ヒトラーの魔術
(下)
政治家ヒトラー
牛島裕一が近づいてくる。神崎は呆然と見ている。彼の脳裏で葛藤が渦巻いている。
・・・これはおじいちゃんじゃない・・・
牛島が神崎の家を後にしたのは平成元年(1989年)。この年牛島は77歳だった。今年は平成22年、牛島は99歳である。髪は白く、やや禿かかっている。深い皺があるものの、皮膚のたるみがない。背が高く、がっしりとしている。眼光は炯々として、真っ直ぐ神崎を見詰めている。足取りもしっかりしている。
・・・百歳近い老人とは思えない・・・ 柔和な面影はない。唇を一文字に結んでいる。
牛島が目の前までやってきた。神崎はどう返事をしたらよいのか、口をもごもごさせる。
「昭太郎君。元気か?」その声は紛れもなく”牛島裕一"だった。
「おじいちゃん」神崎は懐かしげに叫ぶ。厳しい牛島の相好が崩れる。神崎は子供のように抱き着く。
2人は町田達のいる座敷に入る。町田と石田は威儀を正して牛島を迎える。神崎は妻のゆみを紹介する。
22年ぶりの再会だ。積もる話がある。神崎の家を出てからの牛島の様子を知りたいと思ったが、彼は今は
話せないという。
「神主さん、しばらくご厄介になりたいが・・・」牛島の声に、本居神主は大きく頷く。
しばらくは雑談に花が咲く。帰り際、牛島はヒトラーに関する事、もっと調べろと諭す。
「また会いたい・・・」神崎の願いに「近いうちに、一緒に居れるよ」牛島は優しく言う。
平成22年10月初旬
神崎とゆみは、政治家としてのヒトラーの姿をとらえる。
―――ナチス党を含んだ右派政党の団体、ドイツ闘争連盟は勢力を拡大するにつれて、ベルリンへの進軍を望むようになる。バイエルン州で独裁権を握っていたバイエルン総督グスタフ・フォン・カールもベルリンへの進軍を望んでいた。しかし中央政府の圧力を受けて、ベルリン進軍の動きを鈍くした。
このことに不満を持ったヒトラーはカール総督にベルリンへの進軍を決意させようと、1923年11月8日夜、ドイツ闘争連盟を率いて、カール総督が演説中のビアホール”ビュルガーブロイケラー”を占拠して、カールの身柄を抑える。カ-ルは一度はヒトラーへの協力を表明したが、カール達はビアホールを脱出する。
11月9日朝、ヒトラーと第1次世界大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍はドイツ闘争連盟を率いてミュンヘン中心部に向けて行進を開始する。しかしバイエルン州警察の発砲により、行進は総崩れとなる。これがミュンヘン一揆で、ヒトラーは逮捕される。
裁判ではヒトラーは弁解を行わず、一揆の全責任を引き受け自らの主張を述べた。この事でヒトラーは大物政治家と見られるようになった。
1924年4月1日
ヒトラーは要塞禁錮5年の判決を受けてランツベルク要塞刑務所に収容される。この間、ルドルフ・ヘスによる口述筆記されたのが”我が闘争”である。ヒトラーは刑務所の職員や所長まで信服させ、9月には所長から仮釈放の申請が行われ、12月20日に釈放。
1925年2月27日、
禁止されていた政治活動が解除されて、ナチ党は再建された。しかし大規模集会で政府批判を行ったため、ヒトラーは2年間の演説禁止処分を受けた。秋頃、ナチス左派との対立が激化する。
1926年2月24日
バンベルク会議で”指導者ヒトラーの指導原理による党内独裁体制が確立した。
1928年5月20日、
ナチス党としては初めての国会議員選挙に挑んだ。ドイツは黄金の20年代とよばれる好景気に沸いていたので、支持は広がらず12名の当選にとどまった。
1929年の世界恐慌によって、ドイツは急速に景気が悪化する。街には大量の失業者で溢れかえった。社会情勢は不安の一途をたどった。ヤング法案への反発がドイツ社会民主党政府への反感となっていた。
1930年の国会選挙ではナチス党が18%の得票率、共産党が13%を獲得、社会党の得票率が24・5%。
各地の都市でナチス党の私兵部隊”突撃隊”と共産党の私兵部隊”赤色戦線戦士同盟”の私闘が激化する。
1932年ヒトラーは正式にドイツ国籍を取得し大統領選挙に出馬。ヒトラーの他に5名が出馬。
選挙では”ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を”をスローガンに遊説を重ねて国民に鮮烈なイメージを残した。
第1次選挙の結果、ヒンデンブルクの得票率49・6%、ヒトラー30・2%で、2位になっただけでなく現役大統領ヒンデンブルクの獲得率過半数獲得を防いだ。
大統領になるためには過半数の獲得率が必要のため、上位3名による決選投票が行われる。結果ヒンデンブルク得票率53・1%、ヒトラー36・7%、テールマン10・1%を獲得。ヒトラーはヒンデンブルクに敗れるが、第1次選挙よりも大きく得票を伸ばして存在感を見せつけた。ドイツ共産党とナチス党との差が決定的となる選挙だった。
1932年11月
ヒトラーはパーペンへの不信任案を提出、可決され、同年11月に選挙が行われる。ナチス党は第1党を保持したものの、得票率は4%程低下する。
しかし、この選挙で共産党が得票率を伸ばした事に、保守層が危機感を抱いた。共産党に対抗できるのはナチス党とみなされた。
パーペン内閣は崩壊。ヒンデンブルク大統領の承認を得たヒトラーは国家人民党の協力を取り付ける事に成功。
1933年1月30日
ヒトラー内閣成立。内閣発足の2日後の2月1日に議会を解散する。国会議員選挙日を3月5日と決定した。
2月27日深夜、国会議事堂が炎上する。ヒトラーとゲーリングは共産主義者蜂起の始まりと断定して、共産主義者の逮捕を始める。翌28日にヒンデンブルク大統領に憲法の基本人権条項の停止、共産党員を法的手続きに拠らずに逮捕できる大統領緊急令を発令させた。この状況下での選挙でナチスは45%の議席を獲得したが単独過半数には達成しなかった。
共産党議員は逮捕、拘禁されて、社会民主党や諸派の一部の議員も逮捕されていた。これらの議員は出席はしたが、投票に参加しない者とみなすよう議院運営規則を改正した。これでナチス党は憲法改正的法令に必要な3分の2の賛成を獲得する。
4月24日に国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させる。議会と大統領の権力は形骸化する。
7月14日にはナチス党以外の政党を禁止する。12月1日にはナチス党と国家が不可分の存在であるとされる。
以降ナチス党を中心とした体制が強化される。党の思想を強く反映した政治が行われる。その一方で他の幹部と突撃隊は異なった政権構想を持っていた。彼らは更なる第2革命を求めるよう強く主張する。突撃隊参謀長レームらとの対立が深まった。
ヒトラーはゲーリングと親衛隊全国指導者ヒムラーらによって作成された粛清計画を承認する。1934年6月30日の”長いナイフの夜”によって突撃隊を初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清する。この時、党草創期からの付き合いがあったレームの逮捕にヒトラー自らが立ち会っている。
1934年8月2日
ヒンデンブルク大統領死去。ヒトラーは直ちに、”ドイツ国および国民の国家元首に関する法律”を発効させる。国家元首である大統領の職務と首相の職務を合体させ、指導者兼首相のアドルフ・ヒトラー個人に大統領の職能を移した。ヒトラーは自身の事を”指導者”と呼ぶように国民に求めた。8月19日に民族投票を行い、89・9%という支持率で承認された。これ以降、日本の報道でヒトラーの地位を”総統”と呼ぶこととなった。
ヒトラーは党と国家の一体化を推し進める一方で、ヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を推し進めた。同時に行われていたラインハルト計画によって、1933年に6百万人いた失業者も1934年には半減する。
新聞の統制化が行われて、1934年には3百紙の新聞が廃刊となる。
1935年3月16日にドイツ再軍備宣言を発令、公然と軍備拡張を行った。
ヒトラーの戦争
神崎とゆみは、ヒトラーが独裁者に登りつめるまでを調べてみた。
「すごいわね、というより荒っぽいやり方ね」ゆみの批評だ。民主的な国会議員選挙とは言え、ヒトラーのやり方は強引すぎた。これは主に第1次世界大戦で敗北したドイツは、経済的に困窮を極めていた事と、政治的にも多くの政党が雨上がりの後の竹の子のように乱立していて、国民の支持が得られにくい面があった。
それにもう1つの要因として、ナチス党の突撃隊による暴力事件が後を絶たなかった。強いドイツと経済復興への、ナチス党への国民の支持はある程度得られた。だが突撃隊の他の政党への弾圧事件は誰にも止められなかった。皮肉にもヒトラーによって、突撃隊は終わりをむかえる。
「でも、これだけではないと思う。やはりヒトラーの未来を見通す能力もあったのでは・・・」神崎は魔術からみた政治家ヒトラーを見詰めていた。
1935年、ヒトラーは英独海軍協定を締結する。
1936年3月
ヴェルサイユ条約とロカルノ条約に反して非武装地帯と定められていたラインランドへの進駐を実行。フランス軍からの攻撃はなかった。
同年にスペイン内戦においてフランシスコ・フランコの反乱軍を支援する。
1937年4月26日
ドイツ空軍”コンドル軍団によるゲルニカ空爆が行われる。
1936年1月
駐独日本国特命全権大使の武者小路公共とドイツ外相ヨハヒム・フォン・リッベントロップとの間で日独防共協定が結ばれる。ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦への対抗を目指した。同協定は翌37年11月6日にイタリアも加わり日独伊防共協定となる。
1937年11月5日
陸海空軍の首脳を集め”東方生存圏”獲得のための戦争計画を告げる。計画に批判的だったブロンベルク国防相らを追放、独立傾向にあった軍を完全に掌握した。
1938年3月―――オーストリア合併を果たす。
1938年9月
ヒトラーはイギリス首相ヴィル・チェンバレン、フランス首相エドゥアール・ダラジエ、イタリア首相ムッソリーニとミュンヘン会談を行う。結果、チェコスロバキアのズデーテン地方の合併が認められる。
1939年3月15日―――チェコスロバキアを合併。
1939年3月23日
リトアニア政府にメールを割譲させることに成功。これらのドイツの拡張政策に対して、イギリスやフランスは懸念を表明するが直接的な軍事対立を避けた。ヒトラーはこれらの宥和政策を英仏の黙認ととらえて、更なる領土要求を継続する。
1939年8月23日
ドイツはソ連との間に独ソ不可侵条約を結ぶ。9月1日にソ連との秘密協定をもとにポーランドに進攻を開始。9月3日にイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行う。第2次世界大戦の開始である。10月中にポーランドは制圧される。
1940年―――デンマークとノルウエーを占領。同年6月21日、フィリップ・ペタンを首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込む。なおヒトラーは7月31日に国防軍最高司令官に就任。対英戦では、ヒトラーは空軍によって制空権を獲得して後にイギリスに上陸する事を考えていた。
しかしバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍は撃退される。7月30日、ヒトラーは”ヨーロッパ大陸最後の戦争”である対ソ戦の開始を軍首脳部に告げる。ソ連が粉砕されれば英国の最後の望みも打破されるとして、対ソ戦の準備を命じた。9月27日に日独伊3国条約を締結。
1941年
ギリシャを占領、バルカン半島を制圧、北アフリカ戦線ではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻撃に転ずる。
1941年6月22日
バルバロッサ作戦が発動。ドイツ軍はソ連に進攻。ヒトラーは作戦は5か月間で終了するとして独ソ戦については楽観視していた。
6月22日に東プロイセンに置かれた総統大本営”ヴォルフスシャツェ(狼の巣)に移る。1944年11月20日までの大半をここで過ごす。
戦線は順調に進む。奇襲攻撃を受けたソ連軍を各地で撃破。ヒトラーはウクライナのドネツエ工業地帯やレニングラードの攻撃を優先させて、モスクワ方面への攻撃を停止する。
8月末に再度モスクワ進撃を命令する。
ドイツ軍は進撃を再開したが、10月には早くも冬が到来する。ドイツ軍の進撃速度と補給が低下する。ソ連軍の反撃が開始。現場指揮官達の間で後退論が高まる。ヒトラーは自ら陸軍総司令官を兼任して、東部戦線のドイツ軍の後退を厳禁する。
12月11日、対ソ戦でのドイツ軍の最初の後退が行われる。同7日に行われた大日本帝国海軍によるアメリカ、ハワイの真珠湾攻撃を受けて、対アメリカ参戦に踏み切る。
1942年
東部戦線での春季攻撃が計画される。ヴォロネジとスターリングラードの攻略を主眼とするブラウ作戦を命令する。
ブラウ作戦は当初順調に進んだが、スターリングラードの攻略に失敗して、ドイツ軍は守勢に転ずる。第6軍が包囲される事態となる。ヒトラーは撤退や降伏を許さなかった。第6軍司令官のフリードリヒ・パウルスはソ連軍に降伏。またエル・アライメンの戦いやトーチ戦での敗北で、北アフリカ戦線における枢軸国の勢力は一掃される。
1943年にクルクスで突出したソ連軍を包囲するツィタデレ作戦が計画、7月5日に攻撃開始。7月13日にヒトラーは作戦の中止を命令する。
ヒトラーはシチリア島に連合軍が上陸した事でイタリアの政治情勢が不安定になったという報告を受けていて、その情勢に気を取られていた。
またソ連軍の損害を過大評価していた事や、弾道ミサイル(V2ロケット)、電動Uボートなどの新兵器によって翌年にはドイツ軍は優勢の地位を保てると考えていた。
8月25日イタリアでムッソリーニが失脚、9月12日に特殊部隊によりムッソリーニを救出。彼を首班とするイタリア社会共和国を成立させて、南部の連合軍と北部の枢軸軍によるイタリア戦線が形成される。
1944年3月
東部でのソ連軍の大攻勢によりドイツの中央軍集団が壊滅。西部ではノルマンディー上陸作戦の成功による第二戦線が確立する。
その後ヒトラーの暗殺未遂事件が起こる。ヒトラーは奇蹟的に死を免れる。しかし東欧の同盟国は次々に脱落して、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。
西部戦線の連合軍がライン川に迫る。ヒトラーは大きな賭けに出る。アルデンスからアントワープまでドイツ軍を突進させて、連合軍の補給を断とうとした。
ヒトラーは米英軍に大きな打撃を与えれば、米英は戦争の休戦とドイツ軍に対する援助を行って、独・英・米・ソ連による東西戦争が起こると確信していた。
12月16日に開始されたドイツ軍の反攻作戦ラインの守りは成功する。連合軍を一時的に大きく押し出した。しかし天候が回復し、空軍の支援を受けた連合軍に圧倒され戦線は一時的に大きく突出するにとどまった。ヒトラーの反攻作戦はドイツ軍最後の予備兵力、資材をいたずらに損耗する結果となった。
1945年1月からソ連軍はヴィスワリオーデル攻撃を開始する。1月15日にヒトラーはベルリンの総統官邸に戻ったが有効な手は打てなかった。
4月16日ソ連軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動する。側近や高官はヒトラーに避難を勧めたがヒトラーは拒絶する。4月20日に総統誕生日を祝うために軍とナチス高官が総統官邸に集まった。この日の軍事会議で、連合軍によってドイツが南北に分断された場合にそなえ、北部をカール・デー二ッツ元帥が指揮する事となった。南部の指揮権は明示されなかった。各種政府機関も即時ベルリンを退去する事が決定。ゲーリングら主要な幹部も去っていった。
ソ連軍の猛攻の中、4月22日ヒトラーは戦争は負けだと語る。4月29日ヒムラーがヒトラーの許可なく英米に降伏を申し出た事が世界中に放送される。ヒトラーは激怒し、ヒムラーの逮捕命令を出したが、ドイツ国内ではその執行すら出来ない状態だった。
4月30日、ヒトラーは妻エヴァと共に総統地下壕の自室に入り自殺する。
「戦争はへタね」ゆみは容赦のない批判をする。
始めの内は速攻の進撃でヨーロッパ全土を掌握する。イギリスへの攻撃に失敗すると、不可侵条約を結んだソ連に進攻する。日本がハワイの真珠湾を攻撃すると、アメリカに宣戦布告する。
神崎はゆみの言葉を聞いている。全くその通りなのだ。
本当なら、フランスを占領下においた時点で休戦すべきなのだ。矢継ぎ早の戦闘は軍隊への負担が重すぎる。ヒトラーだって、その事は判っていた筈だ。
神崎は妻に同意する。以下のような疑問を呈する。
ヒトラーの戦争で2つの謎がある。1つはアメリカへの宣戦布告。アメリカを敵に回すとドイツは敗れる事は、ヒトラーは判っていた。アメリカとの戦争は絶対に避けねばならない。政治家や軍人なら判っていた事だ。
2つ目、ソ連に進攻した時、ソ連占領は5か月で片がつくと言う事で、兵士の軍服は夏用だった。たとえ冬に入る前に片が付くとしても、冬用の用意すべきだった。相手はロシアだ。ナポレオンの例もある。ヒトラーはそれを無視した。これは歴史上の謎である。
ゆみは大きな眼で神崎の口元を見ている。
「ねえ、おじいちゃんに聴いてみようよ」
神崎はゆみの提案に大きく頷く。
ヒトラーとキリスト教
平成22年11月下旬
神崎とゆみは犬山の大県神社に行く。牛島のおじいちゃんに会うためだ。予約を入れてある。
「おじいちゃんって、不思議な人ね、というか変わった人」
ゆみは屈託がない。ズケズケとものをいう。神崎はそんなゆみをいとほしく思っている。
20年来の再会だった。積もる話もあるだろうに、矢島裕一は町田の話に聞き耳を立てるだけで一言も話さない。まるで数日前に会ったばかりだという態度だった。神崎昭太郎を見ても感動の心を見せない。拍子抜けとはこの事だ。神崎は失望の色でおじいちゃんを見たのを覚えている。
しかし、今それでよいと思っている。ゆみのお喋りを黙って聞いている。
レストラン茶舗到着。座敷に通される。おじいちゃんと本居神主がいる。2人は神崎とゆみを暖かく迎える。ランチを摂りながら、本居神主は来年春には5名のチベット僧侶が日本に来ると話す。
矢島裕一は、今年一杯にここを出ると告げる。行先はその時になったら知らせるという。
昼食の後、神崎はヒトラーの戦争について、矢島に質問する。
―――負けると判っていた戦争を、ヒトラーはどうしてやったのか―――
矢島は慈しみのある豊穣で神崎を見ている。そして静かに口を開く。
―――ヒトラーは負ける戦争をした。アメリカが参戦すればドイツが負ける事は、ヒトラーでなくても判っていた。ソ連への侵攻は占星術によって早期に占領可能と出た。それで軽装で充分との決断をしたと言われる。だが、それは違う。ヒトラーはソ連への侵攻がドイツの敗北を決定的なものにする事を予知していた。ナチスドイツは敗れて、この世から姿を消す。その目的の為に、アメリカに宣戦布告し、ソ連に進攻したのだ―――
「何のために・・・」神崎は食い下がる。
矢島は口を閉ざす。しばらく神崎を見詰める。
「ヒトラーというより、彼に取り憑いたルシファは、ナチスが滅びる事でナチスの精神は全世界に広がる事を知っていた。事実そのようになった」
沈黙の後、湯島は再び口を切る。
「キリストが十字架にかけられた事によって、キリストの精神は全世界に広がった。ルシファはそれを真似たのだ」
矢島はなおも言う。ヒトラーがキリストをどう思っていたか、調べろと言う。ヒトラーが戦争で敗れたのはハーケンクロイツの秘法の成就のためだと付け加えた。
神崎はあっと叫ぶ。ヒトラーの行動の全てがハーケンクロイツに結び付いていたのだ。
この日夜遅くに自宅に帰った神崎はキリスト教について調べる。資料はすべてゆみが調べ尽くしている。
―――1939年に発表した、ヘルマン・ラウシュニングの”ヒトラーとの対話”はヒトラーのテーブル・トークとして世界中の人々を驚かせた。1932年から1934年という、ヒトラーの権力掌握の微妙な時期に書かれたものだ。
・・・ヒトラーは自らを現代のメシアと考えていた。ヒトラーは宗教的称号で呼ばれる事に異を唱えていたが、現代の危機を理解しこれを救う事が出来るのは自分しかいないと信じていた。
テーブル・トークでヒトラーは自らの宗教観、宇宙観を語っているが、神への篤い信仰心と共に、キリスト教や共産主義、ユダヤ人への憎悪が混じっていいるのが特徴だ。
ヒトラーは反キリストとして語られるが、それはヒトラーのキリスト教嫌いが有名だったからだ。ヒトラーはキリスト教を嫌ってはいたが、イエス・キリストには敬意を払っていた。ヒトラーはキリストはユダヤ人ではなくアーリア人と信じていた。そしてキリストの直接の教義はユダヤ人によって著しく歪められたと信じていたのだ。
ヒトラーはキリストを憎んだのではなく、イエス・キリストの死後に形成されたキリスト教という宗教サークルを憎んでいたのだ。
キリスト教をユダヤ教の一派として激しく論破しながら、一貫として自らをイエス・キリストに擬し、”ユダヤ人の追放にあたり、私は寺院のイエス・キリストを思い出す”とまで言っていた。
「ユダヤ人は宗教の名の下に、それまで寛容が支配していた世界に非寛容を持ち込んだ。ローマ人の宗教は限界を知る人間の謙虚さの表れだった。知られざる神々の神殿まで作るほどだったではないか。かってユダヤ人は古代社会にキリスト教を持ち込み、破滅をもたらしている。今、また社会問題の解決とやらを口実に同じことを繰り返そうとしている。同じ手口だ。かってサウロが使徒パウロに変身したように、現在、モルデガイがカール・マルクスになったのだ。」
「イエスの教義を決定的に歪曲したのは聖パウロである。彼は個人的野心を秘めて、巧みにやってのけた。ガラリヤ人の目的は祖国をユダヤ人の圧政から解放する事であった。イエスはユダヤ人の資本主義、物質主義に対抗し、そのためユダヤ人に抹殺されたのである。」
ヒトラーはなおも語る。
ローマ人の宗教的考え方はすべてのアーリア民族に共通するものがある。一方、ユダヤ人は昔も今も黄金の小牛を拝み続けている。ユダヤ人の宗教には形而上学的なものも基盤もない。あるのは忌まわしい物質主義だけだ。
ユダヤ人が宗教的なコミュニティーという性格を見せ始めるのは聖パウロの時代からだ。それ以前は単なる人種的コミュニティーに過ぎなかった。聖パウロは宣伝手段として宗教を利用した最初の人間である。
ユダヤ人がローマ帝国の崩壊を導いたとするなら、それはユダヤ人に対立するアーリア人の地域的な運動を、超世俗的宗教に変えた聖パウロのせいであろう。その宗教は人間の平等と唯1神への服従を求めていた。それがローマ帝国の死を招いた。
ヒトラーはテーブル・トークの中で延々とローマとユダヤの錯綜を語っていく。
―――イエス・キリストはアーリア人であったと言っている。金髪と碧眼の風貌の持ち主であると、ヒトラーは強調する。この主張は一部の聖書研究者にもみられる。―――
キリスト教については、
―――キリスト教の到来は人類にとっては最悪の事件だった。ボルシェヴィズムはキリスト教の私生児である。どちらもユダヤ人の生み出したものだ。宗教に嘘を持ち込んだのはキリスト教である。人間に自由をもたらすと言いながら、実際には奴隷にしようとしているのだ。
古代の宗教の神官は自然により近く、物事の意味を求めるにも謙虚さを持っていた。ところがキリスト教は、その矛盾に満ちた教義を力ずくで宣伝、強制する。非寛容と迫害を内包した血まみれの宗教だ。
科学が独断的な態度を取るようになれば、それは教会と同じになってしまう。神が雷光を起こすという時、ある意味では正しい。しかし教会が主張するように、神が落雷を発生させる訳ではない。自然現象についての教会の説明が間違っているのは、教会に下心があるからだ。己の弱さと無知を知る者には真の敬虔さがある。礼拝堂にしか神を見られないのでは、本当の敬虔とは言えない。―――
ヒトラーのキリスト教嫌いは宗教的理念に基づくというよりは魔術的理念に基づいていると言える。
・・・魔術とは何か、それは太古より伝わる精神変容の秘法である・・・(魔術入門、カバラの密儀、W・E・バトラー)・・・
精神の変容は今日でいう”科学的な根拠”に基づいて行われる。意味不明の呪文を唱える事で、目の前の情景が変化するのではない。
神崎はヒトラーがキリスト教を嫌う理由が理解できた。ヒトラーの宗教観を読み解く事で、ハーケンクロイツの秘法の一端が理解できると思った。
ヒトラーの求めた究極のハーケンクロイツの秘法とは、キリスト・イエスのような優生人種を、将来誕生させる事ではないか。
中世のキリスト教のような、僧侶による、”神を利用して愚民から富を巻き上げる制度”をヒトラーは嫌ったのだ。
パソコンの画面を見詰める神崎の眼はここで止まる。
「これはヒトラーに憑依した霊の声だ」神崎は独り言のように呟く。ゆみは黙って頷く。
―――歴史の中の黒い闇ーーー
ヒトラーとチベット
平成23年の正月を迎える。2人は犬山の大県神社に向かう。正月ばかりは参拝客で賑わっている。神主さんは大忙しで会う事は出来ない。
”おじいちゃん”牛島裕一は昨年の暮れに大県神社を出ている。何処にいるのかは不明だ。
レストラン茶舗でお雑煮を食べる。正月は何処へ行っても人混みで一杯だ。正月は家の中で過ごすに限る。神崎もゆみも人混みが苦手だ。家に帰ってお屠蘇で正月気分を味わう。
正月も過ぎる。1月中旬となる。2人は無言のままパソコンに向かう。牛島裕一から言われていたチベットの問題に取り組む。
―――彼は20世紀最大のオカティストであった。ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフをそう評価したのはイギリスの思想家コリン・ウィルソンだった。
グルジェフは1870年頃にアルメニアのアレクサンドロポールで生まれた神秘思想家である。
グルジェフとナチスの間に何らかのつながりがあったと主張するのはグルジェフの門弟でフランスの神秘思想家ルイ・ポーウェルだ。彼の主張の論拠の1つは、グルジェフとチベットとの深い関係にある。
グルジェフが求道の目的でチベットを訪れたのは1905年である。グルジェフはロシア皇帝の密使としてチベットに入国している。当時のチベットはイギリスと中国の帝国主義的な圧力に悩み、それに対抗する力をロシアに求めようとしていた。
やがてチベットはイギリスに侵略される。ダライ・ラマは国外へ脱出する。グルジェフは今度はダライ・ラマ の密使としてロシアに現れる。だがロシア革命が起きたため、グルジェフはヒトラーのナチス帝国に援助を求めた。
1941年冬ドイツはロシアのコーカサス地方に侵入したが手痛く跳ね返された。翌春、再び侵入。SS(ナチス親衛隊)の登山隊が、コーカサス山脈の”聖なる山”エルブローツ山頂に登る。”聖なる鉤十字旗”を打ち立てる。このコーカサス地方こそグルジェフが生まれた土地で、彼が大いなる秘密を求めて最初にさまよったのが、コーカサス山中の古代文明の地だった。
グルジェフはチベットに滞在中、結婚して長男をもうけた。長男は成長してラマ僧となり、僧として高位の階層に進んでいる。
グルジェフの長男はヒトラーのナチス帝国にいたチベット人グループに接触している。
ヒトラーの側近、ラウシュニングは、ヒトラーは”新しい人間”について語っていると言った。
「私は新しい人間にすでに会った事がある。彼はひどく沈着で、しかも残酷だ。私も彼と対面した時は恐ろしかった」と語りながらも、ヒトラーは恍惚として身を震わせていた。
1949年、グルジェフはヒトラーについて以下のように語っている。
「ヒトラーが権力を握るようになったから、人類は歴史上まれに見るターニングポイントに差しかかった。人類が彼の存在に対して、どのような反応を示すかがはっきりするまで、私は黙って見ていなければならない」―――
ハウスホ―ファー
ハウスホ―ファーはドイツの代表的な地政学者である。彼は第1次世界大戦で数々の軍功をあげた将軍で、大戦後はミュンヘン大学の地政学教授となった。
彼はベルリンに秘密結社ヴリル教会をつくる。この結社の目的はアーリア人種の根源を探る事にあった。
1923年、ハウスホ―ファーはランズベルクの刑務所でアドルフ・ヒトラーと会見する事になる。この会見はヒトラーの片腕であり、ミュンヘン大学でハウスホ―ファー教授の教え子であったルドルフ・ヘスの仲介によって実現した。ハウスホ―ファーは毎日のようにヒトラーを訪問する。
彼は、ユダヤ人によるドイツ支配を崩して、ゲルマン民族による世界支配を説いた。その上オカルティズムによる世界征服をヒトラーに植え付けた。
ヒトラーに”我が闘争”の執筆を勧めて、共同執筆者となる。(1924年12月20日までヒトラーは刑務所に収容されていた。我が闘争はその間に執筆された)
ハウスホ―ファーは1920年代にヒトラーの政治顧問を務める。同時にトウーレ教会の黒幕ディ―トリヒ・エッカルトに次ぐ、ヒトラーの第2の秘密助言者となる。
ヒトラーはハウスホ―ファーとの出会いの後、ミュンヘン大学へ聴講に行く。ハウスホ―ファーの尽力で大学の図書館に通いつめ、独学で収蔵されている図書の大半を読破した。これをみたハウスホ―ファーはヒトラーに言った。
「君は人が4年かかっても出来ない事を、わずか1年でやり遂げた。君は素晴らしい天才であり、全ドイツ国民が君を求めている」
ハウスホ―ファーやその他のヴリル協会のメンバーの後押しによって、ナチスは何度もチベットに調査団を派遣する。1926年から1942年までの派遣で、チベットの僧侶に接触して深い関係を築き上げる。
1926年にベルリンとミュンヘンにチベット人区ができる。1929年にチベットの海外本部がドイツに設立される。
だがチベットは全面的にナチスに協力したわけではない。ナチスに協力したのはチベットの一派だけだ。彼らはドイツでは緑の手袋の会と知られている。これは数百年に及ぶ日本の緑龍会との強い繋がりから来ている。
ベルリンでヒトラーはチベット教団の指導者と会っている。彼は青衣の魔術師、緑の手袋をした男と呼ばれている。透視能力や予知能力に長けた僧侶だ。彼はドイツ議会で選出されるナチスの代表議員を3たび正確に予言した。更にヒトラーがドイツの指導者になる正確な日付や、第2次世界大戦が始まる日まで予言した。
緑龍会はハウスホ―ファーが日本駐在の武官時代に入会した秘密結社である。この会の起源はチベットにあった。
ハウスホ―ファーは日本に関する沢山の著書を残している。ハウスホ―ファーは日本人達の間における不思議な一体感に関心を抱いていた。彼は言う。日本民族は島国的な生存圏に対するあらゆら危険をテレパシーのように敏感に感知する能力を持っている。この一体感はドイツには欠けていた。それ故、ナチスがドイツ民族を集団化させるのに、いかに苦心したかが判る。
ハウスホ―ファーは当時の日本の生活圏拡大の動きに理解を示したが、そのすべてに賛成したわけではなかった。
満州の日本による秩序化までは認めたが、それ以上は侵略であるとともに、全く勝ち目がないと日本軍部にアドバイスしていた。
1936年夏、日本軍部が蘆溝橋事件によって支那事変に突入する。彼は在日のドイツ武官を通じて、この無謀な侵略を中止するように警告していた。
ナチスと来るべき民族
1871年イギリスの小説家ブルワー・リットンによって、”来るべき民族”が出版された。この本はヒトラーの思想に大きな影響を与える。
来るべき民族―――地底で栄える高度な文明社会の秘密を描いた物語である。
地底民族”ヴリル・ヤ”はもともと地上に住んでいたが、大洪水などの天変地異を逃れて、山中の洞窟に避難して、最終的に地底に都市を建設する。そこで凄まじい未知エネルギー”ヴリル・パワー”を発見する。地上の人類より遙かに進んだ科学力を駆使する。さらにヴリル・パワーでサイキック能力をも開花させるようになる。
ヴリル・ヤはいつか地上に出て、地表民族を滅ぼして地球を支配する事を目的とする。
来るべき民族は創作であるとブルワー・リットンは主張するが、彼は神秘思想に造詣が深く、薔薇十字系の結社の会員であったので、魔術に興味を持つ人々から実話とみなされたのである。
この本にハウスホ―ファーが夢中になった。彼はこの本をヒトラーに貸し与えて、ヒトラーの夢中になった。そして、チベットのシャンバラ伝説とナチスを結び付けるうえで、重要な役割を果たす事になる。
ハウスホ―ファーはアジアの神秘主義に精通していた。チベットの地底王国アガルタを中心とした中央アジアこそゲルマン民族発祥の地と信じていた。
地底王国は瞑想の場、神の隠れた都市、世界のどんな人間も入れない場所であって、その都市シャンバラはその力が個々の人間や集団に命令を下し、人類が時代の転換点へと達するのを援ける町であると述べている。
その上で彼はこの地域を完全に支配する事で、世界をユダヤ人の支配から解放して、ゲルマン人による世界制覇を達成する事だと主張した。
1925年、中央アジアを探検したポーランド人の地理学者F・オッセンドフスキーの”獣、人間、神”が出版されると、地底の超人達の存在に関するヒトラーの確信は不動のものとなっる。
ヒトラーはブルワー・リットンの生活を詳しく調査させた。ブルワー・リットンが”ヴリル・ヤ”にいたる行動を発見したと思われる鉱山の正確な場所等を割り出させた。
またヒトラーはシャンバラと深い関りのあると思われるチベットの僧侶を大勢ベルリンに迎えた。彼らはベルリンの随所に配置され、ナチスの勝利を祈る儀式を行った。ヒトラー自身も、政策を勧める上で、高位の僧侶に意見を求めている。軍事行動を起こす時、ヒトラーは特殊なチベットの秘教カードを用いて、一種の易を立てている。この方法はトウーレ協会でも用いられていた。
ドイツのチベット人とカール・ハウスホ―ファーはヒトラーから高い評価を得ていたが、それも1941年までの事だった。
その後、ソ連軍がスターリングラードでドイツ軍を撃破し、戦局が不利になる。ヒトラーはチベットの魔力を以前ほど信じなくなっていた。ハウスホ―ファーへのヒトラーの信頼度も低下する。そしてもっと邪悪なフリードリヒ・ヒールシャーがこれにとって代わる。
フリードリヒ・ヒールシャーはハウスホ―ファーより更に高度の魔術集団に属していた。ヒールシャーの冷酷で魔術的な指導でヒトラーは急速に破滅の道を辿る事になる。
金子民雄著ナチスのチベット探検によると
―――ドイツとチベットとは20世紀初めから、探検や学術調査を通じて密接な関係にあった。特にチベットの桃源郷シャンバラをヨーロッパに初めて紹介したのはドイツの古代インド学舎グリュンヴェ―デルである。彼は述べる。
「ナチスは中央アジアに関心を持っていた。特にナチスは古代インド、ペルシャ、チベットから転用した彼らのシンボルマーク、ハーケンクロイツとのかかわりを重視した。」
ナチスによれば、アジアはアーリア民族の古い揺籃の地であった。ここにアーリア民族が隔離された住んでいる。チベット人は民族的に見て”純粋”な種であるという。
「このヒマラヤの彼方、チベット高原のどこかに、理想郷シャンバラが存在すると彼らは信じていた。だがこれはジェームズ・ヒルトンが捏造した地上楽園シャングリ・ラの原郷であった」
このグリユンヴェ―デルに興味を抱いたのが、SSの長官ハインリッヒ・ヒムラーである。ヒムラーは
エルンスト・シェーファーをチベットの探検に派遣する。シェーファーは親衛隊(SS)の少佐であった。
シェーファーのチベット遠征に参加したブルーノ・べガーはヒムラーが創設した親衛隊の組織アーネンエルベの隊員だった。
ヒムラーはチベット人がスカンジナビア(北欧)地方から移住していった後裔であり、そこには失われた大陸アトランティスからの移民が建てた文明が存在していたと考えていた。その考えを証明しようとしたのがベガーだった。
神崎はここまで読んで一息つく。
・・・おじいちゃんは、ヒトラーの行動はすべてハーケンクロイツの秘法と結びついているという・・・
そうならばチベットに夢中になったヒトラーは、ただ単にチベットの理想郷シャンバラやチベットの超能力者を得ようとしたのではない。
第2次世界大戦のヒトラーの行動は謎に満ちている。大戦初期のナチスは大いに戦果をあげて、ほぼ全ヨーロッパを手中にしている。
1941年以降、ヒトラーはモスクワへの無謀な侵攻、アメリカに対する宣戦布告など自殺政策を取り始める。
ドイツ近代史の坂井栄八郎氏のドイツ史十講以下、
―――ヒトラーは戦争を止めない。止めないばかりか、日本の真珠湾攻撃(1941年2月8日)に合わせるように、12月11日アメリカに対して宣戦布告をする。3国同盟があったにせよ、それは日本に合わせてドイツが参戦する事を義務つけるものではない―――
ソ連制圧の失敗で窮地に追い込まれたドイツ側が、対米宣戦という対独参戦の機会をアメリカに渡している。これを合理的に説明するのは困難である。
ドイツの歴史研究家セバスチャン・ハフナーはその著ドイツ帝国の興亡で以下のように述べて困惑している。
―――対米宣戦は、第2次世界大戦でのヒトラーの決定の中でも最も不可解な決定だ。私も実際の所その説明が出来ない。私がいくつかの著作の中で様々な回答の可能性を論じた。入手可能な限りの歴史家達の書いたもの全てを読んだ。それでも私自身の仮説にも、歴史家達の仮説にも、本当に何一つ納得できないのだ―――
あるヒトラー研究家は、この謎を解くカギは”絶滅と再生の思想”にあるとして以下のように述べる。
―――絶滅と再生の思想によると、人類の文明は周期的に絶滅と再生を繰り返しながら現在に至っている。
大洪水や世界の終末を描いた神話、伝承は世界中に残っている。それらは文明の絶滅と再生を描いたものである。この思想は太古より受け継がれてきた叡智であるが、ヒトラーはオカルト研究を通じてこの叡智に触れ、それを実践しようとした。
ヒトラーは敗戦を目前にして「我々は決して降伏する事はない。が滅亡する事はありうる。しかしそのときは世界を道連れにするだろう。ラグナロクだ。世界を焼き尽くす炎だ」と言っていた。
つまり既存の文明を滅ぼす事で、新たな文明を創造しようとした。
北欧神話には世界の終末に関する巫女の予言ラグナロクがある。このラグナロクは勝利者なき神々の最終戦争で、この最後は炎の巨人王スルトが世界に究極の火を放って、全てを焼き尽くし、世界を滅ぼす。その滅び去り廃墟と化した世界で、僅かに生き残った若い神々と、生き残った2人の男女から再び生命が芽生える。これを今生の世界という。
一方、藤本憲幸氏はヒトラー敗北の真相を描いている。
―――19世紀後半から、20世紀初期にかけて、伝説の理想郷シャンバラへの関心が高まる。地底王国ブームが起こり、世界各地にシャンバラの秘密結社ができる。
ヒトラーはシャンバラの秘密を握る事が自分を世界の覇者とする道と信じ、国家的な探査のプロジェクトに取り組む。
1936年、ヒトラーは「シャンバラは確実に存在する」の第1報をシャンバラ探検隊から受ける。
1940年6月にフランス軍を降伏させる。シャンバラの秘密を手に入れるため、ヒトラーは次々と積極的な行動に出る。
だがヒトラーにとって予期せぬ出来事が起きる。遅遅として進まぬ秘密兵器の開発である。あと一歩というところで科学者の頭脳にブレーキがかかる。
私(藤本)はこのところをシャンバラ研究家に問うた。
「その時何が起こったのですか」
「シャンバラがブレーキをかけたのだ」研究者は答えた。
1941年6月
ヒトラーはソ連に進攻のバルバロッサ作戦を開始する。当初順調だったこの作戦は11月に入ると侵攻速度が落ちる。
戦局が思い通りに展開しない事にヒトラーは焦りを覚える。1941年あき、国内の不満や厭戦気の矛先をそらす目的でユダヤ人問題にけりをつける。”最終計画”を断行する。
このような状況の中でシャンバラの大師(神のような超能力者達)はヒトラーの計画を封じるためとシャンバラの秘密が漏れないようにする為に、シャンバラに通じる全ての扉を閉じたという。
そうした中で戦局が進む。
1941年12月
日独伊3国同盟を結んでいた日本が真珠湾作戦を決行。アメリカとの間に戦端を開いた。太平洋戦争の勃発である。このところヒトラーは遅々として進まぬ秘密兵器の開発に苛立ちながら、アメリカに宣戦布告する。
一方、ソ連侵攻のバルバロッサ作戦は、スターリングラードに冬将軍が襲っていた。この時ドイツ軍は冬装備を欠いていたので、1943年1月ドイツは戦わずして降伏状態となる。
この作戦を、多くの歴史家は、ヒトラーの冷酷な性格、戦略の不備を指摘する。しかしヒトラーには誰も考える事のできなかった新しい秘密作戦があった。
”大空変動作戦”である。これは電磁波を用いて、自由自在に天候をコントロールして、氷点下を温暖に、その温暖を熱帯に変える作戦であった。これによってヒトラーはスターリングラードの冬を夏に変えられると信じていた。
しかし、失敗した。
あと一歩というところで、電磁波の放射が思うように働かなかった。シャンバラ研究家に言わせれば「シャンバラからのブレーキである」
ヒトラーにとって思わぬ誤算となった。
ヒトラーはシャンバラの科学力とその秘密を懸命に調査していた。しかしシャンバラ側は次第に非協力的となり、全ての扉を閉ざしてしまった。シャンバラはナチスの指導者の意図を見抜いていた。彼らの野心を知り、全ての扉を閉ざしてしまったのだ。
チベットのアデプト(大師の方々)は、ナチスの幹部とヒトラーにアストラル界からの闇のエネルギーを放出した。そのためナチスは破壊のエネルギーに満たされて、世界中の古い誤った思想が崩壊した。
ヒトラーにとって、チベットは神秘と魔術の国だった。ハウスホ―ファー率いるヴリル協会はドイツ人、日本人、インド人、トルコ人、セイロン人、チベット人と様々な国のメンバーで構成されていた。ヒトラーもまたヴリル協会協会の1員だった。
ヴリルのメンバーは、陰の統領はチベットに起源を持つと信じていた。協会の目的は、アトランティスの子孫アーリア人種の血に眠る魔術の力を覚醒させる事にあった。
ヒトラーはごく近い未来に、進化したアーリア人が過去でも未来でも自由に時間を移動できるようになる、すなわち人類の未来の運命を見ることができるようになるという。進化の過程で”キュプロスの目”が開眼すると、時間の秘密の鍵が開いて、肉体の眼で世界を霊的に感知するようになる。
ハウスホ―ファーはナチスに度々チベットへ調査団を派遣させる。チベットのシャンバラ修道士(シャンバラ崇拝)との接触を試みる。シャンバラ修道士はフリーメーソンを通じての活動を選んだ。
ナチスに加担したのは”緑の手袋の会”と呼ばれるアガルティ修道士(シャンバラの地下霊的指導者崇拝)である。緑の手袋は緑男の会とも呼ばれて、日本で数百年続く緑龍会と深い関りを持つ。
緑の手袋の会の正確な予言は、ヒムラーとナチス党に影響を与える。ヒトラーはベルリンにオカルトカレッジを開設。SS親衛隊幹部に、このカレッジで魔術過程を取るように命じる。
ヒムラーはナチスオカルト局を創設。ドイツ支部にヴリル協会、トウーレ協会、アレイスター・クローリ―の魔術結社OTOを1つにまとめる。
1945年戦争が終結。ベルリン東部地域に奇妙な光景が現れる。ドイツ軍の軍服を着たチベット人の遺体である。ハウスホ―ファーも緑龍会の誓いに従い切腹した。
ハウスホ―ファーが死んだ後、奇妙な話が伝えられる。
ナチス党幹部数名がベルリンの廃墟から秘密の地下道を抜け、チベット人のシャンバラやヨーロッパ各地、遠く南米に逃亡したというものだ。
「こんな話、普通の人は信じるかしら」ゆみの感想だ。神崎は黙って頷く。
「チベットとハーケンクロイツの結びつきは何となく理解できる・・・」神崎は独り言のように呟く。今度はゆみがうんまずく。
「結局、ハーケンクロイツの秘法って何かしら・・・」ゆみは神崎を見詰める。
「破滅と再生。。。、これに近いな・・・」神崎は答えたものの自信がない。2人は顔を見合わすだけだ。
2人ともほとんど外に出ない。室内は適度の暖房が効いている。パソコンや寝室は2階にある。食事の時だけ1階に降りる。2人ともラフな服装だ。
緑龍会の秘密
平成23年の1月も過ぎる。2月は1年で最も寒い季節となる。春にはチベット人が日本にやって来ると言う。会うのが楽しみだ。ヒトラーとチベットについては、不明な点が多々ある。それに手島のおじいちゃんにも会いたい。
ゆみはパソコンを見ている。神崎はテレビを観て過ごす。ゆみは時々珍しい情報を見つける。神崎に声をかける。神崎のこの時ばかりはパソコンのモニターに釘付けとなる。2人は息の合った夫婦だ。何事もなく平穏な日々が流れる。
3月になる。朝晩の厳しい寒さが緩む。
3月中旬、神崎家に大惨事が発生する。2人はいつも11時頃に就寝する。その日は何故か9時頃に床に就く。それ程疲れている訳でもないのに、すぐに熟睡に入る。真夜中、・・・昭太郎、起きろ・・・頭の中で牛島裕一の声がする。まだまどろみの中だ。夢を見ているのかと、うとうとする。声は執拗に続く。次第に頭に中がはっきりしてくる。
・・・生暖かい・・・寝る時には暖房のスイッチは切っている。
・・・ゆみさんを起こせ。家を出ろ・・・牛島の声は緊迫している。
神崎はあわてて飛び起きる。ゆみを起こす。胸騒ぎを感じて、階段を下りようとする。
「ゆみ!、火事だ。一階が火の海だ。」
・・・服を着ろ。何も持ち出すな。窓から飛び降りろ・・・
「おじいちゃん!」神崎は助けを求めるように叫ぶ。
火事で怖いのは、煙に巻かれる事だ。2階はすぐにも煙が充満する。早く外へ出ないと窒息死する。
「おなた!」ゆみは怯えている。
「ゆみ、服を着ろ!」洋服ダンスから服を取り出して着る。2階の窓は肘掛け窓である。建物が古いのでベランダがない。2階は3部屋ある。北側の一部屋が夫婦の寝室である。南と東の2部屋がパソコンを設置した仕事部屋だ。
・・・南の部屋の窓から跳べ・・・牛島の声は容赦がない。
・・・跳べって言ったって・・・地面まで5メートルはある。
・・・ゆみさんを抱いて跳べ・・・
この時、神崎の体内に不可思議な力が漲る。ゆみは神崎の背中に抱き付いて震えている。
・・・跳べるか・・・
神崎はためらっている。照明灯が点灯しない。暗い部屋の中で、ロープはなかったかとそのの所在を思いめぐらす。2階の床が熱くなってくる。1階の天井に火が回っているようだ。
「窓を開けよう」神崎は4枚引きのサッシ窓を開ける。床下から窓の位置まで約1メートル。何とかして窓の外に出ようとした。
窓を開けたその時だ。階段の方から熱風が吹きあがってくる。と思う間もない。部屋のドア越しから火の牙が襲い掛かってくる。
「熱い!」ゆみは叫び様、神崎にしっかりと抱き付く。
神崎はゆみを両手に抱きしめると、窓の外へ跳躍する。奇跡が起こる。2つの体は跳ねるようにして庭に跳び下りる。幸い庭は芝生だ。本当なら2人は真っ逆さまに落下する筈だ。不思議な事に、神崎とゆみは、実にゆっくりと地面に着地する。
驚いている暇はない。
・・・南へ走れ・・・牛島の声が神崎の脳裏に響く。2人は裸足だ。家の西側に南北に走る道がある。建物の2階の窓から火の手が上がっている。1階部分が激しく燃えている。
「火事だ、神崎さんの家が燃えている!」近所の人が騒いでいる。
「ゆみ、振り返るな」冷たいアスファルトの道を駆ける。百メートル程走る。道は十字路となる。牛島の声で西に曲がる。ここからは田園風景が拡がっている。しばらく行くと、道が広くなる。1台の軽4のワゴン車がある。牛島の指示で車に乗り込む。車の中には衣服や靴、食料、当座のお金が入っている。身支度を整えると、2人は犬山の大県神社に向かう。
「どうして家が火事になったの」火の気はないはずだ。
「放火だ」神崎はポツリと答える。
「我々を殺そうとする者がいる」神崎の声にゆみは愕然とする。
運転席の時刻の表示が2時半を指している。携帯電話もない。着の身着のまま逃げ出してきた。
「パソコンのデータ、なくなっちゃった・・・」ゆみは情けない声を出す。神崎も慰めようがない、無言のまま車を走らす。大県神社に到着したのは明け方の5時である。
レストラン茶舗の駐車場に車を置く。大県神社の赤い鳥居をくぐる。神殿横の入母屋の建物の方へ歩く。社務所と本居神主の住まいになっている。
玄関先に、本居神主の白衣姿と、町田のジャンバー姿、髪の長い石田のセーター姿があった。3人は神崎とゆみを見ると深々と頭を下げる。
「大変な事になりましたな」本居神主は落ちくぼんだ眼で神崎とゆみを代わる代わる見る。町田と石田は2人の肩を抱くようにして玄関の奥に招き入れる。
「詳しい話は後で・・・」2人は奥の一室に案内される。
「まずはしばらくお休みください」2人は用意された寝具の中に身を置く。激しい疲れがどっと出る。
2人が眼を覚ましたのは午前11時頃。起き上がると部屋を出て、本居神主の部屋に行く。神主は幣帛の製作に余念がない。町田と石田は榊の枝を整えている。3人は2人を見ると、笑顔で迎える。
「眠れましたかな」本居神主は声をかけながら、テレビのスイッチを入れる。丁度ニュースの時間だ。アナウンサーが東浦の神崎邸の火事を報じている。神崎の家はほぼ全焼、神崎の車も無残な姿を晒して映っている。火事の火元はキッチンとみられ、失火による火事との見方を伝えている。神崎昭太郎、妻ゆみの身元は不明であること、2人の行方を捜していると伝えている。
「僕たち、これからどうなるのでしょうか」2人の不安そうな顔。
「神崎さん、食事をしながら、全てを話しましょう」町田は厳しい顔で言う。
レストラン茶舗は5分ぐらいの客の入りである。一番奥の座敷で昼食を摂る。
神崎は深夜に牛島の声で起こされた事。2階に火の手が迫っていたので窓下の地面までゆみを抱いて跳躍した事を話す。
「こんな事、人間技ではないですよ」話しながら、すでに車が用意してあった事も話す。
真剣な眼差しで聞いていた町田が、驚愕の事実を話す。
―――緑龍会―――
緑の男、または緑の手袋の秘密結社は、日本では緑龍会と言われている。日本に来たハウスホ―ファーとドイツ人7名が入会したと言われているが、この会は謎に包まれている。秘密結社と言えばフリーメーソンが有名だ。一般に流布していて、有名な政治家や富豪などが会員となっている。だが一般に知れ渡っていると言う事は、もはや秘密結社とは言えないのだ。
緑龍会は徹底的に超能力にこだわる。身分や財産の有無にはとらわれない。超能力を身に着けているかが入会の唯一の条件となる。
フリーメーソンは入会者から上級者まで厳しい階級制度(縦の関係)がある。緑龍会は階級制度は存在しない。入会者も古参の者も同等に扱われる。
彼らの目的はただ一つ、超能力を発現して、人間以上の存在へと進化する事にある。地球上において進化の頂点にあるのはチベットのシャンバラに住まわれるアデプトと言われている。
緑龍会の起源はチベットにある。チベット密教は超能力開発を主眼に置いている。チベット密教がいつ頃日本にやってきたか定かではない。平安時代に空海と共にやってきたという説もある。全て謎である。
緑龍会の会員としての目印は緑の手袋をはめる事だ。公共の場では決して緑の手袋を見せない。見せるのは入会資格者のみだ。緑の手袋を見た者は否応なしに入会者となる。緑龍会のメンバーは何処に居ようと、テレパシーで連絡し合う。
「でも、ゆみは超能力を持っていない・・・」神崎はいたわるようにゆみの肩を抱く。
町田は微笑する。
「ゆみさんは、ハーケンクロイツの日に大きな働きをします。神崎さんと共にね」
神崎とゆみは互いに顔を見合わせる。質問はしない。
町田は柔和な表情だが、目元が厳しくなる。
「ヒトラーが出現した事で、緑の手袋の会は転機を迎えました」町田の言葉が続く。
ヒトラーは超能力者集団としての復讐の騎士団を設立した。それと前後してチベットの超能力者集団を招く。日本の緑龍会のメンバーもヒトラーに招待される。
ヒトラーは不思議な魅力を持っていた。彼の声は力強く、神か悪魔が宿っているような説得力を持っていた。ヒトラーの予言を聴いて、破滅と再生の秘儀を信じる者もいた。
終戦後、緑の手袋の会は2つに分かれる。1つは超能力の修得に務める者と、ヒトラーの予言の成就を願う者だ。
「牛島さんは我らの頂点に立つ人だ」町田の眼は相変わらず厳しい。
7人のチベット人に出会った事が牛島の人生を変えた。彼らはヒトラーの破滅と再生の儀式、ハーケンクロイツの秘法を阻止する為に日本にやってきた。そしてベルリンで死んだ。一方、ヒトラーを信じる緑龍会の一派は牛島の動きを封じようと暗躍している。
「私達を殺そうとしたのも・・・」神崎が問う。
町田は大きく頷く。
「君たちは、ハーケンクロイツの秘法を封印するのに必要な人物なのだ」神崎とゆみを殺す事で、ハーケンクロイツの秘法を成就させようとしている。幸い牛島が神崎邸の放火を予知して手を打った。
「ここに居る限り、身の安全を保障する」本居神主の声。
放火された後の神崎の土地は町田の手の者が管理すると言う。そして、「ここ2か月ばかり大県神社で暮らす」と町田の言葉。今日から超能力の訓練が始まると付け加える。
チベットの真実
放火で命からがら逃れてきた神崎とゆみ、本宮山の麓の不思議な世界で訓練が始まる。
不思議な世界は以前の様に地下洞窟に音響設備が整えられる。超能力開発というと、寒風吹きすさぶ中での滝行や水を飲むだけの断食など身を削るような荒行を思い起こす。
緑の手袋の会の超能力開発は、潜在意識の下の深層意識に直接働きかけるものだ。人の耳には聞こえない音波を脳に送りこむ事で脳の働きを活性化していく。
こうして鍛えられた脳は異常時に、火事場のバカ力のような能力を発揮する。
平成23年5月中旬、
神崎とゆみは大県神社の本居神主に別れを告げる。町田と石田な伴われて牛島の生まれ故郷へと向かう。朝9時に出発。
「これからは、あなた達の居場所は敵に丸見えです」町田の声に、2人は緊張する。
牛島の故郷は岩手県釜石市内のお寺。近くに五葉山がある。4人は犬山から一般道路で釜石市まで向かう。途中、民宿で一泊する。町田が今後の予定を告げる。
「寛いでコーヒーでも飲んで・・・」石田は後部座席の神崎とゆみに熱いコーヒーを進める。
車は犬山を出て小牧、春日井市に入る。瀬戸市に差し掛かる。神崎とゆみは深い眠りに襲われる。
2人が眠りから覚めたのが10時頃、大県神社を出発したのが朝8時頃だ。2時間ばかり寝入っていたことになる。周囲を見渡すと山の中だ。高速道路と間違えるような道路を走っている。
町田が説明する。牛島の故郷の釜石に向かうと言ったが、嘘だと言う。今は岡崎の東の山の中にある鳳来町に来ている。国道151号線を北上している。目的地は鳳来寺山の麓の湯谷温泉、その近くの愛宕神社だと言う。
驚く2人に、町田は諭す様に言う。彼が車を運転している。町田の顔はバックミラーから見える。
”敵に悟らせないため”
もう一派の緑龍会のメンバー達も超能力者集団だ。神崎たちが目的地をあれこれと思い浮かべたり、走行中の風景を脳裏に記憶させたりすると、敵がその情報を読み解いてしまう。早い話心を覗かれて、居場所を知られてしまう。だから睡眠薬入りのコーヒーを飲ませた。
「目的地まであと10分くらいです」助手席の石田は白い顔を後ろに向ける。彼女は優しい顔をしている。
愛宕山神社は鳳来寺山パークウエイの入り口近くにある。飯田線湯谷駅から徒歩で5分くらいである。この近辺には神社仏閣が点在している。愛宕山神社の裏手に30坪ほどの納屋のような建物が建っている。周囲は雑木林だ。湯谷は温泉地なので観光客で賑わっているが、愛宕山神社の境内地の奥までは誰も来ない。「隠れてチベット密教の修行をするのにもってこいでね」町田はハンドルを握りながら笑う。
ここにはすでに牛島裕一と5人のチベット人が到着している。
・・・久しぶりにおじいちゃんに会えるのか・・・神崎の心が浮き立つ。車は宇連川に沿って北上する。登り道だ。愛宕山神社は湯谷大橋の手前にある。道路からよく見える。道路を右折して2百メートル程入ると愛宕山神社の駐車場となる。
駐車場に車を止める。北西の方向に鳳来寺がそびえている。湯谷温泉街が間近に見える。一歩奥に入ると閑散としている。鳥居をくぐり、神殿に向かって柏手を打つ。
神社の北東奥まで歩く。バラック建ての建物が見える。神社の建物にかくれているので道路からは見えない。参拝客も余程のもの好きでない限り、ここまで足を踏み入れない。建物の背後は雑木林や孟宗竹で覆われている。この建物は元々伐採用の道具入れとして建てられた。近年になって伐採は専門業者に委託している。このため建物は参拝者や神社の宿泊施設として改造さている。
今回は大県神社の本居神主からの依頼で借りることになった。
東西に長い建物の西寄りの南側にある玄関。すりガラスの引き戸だ。畳1枚分のポーチ、奥に続く廊下。
玄関を入ると「待ってましたよ」牛島老人のにこやかな顔が出迎える。白髪で顔のしわも深い。浅黒い肌、歳の割にがっしりとした体格だ。
「おじいちゃん!」神崎は靴を脱いで玄関に上がる。牛島に抱き付く。
「こちらへ」牛島は神崎とゆみの肩を抱いて、西側の部屋に案内する。8帖の和室だ。部屋の隅に流し台がある。
部屋には5人のチベット人が胡座している。牛島とチベット人は黒のスポーツウエアを着ている。皆坊主頭だ。部屋の中央にテーブルがある。10人の人間がテーブルの周りに座を設ける。部屋が狭苦しくなる。
「挨拶は抜きだ。これからの事を話す」牛島は一同を見回す。
「平成24年12月20日までここに滞在する」声は優しいが威圧感がある。誰も反論しない。
「もう理解していると思うから詳しくは語らない」牛島は、ハーケンクロイツの秘法は2039年に発現されるとという。
「発現って…」神崎が口を挟む。
牛島老人は慈しむように神崎を見る。
「ルシファが完璧な姿で蘇る。神のような姿で」
室内がざわつく。牛島は言葉を続ける。
2039年はヒトラー誕生後150年目に当たる。そして、1989年、昭和天皇崩御の年はヒトラーが生まれてから百年目だ。知っての通り、日本ではバブル経済の崩壊、中国経済の台頭、新しい秩序が芽生えた。ルシファの魂が地底で覚醒したのだ。
2013年(平成25年)1月25日
ルシファは日本人として生を享ける。その子が26歳になった年つまり2039年1月25日に完璧な人間となって世界を征服する。一握りの優生人種が世界を統治する。
―――2014年にヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。アフリカと中東も荒廃する。ドイツの一部と米ソの中心地、日本や中国は深い傷を負いながら生き残る―――
これはニーベルンゲン復讐騎士団に対してヒトラーが語った予言である。
牛島老人の厳しい声が続く。
「ルシファの再生を阻止せねばならない」
一同は固唾をのんで牛島老人を見守る。
この時、台所にある卓上電話が鳴る。町田が受話器を取る。
「昼食の用意が出来たそうです」
食事は神殿の東側にある大きな社務所で行う。南側に御札の手配所やご祈祷の申込み所がある。東側に玄関がある。神殿と廊下でつながっている。廊下を挟んで南側に、ご祈祷のための待合室や事務室がある。北側は接待所や神主の書斎、家族の部屋、厨房施設、食堂などがある。北側に離れが建っている。
牛島を先頭に、10名は建物の角にある勝手口から食堂に入る。神社だから精進料理が主である。主食は玄米だ。少なくとも百回は噛めと注意される。食事中は無言である。食事が終わり、お茶をいただくと、そそくさと退席する。すぐにも神社の事務室で働く奉仕員や神主の家族たちの食事となる。
神社の食堂から”自分達の部屋”まで約2百メートル。今日から来年の暮れまでここで過ごす。部屋にはパソコンやテレビ、ラジオ、新聞などない。神社の周囲は温泉地で観光地だが、この愛宕神社の境内地を出てはならぬと命令されている。
「昭太郎君、ゆみさん、疲れたかね」牛島老人は優しい。2人はかぶりを振る。睡眠薬を飲まされて2時間寝ている。
部屋に入る。テーブルを囲んで10名の者が座を占める。石田と神崎ゆみがお茶を入れる。おやつはないがお茶はいくら飲んでも良いと言う。
5人のチベット人が顔を合わせる。その中の1人が口を開く。
―――1945年4月29日、午後11時半、ヒトラーとエバはベルリンの総統官邸で結婚式を挙げる。
この時ナチス軍は総崩れとなっていた。ソ連軍の戦車軍団が地下本営の10キロの所まで迫っていた。
地下食堂で質素な結婚式を挙げる。ヒトラー56歳エバ33歳である。立会人はゲッペルス夫妻と腹心8人である。ヒトラーとエバの前にはハーケンクロイツの旗とかがり火、氷の塊が置かれていた。
結婚式の後、ヒトラーとエバは地下の奥の私室に籠る。約1時間半、ハーケンクロイツの最高の秘儀が行われた。それは何かは誰にも判らない。だがヒトラー最後のラジオ放送の中にヒントがある。
「諸君に言おう。ナチスは滅びない。ナチスは必ず甦る。ナチスはユダヤに最終戦争を起こさせない。そのための手を私は打っておく。それは秘儀である。それによって人類に我々を受け継がせる。私は死ぬ前にそれをやっていくのだ」
ハーケンクロイツの秘法―――この秘儀は自分が滅びることで、自分の本望を敵に受け継がせるものだ。
結婚式を挙げて、死ぬまでの1時間半、ヒトラーはエバと共にハーケンクロイツの秘法を行っている。一説にはヒトラーはエバと共に地下本営の抜け道を使って脱走して南米に逃げたとされる。このヒトラー生存説は大した意味を持たない。ヒトラーはこの時、ヒトラーとしての役目を終えたのだ。
ハーケンクロイツの秘儀が完遂された後、人類はナチスの思想を受け継ぐ事になった。20世紀後半、世界は戦争と殺戮に明け暮れる事になる。戦争兵器としてのロケットやミサイルはナチスが開発したものだ。
―――それは忌まわしい悪魔の思想、またそこから生まれた悪魔の産物である。我々はそれら全てを永遠に葬る。2度と思い出さず、2度と近ずく事もない。これが我々人類の誓いだ―――
ルーズベルトやスターリン、ドゴールやチャーチルら当時の自由と解放の指導者達は、終戦記念演説に必ずこの一説を入れて、”ナチスの全ての永久抹殺”を格調高く歌い上げた。
だが実際はナチスの敗戦後、米ソは狂ったようにナチス型ミサイルの生産に取り掛かる。ナチス生き残りの科学者を拉致してナチスの技術を受け継いでいく。
ソ連は百名以上のナチスの科学者を連れ去る。水爆の技術を学ぶ。アメリカも大量のナチス科学者を招き、大陸間弾道弾などのミサイル技術を習得する。
要するに、ナチスを完全に否定したはずの”今の世界”にナチス型のロケットやミサイルが飛びまわっている。ナチス敗北後5年、朝鮮戦争が始まった時、出動した米ソの戦闘機はすべてナチスのジェット戦闘機そのままだった。兵器だけではない。ヘリコプターに高速道路、スーパーチャージャーに4輪駆動車、レーザーに臓器移植、各種毒ガスに至るまで、人類はナチスの技術を受け継いだ。
それだけではない。ナチスの理念―――人間は支配者と被支配者の2種類に分かれる事も受け継いでいる。
人類は第2次世界大戦語、民主主義と平等の実現を高らかに誓ったのに、実際はナチスが目指した差別と殺戮の方法を発展させてきた。
民主、平等などない。誰も本当の事を言わないだけだ。今の世の中は、兵器も人間関係も格差も技術、政治も、ナチス時代以上にナチス的になってしまっている。
「だからナチスは滅びない。私は死んでも人類にナチスを受け継がせる。そのための手を私が打っておく」
―――ヒトラーの予言、ハーケンクロイツの秘法は当たった―――
チベット人の声は清らかだ。話の内容は瞠目に値する。誰一人として声を発しない。沈痛な空気が漂う。このチベット人が遠慮がちに口を閉じる。次のチベット人が代わる。彼は5人中で一番小柄だ。浅黒い肌と小さな眼が特徴だ。
―――ハーケンクロイツの秘法を阻止する方法は1つしかなかった。ヒトラーとエバが自らを犠牲にしたように、自分達も犠牲になるしかなかった―――
こう言いながら、1945年にベルリンで死んだチベット人達を語る。
ヒトラーに招かれて多くのチベット人がドイツに渡る。ナチスドイツこそ、チベットを他国からの侵略を防いでくれると信じていた。それにチベット密教は超能力獲得のための宗教である。ヒトラーも魔術に大きな関心を寄せていた。チベットの超能力者がヒトラーの独裁者への道を予言して、ヒトラーの信頼を得た。
だがヒトラーの他国侵略は、チベット人達が予測していた事と大きくずれていく。ナチスドイツは他国に侵略して、その国の金銀財宝を略奪し尽くす。その財で兵器の生産に乗り出す。
やがてアメリカ、ソ連さえも敵に回す。この時、チベット人達はヒトラーの恐ろしい意図に気付く。ヒトラーは世界中に破滅をもたらす。多くのユダヤ人を虐殺して、やがてはドイツ国民さえも破滅させる。
―――ルシファの復活―――
ルシファに捧げる貢物(犠牲)が大きければ大きい程、復活後のルシファの力は大きなものになる。
・・・ルシファを復活させてはならない・・・
1938年8月16日
ナチスドイツの青少年組織、ヒトラーユーゲントが来日。この時一緒に日本に上陸した7人のチベット僧侶。彼らは牛島裕一の案内で岩手県の五葉山に赴く。2013年1月25日に生まれる子供にルシファが憑依する。その子供を探し出して、ルシファ復活を阻止する。そのためのチベット密教の秘儀を行う。
1945年4月30日
ヒトラーは妻エバ・ブラウンと共にベルリンの地下の大本営の一室でハーケンクロイツの秘法を行う。この秘法でヒトラーに憑依したルシファがヒトラーの肉体から抜け出して、深い闇の中に眠る。そして1989年にその眠りから覚める。
ヒトラーがハーケンクロイツの秘法を行ずる時、7人とチベット人は悪魔召喚のの秘儀を行う。ヒトラーの体から抜け出たルシファをからめとる。どこでいつ目覚めようと、決して逃がさない。ルシファが目覚め、人間の子供に憑依する時は五葉山の秘密の場所となる。この秘法は決死の秘儀である。彼らが死ぬ事で秘儀が完成する。この7人の秘儀を完成させるために、多くのチベット人がソ連兵の進入を防いだ。秘儀完成の時間稼ぎを死をもって完遂したのだ―――
小柄なチベット人の日本語は流暢だ。他の4人も日本語がうまい。皆30代だ。彼らは20代のころに日本にやってきている。
・・・ ハーケンクロイツの秘法、その内容は判った。だがそれからどうしようというのか・・・神崎は心の中で疑念を抱く。
「昭太郎君の疑問に私が答えよう」牛島が鴨崎を見ている。神崎は「アッ!」と牛島を見る。
「私は昭太郎君のご両親にお世話になってから・・・」
牛島の声は若者の様にきびきびしている。
1989年、昭和天皇崩御の年、牛島は忽然と神崎家から姿を消す。この年は昭和という時代が終わり、平成という次の時代の幕開けでもあった。この年にルシファが深い地の底から目覚めたのは決して偶然ではない。
この時牛島は霊視していた。ルシファの巨大な影に、7つの霊が取り憑いているのを・・・。
牛島は別れを告げる間もなく、7人のチベット人が赴いた五葉山、その秘密の場所に急いだのだ。
闇から覚醒したルシファを、その場所に閉じ込めねばならぬのだ。2013年(平成25年)1月25日までに。
その後ルシファは7つの軛を断ち切る事になる。以後ルシファを束縛する事は誰にも出来なくなる。ルシファは人間の子供に憑依して成長を待つ事になる。
「我々の役目は子供に憑依する前に・・・、いやたとえ憑依したとしても、ルシファを再び深い眠りに落す事にあるのだ」
―――だが―――牛島は一同を見回す。
「我々の敵、もう一つの緑龍会のメンバーが、ルシファの復活を援けるために、我々を攻撃する」
戦いは避けて通れないのだ。
神崎とゆみの苦悩
愛宕山神社に到着早々から衝撃的な話を聴く。
神崎たちは愛宕山神社の社務所の離れの一室を与えられる。朝6時に起床、6時半に朝食。8時からバラック小屋の中で修行が始まる。
まず8時から9時まで外の雑木林でランニング。雨天の場合は小屋の中で軽い運動で汗を流す。9時から10時まで10名が輪になって手を握り合う。神崎とゆみを囲むようにして輪になる。
5名のチベット人と牛島、町田と石田は世に隠れた超能力者である。彼らが一体となって神崎とゆみに”気”の力を送る。2人は熱い気の流れが体中に入ってくるのが判る。
・・・熱い・・・ゆみが石田の手を放そうとするが、石田の手に力が籠っている。離す事が出来ない。
「火傷はしないから、我慢して」石田の声に神崎もゆみもじっと耐える。石田の手から流れてくる熱いパワーは2人の全身を駆け巡る。汗が引き出す。下着がビショビショになる。約1時間の”苦行が”終わる。
「風呂に入って・・・」石田の声に、2人は小屋の奥にある風呂に入る。下着を取り換える。
10時から正午まで座禅を組んで,瞑想する。チベットで行われる意思疎通のための瞑想法だ。眉間に意識を集中する。そこに光の点をイメージする。その光が大きくなっていく様を想像する。その光の中に特定の人物の顔を思い浮かべる。その人物に話しかける。この訓練を毎日2時間行う。
昼食後仮眠。1時半から2時半まで雑木林を散歩する。2時半から3時半まで瞑想。午前中の観想法の続きを行う。3時半から5時まで雑談形式での話し合いとなる。牛島老人やチベット人達の話を聴くことになる。
毎日休みなしで、この日程は平成24年12月中旬まで続けられる。
1か月2か月と過ぎる。神崎とゆみに大きな変化が訪れる。平成23年、神崎昭太郎は34歳。ゆみは28歳だ。2人の体力は10代後半の様に漲っている。精神的にも気力が充実している。何をなすにしても積極的な行動力が出てきている。今の2人は”若さ”を持て余している。
夜は5時に夕食。6時半から9時まで雑談。9時に就寝、朝6時に朝食となる。テレビもなければ新聞、雑誌もない。9時に床に入っても、やる事は男女の営みしかない。
平成23年9月上旬、ゆみは懐妊する。出産予定は平成24年5月から6月上旬。
それでも毎日が判で押したように過ぎていく。
平成24年6月下旬、ゆみは玉のような男の子を出産。名前を平成の成の字を取って成一と名付けられる。日々の修行からゆみが抜ける。神崎も夕食後の雑談から外れる。夫婦2人と子供の水入らずの生活に浸る。
平成24年10月下旬、2人は再び小屋の中で意思疎通の瞑想に入る。その間子供は石田が預かる。
神崎のゆみは手を取り合う。2人を取り囲むようにして牛島と町田、チベット人達が瞑想に入る。
・・・神崎とゆみは眉間に意識を集中する。やがて光の点が見えてくる。光は大きくなり、眉間一杯に広がる。そこに牛島の姿が現れる・・・
その牛島が喋る。と言っても耳には響かない。夢でも見ているように、心の中に響いてくる。
・・・昭太郎君、ゆみさん。このような方法で語り掛けるには訳がある。去年君たちがここに連れてこられた時、眠り薬で眠らされた事を覚えているね。その理由は町田が言っている。もう理解していると思うが、直接口で語ると”敵”も気付いて手を打ってくる。それを防ぐためだ。これから私が言うう事を冷静に聞いてほしい・・・
以下牛島老人の語る驚愕の内容である。
1945年4月29日午後11時半、
ヒトラーとエバはベルリンの地下本営で結婚式を挙げる。その後地下の奥の私室に籠り、約1時間半、ハーケンクロイツの秘法を行う。この時ヒトラーに憑依したルシファは地下深くで長い眠りに就く。それは眠りというよりも休息に過ぎない。人間でも満腹して仮眠を取る。目覚めた時は体力気力共に充足している。
この時、ベルリンにいた7人のチベット人は自らの命を犠牲にしてルシファに取り憑いた。
この理由は2つ。
1989年にルシファは覚醒したが、まだ魔界から抜け出してはいない。2013年にルシファはこの世に姿を現す。それが五葉山の秘密の場所だ。この場所にしか姿を現すことが出来ない。これがチベット人達がルシファに取り憑いた理由の1つだ。この事は、もう1つの緑龍会、我々の”敵”も知っている。
もう1つの理由、ルシファがこの世に出現するためには憑依するための肉体を必要とする。普通は出現した同時刻に生まれた子供に憑依する。
・・・ここで牛島は声を落とす・・・
チベットではダライ・ラマが死んだ時、同時刻に生まれた赤ん坊を探し出して、死んだダライ・ラマの霊がその子に乗り移ったとして次のダライ・ラマとして育て上げる。
古代において徳のある人間、強力な霊力を持つ人間の再生は、死んだと同時刻に生まれた子供になると信じられている。ルシファも2013年、魔界から覚醒する時は、憑依する赤ん坊は、どこの誰かを知悉している。
7人のチベット人はルシファ再生の時、憑依する人間を牛島に託したのだ。これが2つ目の理由だ。
・・・昭太郎君、私は、ルシファが覚醒した時、憑依する肉体を君に託した。君はルシファの人身御供となる。だがルシファはすぐにも、自分が憑依すべき赤ん坊ではないと気付く。やむなく成一君に憑依しようとするだろう。
君は身をもってそれを防がねばならない。死ぬかもしれない。そして、ゆみさん、あなたは成一君を、昭太郎君と共に守らねばならないのだ。
ルシファが成一君に憑依したが最後、2039年1月25日に完璧な独裁者となって、この世界に君臨する・・・
神崎もゆみを余りの事に茫然自失する。
・・・おじいちゃん、1つ質問します。”敵”は私とゆみを焼き殺そうとしました。それはどうして・・・
手島老人の返答に淀みがない。
・・・敵は我々の意図を知っている。ルシファは近い将来生まれてくる君の子供に憑依するであろう事を知っている。それを阻止するためだ・・・
・・・何故・・・
この時牛島老人は無言となる。しばらくして意を決したように2人の意識に訴える。
・・・もし、君の子供にルシファが憑依したら・・・、我々は君やゆみさん、君の子供さえもその場で殺さねばならない・・・
・・・敵は、ルシファが覚醒する時刻さえ把握している。同時刻に生まれる子供が日本の何処で生まれるかも承知している。すでにその子供の両親は敵に保護されている・・・
・・・おじいちゃん、もし、僕たちが五葉山に行かないと言ったら・・・神崎は苦悩する。
・・・その時は・・・、敵が保護している夫婦を殺すことになる。だが殺しても、ルシファは再生するための別の子供をすぐに見つけるだろう・・・
・・・あなた・・・ゆみの声が神崎の脳裏に響く。
・・・成一のためよ。やりましょう。あなたが死んだら、私も死ぬわ・・・
・・・ゆみ・・・神崎とゆみは苦悩のどん底にあった。
五葉山の秘密
平成24年12月上旬
神崎、牛島一行10名は、2台の車に分乗して、愛宕山神社を後にする。いったん新城市から豊橋市に出る。国道1号線に乗る。浜松を抜けて静岡に入る。東名高速道路に入れば早いと思うが、町田の話によると故意の事故に会いやすいと言う。
―――緑龍会は超能力者集団だ。彼らは武器を持っての殺戮は行わない。人の心に入り込んで、意識を操る。高速道路では猛スピードで走る車が多い。ドライバーの心に憑依して、故意に追突させる。事故になれば大惨事となる―――
朝8時に出発している。正午近くに、静岡の焼津に到着。沿道の食堂で昼食。1時半に出発。沼津、三島を通り箱根峠を登る。小田原に到着したのが4時頃。神奈川県平塚で休憩、ここから国道16号線に乗り換える。厚木を通過して八王子に向かう。埼玉県に入り、草加で一泊。翌朝、国道4号線から宇都宮、白河、福島に向かう。正午近くとなる。国道の沿線のレストランに入る。
1時ごろ福島を出発。仙台に入り、塩釜に到着したのが4時ごろ。休む間もなく、車は釜石市の郊外に向かう。釜石市八雲町の八雲神社の近くに牛島が育った寺院がある。到着したのが4時半頃。道路の北側に正門がある。正門の東側から車で出入りできる。正門から参道が続いている。参道の奥が寺院である。その東に住職の住まいがある。渡り廊下でつながっている。住まいの奥に庫裡堂や食事処、書架室などがある。寺院の裏手が墓地となっている。
玄関の2枚引き戸を開ける。「帰りましたよ」牛島が大きな声で呼ばる。しばらくして、2人の中年の僧侶が駆け込んでくる。黒い袈裟を着て、青々と剃った頭が初々しい。2人は玄関先でガマガエルの様に平伏する。
「おかえりなさいませ」挨拶を交わす。「お疲れでしょう。どうぞ、奥へ」言いながら立ち上がり、奥の応接室に案内する。応接室とはいうものの、納屋を改造した造りである。天井の煤けた梁がむき出しだ。壁も黒ずんだ板を打ち付けてあるだけ、蛍光灯が2つ天井からぶら下がっている。侘しい雰囲気だ。それでも床の板張りや壁はピカピカに光っている。
長机の前に、皆が腰を降ろすと、2人の僧侶はお茶を運んでくる。
「ここが。おじいちゃんのお寺?」神崎が問う。
「昭太郎君、ゆみさん、疲れたろう?」牛島の労りの声。神崎は大丈夫だという顔をする。ゆみは胸を広げて、赤ん坊にお乳を含ませている。
牛島は2人を見て安堵する。2人にはこれから死を賭す試練が待っている。
夕方6時、夕食。風呂は五右衛門風呂で、1度に2人しか入れない。まずゆみと石田が入る。その後に男性陣が入る。夜9時に就寝。
翌朝7時に起床、食事は全員総がかりで作る。9時に朝のお勤めは、本堂でご本尊にむかって読経する。
10時、応接室で牛島が他の9名に向かって話す。内容はこれからの予定である。
12月25日にお寺を出る。五葉山の麓の赤坂峠から1キロ程登った所に畳石がある。ここに登山者用の山小屋がある。冬は五葉山に登る人はいない。来年1月24日までここで過ごす。
牛島の言葉が続く。
7人のチベット人達は、ルシファ覚醒の場所を五葉山に選んだ。何故日本を選んだのか・・・
「日本はね、太古、世界の中心だったという説がある」
牛島は慈しむ眼で一同を見回す。以下の様に話す。
―――太古、日本とチベットは深い関係で結ばれていた。霊的にはチベットと日本は兄弟なのだ。チベットは他国に侵略されやすい。今は中国に支配されていて、政治的に不安定な状況にある。ハーケンクロイツの秘法を行える場所は日本が最適なのだ―――
次に五葉山だが・・・
太古、世界には巨石文明が栄えていた。その中で日本は世界でも冠たる巨石文明の中心地だった。その中でも五葉山は最も栄えた巨石文明の地だ。
飛騨地方に伝わる神武東征の伝承がある。神武天皇が飛騨地方までやってきた時、巨石文明の遺跡を伝える人々が飛騨の地を神武天皇に献上して、いずこともなく消え去った。神武天皇はこの功績を称える為に、皇位を譲り受ける儀式に、飛騨地方の一位の木の笏を用いたとされる。以後皇位継承の際に用いられる笏は一位の木と定められた。
飛騨地方から消え去った人々は五葉山にやってきた。五葉山の地下深くには巨大な洞窟があるのだ。
今、パワースポットという言葉がはやっている。日本での最強のパワースポットはこの洞窟内とされている。
7人のチベット人はハーケンクロイツの秘法の場をこの洞窟に選んだ。否!この洞窟以外にはルシファの霊力を封じ込める場所はないのだ。
今はこれだけしか話せない.おいおいと説明していくつもりだ。
12月25日、早朝、神崎たちは2台の車に食料や衣類その他必要な備品を積み込む。五葉山は標高1341メートルの山だ。北陸の冬は厳しい。1月中旬までの約2週間を畳石の山小屋で過ごす。
「よいか、敵も当然この地にやってい来る」
今まで歴史の表舞台には決して姿を現さなかった緑龍会がその全貌を現すと言うのだ。
五葉山地下神殿
釜石市のほぼ南のある楢木平の東側の山林を登っていく。楢木平を過ぎると五葉林道に入る。道はジグザグで通行する車もない。麓から雪がちらついている。アスファルト道路もうっすらと雪化粧をしている。標高712メートルの赤坂峠に到着。ここからタイヤにチェーンをまく。
赤坂峠登山口に五葉山神社がある。ささやかな木の鳥居と神殿があるのみ。神崎たちは参拝する。
畳石の山小屋まで何とか車で登る。畳石とは文字通り巨石群が鎮座する場所だ。現在は風化して自然石がそびえているように見える。古代は整然と並んでいて、仰ぎ見る者を圧倒して、壮厳な威容を誇っていたであろう。
五葉山山頂には避難小屋として、シャクナゲ山荘がある。ここからは3陸の海が見渡せる。まさに絶景である。山頂には五葉山日枝神社がある。ここには天照大神他5柱の神を祀っている。ここから左へいくと黒石がある。右に行くと五葉山山頂となる。この近くに日の出岩がある。この周囲は温暖で湿潤な樹海となっている。日の出岩は圧倒されるような巨石の群れとなっている。太古の巨石文明の中心地なのだ。
五葉山と遠野、姫野を結ぶ西北ラインに、大湯のストーンサークルが乗っている。いわゆるレイラインだ。
遠野には石上(石神)山の麓に続石がある。この巨石はドルメンと言われる聖なる石である。このような巨石は世界各地の聖域に見られる。遠野は早池峯山、六角牛山、石神山という聖なる三女山に囲まれた平野である。
一行は畳石の山小屋に到着する。朝11時ごろだ。早速荷物を解く。ここから山頂まで約2キロあり、後は歩きとなる。
山小屋は2間幅と4間幅の広さがある。建物の真ん中に石炭用のストーブがある。壁の高い所に二か所換気用の小窓があるのみ。採光用の窓はない。釜石は製鉄で栄えた町で石炭が豊富にある。小屋は板囲いである。入り口のドアが一か所あるのみ。室内は両端に3段のベッドがある。地下水があるので料理には不自由しない。小屋の外には地下水を利用した”水洗式”トイレがある。
山小屋に入る。10名が入るとさすがに狭くなる。食料と言っても缶詰や乾パン、即席ラーメンなど、手軽に口に入る物ばかりだ。
「今日から来年の1月中旬まで、ここで過ごす」
牛島の声が響く。神崎とゆみは代わる代わる赤ん坊の世話をする。紙おむつを沢山持ち込んでいる。赤ん坊は泣くのが”仕事”だが、成一はほとんど泣かない。ゆみが乳を含ませたりすると、ニコニコ笑う。
3日に一回はお寺から野菜や食料などが届けられる。3日に一回、大きなたらいで体を洗う。
「ここでの生活に慣れるように・・・」町田の声は厳しい。1月中旬から1月24日まで約10日間、五葉山の洞窟の中で過ごすことになる。ここの生活より辛くなるのだ。
室内は暖かい。石炭は小屋の外に山と積まれている。ストーブを囲んで10名が手を繋いでいる。牛島、5人のチベット人、町田と石田、彼らの強烈な”気”が神崎とゆみ、赤ん坊に注ぎ込まれる。
照明と言えば3本のローソクの火のみ。ぼんやりと薄暗く、瞑想にふける姿は幻想的でさえある。
「緑龍会との戦いは・・・」瞑想が終わった後、牛島が静かな口調で話す。
―――刀や槍、銃器を持って戦う訳ではない。霊能力、激しい気力の応酬で相手の息の根を止める。だが何といっても怖いのは魔界から甦るルシファとの戦いだ―――
チベット人や町田達、神崎達も牛島の言葉に真剣な眼差しを向ける。
2週間が瞬く間に過ぎる。
10名は山小屋を後にする。風が出て雪が舞っている。
各自食料を持って、五葉山の山頂を目指す。約1時間の歩きだ。完全防寒の装備だ。
山頂間近の日枝神社にお参りする。五葉山山頂には日の出岩と言われる巨石群がある。太古日本の巨石文明の跡だ。その近くに樹海が拡がる。
「見たまえ」町田が樹海を指さす。周囲は雪景色なのに、樹海は全く雪が積もっていない。町田の説明によると、樹海の下は洞窟となっている。古代の地下神殿があるのだ。人工的に作られた洞窟内は磁気を帯びた巨石がある。この磁気作用で温度は周囲よりも高い。雪が結っても決して積もることがない。標高千3百メートル級の山なのに、樹木の生長が著しい。
「よいか、これから地下神殿に入る。その前に緑の手袋の会の者を紹介しよう」牛島老人の声と同時に、積もった雪の中から30人の男達が姿を現す。全身を白の衣装でスッポリと覆っている。彼らは牛島に深々と頭を下げる。神崎はゆみの手を握り締めて、呆然と見詰めるのみだった。
樹海から10メートル程離れた所に、平らな巨石がある。縦5メートル、横3メートルの岩だ。
牛島老人は巨石の前に立つ。何やら呪文を唱える。2,3分すぎる。
「おう・・・」神崎は眼を見張る。巨石が僅かずつ動いている。動いた後に黒い地肌が現れる。岩は1メートル動く。地肌に黒い穴が出現する。
牛島は後ろを振り返る。
「皆の衆、よいか、命に代えても、地下神殿への入り口を守れ」白装束の男達は深々と礼をする。
黒い穴を懐中電灯で照らす。人工的な石段がある。牛島を先頭に階段を降りる。5人のチベット人が松明を掲げる。階段は樹海の方へ向かっている。周りの壁は黒々とした岩だ。湿気を含んで濡れている。
「神殿と言えば、神様を祀る場所だ」町田が小さい声で神崎とゆみに話しかける。
―――太古の巨石文明の神殿は何も祀ってはいない。神殿内部で、人間が神に進化する。しかし神殿に入れば誰でも神に成れるわけではない―――
「君達を精神的に鍛えてきた。ここに入るためにね」町田の声は小さいが洞窟内に反響して大きく響く。
階段は果てしなく続く。降るに従って気温が上昇していく。防寒装備を脱ぐ。新鮮な感覚が体中に浸透していく。気力が充実していくのが判る。
「何だかすごく体が軽くなったみたい」ゆみの声が弾んでいる。前抱きにした赤ん坊をあやしている。
30分ぐらい降りたところで平坦な場となる。高さ2メートル、幅3メートル程の横穴だ。壁や天井は巨大な1枚岩が整然と並んでいる。岩と岩戸の間の隙間がない。
「すごい技術だ」神崎は感嘆の声を上げる。約10分歩く。突然、巨大なドーム状の洞窟に出る。中は煌々として明るい。
「松明を消せ」牛島の声に、チベット人達は松明を消す。瞬間、闇の世界となる。
「町田君、ローソクを」牛島の声に町田が手荷物からローソクを取り出し、火をつける。ドーム内に明かりが戻る。
「これは!」ゆみの感嘆の声。
「光が反射し合って、何百倍にも増幅される」町田はローソクを洞窟の中央に置く。天井の高さは20メートルはあろうか。直径は百メートルの広さである。 端に4つの抜け道のような穴がある。
「4つの穴は部屋となっている」
牛島の説明によると、五葉山は豊富な水資源に恵まれている。1つ目の部屋から湧水が吹き出て、奥の通路に流れ込んでいる。2つ目は排便のための部屋。穴は小さいが岩が窪んで清水が流れている。一種の浄化装置となっている。3つ目は食料を保管する場所。ここに置いたものは、生ものでも1年ぐらい腐敗しない。4つ目の穴は他の3つと比較して大きく、寝室として利用している。
―――五葉山の神殿を作った古代人は自然界にある物を利用して文明を築いた。彼らの生きる目的は霊的に成長する事だった。人を支配する大王はいなかった。富める者も貧しい者もいなかった―――
牛島老人の話は続く。
この洞窟を我々は地下神殿と呼ぶが、古代人がどのように呼称していたかは不明だ。だが、1つ確かな事は、ここに居る事で霊的能力が高まってくる。肉体も若々しくなっていく。
パワースポットという言葉が流行している。神社などの霊的な磁場の高い場所が見直されている。
この五葉山の地下神殿は圧倒するような霊的磁場を帯びている。ここで10日間を過ごす。
そして―――、最後の戦いが始まる。
ハーケンクロイツの秘法
10名の者が持ち込んだ荷物は4つ目の部屋に置く。洞窟内の気温は5月か6月の陽気である。皆薄着となる。
―――食事は1日1食、水をよく飲む事―――
牛島は4つ目の部屋の奥にあった、古代中国の鼎のような物を持ち出す。白い金属で出来ている。米や野菜を煮たりする時に使用する。
―――古代にも金属があった。鉄に似た錆びない金属、ヒヒイロイカネと呼ばれている。―――
鼎の大きさは電気釜程だ。試しに水を沸かす。鼎の下にローソクの灯を置く。水は2リットルぐらい入る。ローソクの灯だけで僅か5分ぐらいで沸騰する。
神崎もゆみも感嘆の声を上げる。
「現代人は資源を無駄に使いすぎる。ヒトラーの予言にあるように、やがて人間は自然界から復讐される」
牛島の声は厳しい。
1日は腕時計の時間を頼りとする。
朝6時に起床、地下神殿の中で皆輪となって手を取り合う。神殿内に充満する気のエネルギーと、牛島や5人のチベット人、町田や石田から流れてくる気のパワーが、神崎とゆみの体内に充満するしていく。瞑想状態に入る。眼を瞑っているのに、目の前が光輝いてくる。意識がはっきりしている。にも拘らず肉体感覚が失われていく。目の前の光の帯にすっぽりと包まれている。
これから死を賭けての戦いが始まるというのに、心は静かだ。至福の時が流れている。
・・・昭太郎君・・・牛島老人の声が聞こえる。光の輪の中に牛島が孤高の様に立っている。その牛島は神崎の隣に居てしっかりと手を握っているのだ。
・・・おじいちゃん・・・目の前の牛島は慈しむように神崎を見下ろしている。
・・・君はルシファに憑依されて、死ぬ・・・
神崎は驚かない。目前に迫った死を、自分の運命と悟っている。
・・・覚悟が出来ているようだな・・・
神崎は頷きながら、牛島を仰ぎ見る。
・・・だが、忘れるな。ルシファに憑依されても、ゆみさん、成一君だけに意識を集中しろ。2人をオーラで包み込んでいると意識しろ・・・
牛島老人の言葉が続く。
ルシファに憑依は神崎に憑依した後、赤ん坊の魂を乗っ取ろうとする。だが赤ん坊は体力的に未熟だ。一気に憑依する。
・・・よいか、決してルシファを成一君に憑依させてはならぬぞ。死と引き換えても成一君を守れ・・・
神崎は瞑想の中で天を仰ぐ。
・・・必ずやり遂げます・・・強い決意を新たにする。
握り合った手が解かれる。神崎は、我に還って眼を開ける。隣に座った牛島を見詰める。彼は軽く頷いている。
瞬く間に5日が過ぎ6日となる。時は午前中は瞑想で終わる。昼からは食事の用意となる。成一はゆみのおっぱいをたっぷりと飲んでいる。1日1食なのに空腹感はない。皆の顔艶もよい。午後は2時間ばかりの仮眠、夕方は円座を組んでの瞑想となる。
洞窟内の生活は朝夕の気配が感じられない。腕時計で時刻を計るのみ。6日の朝、牛島老人は皆に告げる。
「今日はヒトラー最後の日の光景を見せる。ルシファがどのようにして現れるのかが判る」
神崎は一方の手で牛島の手を握る。もう一方の手でゆみの手をしっかりと握る。眼を瞑る。目の前が明るくなる。その光の中に不思議な光景が拡がる。
―――ベルリンの地下の総統大本営。地図室でのヒトラーとエバのささやかの結婚式。1945年4月30日昼、ヒトラーは最後の昼食を摂る。その後総統地下壕で料理人やスタッフ、ゲッペルス一家、マルティン・ボルマン一家、秘書やドイツ国防軍の将校らに別れを告げる。
午後2時半ごろ、ヒトラー夫妻は総統の書斎室に入る。
・・・ここからは公式記録によると、数人の目撃者が、午後3時半ごろ大きな銃声を聞いたと証言している。数分後ヒトラーの従者ハインツ・リンゲがボルマンの立ち合いで、ドアを開けた。すぐに焦げたアーモンドの匂いに気付いた、とリンゲは証言している。これは、シアン化物のガスであるシアン化水素の一般的な特徴である。・・・
ヒトラーのSS副官オットー・ギュンシェが書斎に入り、遺体を確認する。遺体は小さなソファに腰かけていた。エバの遺体はヒトラーの遺体の左に、ヒトラーから離れて沈み込んでいた。射出口が頭の左頂部にあり、ヒトラーは右のこめかみをワルサーPPKで撃った。銃はヒトラーの足元に落ちていた―――
ヒトラーとエバが書斎に入ったのは午後2時半頃、午後3時半に大きな銃声を聞いたとの証言がある。
神崎の目の前に展開するのはエバに抱かれるようにして足を引きずって歩くヒトラーの姿だ。書斎室のドアをあけて中に入るヒトラーとエバ。
・・・ここでヒトラー最後の魔法儀式、ハーケンクロイツの秘法が行われた・・・牛島の声。
ヒトラーは呪文を唱え始める。エバがヒトラーの懐に入り込むようにして抱き付く。10分、15分と時間が過ぎていく。やがて2人を包み込むようにして、黒い靄のようなものが現れる。それがだんだんと大きくなる。繭のように2人を包み込む。
・・・昭太郎君・・・牛島の声が頭の中で響く。
「もう判っているだろうが、ヒトラーがエバと共に書斎室入ったのはこの時間ではない」
その日の夜間、午後11時から12時の間だ。
戦後の軍事裁判の目撃証言によると、2人の遺体は地上階に運ばれる。地下壕の非常口を経て、爆撃を受けた総統官邸裏の小さな庭に移された。そこでリンゲやSSのボデイガードがガソリンをかけて燃やしたと言う。幾人かが「早く上階へ急げ。彼らは総統を燃やしている」という叫び声を聞いた。遺体を燃やし尽くす事が出来なかった。ソ連軍が地下壕を砲撃したため火葬を続けることが出来なかったのだ。午後6時以降には遺体の燃え残りは爆弾の浅いクレーターで覆われたと、SSやリンゲが記録に残している。
・・・昭太郎君、おかしいと思わないか。地下壕のある地上では砲弾が飛びかっていたのだ。そんな危険な場所で、火葬にしなければならないのか。総統を燃やしているという叫び声は誰か。火葬している事を知っているのはリンゲとヒトラー直属のボデイガードのSS達だけだ・・・
―――誰かが故意に火葬の主はヒトラーだと叫んでいるのだ。ソ連軍に聴かせるためにだ―――
この時ヒトラーはまだ生きていた。2人の死体を地上で火葬にするように命じたのはヒトラーだった。死体がヒトラーだと叫ばせたのもヒトラーだ。ヒトラーが死んだとソ連軍に知らせるためだ。
同日夜中11時頃からソ連軍が総統官邸へ攻撃を開始する。5月2日にヒトラーの焼死遺体の残骸が発見される。ヒトラーとエバの遺骸は埋めたり掘ったりで埋葬場所が転々とする。最終的に地下壕の地上の前中庭の舗装区域の下の目印のない墓に埋葬される。この場所は厳重に秘されたが、1970年4月4日、密かに遺骸を掘り出し完全に焼却して、灰をエルベ川に散骨している。
ところが2000年に、ロシア政府の公文書館でヒトラーの頭蓋骨の残片が公開された。これは当時ソ連軍が掘り返したあご骨と共に戦利品として持ち帰っていたのだ。あご骨はヒトラーを診ていた歯科助手が本人のものと確認したと言う。
2009年9月29日、米コネチカット大学の調査によって、ヒトラーとされる頭蓋骨のサンプルをDNA分析した。その結果、頭蓋骨は20代から40代の女性のものと判断された。
・・・いいかね、ヒトラーは死んではいないのだ。ハーケンクロイツの秘法を行じ終えた後、地下壕の秘密通路からベルリンを後にしているのだ・・・
神崎は牛島の声を聴いている。
目の前に展開する光景は凄まじいものだった。繭となった黒い影は大きくなる。形容しがたい奇怪な形になる。
・・・ルシファ・・・神崎の心に恐怖心が芽生える。
―――恐れるな。ゆみさんと成一君のために、死を覚悟せよ―――
巨大な黒い影はコンクリートの床に吸い込まれるように消えていく。
2013年(平成25年)1月23日夕刻6時半
・・・昭太郎君。ルシファの真実を言おう。今まで黙っていたが、ルシファがこの世に現れるのは今日だ。ルシファはこの日を25日と思っている。これはベルリンで死んだ7人のチベット人の破滅と再生の秘儀による。今日の夜中、11時から12時までの間・・・
牛島は宣言するように言い放つ。そして言う。25日に生まれる子供の両親はすでに緑龍会の手の内にある。
洞窟内に激しい緊張感が襲う。ルシファの霊が25日を待たずして復活するのだ。
・・・地下神殿の地上を見よ・・・
牛島の声に、神崎の意識は地上の巨石群に向かう。激しい吹雪だ。白一色の世界。その中に黒い穴がある。地下神殿の入り口だ。巨石群の周囲に30名の白の防寒服を着た緑の手袋の集団が蹲っている。それを取り囲むように黒い影の集団が忍び寄っている。緑龍会のメンバー100名。
2つの勢力はお互いを牽制し合っている。彼らは肉体を滅ぼすための武器は持っていない。肉体を殺してところで、体から解放された霊のパワーが強くなるだけだ。
物質界からも霊の世界からも、霊体を消滅させねばならない。そのために相手に憑依して、その霊を食いつぶさねばならない。
ルシファは2013年(平成25年)1月25日の夜半に生まれる子供に憑依する。緑龍会がそれを助ける。これが本来のヒトラーの予言であった。
だが緑龍会はベルリンで死んだ7名のチベット人の意図を知った。
五葉山の地下神殿で覚醒するルシファはその日を25日と信じている。目の前の神崎を憑依する肉体と思っている。だがそれが別人であるとすぐに気づく。神崎が抱いている赤子が取り憑く肉体と信じる。
・・・もし万一赤子に憑依したら最後、緑龍会によって、連れ去られてしまう。25日に生まれる赤ん坊に再憑依する。成一は殺される・・・
緑龍会の役目はルシファが神崎に憑依するのを見届ける事だ。そのあと神崎の子供を拉致する事だ。
だが、問題が1つある。緑龍会が神殿に入れるのは、神殿にルシファが出現した時だけだ。その前は入る事は出来ない。7人のチベット人によって、牛島たち10名だけが入れるように封印している。無理に入ろうとすると、彼らの体は消滅する。
遂に最後の時がやってきた。
2013年1月23日、午後10時、緑龍会と緑の手袋の会の霊界での死闘が始まる。五葉山の山頂は吹雪だ。銀世界に中、熱い霊の戦いが繰り広げられる。
神埼は成一を抱くゆみをしっかりと抱きしめる。牛島と5人のチベット人は神崎を囲むようにして輪になる。彼らはルシファ出現のための、ハーケンクロイツの秘法を行おうとしていた。町田と石田は神殿の入り口で侵入者を防ぐために見張っている。
・・・昭太郎君、この陣を見ろ。六芒星だ。正三角形を上と下を逆にして重ねた図象だ。ユダヤではダビデの星、今はイスラエルの国旗となっている。
この図形は魔法陣の呪符の中でも最強のパワーを持っている。この中で我々はハーケンクロイツの秘法を行う。ルシファをこの陣から出さないためだ。・・・
神崎は牛島の説明を聞きながら、心の眼は地上に向けられる。
巨石群のほぼ中央に地下神殿の入り口がある。突然、白装束の緑の手袋の会の集団が動き出す。彼らは入り口の石段に向かって移動する。その後を追うように黒装束の緑龍会の集団が入り口の石段に殺到する。
地下神殿の入り口の奥は長い回廊だ。
10時半頃、30名の白装束の集団が神殿の入口近くに陣取る町田と石田の約2メートル先だ。やや遅れて黒装束の一団が、10メートル程離れた位置に陣取る。双方とも胡座したまま動かない。明るい神殿内部と比べて回廊は闇の中だ。
神崎はこの光景を脳裏の中で見ている。
突然、黒装束の姿が2つ、あおむけに倒れる。と見る間もなく白装束が1人あおむけとなる。
・・・残酷だ。彼らは肉体ばかりか魂までも消し去られていく・・・
次に黒装束が3人、白装束が2人仰向けになる。11時になる。35人の黒装束の霊が消える。白装束は残り10名となる。
今、神崎は回廊の闘いの光景を見ていない。しっかりと抱きしめたゆみと赤子の成一を脳裏に描いている。2人を光の卵の中に覆い尽くすイメージだ。
11時が10分過ぎ、20分となる。
回廊の闘いは激しくなって行く。黒装束の男はついに60名が死亡。白装束は残り3名となる。
突然数名の黒装束の男が立ち上がる。神殿の入り口目掛けて駆け出す。3人の白装束の男も、入り口の中にいる町田と石田も瞑想状態のまま微動だにしない。
神殿の入り口にはいった数名の男たちは六芒星の中にに入ろうとして走る。
この時、断末魔の叫びが起こる。神殿に入った黒装束の男達の体から血が吹きあがる。黒装束が血で染まる。
「誰も入るな。ルシファ様が蘇るまで入るな」黒装束の中から声がする。
11時半。神崎とゆみを包み込むようにして、黒い靄が影のように立ち上る。
「ルシファ様の復活だ。」声と共に黒装束の男達が立上がる。と同時に10名の黒装束の命が絶える。最後に残った3名の白装束も仰向けに倒れる。
残り24名の黒装束は白装束の死体をかき分けて神殿の入り口に入ろうとする。
黒い靄は神崎とゆみを包み込んで、神殿のドームの天井に達するくらいの巨大なものとなる。だが、直径3メートルある六芒星の輪から外に出ることが出来ない。
・・・何だ、これは!・・・神崎の脳裏に、禍々しい声が響く。円陣の外に出られぬもどかしさに、ルシファが苛立っているのだ。
だがやがてルシファは人間の肉体に憑依する。物質世界に出るためには絶対必要条件なのだ。
陰と陽の結合、六芒星の結界、このハーケンクロイツの秘法は、高級霊を呼び出して、自由自在に操る魔術である。秘法中の秘法といわれる。ルシファを呼び出して、再び地の底に突き落として眠らせる秘法だ。その為に真夜中12時の期限切れ直前に神崎に憑依させねばならない。
しかしルシファは神崎が憑依すべき本来の肉体ではないと、すぐに気づくだろう。目の前の赤子に再憑依する事になる。子供に憑依したが最後、緑龍会がその児を連れ去る。25日に生まれる本来の目的の子供に再び憑依させる。
24名の黒装束は神殿の入り口に佇む。町田と石田が彼らの行く手を遮っている。霊の世界で彼らは激しい闘いを演じている。自分たちの命がない事を、2人は理解している。
・・・ハーケンクロイツの秘法が完結するまでの時間稼ぎ・・・
今宵の12時までに憑依できなければ、ルシファは闇の世界に帰る事になる。
ルシファの黒い影は龍のように蠢いている。神崎に乗り移ろうと必死なのだ。影は激しく動いては天井に達している。洞窟内を揺るがすような咆哮が響き渡る。円陣から抜け出られないもどかしさに、ルシファが叫んでいるのだ。巨大な黒い龍、身をくねらして、天井を突き破らんとする。やがて影は小さくなっていく。神崎目掛けて襲いかかる。
・・・もうすぐだ。ルシファ様は、あの男に乗り移る・・・
佇む黒装束の男達、突然5人がバタバタと倒れる。同時に石田の体が前にのめりこむ。命が絶える。
・・・ルシファ様の黒い影が消えた・・・乗り移ったか、と思った時、また5人の黒装束の姿が倒れこむ。町田の体がはじけるように後ろに倒れる。残り14名の黒装束が神殿の中へなだれ込む。六芒星の輪を取り囲む。
・・・もう少しだがんばれ、昭太郎君、・・・牛島の声が聞こえる。神崎の体は黒い靄に包まれていく。
神崎は必死になってゆみと成一を光の繭で守っている。
黒装束は結界の輪を囲んだまま身動きしない。
ルシファが完全に神崎の体に乗り移った時、ハーケンクロイツの秘法が解かれる事を、彼らは知っている。
その秘術が解かれた時は、ルシファの霊は神崎からその子供に乗り移っている。そして、神崎は死んでいる。そうなると、牛島や5人のチベット人、1945年にベルリン陥落と共に命を捧げた7人のチベット人、全ての努力が気泡に帰す。
神埼もそのことは十分に承知している。自分か命を絶ってルシファを地の底に落とし込めねばならないのだ。夜の12時に・・・。それまでは絶対にルシファに憑依させてはならないのだ。
・・・後15分だ。12時になったら、懐に忍ばせている短刀で死ぬんだ・・・牛島の冷酷な宣言に従わなければならない。それが自分の運命なのだ。
11時50分・・・牛島の時を告げる声が聞こえる。
この時六芒星の一角が崩れた。1人、チベット人が死ぬ。1分、2分と過ぎる。2人、3人とチベット人が倒れる。彼らは自らの意志で死を選んでいる。 遂に5人のチベット人が亡くなる。残るは牛島ただ一人。神崎の脳裏に黒い影が侵入してくる。
・・・この光景は・・・以前犬山の本宮山の麓の”不思議な世界”の洞窟で見ている。
波と思っていた。そこに足を触れた瞬間、それは無数の人間の姿だった。そこから牛島に助け上げられる。
上空には黒い靄が出現する。その影に取り囲まれた時、それは無数の黒い人間だと知った。その表情は怒り、憎しみ、苦しみで満ちていた。それからルシファの姿が現れた。
―――これがルシファの正体か―――
ルシファは人間の憎しみや怒り、妬みなどの我欲をエネルギーとしている。長い人間の営みの中で、ルシファに巨大な力を与えたのは、他ならぬ人間であった。
小さな人間が無数に寄り集まる。それが靄の様になって黒い影となる。
今、ルシファは神崎の肉体に入り込もうとしている。神崎の意識はルシファの魂に取って代わられようとしている。神崎は必死に耐えている。ゆみと成一を光の繭で包み込んでいる。だがそれも限界に達しようとしている。
まだか・・・牛島の声が聞こえなくなっている。意識が遠のいていく。もはや見る事も、聞くこともできない。気持ちが体から離れていく。
・・・もうだめだ。これ以上は・・・
・・・おじいちゃん、助けて・・・
神崎は最後の一瞬、牛島老人に助けを求める。
この時だった。朦朧とした意識に一点の光が射し込んでくる。それは急速に膨らんでいく。意識がはっきりしてくる。神崎の霊体は黒い影から引き上げられる。大きな光の輪に吸い込まれようとする。
・・・昭太郎君、よく頑張った・・・牛島老人の声。
・・・今だから言おう。君の体はご両親から貰った。だが、君の心は私が与えたものだ。君が生まれる前に、私は自分の分霊を植え付けた。君は私なのだ・・・
牛島老人の声が途絶える。
神崎は、はっとして眼を開ける。ゆみと成一は神崎の腕の中で眠っている。安らかな顔を見て安堵する。
と思う間もない。神崎は周囲を見渡す。5人のチベット人が仰向けに倒れている。牛島老人は喉を短刀で突き刺して絶命している。その周囲を黒装束の男達が囲んでいる。
彼らは呆然と牛島を見下ろしている。
「おじいちゃん!」神崎の叫び声は声にならなかった。眼を瞑る。
地底奥深く、地獄の門が赤い口を開けている。巨大な黒い影が門の中に吸い込まれようとしていた。その影に蜘蛛の糸の様に絡みついた無数の白い霊がある。ここで死んだ緑の手袋達、5人のチベット人、町田と石田、そして牛島裕一の霊体がルシファに絡みついて、獄門の中へ消えていく。
・・・おじいちゃん・・・
神崎はすべてを悟った。
牛島裕一は、神崎昭太郎が生を享けたときから、今日のあるのを予知していたのだ。神崎は牛島の霊体を受け継いでいた。
―――だから、緑龍会のメンバーは神崎を誘拐して取り込むことも、殺す事も出来なかった。家に火をつけ、焼き殺そうとしたのが、精一杯の抵抗だった。ぎりぎり一杯までルシファの憑依に耐える事が出来たのも、おじいちゃんのお陰なのだ―――
―――ルシファに取り憑いたあの白い影・・・緑の手袋の男達、町田と石田、彼らは緑龍会の男達に消される前に自ら命を絶ってルシファに取り憑いたのだ―――
黒装束の男達は予想外の結末に血の気を失っている。ルシファが地獄の門に堕ちていくのを見ている。
・・・すべて終わった・・・
彼らは仲間の遺体を抱えながら地上へ引き返していく。
―――緑龍会、緑の手袋、どちらも厳しい修行と掟がある。任務に失敗した者は死をもって償う事になる―――
・・・彼らを待つのは死か・・・
去っていく黒装束の姿を見送る神崎。彼の心境は複雑だ。黒装束と入れ替わりに、牛島の寺を守っている僧侶とその仲間が入ってくる。5人のチベット人、町田、石田、白装束の男達、そして牛島老人の遺体を運び出す。
2月に入る。神崎とゆみは成一を連れて、釜崎の牛島の寺に居た。五葉山で死んだ多くの人たちを弔う。
五葉山の山頂の神殿は永久に閉じられる。このの事件は公にされることはない。すべては何も無かったかの様に、日々過ぎていく。
牛島の跡を継いだ僧侶達が、ここに留まるよう神崎を説得する。神崎はそれを断る。代わりに、毎年1月23日には墓参りに訪れると約束する。
3月、神崎とゆみは、成一は東浦に帰る。家が火事で焼けた時、ご近所に多大な迷惑をかけている。遅まきながら、あいさつ回りを兼ねて、自宅の立て直しを計画する。
平成25年秋、自宅が完成する。3人は平穏な日々に戻る。
エピローグ
1943年、ナチスドイツ軍がスターリングラードの攻防でソ連軍に敗れる。この敗戦を冷静に受け止めていた男がいた。マルチン・ボルマンである。彼は優れた洞察力と並外れた現実感覚の持ち主だった。
彼はドイツの敗北を前提とした戦後計画に着手する。ナチスの崩壊を予知したボルマンは、ナチスの莫大な財産を資本として使い、大勢の優秀なナチ党員をドイツ本国から脱出させる作戦を練る。
財宝は黄金75トン強、その他何トンにも及ぶ貴金属や宝石類、数10億ドルの通貨からなっていた。その他、特殊鋼板、産業機械、戦後の産業地域を支配するのに使える秘密の青写真などが含まれていた。
ボルマンは1942年春、I・Gファンべン社のヘルマン・シュミッツ会長をはじめ、親しい財界人らに、連合軍によって企業資産が接収される可能性があることを解いて、企業防衛策を示唆した。
その結果、ドイツの大手企業は外国のドイツ系関連企業に”隠匿資金”を振り込む始める。1944年だけで約10億ドルが振り込まれている。
ボルマンが準備した再建計画に従って、ナチス経済相ヒシャルマ―・シャハトは約750のドイツ企業を国外に移転させる任務に就いた。ナチ党は潤沢な党資金を企業に預ける。企業側は連合軍の接収から身を守るため、自己資金とナチ党の貸与資金を外国のドイツ系関連会社に振り込んだ。
ナチスが所有する宝石、貴金属美術品などはヨーロッパ各地に隠匿されたり南米その他に輸送された。海外に搬出された財宝は、イタリアを経由したものと、スペインを経由したものとがある。前者を鷹の飛翔作戦という暗号名、後者は火の鳥という暗号名が付けられた。
戦後間もなくしてから、ナチスの莫大な富の一部が日本の緑龍会に渡っている。緑龍会の目的は1人でも多くの超能力者を育てる事だった。
ヒトラーの予言により、2013年にルシファ―が覚醒する事を知る。ナチス崩壊の生き残りのチベット人らの証言で、その場所は日本の五葉山の地下神殿である事、ルシファが憑依する肉体は、牛島裕一の身内である事も調べ上げていた。
2013年1月25日の2日前の夜11時から12時の間に、ルシファがこの世に現れる。神崎に憑依した後、ルシファはその子供に乗り移る。
緑龍会の最大の目的は、その子供を拉致する事だった。その計画は失敗に終わる。この任務に就いた緑龍会のメンバーは死ぬ。
だが、これですべて終わった訳ではなかった。地下に潜ったナチスの残党は、ルシファ復活のための次なる行動を再開したいた。
・・・地底の獄門に繋がれたとはいえ、ルシファは不滅である。いずれ時が来ればルシファはこの世に出てくる。その時ナチスの時代がやってくる。ヒトラーの予言通り、ナチスは優生人種として、世界に君臨する事になる・・・
2015年(平成27年)春。
神崎昭太郎は犬山のレストラン茶舗にいた。妻のゆみも3歳になった成一も一緒だ。茶舗の個室で本居神主と、2人の人物の同席している。彼らは緑の手袋をはめている。1人はがっしりとした体格だ。黒にスーツに身を包んでいる。もう1人は小柄で年配者だ。
1人が口を開く。
―――ナチスは多くの地下組織を持っている。ユダヤ人のサィモン・ヴィ―ゼンタールが追及していた”オデッサ”もその1つである。―――
オデッサは地下組織の中でも最大のもであった。オデッサとは”親衛隊の組織”の略称で、1947年に設立されている。その他カトリック教会の援助機関として連携している蜘蛛などがあるが、公にされた地下組織はほんの一部でしかない。
地下組織の目的はナチス残党を南米やスペインに逃がす事で、将来復活するであろう秘密組織への人的、経済的援助である。
今―――、2人の緑の手袋が話をするのは、ナチスの地下組織が活動していて、その範囲を広げている事。日本にもその組織がある事。緑龍会は五葉山の地下神殿で壊滅的な打撃をうけた。今年になってナチスの地下組織によって莫大な資金援助を受けて復活している。
「いずれ、ルシファは甦るでしょう」
2人の緑の手袋は神崎を凝視する。
神崎は背筋の寒くなるのを感じる。牛島のお陰で命拾いしている。今は親子3人が幸福な日々を送っている。
「私達はどうすれば・・・」そのためにここに呼ばれている。
「我々の中心になっていただきたい」2人の緑の手袋は深々と頭をさげる。顔を上げた2人の眼は炯々としている。
「あなたは、牛島裕一です。我々の組織を束ねてください」
有無を言わさない迫力に満ちている。
神崎は抗う事の出来ない運命に従うしかなかった。
――― 完 ―――
お願い―――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織とは一切関係ありません。なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません―――