翼のある馬
「天馬がきたよ! どこに降りるの!?」
窓から飛び出してきた見慣れぬ娘に尋ねられ、ぎょっとした庭師の青年はどぎまぎするばかりで答えられなかった。その様子を見ていた厳つい顔の白髪の老人が、数十本の土の付いた人参を乗せた一輪車を押しながら顎をしゃくって裏門を示した。
「馬着き場ならあっちだ」
「ありがとう!」
貴族令嬢にしては異様なほどの脚力を披露し、ロアは走り出す。ハイヒールとは思えない速度だ。何人もの使用人が驚愕の表情でこちらを見ているが、ロアの視界には入らない。
距離的に無駄なく走ろうとしてドレスの裾は花壇の花に触れ、葉を大きく揺らした。初めて降りた庭なので最短ルートが分からず、若干遠回りもしながら裏手の畑を通り抜ける。驚いた白い蝶が二匹、ひらひらとキャベツから飛び立った。
「!」
眩しさに顔をしかめながら空を見上げれば、もう蹄鉄まで見分けられる位置に天馬がいた。全力疾走と興奮とで心臓がドクンドクンと胸だけでなく喉まで揺らしている。
真っ白い天馬の真下に駆け込むと、逆光になった天馬の腹が見えた。よく見慣れているはずの馬の体の、見慣れない角度がひどく新鮮だった。
「あっ、お嬢さん、危ないですよ!」
天馬馬車を誘導するためのパドルを振って、天馬の着地を誘導していた馬丁の少年が慌ててロアを制止する。驚いた天馬は羽ばたき脚を掻くようにして空中停止してしまったので、ロアは急いで下がった。
馬丁の少年は困惑しつつ再びパドルを振って誘導する。まだ警戒を解かない天馬は乗り手の青年に手綱を引かれて体勢を戻し、ようやくふわりと翼を大きく広げて地面に降りた。
天馬特有の薄い蹄鉄が地面に落ちた天馬自身の影に触れたその光景に、天馬の影と天馬が地上で再会したようだとロアは思った。
「てっ……はあ、はあ、天、馬、はあ、はあ、……」
天馬に乗った青年に走りよって話をしようとしたが、息が切れて戻らない。ロアは両手に膝をつき必死に呼吸を整えようとした。馬車の中でじっとしてばかりの数日間で筋力が萎えたのか、いつもより回復が遅い。
「何だ何だ、派手なお出迎えだね」
乗り手の青年は戸惑いつつも笑って鞍から降りると、散々風になぶられた髪を後ろに撫で付けた。たっぷり時間を掛けて厳選されたジャボも乱れてしまっている。馬丁の少年は困ったようにロアを見てから、少し笑顔になって青年に挨拶した。
「お久しぶりです、ユリシーズ様」
「やあ、ジョーかい? ずいぶん背が伸びたね、見違えたな。幾つになったんだい?」
「十八になりました」
「もうすっかり大人じゃないか。パドル捌きも上出来だ」
「ありがとうございます。今日は子爵にご用事ですか?」
「いや、ベルンシュタインの姫君を迎えに来たのさ。後から天馬馬車も二台来るから誘導を頼むよ」
ユリシーズは馬丁の少年ジョーの髪をわしゃわしゃと撫でて笑いかけ、手綱を彼に差し出した。ジョーは気恥ずかしそうにはにかみ、パドルを片手でまとめて持つと空いた手で手綱を受け取る。天馬馬車!とロアは叫びたかったが、声が出なかった。
「わかりました。じいちゃーん、馬車も来るって!」
祖父も使用人なのか、ジョーは中庭の方へ大きな声で呼びかけた。ユリシーズは一息ついて汗を拭っているロアを見下ろした。
「ところで、こちらの恐ろしく足の速いお嬢さんはどなただい?」
少年は天馬の手綱を手にしたまま、口角を下げて戸惑った顔でロアを見た。
「ぼくも知りません」
「え?」
不意打ちを食らったようにユリシーズがジョーを見る。ジョーは眉を八の字にした。
「ほ、ほんとに知らないんです」
「今し方、ベルンシュタインからいらしたお客さんでしょうな」
先ほどロアに馬着き場の場所を教えてくれた白髪頭の老人が、厩舎の脇へ一輪車を止めながら孫の代わりにぶっきらぼうに答えた。
「やあモーリス。お客人はもう到着していたんだね、それは良かった。舞踏会には間に合いそうだな」
ユリシーズは馬丁のモーリスを振り返る。彼の姿は最後に会ってから十年以上経った今も、ユリシーズの記憶にあるものとそれほど大きな違いはないように見えた。
「それにしても、おまえはあまり変わらないなあ。元気そうで何よりだよ」
「憎まれっ子世にはばかる。まだまだお迎えが来そうにねえです」
モーリスは無表情のまま心底面白くなさそうに言い、一輪車から落ちた人参を一本拾い上げた。ユリシーズはモーリス独特の本心からの自虐に声を上げて笑い、それからロアに向き直って歓迎の意を示して両手を大きく広げた。
「さてさて、ベルンシュタインのお嬢さん、花と天馬の国ウィンフィールドへようこそ。天馬の下敷きになりたかったって訳じゃないなら、僕に何か用があったのかな?」
ユリシーズはロアの脚力に不似合いなドレスの質の良さを認め、わずかに眉を上げた。ドレスの質もそうだが、従者の正装にしてはデザインも華やかすぎる。観察されていることも知らずに、ロアは大きく息を吐いてようやく顔を上げた。まだ胸は大きく上下している。
「あの、天馬を、見せてもらおうと思って」
「天馬を?」
ロアは頷いた。
「天馬レースで、天馬に乗らなくちゃいけないの。だから、よく知っておかないと」
ユリシーズは軽く小首を傾げた。
「話が見えないな」
「私、騎手なんだ。ベルンシュタイン一の、騎手」
ロアは天馬に視線を釘付けにしたまま、ことさら誇るでもなくさらりと告げた。ユリシーズとジョーは同時に眉を上げ、冗談だとすれば笑うべきなのだろうかと戸惑った。
「へえ、ベルンシュタイン一とはまた大きく出たな」
「一番大きい競技大会で優勝したんだから、そう言ったって間違いじゃないよ。信じられない?」
天馬からユリシーズにぱっと視線を移し、ロアは不満げに言った。先ほどの発言は冗談ではなかったらしいと分かり、ユリシーズは更に困惑して後頭部に右手を当てた。
「ああ、いや、別に君が嘘を言っているとは思っていないよ。ただ、ウィンフィールドには女性の騎手はいないから驚いただけで……」
「見てて」
突然ロアは身を翻して二人から離れて、馬留めに繋がれていた黒毛の馬の綱を解いた。荷運びや畑仕事などに使われている、身体が大きく足の太い使役馬だ。
「その馬は競走馬じゃないけど、大丈夫かい?」
「ちょっと待ってて下さい、踏み台を持ってきます!」
ユリシーズが心配そうに言い、ジョーは慌てて天馬の手綱を一旦離して厩舎に向かおうとした。
「大丈夫!」
二人の気遣いを高らかに一蹴し、ロアはずっと脱ぎたくて仕方なかったハイヒールをぽいぽいと脱いだ。かかとが痛々しいほど靴擦れを起こしているのが、離れたところにいるユリシーズ達の目にも分かった。
「論より証拠、お手並み拝見といきやしょう」
モーリスは小馬鹿にしながらも楽しげに言い、目を細めた。流石にそのまま鐙も外している裸馬の背に乗るには身長が足りないので、ロアは少し考え込む素振りをしてから裸足で柵にひょいと登った。それから上手くバランスを取りつつ、鞍のない馬の背に飛び乗った。
「うわ」
「あっ!」
猿のように身軽な動きにユリシーズは驚いて声を上げたが、ジョーはロアのドレスの裾がふわりと捲れたことに叫んだ。ジョーは真っ赤になり、おたおたとユリシーズと祖父を見た。ユリシーズはジョーの純情な反応を笑ったが、モーリスはむしろしかめっ面をした。
馬に乗るのに必死でそんなことには気づいていないロアは、手綱を握ると馬の肩を優しく撫でた。競走馬よりずっと大きく厚みのある馬体に苦労しつつ、足も使って馬を後ろへ下がらせて道へ出る。久しぶりに馬の背に乗れたことに心が弾んで、足の痛みにはまだ意識が届いていない。ロアの背筋がごく自然に伸びているのを見て、確かに彼女に乗馬技術があることに見学中の三人は気づいた。
「行くよ!」
明るく凜々しい声が響き、馬のいななきと大地を踏みしめる蹄の音がそれに続く。裸馬でしかも使役馬、さらには初めて乗る異国の馬なので、ロアは彼女にしてはとても慎重に手綱を捌いた。
馬は始めはゆっくりと、徐々に速度を上げて庭を走り出した。太く大きな脚が土埃を舞い上げる。花壇に近づくと振動で茎の細い花が揺れた。鐙も鞍もない裸馬の上でもバランスを崩さない体幹の強さと、的確で鮮やかな技術にユリシーズは思わず口笛を吹いた。王子に相応しくない振る舞いにジョーが驚く。
「すごいな」
女性騎手はいないウィンフィールドにも乗馬を嗜む女性はいるが、ロアの乗馬技術は騎手と名乗るだけあってユリシーズが目にしたことのあるような趣味のレベルではなかった。
ロアはこちらを見ている三人の反応を確認すると、ほっとして誇らしげに更に背筋を伸ばしてそのままあたりを一周した。仕事の手を止めて窓からこちらを見ている使用人達に、ロアは小さく手を振って笑いかけて見せた。ほとんどの使用人が戸惑うか目を逸らすだけだったが、三人ほどは手を振り返してくれた。
気を良くしたロアが馬の速度を落として元の位置に戻ると、ユリシーズが近づいてきた。
「驚いたよ。本当に騎手なんだね」
「ふふっ、わかってくれた?」
満足した笑顔を見せて自力で馬の背から飛び降りようとするロアに、ユリシーズは慣れた様子で手を差し伸べる。
「平気だよ、一人で降りられるから」
ロアは騎手としての自尊心から、ユリシーズの気遣いに首を横に振った。だがユリシーズは手を下ろそうとしない。
「その可哀想な足に、これ以上傷をつける訳にはいかないよ」
「え?」
そう言われてロアは自分の裸の足を見下ろし、膝や足首を曲げたり伸ばしたりしてかかとにひどい靴擦れを見つけた。慣れないハイヒールで全速力で走り回ったせいだ。
「うわあ、何これ。ひどい傷」
傷を見てしまうと途端に痛みを感じてきて、ロアは仕方なくおとなしくユリシーズの手を取った。
「ありがと──うっ!?」
手を取り馬の背から降りたロアは、そのまま地面に降ろされると思っていた。だがユリシーズはそのままロアを抱き止めて、その膝裏に腕を入れて横抱きにした。
「ちょ、ちょっと!」
「ジョー、靴を持ってきてくれ」
慌ててジョーがバラバラに脱ぎ捨てられたハイヒールを拾い集める。ユリシーズはジョーから靴を受け取ると、一度ロアを抱え直して痛々しいロアの足に履かせようとした。ロアは慌てる。
「自分でやるよ、子どもじゃないんだから!」
「あっ、こら」
猫のように身を捩らせて落ちるように裸足で地面に降り立つと、ロアは右手を差し出してユリシーズから靴を受け取った。
「どうも」
ロアは片方の靴を履き、かかとの高い靴での片足立ちに苦労して小さくぴょんぴょん跳ねた。跳ねる度に傷がひどく痛んで思い切り顔をしかめながらも、ほとんど意地でもう片方の靴を履こうとする。
親切を真っ向から無下にされて呆れ顔のユリシーズは、そんなロアを見ながら軽く身を屈めてジョーに囁いた。
「何というか、山で育ったようなお嬢さんだね」
「はあ、本当に。まさかベルンシュタインでは、あれが普通なのでしょうか」
「うーん、違うと思うけどねえ」
生粋のベルンシュタイン人の知り合いはいないので、ベルンシュタインに縁のある数少ない知り合いを思い浮かべながらユリシーズは顎を擦った。ロアの乗馬の技術に興味を惹かれたらしい馬丁のモーリスが、汚れた手袋を払いながら近づいてきた。昔の怪我のせいで、モーリスの右手の人差し指には爪がない。
「ベルンシュタインじゃ、女の騎手が強いのか」
「ううん。私が強いの」
ロアはもう片方の靴とかかとの隙間に指を入れて、できるだけ靴を傷口に触れさせないようそっと履こうとしながら首を横に振った。
返答は決して思い上がりではない。元々他国より職業婦人の多いベルンシュタインには現役の女性騎手が数人いるが、ロアとドゥラカ以外の女性騎手には地方大会以外の大きなレースでの優勝経験はないのだ。苦労の末にようやく両方の靴を履き終えて、ロアは微笑んで使役馬を労った。
「いきなりだったのに、ちゃんと走ってくれてありがとう!」
鼻を優しく撫でてから手綱をモーリスに託すと、ロアはそのまま吸い寄せられるようにふらふらと天馬に近づいた。だが天馬が顔を引くような仕草をしたので足を止める。
地上に降りようとしていたところにいきなり走り込まれた第一印象が悪かったのか、天馬の警戒の色は濃いようだ。本当は今すぐその背中に飛び乗りたい思いをぐっと堪え、ロアはゆっくりと遠目に天馬を観察することにした。
白鳥よりも大きな広い翼は、日の光を受けて白く輝いているようだった。





