ダンヒル子爵
「失礼いたします。当主がご挨拶に参りました」
扉の向こうの廊下から使用人の声が響いた。
「どうぞ」
ヨゼフィーネはロアとの会話を終えられることにほっとしてすぐに返事をしたので、ウィットバーン城の侍女はまた驚いた。ロアは気にする素振りもないが、主と従者がいる部屋にノックがあれば入室の許可は普通は主がするものだ。
廊下の使用人によって扉が開かれ、ウィットバーン城の城主ダンヒル子爵が入ってきた。口髭の他にも頬髭を生やした壮年の男性だ。
「よくいらっしゃいました、異国の姫君。いやあ、これはこれは、何とお美しい方でしょう!」
そう言って子爵はつかつかと迷いなくヨゼフィーネに近づいた。主の勘違いに、ウィットバーン城の侍女がさっと青ざめる。だが侍女が主に何らかの合図を送る間もなく、子爵は高らかに笑った。
「王子の花嫁はもう決まったようなものですな、ハッハッハ!」
部屋がしんと静まりかえる。目に驚嘆と陶酔の色を浮かべて己を讃える子爵に、ヨゼフィーネは申し訳なさそうな顔を作って微笑みゆったりと口を開いた。
「申し訳ありません、ダンヒル様。私めはただの従者でございます」
子爵は驚いて眉を上げ、気の毒なほどにうろたえて視線をヨゼフィーネのドレスに落とした。そのドレスは使用人にしては良い生地だが、決して貴族令嬢の着るデザインではなくごく質素だ。
「何と。ではジャンメール男爵のご息女、ロア・ジャンメール嬢というのは……」
「あちらでございます」
ヨゼフィーネが手のひらで示すと子爵は振り返り、窓の前で椅子に座っているロアを見た。
曲がりなりにもベルンシュタインを代表する花嫁候補なのだから容姿は悪くはないが、ヨゼフィーネには及ぶべくもない。それに、耳の下あたりで切り落とした髪はウィンフィールドの貴族から見ればとてつもなく奇異に映るだろう。
子爵の口髭がひくひくと震える動きと表情の変化を、ヨゼフィーネは残酷に楽しんだ。
「……これはこれは、とんだ無礼を。どうかお許し下さい」
「いえ、お気になさらず。よくあることです」
気を利かせてフォローしたつもりのロアの言葉に、ヨゼフィーネは思わず笑い出しそうになった。主と侍女を間違えることがよくあることのはずがない。
「ええと、改めまして、私はアダム・ダンヒルです」
子爵は仕切り直してロアに向けて胸元に手を当てて挨拶をした。
「ロア・ジャンメールです。初めまして」
ロアは座ったままダンヒル子爵と話し始めたが、無礼だっただろうかと途中で慌てて立ち上がった。その優雅さの欠片もない不器用な所作に、ダンヒル子爵はぎょっとしたようだった。
「いや全く、田舎貴族の早とちりで。お恥ずかしい限りですよ。ところで道中はいかがでしたが、予定より遅くなったようですが」
侍女が椅子を引き、椅子に座った子爵は言い訳をしながら笑顔のままロアとヨゼフィーネを見比べた。それを見て立ったままだったロアも座る。
ロアとヨゼフィーネがそれぞれ遠い位置にいるので中間点にいる子爵は話しにくそうだとヨゼフィーネは気づいたが、だからと言ってわざわざ移動する気はなかった。移動するならロアの方だとそちらを見ると、ロアは困ったように微笑んでいた。
「はい。途中で車輪が壊れてしまって、何とか騙し騙しでゆっくり来たんです。この分だと、舞踏会には遅刻ですね」
「フフ、まあそう焦らず。今うちの者達が新しい馬車の準備をしているところです。車輪ももっと太い方がいいでしょうね。うちの地方の土は石が多くて、道が荒いものだからすぐ馬車が痛むんです」
「すみません、ありがとうございます」
ロアはぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、遠路はるばるいらっしゃったお客様に悪路を走らせてしまって面目ありません。領地の不備は領主の責任、国王陛下に知られたら斬首ものですな。ハッハッハ!」
高らかな笑い声に、ロアは目を丸くする。
「ウィンフィールド国王というのは、そんなに恐ろしい方なのですか?」
ロアは母国ベルンシュタインの皇帝を思い出した。年端もいかぬ子どもでありながら簡単に人を殺すというあの少年皇帝のように、ウィンフィールド国王も残虐な人物なのだろうか。ロアの丸い目を見て子爵は笑った。
「ハハハ、もちろん冗談です。我らが国父は慈悲深いお方ですから、そんなことはなさりませんよ」
カチャリとヨゼフィーネのカップが鳴った。嘘つき、とヨゼフィーネは内心毒づく。
「そうですか、良かった。これから国王陛下にお会いするかもしれないのに、変なことをしたら殺されてしまうかと思いました」
ロアのほっとした様子に子爵は目を細めた。
「まさかそんな。あなたは未来のウィンフィールド国王の、母となる方かもしれないのに」
「え?」
安堵に胸を撫で下ろしたばかりのロアが、目を瞬かせる。未だに宮廷舞踏会への参加はおまけで、自分は天馬レースの騎手としてウィンフィールドに来たと思い込んでいるのだ。花嫁候補と話しているつもりの子爵は束の間笑みを浮かべたまま言葉を失い、漏れ出るような愛想笑いをしてからヨゼフィーネを見た。
「……。フフフ。侍女殿、きみのご主人様はあまり冗談はお好きではないのかな?」
「好きかどうかは分かりかねますが、慣れてはおられないでしょうね。何せロア様のご親友であらせられるお馬様方は、冗談を言いませんので」
子爵が意外そうに眉を上げた。
「馬?」
「ええ。ロア様は大の馬好きで、朝から晩まで馬に乗って過ごしておられます」
「ほう」
ヨゼフィーネがまるで見てきたかのように答えたのは、自分がロア付きの侍女でないと分かると少々面倒なことになりそうだったからだ。
だがもう既に子爵はヨゼフィーネの並外れた美しさや僅かな言葉の端々、そして何より侍女であるにも関わらずテーブルについて主人より寛いだ様子で茶を飲んでいる態度に違和感を覚えていた。
子爵は顎髭を撫でながらロアに視線を戻した。
「ウィンフィールドでは、男でも馬に乗らない者が最近増えていましてね。それに比べてあなたは勇敢ですな」
ロアは首を横に振った。
「馬が好きなだけです。子爵はお乗りになるのですか?」
子爵はニッと口端を吊り上げた。
「若い頃は、少々。残念ながら腰を痛めてからは乗っていませんが」
子爵は椅子から立ち上がると、窓際のロアに近づき空を見上げた。ロアも釣られて空を見る。雨や曇天の多いベルンシュタインの空を見慣れた者にとっては、目が痛くなるほどに明るい。子爵は目を細めた。
「でもこんないい天気の日には、天馬に雲を食わせに行きたくなりますな」
「天馬は雲を食べるのですか?」
子爵の言葉にロアはまた目を丸くし、心底驚いた口調で言った。子爵も一瞬驚いた顔になり、それから破顔した。
「ハッハッハ! 比喩ですよ、比喩。高乗りすることを、ウィンフィールドではそんな風に言うのです」
「へええー。天馬を愛する人の言葉ですね、すてきです。天馬に雲を、食わせに行く」
初めて聞いた言葉をうっとりと繰り返し、ロアは白い雲を見つめた。
高乗りという言葉は本で知っていた。天馬に乗って空の高いところまで遠乗りするという意味だ。こんな晴れた日に天馬に乗って雲に届くまで高く飛ぶのは、一体どんな気分だろうとロアは想像する。ベルンシュタイン人にとってはおとぎ話でしかない世界が、ウィンフィールド人にとっては現実なのだ。
「……なるほど。是非近いうちに、また我が城にお招きさせて下さい」
「え?」
「私は友人知人の肖像画を飾るのが趣味なんです。幾つか肖像画だらけの部屋があるくらいでして。あなたの肖像画も、ぜひ一枚」
ダンヒル子爵は愛嬌のある顔で笑いかけた。
「わ、私のですか? 飾るような顔じゃありませんけど」
眉を下げたロアの言葉に、子爵は声を立てて笑った。
「……ハッハッハ! いえいえ、先ほど失礼した私が言っても説得力がないかもしれませんが、可愛らしいお顔ですよ。でも私が飾りたいのは、あなたの生き生きとした表情なんです。果たしてそこまで肖像画家に描けるかどうか」
「私、じっとしていられるかどうか自信がありません。それに、」
まだ続けて言い掛けたその時、空に何かを見つけたロアが窓の枠に両手をついて身を乗り出して叫んだ。
「あっ、天馬! 天馬です!」
「え? どこですか」
不意を突かれた子爵も姿勢を変えて空を眺めるが、眉の辺りに手を翳して目を凝らしてもそれらしいものは見つけられなかった。また始まった、とヨゼフィーネはうんざりして目を伏せ、黙って咲茶に口を付ける。
「ほら、あそこです!」
勢いよく指差したロアの指先の雲に、やがて太陽の光を受けて雲よりも白く見える小さな点が現れたのが子爵にも分かった。
「ああ、確かに天馬だ。驚いたな、目がいいんですね。一騎だろうか、うちに向かっている……おっと!」
天馬が向かっているのがここウィットバーン城だと聞いた次の瞬間、ロアはぴょんと窓枠に飛び乗った。ふわりとドレスの裾が広がり、子爵の目の前で音もなく元の形へと舞い降りていく。驚きのあまり仰け反った子爵に、ロアはばつの悪い顔を向ける。
「あ……す、すみません。あの、天馬を迎えに出てもいいですか?」
窓枠の上のロアから言いづらそうに頼んでくるロアを見上げて、子爵は目を白黒させている。
「……ああ、もちろん。ただ、扉から出てもらえると助かるんですがね!」
子爵が言い終えるより前にロアはひらりと窓から飛び降りると、度肝を抜かれている庭師へと駆け寄って行った。





