雨の東部杯
愚 者 と エ ゴ イ ス ト の 輪 舞 曲 < ぐ し ゃ と え ご い す と の ろ ん ど >
ベルンシュタイン帝国の女性騎手ロア・ジャンメールは、最後の直線に入ると馬上で呼吸を止めた。ゴーグル嫌いのロアの緑の瞳に雨粒が容赦なく飛び込んで、反射的に目を細めてしまったのを無理に開ける。
馬の集団が走る背後から七番の馬が抜け出して追い込みを掛けてきているのが、ぬかるみをひた走り近づいてくる足音と気配で分かった。ここまでは予想通りの展開で、ここからが勝負どころだ。背筋がびりびりする。
七番の騎手のドゥラカが、躍起になって鞭を入れている音が聞こえる。一方のロアは馬に鞭を入れることはない。次第に強くなる雨脚の中でも、観客はわあわあと声を上げている。視界の左端に七番の馬の黒い鼻先が揺れているのが見えた。
負けてなるものかと、ロアは腰を浮かせたまま更に身を縮めた。
ゴール板代わりの大きな銅の蹄鉄は目前──どうにかロアは先頭のまま蹄鉄の前を駆け抜けた。大歓声の中、ガンガンと鐘を叩く音がレース場に響いた。
「いぇあー!!」
ロアは黒いベルベットの乗馬用ヘルメットを投げ捨てて、雨を顔面で受けるようにして空に叫んだ。ヘルメットから解放されて揺れる金茶の髪は肩につかないほどに短く、今年で十九歳になるというのに遠目だと少年のようにも見える。
体調が良ければ毎朝髪を編んでくれていた亡き母が今の娘の髪を見たら、もったいないことをしてと嘆くかもしれない。
「あああああ、ちっくしょー!!」
叫んだロアに負けないほどの大声を出して、七番の騎手のドゥラカがすぐ横を追い越していった。
ここはベルンシュタイン帝国の東部、街外れの大きな森の中にある競馬場だ。東部杯の最終レースがたった今終わったところだった。
ドゥラカがゴーグルをヘルメットへ上げて、泥まみれのゴーグルごとヘルメットを脱ぐ。黒く長い巻き毛をわしゃわしゃと掻き乱しながら、振り返って毒づく。
「ロアてめえ! 今日はうちの家族が見にきてんの知ってんだろ、先輩に花持たせろよ!!」
荒い口調で言ったドゥラカの、ギリヤの民独特の睫毛の濃い眦の切れ上がった目がロアを睨む。
「ずるはできないよ。それに、去年の東部杯はドゥラカの勝ちだったでしょ」
ロアは笑ったまま首を振った。
「一年前の話なんて関係あるか、あたしがしてんのは今日の話だ! 大体お前、最後の直線のアレ、進路妨害じゃねえのか!?」
責め立てる勢いは治まらず、ロアはあらぬ疑惑にきょとんとしてから口をへの字にした。
「ええっ? ちょっと内に入っただけなのに」
「いいや、ちょっとじゃねえよ。アレがなきゃもっと早く追いつけたんだ。あたしの邪魔して勝って、普段の復讐したつもりなんだろうが!」
ドゥラカにも、常日頃からロアに絡んでいるという自覚はあるらしい。ロアは眉を下げた。
「そんなことする訳ないでしょ! あれが妨害になるなら、妨害が出ないレースなんてないと思うけど」
「何だと!?」
「いくら何でも言ってることがめちゃくちゃだよ、ドゥラカ」
「てめえ、先輩に向かってその言い草はねえだろうが!」
ロアの言葉に、ドゥラカは凶悪な顔で一気に馬を寄せた。
「だって、本当のことだよ。あれが進路妨害だったかどうか、他の人にも聞いてみたら?」
「うるせえ、この卑怯者!」
「わっ!」
ドゥラカはロアの馬体に自分の馬を当てようとしてきた。ぎりぎりのところでそれを何とか躱して、騎手としてあるまじき行為をした相手をロアはキッとを睨む。
「私は卑怯なことなんてしてない!」
「だったら、もう一周だ。あたしが勝ったら、今日の賞金はあたしに寄越せ。今夜はみんなにメシ奢らなきゃなんねえんだよ」
みんなというのは彼女の家族や親類のことだろう。ドゥラカ達ギリヤの民は血縁者がまとまって暮らし、土地を移りながら助け合って生きている。
今でこそドゥラカはその美貌と実力でベルンシュタインの花形騎手の一人だが、幼い頃は物乞いをして家計を支えていたほどに家庭は貧しかった。半年ほど前に父を亡くし、遺言によって血族の長となったドゥラカはより一層賞金に執着するようになっている。
「いいよ」
ドゥラカとは対照的に金銭に執着心のないロアは、あっさり同意した。上手く狙い通りの展開になったのか、それを聞いたドゥラカは不敵に笑った。
「へへ、そうこなくっちゃ」
「でも馬が疲れてるから、半周ね」
「よし。ヘルメットが地面に落ちたらスタートな」
「お嬢様方、大会の係員がお迎えに来てるけど……」
十一番の馬に乗った金髪の女性騎手、ニコラがレース中に頬に跳ねた泥を手の甲で拭いながら声を掛けた。ニコラの言うとおり、優勝者も準優勝者も一向に表彰台へ来ないので係員がこちらへ歩いてきている。
だが卑怯者の汚名を濯ぐことしか頭にないロアの耳には、その言葉は届かない。賞金獲得を狙うドゥラカも聞こえなかった振りをしてヘルメットを放り投げた。雨雲の下に放物線を描いたヘルメットがばしゃりと泥の中へ落ちて、跳ねた泥水が二人を出迎えようとしていた係員に飛び散った。二頭の馬が一斉に走り出す。
「あっ、ジャンメール騎手!」
白いズボンに跳ねた泥の染みを気にしていた係員が、再び競馬場を走り出した優勝者と準優勝者に驚きの声を上げた。観客も突然始まった再戦にどよめき、歓声を上げる。
「やれやれ、若いねえ。もう一勝負だそうですよ。しばらくお待ち下さい」
ニコラが呆れたように言って、大会係員に微笑んだ。
だが運の悪いことに、二人だけのレースは同着に終わってしまった。揉める前に止めようとニコラがうんざり顔で二人に駆け寄ったが、仲裁役の到着よりも早く再び口論が始まってしまう。
「ハッハー! あたしの勝ちだ!」
ドゥラカは高笑いした。
「ええ!? 今のは同着でしょ、それか私の勝ちだよ!」
驚いたロアは手綱を引いて馬を止まらせた。ドゥラカも同じように速度を落とし、愕然とした顔をした後で怒り出す。
「はあああ!? どう見たってあたしだろ! どこに目ぇ付けてんだよ、背中か?」
「ちゃんと見てたよ!」
「ふん、ゴーグルしてねぇからよく見えなかったんだろ」
「だからちゃんと見てたってば。私、目はいいんだから!」
腹を立てながら、ロアは自分の丸い緑の目を指差した。
「おーおー、目がいいのに順位を間違うってことは、頭が悪いんだな。今のは絶対あたしの勝ちだ」
「ううん、今のは同着! それか私の勝ち!」
「んなわけねえだろ、この石頭!」
「ドゥラカこそ! 勝ちたいからって嘘つくの止めてよね!」
「こんの野郎……先輩を嘘つき呼ばわりかよ、いい度胸だ!!」
ドゥラカがまたロアに馬を寄せたので、ニコラが間に入って穏便に治めようとする。ドゥラカは字の読み書きや簡単な計算などをニコラに教わったため、ニコラには頭が上がらないのだ。
「まあまあ、落ち着きなさい二人とも」
「だって!!」
「こいつが!!」
優勝者と準優勝者が互いに指を差し合い、判定を求めるように強い眼差しでニコラを見た。ニコラは二人を交互に見つめてため息をついた。
「今の優勝決定戦で、どっちが勝ったのかは知らないけどさ。二位の賞金でだって、十分美味しいごはんを奢ってあげられるんじゃないの?」
ドゥラカは半眼になった。
「ケッ、何人分だと思ってんだよ。今日は東部の遠縁まで来てるんだ、八十人以上いるぜ」
実際より多く申告して、ドゥラカはつんと顎を上げた。賞金で自分の牧場を持つという密かな夢のある彼女にとって、大切な血族とはいえ湯水のごとく金を使われるのは辛いことだった。
かたや男爵の娘のロアは、生まれた時から自分の牧場を持っている。脳天気なロアは身分の差を気にしたことはないが、経済的な差にいつもドゥラカは苛々させられている。
「春の南部杯の賞金は?」
「そんなもん残ってるわけねーだろ、こっちは大大大家族なんだよ!」
「家族が多くていいじゃない」
嫌味ではなく本心からの言葉だったが、この状況では当然ながらドゥラカの額に青筋が浮かぶ。
「てめえ……このくそったれのスネかじり女が!!」
馬上のロアを捕まえようとでもいうのか、腕を伸ばせるだけ伸ばしておかしな姿勢になりながらドゥラカが馬を急接近させた。
「うわっ! 危ない!」
ロアはひらりと弾むようにして逃げた。泥がびちゃびちゃと容赦なくあちこちに跳ねる。
「待てコラァ!!」
「またじゃれてるのか、あの二人は。開催者様がお待ちだぞ」
追いついてきた男性騎手が、呆れたようにニコラに声を掛けてきた。
「まったく、手に負えないよ。あの子達が一位二位になるといつもこうだ」
仲裁を諦めたらしいニコラも、二人を眺めて笑った。その後ろから、小柄な黒髪の女性騎手が近づいて来た。
「……早馬、きてる」
「え?」
「ジャンメール。待ってる」
異国から来て間もないため、黒髪の女性騎手の言葉は拙い。ニコラが振り返ると、柵の前で少し顔色の悪い青年が焦れた顔でロアを見つめている。伝えたから、と言い残すと黒髪の騎手は早々に手綱を引いて去って行く。
「ロアー! 人が来てるよ!」
ニコラが口元に手を当てて大声で叫ぶ。それを聞いてロアはドゥラカを片手で制して一時休戦し、柵の方を見てから慌てて青年の元へ近づいた。
「フランツ! どうしたの、父様に何かあった?」
青年はジャンメール家の馬丁だった。ロアは緑の目を見開いてさっと青ざめた。母を病で亡くし家族はもう父親しかいないので、急な知らせにはつい悪い予想をしてしまう。フランツは馬から降りたロアに掛け寄り、傘を差し向けた。
「大丈夫だよ。それより何があったの?」
ロアは傘をフランツの方へ押し返した。騎手仲間の前で貴族扱いされるのは居心地が悪い。フランツはロアを傘の下に入れるのを諦めた。雨に濡れないよう懐にしまっていた手紙を取り出して、震える手でロアに差し出す。
「トラウゴット様はお元気です。……あの、お、お手紙が届きました」
顔面蒼白のフランツは、ごくりと息を飲んでから答えた。
「手紙? 誰から?」
ロアは濡れて脱ぎにくい手袋を嚙んで引っ張って脱ぎ、それから手のひらをズボンの尻で拭って手紙を受け取った。
「ああ、丁寧に! 丁寧に扱ってください!」
薄氷色の封筒へ雑に手を突っ込んで便箋を取り出そうとするロアに、フランツが泣きそうな声で叫んだ。
「皇帝陛下からのお手紙ですよ!」
「……、コウテイヘイカ!?」
一拍置いて言葉の意味を理解したロアは目を丸くした。
この小説に興味を持って頂き、そして第一話の最後まで目を通して頂きありがとうございました!
感想やアドバイスなどを頂けるととても嬉しいです。
それでは、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。