妖精を待つ夜②
誰にでも一人くらいは特別扱いをしてしまう知人を持っているのではないだろうか。
それは親であったり、親友であったり、恋人であったり、一方的に憧れている人ということもあるだろう。
そういう人に接するときの感情は自分で作ったものじゃない。意図してその人には優しくしなければならないとか、本心で向き合おうとか考えているわけじゃない。
特別な間柄とはそういうもののはずだ。
何が言いたいかというと、つまり、自分で意識しているわけじゃないから、制御なんてできっこないと言うことだ。
エトルにとっての『ユウキリ』は、つまりはそういう相手だ。
彼女からの頼み事を断ることは、とてつもなく悪いことをしている気分になってしまう。
だから、妖騎兵団の団服を着た彼女がリトルペタルの扉を開けて、こんこんとノックをしているのを見た時点で、エトルが考える間も渋る間も無く返答は決まってしまったも同然だった。
「やあ、元気にやってるか?」
「……開けてからノックしたって意味ないですよって、いつも言ってましたよね?」
「それでは抜き打ちチェックができないだろと毎回答えてるはずだが?」
「ここは妖騎兵団の宿舎じゃないです。……それに僕ももう団員ではないです」
「……そう、か。そうだな、悪かった」
めずらしい、ユウキリは非を認めることがあっても謝ったり、悪いことを認める言葉をなかなか口にしない人間だったはずだ。上司と部下の関係で付き合ってた間も数える程しか無かった。
――そう、ユウキリはエトルの元上司で、もっと言うと三年前に道で泣いていたエトルを保護して世話してくれた恩人だ。そんな彼女に謝られると、やっぱりこちらが悪いことをした気がしてむず痒くなる。
「いいですから、なんの用事ですか? 元団員のところに『管理補佐』がじきじきお出ましなんて」
妖騎兵団は団長を筆頭に『経理』、『情報』、『部隊』の三人の管理補佐。その下に部隊長、団員という組織構図になっている。
ユウキリの役職は『部隊管理補佐』、上から二番目に偉いということだ。エリートである。
街の売れない菓子店の店主一人呼ぶくらい、何人もいる部下をあごで使ったって悪くは無いはずだ。
「私が直接頼めばお前も断りずらいと考えただけだ」
さすが元上司、エトルの扱い方をよく心得ていらっしゃる。
「ブレませんね、そういうところも」
「そう言うな。座って話をしよう。手当とは別にちゃんと代金も払う、お前の分もだ。だから一緒にティータイムを楽しもう」
言い終わる前にはもうユウキリはエトルの対面に腰掛けていた。
変わらない人だと、エトルは思う。
アッシュグレーの髪も、歩くときも座っているときも腕を組む癖も。話す前には自分の中で結論を出してしまうから相手の言葉を聞く前に行動してしまうところも。
(あたりまえか)
エトルが兵団を辞めてからまだ半年ほどしか経っていないのだから。
「茶葉、一種類しか置いてませんから、注文は聞きませんよ」
「ああ、構わない。できれば――」
「ミルクでしょ? 持ってきます」
ふっと、マッチを吹き消すみたいにユウキリは笑った。
「ブレ無いな。そうやって勝手に気を回してしまうところが」
「……いらないんですか?」
「もちろん要るさ。よろしく頼む」
好きに言ってくれて。
知人の相手はこういうところがやっかいだ。
「待っててください」
エトルはこれからもずっと頭が上がらないであろう元上司のためにいそいそとティータイムの準備に取りかかる。
マッチを擦って古紙を火口に火を熾し、水瓶から掬った水でケトルを満たす。
今日か明日にでも数少ない常連に頼んで代金の代わりに水汲みを代行してもらうか、中央区の井戸まで自分で行かないといけない。
快適度は断然違うが、案外妖精に頼らなくても生活はどうにかなるものだ。もしかしたらこの街を作るときにそう設計したのだろうか。
『妖精の翅響』のことがあるからだろうが、いつか妖精がいなくなってしまうことを懸念したのかもしれない。自由気ままにふらふらしてる妖精たちを見ればその気持ちも理解できる。
「ああそうだ」
エトルはマッチを持ってキッチンからユウキリの待つ売り場に戻った。
「もう支度できたのか?」
「いいえ、これどうぞ。煙草吸ってもいいですけど窓は開けてくださいね」
ユウキリはこういうとき自分から言い出す人間だが、家主としてオーケーは出しておくのもマナーだ。
「ああ、それはいらない。……やめたからな、煙草は」
「えっ?」
面食らってしまった。
煙草を嗜む女性は婚期が遅れるなんて言われても気にせず、すぱすぱしていたユウキリが断煙するなんて。
「……やっぱり結婚したくなったんですか?」
「失礼なヤツだなお前は」
ユウキリが眉を顰めて抗議する。
正確な年齢は知らないが、もう結婚しててもおかしくない歳なのは確かだ。
上司として結婚の報告を部下からされた後は決まって一人で煙草を吸っていた。まるで、原因は私じゃ無く、煙草のせいなんだと見せつけるように。
しかし、そうでは無いとなると――
「――じゃあ、言われてたからですか?」
「珍しく察しが悪いな」
聞くなと言うことらしい。
「やめられるものなんですね、煙草」
結婚して女房に煙草を取り上げられた団員が結局やめられず、職場で隠れて吸って他の愛煙家に慰められていたことがあった。断煙はそれくらい難しいらしい。
本人たちは紳士の嗜みだからやめるつもりが無いだけと言って譲らなかったが。
「そうだな、私も覚悟していたがやってみると案外簡単にできた。……お前のように結婚がどうとかいうヤツらのがよっぽど煩わしいな」
薄く、口角が吊り上がる。
こういう顔をした後のユウキリに無理矢理食事に付き合わされたりしたものである。
「それはすいませんでした」
引き際は潔く、だ。粘着したって良いことは無い。
「張り合いが無いよ、お前は。火を使っているだろう。早く戻れ、紅茶が無ければせっかくの菓子も味わいがいがない」
男を平気で投げ飛ばしたりするくせに、繊細なことだ。
「お湯が沸き次第すぐにお持ちしますよ」
立ち去ろうとして、ぴたり、止まる。
テーブルの端に置いたマッチを回収して下がろうとするエトルの手に、白くて長いユウキリの指先が押さえるように触れていた。
それは思わずと言ったような、ユウキリらしくない焦ったような指の置き方だった。
「やっぱりやめてないんですか、煙草。別に誰にもいいやしませんよ――」
「恨んでいるか? 私がお前に死ねと命令したことを」
見上げてくるユウキリの視線が一瞬揺れたのを、エトルは見逃さなかった。そんなことを聞くつもりなんて無かったに違いない。
だけど、ずっと聞きたかったのだろう。
半年前、エトルが妖騎兵団を辞めるきっかけとなった事件。
『クリスタルリリーの朽園』。
決死で単身乗り込んだエトルが、そこから生きて帰ってからずっと。
「……恨むはずないでしょ。あなたなら分かるでしょ? あのとき僕がどんな気持ちで朽園に踏み込んだかなんて」
「だからこそ止めてやるのが人道としてあるべき姿だった」
人道として、だ。
「軍人としては正しい判断だった、そうでしょ?」
水晶の迷宮へと変わり果てたあの場所に踏み込めたのはエトルしかいなかった。いくら妖精の加護があっても普通の人間では最深部に到達することすらできなかっただろう。
結果としてエトルは単騎で最深部にいた彼女を討つことができた。
エトルが失敗した後、総力で突撃するはずだった妖騎兵団は丸ごと生存できた。
部隊管理補佐として、これ以上の成功はないだろう。
「――っ、そうだ、下賜された勲章がそれを証明している。おかげで私は他の補佐官を出し抜いて次の団長に一番近いと言われている」
淡々と、ユウキリは言う。
「――だが、そうならなぜ私はルリリアもお前も失った?」
「それは……」
エトルはその答えを持ち合わせている。
ルリリアだけを逝かせてしまったときに、漠然としていた疑問は確信に変わったから。
「それは、僕がチェンジリングだからですよ」
『対話者』なんて不相応だったのだ。
空っぽのチェンジリングの言葉は、やっぱり空っぽなのだから。
それがエトルがあの事件で得た答えだ。
「……私は、指導者として失敗したんだな」
目蓋を伏せて、ユウキリはエトルの手から指を離した。
ユウキリのその言葉と表情は、エトルをとっても悪いことをした気分にさせた。
「だ、だいたい、僕に遠慮する必要なんてないでしょう? 報償なら毎月もらっているんだから」
あの事件の活躍の報酬として、エトルは『この都市にいる限り生活を保障してもらえる権利』を得た。儲からない菓子店をしていても生活できるのはこの報償によって毎月支払われる手当があるからだ。
「そのせいでお前はここでひっそりと生きている、か」
「ええ、おかげさまで、です」
「消えたいのか?」
「どうでしょうね」
そろそろケトルが心配だ。
強引に視線を切ってキッチンへ戻らせてもらおう――と、
たったった
足音が聞こえた。
もうほとんど条件反射で扉に目を向けると、ぱたんと開く。
「エトルさん聞いてくださいよ! さっき市場のおじさんがリンゴを丸呑みしてやるっていいだして……って、あれ? 妖騎兵団の偉い人じゃないですかあ!」
珍獣見つけたと言わんばかりにユウキリの回りで騒ぎ出すまっ白い妖精。
「わっかりました! アカハナトナカイのことですねえ! ほらやっぱりそうだったんじゃないですかあ!」
「アイシル、お客さんだからね、あんまり。それと、今朝はアカハナダルマって言ってなかった?」
「そうでしたっけ?」
はたと、首を傾げる。
「いまからお茶出すから、アイシルも座って待ってて」
「おお! ティータイムですねえ!」
万歳してユウキリの対面に腰掛け、ふんふんと鼻歌を歌いながら体を揺らしている。本当に、落ち着きがない。
「妖精アイシル……。そうか、まだエトルの側にいてくれたか」
「はい? 呼びました?」
「……いいや、いいんだ」
ここに来て、ようやくユウキリの雰囲気が緩んだ気がした。こんなにわちゃわちゃされては仕方がないだろう。
まったく。
「どうやら、ひっそりとはいかなったみたいだな」
「ええ、おかげさまで」
薄く笑うユウキリに横目で答えた。
「――そろそろじゃないか?」
ユウキリがそう言った直後、ケトルがピーッと笛を吹き出した。
ほらいそげと、腕を組んで顎で最速するユウキリに、はいはいただいまと心の中で返し、エトルは急ぎ足で紅茶の準備に戻ったのだ。