差し出し、二人は笑い合って握手をした。何気ない会話だったが、子爵の目からは気遣いと後悔のようなものが僅かに見て取れた。最後にここで別れた日のことを忘れる訳はない、とユリシーズは思う。
「十年、いやもっと経つでしょうか。昔と変わらず手入れの行き届いた、綺麗な庭ですね」
子爵は肩をすくめた。
「今日は随分と他人行儀だな、君からの社交辞令は背中がむず痒くなるね。ジャンメール嬢とは天馬の話を?」
そこでようやく、ユリシーズは彼女の名前さえまだ聞いていなかったことに気づいた。初対面での会話の基本の基本を忘れていた自分に内心驚く。
「そうです。そう言えばお互い名乗ってもいなかったね、ベルンシュタインのお嬢さん。僕はユリシーズ、しがない王城付きの伝令さ」
ロアを見下ろしてさらりと偽りの自己紹介をしたユリシーズを見て、おやおやとダンヒル子爵は目を見開いた。人をからかうのが好きなところは昔と全く変わっていないな、と心の中で呟く。
「私は騎手の、ロア・ジャンメールだよ。よろしくね」
ロアはユリシーズに手を差し出した。貴婦人のようにキスを求めて手の甲を上にする手つきではなく、騎手になってから覚えた握手を求める手つきだ。相手が王子だと知らないとは言え、父であるジャンメール男爵がこの光景を見たら胃に穴が空くかもしれない。
「ええと……よろしく」
女性からこれほど不躾に握手を求められたことのなかったユリシーズは一瞬戸惑い、ダンヒル子爵も固まりつつもユリシーズの反応をこっそり窺った。結局ユリシーズは迷いながらもそっと手を取った。手綱を握るせいだろうか、貴族の女性の手にしては少し固い。その感触を新鮮に思いつつ、握った手を彼にしてはぎこちなく小さく上下に振ってから手を離す。
子爵はユリシーズが自分のペースを乱されている姿が新鮮で、にやけるのを我慢できずに誤魔化すように口元の髭を撫でた。
「──しかしまさか、今回の舞踏会に女性騎手がいらっしゃるとは思ってもいませんでした」
ユリシーズはため息混じりに子爵にぼやいた。立ち話が始まったのを見て、馬丁の二人はそれぞれ仕事に戻る。
「ははは、さすがはベルンシュタイン皇帝と言ったところかな。相変わらず奇手妙手がお好きなようだ」
子爵はベルンシュタイン帝国の少年皇帝のこれまでのやり口を思い返し、顎髭を摘まむような仕草をしながら苦く笑う。
「確かに、馬術で各国に国力を喧伝するにはいい機会かもしれませんね。我が国の騎手は女性でも天馬を乗りこなせるのだぞ、といったところでしょうか」
まさに今その乗馬技術を見たばかりのユリシーズは、少し悔しげに唇を歪ませて参ったというように手のひらを上にして両手を上げた。ロアなら本当に、舞踏会最終日までに天馬を乗りこなすかもしれない。
窓からロアが使役馬を走らせるのを見ていた子爵も、それを聞いて頷く。貴族らしい大人の会話にロアは興味を失って、ふいと視線をジョーに手綱を引かれて馬止めへと歩いていく天馬へ走らせた。
「まったく、ほんの子どもだというのに末恐ろしいお方だ。皇帝には悪い噂も根強いが、こうして離れたところから外交手腕を眺める分には大人物としか思えないね」
「チャイカ島の併合には驚かされました。ですが年齢的に、参謀が有能なのでしょう」
ユリシーズの推測は常識的なものだったが、古い友人がベルンシュタインにいる子爵はその推測が事実ではないことを知っていた。ベルンシュタインの方角へ目を向けて髭を撫でる。曇天の多いベルンシュタインの空は、きっと今日も鉛色なのだろう。
最近手紙をくれた友人の息子は、今頃どうしているだろうかと子爵は考えた。そして友人の息子に思いを馳せれば、友人の孫のことも思わずにはいられない。子爵はユリシーズを見た。
「……はてさて。ウィンフィールドから見るベルンシュタインは、厚い雲で覆われて何も見えないよ」
「ベルンシュタインがどうかしましたか?」
天馬に集中しかけていたロアが、祖国の響きに我に返って子爵を見上げる。子爵は小さく笑い、すぐにユリシーズが口を開いた。
「別に。ベルンシュタインの女性騎手と、少年皇帝は大したものだという話さ」
話が見えずに、ロアは何も答えられないままただユリシーズを見た。ユリシーズは話題を変える。
「ところで、ベルンシュタインの騎手の目から見たシェーガーはどうだい。いい馬かな?」
「私は天馬のことは、よく分からないけど……」
天馬は専門外なので、ロアは真面目な顔で慎重に前置きした。その生真面目さがむしろユリシーズと子爵には滑稽に見えた。
「地上の馬と同じように見た感じでは、すごく丁寧にお世話をしてもらってるみたいだね」
「それはもちろん。何なら僕より大事にされてる」
ユリシーズが王子だと知っている子爵は笑った。王城で伝令と天馬のどちらが大切にされているか知らないので、ロアにはその冗談はぴんと来なかった。
「きっとあなたも、いい乗り手なんだね」
ロアは気を取り直して、にこりと乗り手であるユリシーズに笑いかけた。柔らかな笑みを見て、そうしていると普通の娘のようだなとユリシーズは思う。
「伝令にとって天馬は大事な商売道具だからね。ベルンシュタイン一の騎手に認めてもらえるなんて、光栄だよ」
平然と嘘を重ねていくユリシーズに慣れているのか、動揺することもなく子爵は微笑みながら声を掛けた。
「ところでユリシーズ。舞踏会は何時からだったかな」
ユリシーズははっとして己の額に触れた。
「おっと、長話し過ぎましたね。ジャンメール、ベルンシュタインの姫君はどこだい?」
「姫君?」
ロアは瞬きをした。子爵もきょとんとしている。
「姫君とは一緒じゃなかったのかな? 僕は予定より到着の遅れた、ベルンシュタインの姫君ご一行様を迎えに来たんだよ」
会話の相手がまさか姫君本人とは思わずに、ユリシーズは軽い調子で言った。ロアもまさか相手が王子だとは思っていない。
「ベルンシュタインから来てるのは私と、あとは使用人だけだけど」
「何だって?」
ユリシーズは目を見開いた。驚いた顔は子どもの頃のままだと、子爵はくすりと笑う。ロアはぽかんとユリシーズを見ている。ユリシーズは不審なものを見るような目でロアを見下ろして、小声で呟く。
「…………なるほど。騎手兼、花嫁候補という訳か」
「えっ?」
よく聞き取れなかったロアが問い返す。ベルンシュタイン皇帝は一体何を目論んでいるのかと、ユリシーズは口元を手で覆った。
皇帝がウィンフィールドとの婚姻関係を必要としていないということだけはよく分かった。恥ずかしげもなく各国に花嫁候補を募ったウィンフィールド国王を小馬鹿にしているだけなのか、もしくは婚姻を結ぶ以外の目的があって彼女を送り込んで来たのか。馬に夢中なロアの態度が演技とはとても思えなかった。
ならば、ロアには遂行すべき任務など皇帝からは託されてはいないのだろう。こちらに奇妙な花嫁候補を警戒させておいてロアの同行者が何かを企んでいるかもしれないし、舞踏会とは無関係のところで何かを仕掛けてくる気かもしれない。
だが何にせよ、用心するべきなのは彼女自身ではないとユリシーズは判断した。
「何でもないよ。それにしても、本当にベルンシュタイン皇帝には驚かされるね。いつかお礼をしたいものだ……」
ユリシーズの琥珀色の瞳がほんの束の間、昏い色味を帯びた。だがそれに誰かが気づくより前に、親しみやすい普段の目つきに戻る。
「さあ、時間がない。出発の準備をしようか、じゃじゃ馬娘さん」
ロアはその言葉に喜び勇んで天馬に近づき、また天馬に警戒されてしまい慌てて歩みを遅くした。





