妖精を待つ夜③
せっかくご足労いただいたユウキリだが、肝心の話はきちんと詳しく聞けないまま帰ってしまった。
ティータイムはアイシルの独壇場だったからだ。
アイシルがずっとしゃべり通すのをユウキリもエトルも相づちを打つ程度でとても割り込む余暇はなかった。それで大事な話なんて出来るはずも無い。
去り際に、やっとユウキリは夜に『朽園』らしきが出没していること、できるだけはやく妖騎兵団を訪れて欲しいことの二点だけを早口で告げた。
責任ある立場だ、まだ仕事が残っているのだろう。
颯爽と去る背中にご愁傷様と心の中で合掌しておいた。
その夜、エトルはクローゼットの奥にしまい込んだ包みを引っ張り出した。
袖を通した黒いコートの背中には妖騎兵団のエンブレムが刺繍されている。
退団したときに返そうとしたのだが、『お前以外に着せるヤツもいないから』と受け取ってもらえず仕舞い込んでいたものだった。
通常の軍服は緑が基調の上下になっているのに対し、エトルだけが黒いコートがあてがわれたのは役割が違ったからだった。
在籍時のエトルの役割、そのほとんどは『鎮圧』だった。だから、一目で分かる別の色調と、戦闘時の防御面を考慮して身を広い範囲でカバーできるコートを与えられた。
色眼鏡が必然なこのコートを着るとき、エトルは必ずため息を吐いてしまう。しかし、材質が優秀で荒事をすみやかにこなそうと思えば着ない理由はないのだ。
裏面の金具に、コートに包んでいた指先から肘の長さ二本と、肩までの長さの二本、計四本の刀剣を留めてから、エトルは今回もため息を一つ吐き、リトルペタルを出た。
「『朽園』、か」
妖騎兵団時代にほとんどエトルの専門になっていた妖精関連の対応相手。
その正体を一言でいうならば、『暴走した魔法』である。
妖精が人の想いを『贈り物』という形で庭に持ち帰っているのは周知のことだが、実はその想いが魔法の原動力になっていることはあまり知られていない。
妖精は自分と波長がある想いを選んで『贈り物』を受け取るため、庭に持ち帰っても滅多に管理を誤らないらしいのだが、なんらかのトラブルによって持ち帰った想いを扱いきれなかった場合、妖精の制御を離れた魔法になってミストエーラに帰ってくる。
これが『朽園』と呼ばれる脅威の正体だ。
朽園がおそろしいのは、その性質が人にとって天敵であるところだ。
想いから生まれた朽園は、想いを喰らう。
妖精の加護を受けていないものが生身で指一本でも触れようものなら朽園に取り込まれ、最悪命まで吸い尽くされる。
何よりも最悪なのは朽園が庭の主である妖精を喰らって、庭の支配権を得てしまったときである。
そうなった朽園はそれまでとは比較にならない猛威をふるう災厄となる。
止めるには、妖精ごと朽園を葬らないといけなくなる。
「――くっ」
右手にあのときの感触が蘇った気がして、爪が食い込むくらい強く握った。
――本当に最悪だ。
ぎりりと、唇を噛んだ
後悔が路地の隙間を滑空するツバメみたいに、過ぎった。
もうごめんだと思ったから妖騎兵団から逃げ出したんじゃなかったのか。
そうだ、そのとおりだが、
「知らんぷりなんて、できっこないじゃんか」
ぶつける先の無い苛立ちほど苦いものほどない。
気を紛らわせるように、エトルは路地を駆け抜けた。
街は広い、エトルが当てもなく走り回ったところで朽園とばったり出くわすなんてことはまず無いだろう。
エトルが探すのは空だ。
規則が変わっていないなら、朽園を見つけた哨戒している妖騎兵団が合図を打ち上げるはずだ。
近隣へ外に出ないように忠告する意味もあるその合図はまず見落とすことが無い。
(もちろん、現れないならそれでもいいけど)
早く済ませてしまいたい気持ちもあるから難しいところだ。
地面を蹴って、外壁を踏み、そこから窓縁を蹴って屋根を掴んでよじ上る。
今夜は少し曇っている。
薄雲から覗いた月明かりもぼやけていて心許ない。
「あれは……」
南方の方角に二つ灯りが見えた。
妖騎兵団が使うランタンにしては大きい気がする。
朽園かとも考えたが、それにしたってあそこまで目立つ印を見て妖騎兵団が反応しないのはおかしい。
そうなると、
「新しく妖騎兵団が引き入れた妖精かな」
いわゆる専属と言うやつだ。
持ち主不明や罪状などで押収された贈り物は妖騎兵団の預かりとなる。それらを対価にすることで兵団に力を貸してくれるよう交渉した妖精のことである。
(夜まで協力するなんて、珍しい妖精だな)
ただでさえ長期的な拘束の交渉なんて難しいのに、随分と献身的な妖精を見つけたものだ。なんにせよ助かる。
これならエトルが出る幕も無いかもしれない。
見つかっても面倒だ、エトルは屋根を跳んで灯りとは反対方向へと向かった。
時計塔を回って、広場を抜ける。
途中こちらを見上げた妖騎兵団の団員がいたが、驚いた以外の反応は見せなかった。エトルを憶えていたのか、それともユウキリが哨戒前に告知でもしたのか。
後者だとすればすっかり行動が見透かされていることになるからおもしろくない。
鼻を押さえてくしゃみを誤魔化しながら、屋根から屋根を円を描くように駆けていく。
ここまで合図は無い。
見たものと言えば路地から見上げてきた猫の光る両目くらいなものだ。
風に煽られてめくれそうになったフードを抑えて、今日は現れないかもしれないなんて思っていた。
郊外の方を跳び回っていたときだった。
「ああ」
漏れた声は、自分の巡り合わせに呆れたからだ。
これだけ広い街で、半分は妖精に任せていて、何人も妖騎兵団だって哨戒しているのに、
出くわしたのはエトルだった。
大きい平屋の前で、明らかに異様な出で立ちで、異常な雰囲気を持つそれは、立ち尽くしていたのだ。
(アカハナダルマ、ね)
よく言ったものだ。
白い顔に丸い大きな鼻。体はずたぶくろの口みたいに首で締まっている膨らんだポンチョで足首まで覆っている。先が四つに分かれている帽子といい、まるで道化だ。
道化は見上げていた建物に向かって歩き出して、しかし見えない壁にぶつかって止まった。一歩戻って、また繰り返して、あきらめずに何度も何度も、まるでまっすぐにしか歩けないブリキ人形みたいに。
噂が出回っていたから家主が加護を妖精に頼んだのだろう。
(この家に、何かあるのかな?)
道化は平屋に夢中で隣の家には見向きもしない。
建物は一家族のものにしては大きいが華美ではなく、他に取り立てるべきところも見当たらない。
道化のご執心の理由は分からないが、エトルから言えることがあるとすれば、
「力をつける前で良かった」
加護に阻まれていると言うことは、裏を返せばその程度の力しかないと言うことだ。まだ人間を喰らっていないのだろう。
コートの内側から短い方の刀剣の柄を握り、引き抜く。
浅い呼吸を何度か繰り返した後、ゆっくりと呼吸を深くしていく。
『自分』を呼吸の度に吐き出していくように、己を観測する自分の目から逃れていく。
これで、準備はできた。
薄くなった己がそう認識する。
すぅと、息を吸い、
はあぁと吐いた、――その直後。
エトルは消えた。
それがごく自然なことであるように、
まるで、あるべき形に納まったかのように、
エトルは世界の認識から外れた。
屋根から飛び降りても音すら鳴らず、風に吹かれてもコートの丈は揺れない。
あまりにも不自然に闊歩する姿は亡霊と言われれば得心がいく異質さだった。
ぬるりと、道化の背まで近づいたエトルは、柄じりに左手を添えて、一息に突き刺す。
――ぅわんっ
音が遠くから迫ってきたようだった。
その振動に暴かれるように、エトルが世界に戻ってくる。
「くっ」
失敗した。
エトルの握った剣の先を、ポンチョの模様だと思っていたトランプが止めている。
ぐるり、道化が振り向いた。
無機質な相貌に浮かぶ赤い瞳が、エトルを見下ろす。
クツクツクツクツ
嗤っているのだろうか、鉄球の入った木箱を振ったみたいな乾いた音が仮面から漏れて、道化のポンチョの表面をトランプがぐるぐる回り出した。
不意に、一枚の大きなトランプがエトルの前で止まったかと思うと、ぬうと、黒く尖った指先が生えたのだ。
すかさず距離をとろうと跳ぶエトルだが、ポンチョから飛び出た真っ黒い腕が迫る。
眼球が腕をポイントして寄り、こめかみにはぴりぴりと吸い込まれるような感覚がした。
普通の人間が加護もなしに朽園に触れれば、それだけで終わりだ。
ろくな抵抗も難しく、吸い尽くされてしまうだろう。
エトルに朽園の脅威を退ける加護は無かった。
しかしだ、エトルは普通の人間でも無かった。
エトルは、持たざるものなのだ。
パンッ
眼前に迫った手を、躊躇うことなく、手で弾くと、こんどこそ地面を蹴って後ろに距離をとって、水平に剣を構える。
道化は不思議そうには何も得られなかったポンチョから飛び出た腕とエトルとを見比べていた。
「僕から搾り取れるものなんてなんにもないさ」
自嘲気味に言ったのだ。
エトルは思う。
朽園が人間にとって天敵だとするのならば、チェンジリング(自分)は朽園にとって天敵なのだろう、と。