三話
鈍くゆるい痛みと、ガン!という一際大きい音で目を覚ましたナズナは、急いで起き上がって音のする方へ目を向けた。1枚、薄い壁の向こうで、なにかが砕ける音がする。ここはどこだろうという考えよりもまず先に、いつも隣にいる内弁慶で口下手な弟のことが頭に浮かんだ。頭がいいのに変なところで抜けている。また受けた言葉を変なふうに解釈して人に殴りかかったのではないかとナズナは心配になった。
彼女が空間を隔てているドアを開けると、そこには腰まで伸びた黄金色の髪の毛を揺らし弟と対峙する女性と、瞳をギラギラさせて惜しみもなく魔力を放つ薫が目に映った。足の折れた椅子が転がっていて、さっきの音はこれかとナズナは眉をひそめる。――ああ、また。人の家の物は壊すなとあれだけ言ったのに。
ナズナはひとつため息をついて、薫に向かって声をかけた。
「薫、なにしてるの」
びくり、と大袈裟に薫は肩を揺らした。獣のように光っていた瞳はいつものように光を失い、今にも家を潰してしまいそうなくらい放っていた魔力は何事もなかったかのようにしん、と収まる。そうしてしばらく彼は動かなかったが、突然また何かを思い出したかのようにナズナに近づき、思い切り抱きついた。
「お姉ちゃん、どこか痛いところ、ない?怪我は?」
「ないよ。…薫、そちらの方は?」
ナズナが紹介するよう促すと、薫はまたピリ、と殺気を放つ。ナズナが女性の方を向くと、彼女はにこりとわらって椅子を指さした。座れということらしい。その際に何か喋ったようだが、ナズナには何を言っているのか分からなかった。違う言語のようだ。
椅子は円形のテーブルを囲むようにして三つおいてあり、ナズナは女の人示した椅子に腰をかけた。
「薫、座らないの?」
薫は少しためらうようにしていたが、諦めて右隣に座った。女の人はそれを見届けると、その部屋の窓側に設置してある台所のような場所に向かった。置いてある銅製のポットに水を汲み、かまどの上に置くと即座に火がついた。ナズナがそれが魔法なのか薫に聞こうとして隣を見ると、じっと机を見ていた。まるで机の木目の数でも数えているようだった。なんだか声をかけるのも憚られて、ナズナは部屋を観察することにした。
童話に出てくるような部屋だった。窓は窓といってもガラスではなく、木でできているもので完全に開け放されている。そこから見えるのは青い空と深い森。家具は殆ど木製で、プラスチック製のものは全く見当たらない。設備も、さっきのようにかまどだとか暖炉だとか、電気製品はなさそうだった。本棚に並ぶ本の背表紙や、戸棚に置いてある調味料のラベルは全く知らない文字で書かれていた。
その時だった、ナズナが妙な違和感を覚えたのは。右耳の奥の、脳に届きそうなところに自分の意識の及ばない部分がある。それは微かな痛みと熱を伴って、脈を打っているようだった。
(お姉ちゃん気づいて、あの人はおかしいよ。嫌な感じがする。)
薫の声だった。耳を通して聞こえるのではなく、脳内に直接音が響いてくる。
え?と間抜けな声がナズナの口から漏れた。小さなそれは誰にも気付かれずに消えていく。薫は依然として机ばかりを見ていて、魔法を使ったような仕草はない。
(お姉ちゃん、気づいて)
ナズナは目を見開いた。彼女があげた、薫の左耳についているイヤリングがキラリとひとつ光る。かと思えば、重力に逆らってふわりと一瞬浮いたのだ。声はその一瞬間に聞こえていた。
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。イヤリングが光って浮いたのはあの一瞬だけで、今はもうなんでもないように薫の耳に収まっている。
「(…疲れてるのかな)」
なんらかの魔法が働いたとすれば薫が今一番に気がつくだろうとナズナは思った。きっと自分は疲れている。目の裏に焼き付いたイヤリングの光景を振り払うように、薫の背を叩いた。
「背筋伸ばして座りなさい!」
薫はビクッとして、今気づいたようにナズナの方を見た。そのままナズナの目を見つめ続ける。いつも極力目を合わせる事を避けるはずので、顔は無表情でも何か伝えたい事があるというのはよく分かった。
(薫は何を考えているの?)
ナズナがそう思うと、次は薫が驚いた表情をした。ナズナの思考が彼の頭の中に流れ込んだのだ。そして二人はお互いのイヤリングが光を灯し、フワフワと動いているのを見た。
ナズナはこのイヤリングが普通の物ではないことをついに確信した。
(もしかして聞こえている?)
それで薫も事態を把握したようだった。
(うん、聞こえているよ。)
薫が女の方を見ると、沸かしたお湯をティーポットに注いでいるところだった。
(お姉ちゃん、あの人は良くない感じがするんだ。)
(良くない? でもそんな風には見えないけど。)
薫は少し考えて、しかし具体的には説明できないようだった。
(よく分からないけど、嘘をついている人の感覚に似ている。)
薫は時々、相手が嘘をついていたり、敵意を持っている事に気づくことがある。今回もその一つだろう。
(分かった、少し注意してみる。)
その時丁度女が銀のお盆にティーポットとカップを乗せてきた。
「お待たせしました、どうぞ召し上がれ。」
彼女はそう言ったのが、ナズナは何を言っているのか理解していない、薫は相変わらず彼女を睨んだままだった。