妖精を追いかける夜⑤
「かげはついえた」
三歩目で、この世界が掛ける重圧と枷から外れる。
亡霊のように音も無く、滑るような足取り。
黒瞳も黒髪も、闇に溶けるようだった。
クツクツクツクツ
見えているぞ、と言わんばかりの道化の哄笑がエトルの耳朶を舐める。
道化のマントの裾がバサリとはためき、ばらばらに解けて宙を回りだす。
黒い鳥が群れて飛んでいるみたいだった。
元がカルティアの炎を防いだマントだ、見せかけはカードでも破壊することは難しい。
そんな頑強かつ無数が、たった一人目掛けて襲いかかる。
朽園からすればチェンジリングなど邪魔以外の何物でも無いのだ、遠慮なんてするはずもない。
飛来する脅威に対して、エトルは身を低く疾駆した。
躱す。
矢のスピードで追いすがってくるカードを、エトルはそれよりも速く動いて躱す。
狙いを外したカードは石畳を砕いて刺さっていた。もしもエトルの体に当たれば襤褸切れに変えてしまうだろう威力だ。
エトルの顔に恐怖は無い。
そう言ったものは真っ先に捨ててしまったからか、それとも、恐るるに値しない程度の攻撃でしかないからか。
チッ
エトルが剣を振るった、小さな音だった。
前方に回り込んでいたカードを一刀し、叩き落としたのだ。
反転。
脇を駆け抜けざまに一刀、もはや逃げるまでもなく、むしろ追い立ててカードを墜落させていく。
人間の限界を習得したエトルがディススタンドで踏み越えて為すのは、もはや剣技と呼ぶことさえ憚られる妙技。
ジッジッジという、断続的な音が鳴る度に、エトルの手元はぶれて足下には大量のカードが散乱していく。
縦へ横へ、無尽の軌道は迸り、カードはしかし、エトルの黒衣の糸くず一本にすら追いつくことはない。
その立ち回りを見て、おそらく初めて道化はエトルを脅威と認めた。
なにせ魔法だ。
恐れるのは同じ魔法だけのはずだった。
しかし、その身一つで、魔法をどうにかしてしまったエトルを見て、初めて自分の身の危険を感じた。
アイツは捕食者だと。
朽園が妖精を喰らうように、アレこそは朽園を喰らうモノなのだと。
だから、
クツ――ッ!
エトルが剣先を向けて道化に歩き出したのを見たとき、道化は焦燥のままに力を振るったのだ。
漆黒の花園が周囲を侵食する。
まるで、このミストエーラに『庭』を作りだそうとするかのように、道化はテリトリーを形成していく。
時間を稼いで既に喰らった主であった妖精を完全に取り込めば、朽園の力は銘持ち妖精ですらうかつに手出しが出来なくなるほどになる。
エトルの立つ場所もすぐに道化のテリトリーに取り込まれた。
道化の手の中に花が咲く。
黒いルピナスの華だった。
それがハラリと枯れたとき、エトルの左右を巨大なカードが囲んでいた。
「からだはたえた」
彼が呟いたと思った瞬間、二枚の壁は華奢な姿を両側から潰していた。
逃れる間も、そのそぶりすら無かったはずだった。
道化は嗤う。
テリトリーの中に自分以外を感じない、もう邪魔で目障りだった者は消えた。
押し潰してやった。
それでも、エトルはまだ、そこにいた。
ひたり、ひたり、音も無く。
潰された事実など無かったと言わんばかりに五体にケガも無く、しかし、存在はより希薄になって、また一線を越えたエトルは、道化の前に脅威で有り続けていた。
道化に戸惑いが見えた。
一瞬忘れたのだ。
自分が、なにを相手に攻撃していたのかを。
振り払うように、カードを投げつける。
何度も何度も道化はカードを投げつけ、投げつけ、投げつけて……――。
道化の眼前に切っ先があった。
真っ赤な仮面の頬が裂けて黒い液体が垂れる。
エトルが、道化の敵が目の前で剣を振りかぶっていた。
かろうじて躱したが、それだけだ、次に来る一刀にたやすく袈裟に斬られた。
もはや音も鳴らなかった。
それから、道化は、ようやく思い出した。
ああそうだ、自分は戦っていたのではないか、と。
自己を否定し、最終的にはゼロになるのがディススタンドだ。ただし、その過程、ある程度の一線を越えたチェンジリングは、完全に消えてしまうまでの僅かの間、世界にとってマイナスの存在となる。
例えば『誰か』が落っことしたリンゴを拾ったとする。
だけど、もし、その『誰か』がいないとしたら、リンゴを拾うことはないし、そもそもリンゴは落ちていない。
道化に起きたこともこういうことだった。
エトルがもともと存在していないのならば、道化の攻撃が当たる相手なんていない。そもそも攻撃さえしない。
自分を起点に、事象をマイナスに落とし込む。
それこそがディススタンドの骨頂であり、魔法の対局にあるという意味でもある。
もしも道化がエトルに勝つとしたら、時間を稼ごうとするべきでは無かった。エトルと相対した瞬間から全力で排除するべきだったのだ。
時は、エトルを消してしまうのだから。
エトルの刀剣が、道化の胸を貫いた。
静寂こそが、エトルの存在が道化の魔法でも辿り着けない領域に堕ちた証左であった。
クツクツクツ――
空っぽな鳴き声は、遂に底が抜けてしまったかのように消えていき、道化の姿が崩れた。
からんと、真っ赤な仮面が落ちたが、花園に埋もれて見えなくなり、最後にはテリトリーも石畳の合間に流れるように消えてしまった。
残ったエトルは、刀剣を前に出したまま立ち尽くしていた。
まるで人形だった。
演者がそこから先の台本を忘れてしまったものだから、動けなくなってしまった可哀想な操り人形。
そうなってしまったら、もう演劇は中止するしか無い。
めでたし、めでたし。
この魔法の呪文を唱えるしかないはずだ。
空っぽになってしまった人形の中にも、魔法の呪文は残っていた。
――そして、すべてを……――
最後の一線を越える前にだった。
「エトルさん」
人形の中に、彼が彼である一つが入った。
「見つけましたよ、エトルさん」
後ろから両肩を捕まれて、世界の中に彼の存在が入った。
「ありがとうございます、エトルさん」
振り向いた場所にあった黄色い瞳の中に、彼はエトルを見つけた。
すとんと、腕を下げて、エトルは自分を認めたのである。
「――まったく」
また邪魔されてしまった。
ディススタンドの後はいつも身体が重い。それは時間が長くなればなるほど、深く入り込めば入り込むほど。
少し休ませて貰おう。
疲労感に押しつぶされるようにエトルはその場に足を伸ばして座り込んだのだ。
「あとは、僕じゃ手伝えないからね」
「はいっ、この妖精アイシルに任せてくださいっ!」
残念ながら不安が拭えない。
「ちゃんとアレット君を助けてあげてね」
「もちろんですよお」
「……それからさ、ちゃんと帰ってきてね、アイシル」
今回もエトルは消えられなかった。
だから、アイシルに居なくなられては困る。
急にアイシルに消えられてしまうと、これからお菓子の処分やヒマな時間の潰し方に戸惑ってしまうだろうから。
「もちろんですよ、まだエトルさんと一緒にいたいですからねっ!」
「……そう」
そんなに真っ直ぐ言われたって、エトルでは持て余してしまうだけだと、いい加減気づいて欲しい。
「よし、行ってきます!」
「いってらっしゃい、待ってるから」
頷いたまっ白い妖精は想い出箱を持って腕まくりをすると、妖精の庭へむけて飛び込んでいった。




