妖精の訪れる国①
長閑な一日になるはずだった。
今朝洗濯物を干すために出た中庭から窺った空模様は申し分が無くて、この調子ならいつもより早めに取り込んでも良いかもしれないなんて考えていたし、マーケットでも、やれお買い得お目が高いもうちょっと安くじゃあ特別になんて毎日飽きもしない三文句が垂れ流れていた。
そんな調子だからついエトルも、ぷかぷかと漂う妖精と大時計の秒針に見下ろされながら鼻歌を口ずさんで、いつも頭からすっぽり被っているフードだって心なし今日は浅めにして、石畳をかつんと踏めばちょっとした達成感すら湧いてきて…。
そんな浮き足だった一日の始まりだったのだ。
エトルの下宿先兼職場の菓子店『リトルペタル』にまっ白い髪の妖精が鼻息荒く飛び込んで来さえしなければ――。
「エートールさーん!! なにぼんやりしてるんですかあ!」
拳を突き上げながらエトルの隣を走る少女が頬を膨らませている。
そうとうにご立腹だ。よっぽどストリートの先を逃げていく逃走犯が腹に据えかねるらしい。
「あの凶悪な大怪盗の首根っこを捕まえるまで止まりませんからねえ!」
少女のまっ白い髪を結う若草色のリボンが日の光に充てられて鮮やかに煌めく。
ふとすればその辺りをあるく町娘と変わらない恰好なのに、やっぱり人とは違う気配を纏う少女を見止め、暴走を咎めようとした大人達もふっと肩を下げて道を譲った。
それもこれも、彼女が妖精だからだ。
妖精が訪れる国、『ミストエーラ』において、人は妖精のやることに寛容だ。
人間よりよっぽど永い時間を生きる妖精達はとっても享楽的で奔放だ。そもそも価値観からして違うのだからいちいち付き合っていたらキリがない。
無邪気で自分の心に素直だが、それだけに悪意とも無縁な彼らは結局の所放っておくのが一番だ。というのがずっと昔から変わらない隣人、妖精との付き合い方だ。
なんと言っても、多少のことなら目を瞑れるほどの『恩恵』を、妖精は授けてくれる。
「いいですか? ぜーったいに、とっつかまえてやるのです! そして、報復を!」
ふっふっふと、不穏に笑う彼女をじとりと横目に、「はあ」とひとつ嘆息。それからエトルは答えた。
「はいはい、わかったよアイシル」
そう言う約束だ。
いわば、それが彼が支払った『(贈り物)』の代わりで、妖精である『アイシル』がエトルみたいなのと一緒にいる理由だ。
「でもさ、あんまり乱暴なことしちゃダメだよ?」
「しませんよー乱暴なんて。ただ、あの方にはわたしの味わった絶望を思い知らせてやるのですよお」
ふっふっふと意味深げに笑うアイシルが噴水広場前に集まる子供のごっこ遊びみたいでも、似合わないよなんて言わないのはエトルの優しさである。
そもそもだ、アイシルは覚えているのだろうか。
エトルの店番をしながらのんびりする予定の一日を吹き飛ばしてくれたその原因を。
「まあぁあつぅううのぉおでぇえええすっ!」
そんなに威嚇しながら追いかけられて止まるヤツがいたら是非とも拝んでみたい。
気が乗らない足取りでエトルが続く。
これでは一日中走ることになるかもしれない、エトルとしてはさっさとアイシルが諦めてくれればいいと思うが、どうせ言ったって聞く耳なんて持ちやしない。
『妖精を叱るくらいなら猫を躾けた方がマシ』、なのだから。
結局はエトルが頑張ればその分だけ早く終わる。
「よし」
気合いを入れ直して足並みを早め、数歩分の遅れを返してアイシルに追いつく。
「あらら? エトルさんようやくやる気になりましたかあ?」
「捕まえないとずっと追いかけるんでしょう?」
「あっはっはっは~~。……当然ですよお」
何とも執念深いことである。
「さあ、行っちゃうのです! エトルさん」
ビシッと前方を指すアイシルに促され、フードの位置を直したエトルは「まったく……」と溢し、さらに速度を上げた。
開くばかりだった距離がぐぐっと縮まりだしたものだから、さっきまで余裕縮尺な態度で走っていた逃走者がビクリと身体を跳ねさせた。
「はっはっはーわたしからは逃げられてもエトルさんからは逃げられないですよお! 往生するのでーすっ!」
(それでいいの?)
肩越しに視線で訊ねてみたのだが、伝わっていないらしい。
「ささ、とっちめちゃってくださいっ!」
アイシルの号令に背中を押され、エトルは前へと向き直ると、ぐっと、つま先に力を込めて姿勢を低くする。
黒瞳を細めて前方を確認して、数瞬で距離とルートを目算。
視界内の人数、左通路から荷車、その他障害を把握。
「いける、かな?」
三歩だと、この世界に帰ってきてから三年間で身につけた身体制御と瞬間判断力が、それでいけると言っている。
だから、エトルは跳んだ。
横切ったときに、立ち話をしていた男二人がぎょっとしているのを横目に、エトルは次の一歩で斜めに舵を切る。この先の丁字路から荷車が出てきて進路を塞ぐのを知っているエトルが選んだ針路は、外壁だった。
最低限の接地により突進力の拡散を抑え、二歩目でそのエネルギーを爆発、自身の倍以上の距離を跳んで人々の頭上に舞い上がり、レンガ壁を踏みつける。
ここからなら目標がよく見える。
飛び出してきた荷車を無理やりくぐって抜けようしたのだろう。逃走者は荷車を引いていた男を驚かせてひっくり返った荷物に潰されそうになっていた。
「まったくっ!」
どうしてこうも忙しないのだろう。
悪態の一つでも吐きたくなる気持ちを押し殺してエトルは壁を勢いよく蹴った。
目標との直線距離に障害物は存在していない。
左手を地面に着き、攫うように逃走者の首根っこを掴んで空高く放り投げる。
「んなあああああああ!」
哀れな逃走者の断末魔が、身代わりに飛び込んだエトルに向かって倒壊する樽や木箱の隙間から聞こえてきた。
助けてやったのだから勘弁して欲しい。
弁解しながらエトルの黒瞳は状況を俯瞰していた。
姿勢はこの上なく不安定でとても落ちてくる木箱を躱すことはできそうにない。
中身が何かは知らないが、樽まで落ちてきたらエトルの細い身体はひとたまりもないだろう。この身体はどれだけ食べて鍛えても筋肉どころかまともに肉すらつかず貧弱なままなのだから性質が悪い。
このままなら多かれ少なかれ怪我は免れない。エトルの事情では妖精の『魔法』にも頼れず、骨の一本でも折ればしばらく不自由をしなければならない。
もちろんごめんだ。
すうっと、エトルは瞼を閉ざしたのだ。
暗闇に、唱える。
(かげはついえた)
次いで、
(からだはたえた)
どうっと、樽が石畳を打った。
荷車の男が悲鳴を上げたのをきっかけに周囲からも絶叫が上がる。
荷物から彼を助け出そうと駆け寄る者、子供の目を覆い隠す母親、妖精を呼びに走る者。
水を打って惨劇の現場に変わった日常に誰もが右往左往する中、我に返った荷車の男が強ばった顔で荷台を回り覗き込み、はてと、首を傾げた。
「あの子は、どこだ?」
おそるおそる見たと言うのにそこには硬い石畳と凹んだ木箱、歪んで中身がちろちろ漏れる樽があるばかりで、まるで白昼夢だったとばかりに少年の痕跡は血の一滴、糸くず一本見当たらなかった。
まるで、『神隠し』にでも巻き込まれてしまったみたいに。
すっかり怖じけた男の隣だった。
「つかまえた」
屋根に爪を引っかけて落ちまいと耐えていたが、とうとう限界を迎えて落ちてきた逃走者、と言うか獣、言ってしまえば猫を、エトルが腕のなかにぽすっと受け止めていた。
かわいそうに、すっかり固まっている。恨むのならば後ろで両手を広げて大げさに喜んでいるまっ白い妖精を恨んで欲しい。
「き、君! どうして……」
動転した荷車の主は、訊ねてからエトルが答えるよりも先に、振り返ったエトルのずれたフードから覗いた容姿に答を見つけていた。
まったく混じりっけの無い黒い髪に、黒い瞳。
彩をすっかり吸われてしまったかのような、その純黒。
「『チェンジリング』……」
「……荷物、戻すの手伝います」
フードを直しながらエトルが申し出るが、男は慌てた様子で「ああいや」と手を振った。
「て、手伝いはいい。それよりケガはないか、ないんだったら、その……」
言わんとしていることは分かった。
自分の身の程だって弁えている。
その場で小さく会釈をすると、エトルはそそくさとその場から立ち去った。囲んでいた人混みはエトルが近づくと勝手に割れて通してくれた。
「エトルさん」
隣に並んだアイシルが眉根を寄せて覗き込んできた。
そんな顔をする事なんてないんだ。
「ほら捕まえたよ」
その胸に向かってご所望の大怪盗を押しつけてやる。
「お、ほわぁ!」
「うなああ」
さっきまで借りてきたみたいだったのに急に暴れ出す猫を持て余すアイシルを見て、クスリと、エトルは笑みを溢したのである。