フロントドア
シーズン開幕まであと少しとなった春、選手は各々調整を続けている。
その中でも俺が気にかけているのがドラフト一位投手の宍戸さんだ。
高校時代は三年間で二度の全国制覇に貢献するなど十分な実績を残していたのだが、東戸大学に進学してから今ひとつ伸び悩んでいる。
思えば高校三年の時に桜京高校に敗れた時も三失点と決していい内容ではなかった。
その原因は明らかだ、宍戸さんは左打者に対してとにかく弱い。
鋭く変化するシュートボールは右打者の内角を攻め立て非常な強力な武器になる。
その一方で左打者に対しては外角から逃げるボールで空振りを狙ったりという配球をしていたが、なかなか結果には結びつかない。
左打者への対策は必須だろう、そして俺には一つのアイデアがあった。
「宍戸さん、ちょっと」
ウォーミングアップを終えた宍戸さんを呼び寄せる。
「なんですか、監督」
「課題だった左打者対策に取り組むべきタイミングかと思ってね」
「何かいい考えがあるんですか?」
「ああ、試してみる価値はあると思う……とその前にだ」
ずっと違和感が消えなかったその事について切り出すことに決めた。
「そんな丁寧語を使わなくていいぞ、監督と選手の間柄とは言っても同じ年なんだし」
「監督にタメ口の選手なんて聞いたことがないですよ」
「それを言うならこんな若い監督っていうのも異例のことだろう、どうせ異例ならそういう慣習に囚われる必要もない。そしてなにより俺が落ち着かないんだよ」
宍戸さんとは出会った時からお互いに割りとくだけた関係だった、そこから一転してこんな丁寧な話し方をされてもなにか引っかかってしまう。
「そうは言いますけど監督も大概他人行儀でしたけどね、いつまでも宍戸さん宍戸さんって今でも呼んでますし」
どうやら宍戸さんは苗字呼びに距離感を感じているようだ、こちらにそういう意図はないのだが少なくとも相手がそう感じているという時点で問題である。
「わかったよ真紘、丁寧語は勘弁してくれ」
「……うん、わかった。じゃあそのついでに一つ聞かせてほしいな」
「何でも聞いてくれ、俺が答えられることなら答えるから」
その言葉を聞いて一つ呼吸をして間を置いてから真紘が再び口を開く。
「私を一位で指名したのはお父さんの意向だったんだよね?」
真紘がそのことを口にしたのはこの時が初めてだった。
これを機に聞いてみる、といった様子のさっきの口ぶりから推測するにずっとこのことが気になっていながらも切り出せずにいたのだろう。
「確かに、オーナーから真紘を一位指名するようにお願いされたのは事実だ」
「……そうだよね、まぁ誰が見てもあんな不自然な指名はそれ以外考えられないけど」
そう言って真紘が寂しそうな笑みを浮かべる、そんな表情は見たくなかった。
「別に私がどう感じるかなんて事はどうでもいいんだけど、それによって監督がチーム編成に苦心することになったと思うとやっぱり申し訳ないな」
この指名に関してはいくつか誤解を招いているようだ、これをいい機会としてそれを払拭しておく必要があるだろう。
「ここで嘘を言っても仕方ないから俺の本心を話そう、真紘を指名した理由の半分はオーナーとの縁故にあるがもう半分はその実力を評価してのものだよ」
「縁故がなければ一位指名は無かったとは思うけど、箸にも棒にもかからないというわけではない。そんなレベルの選手ならオーナーの意向を無視してでも回避してた」
「嘘だよ、大学に入ってから散々だった私を一位指名するなんて縁故を意識してのもの以外あり得ないってことぐらい分かってるし」
「他の一位指名はナンバーワンスラッガーの東堂さんに、伝説になっているぐらいの名投手である渡瀬さん、そして全日本エースの黒崎さん。私とは格が違いすぎるよ」
このまま話し合うより、俺のアイデアを試してもらったほうがいいかもしれない。
結局のところ調子を落として自信喪失している真紘に自信を取り戻させて立ち直らせることでこの問題は解決することが出来るのだから。
「とりあえず俺の言うことを試してみてくれ、これを武器に出来れば真紘は投手として大きくステップアップ出来るはずだ」
このアイデアを試すためには実際に打席の打者に向かって投球する必要がある、正捕手の愛里を呼びつけて真紘と一緒にアイデアをそのアイデアを試して聞かせる。
「とりあえず万が一の事があっても問題ないように打席には俺が立ってみることにする、まずはこの形でやってみよう」
そう言ってから俺はバットを取りに行き、バッターボックスへと向かっていく。
まずは投球練習、真紘が愛里のミットめがけてボールを投げ込んでいく。
こうして改めて見ても決して球質は悪くない、あとは一工夫で進化も期待出来る。
バットを持って俺が立ったのは左打席、普段とは逆の打席だ。
左打者対策なのだから当然左打席に立つ必要があるが、打つことは出来ない。
要するに俺の役割は生きた人型の置物のようなものだ。
その初球、ゆっくりと真紘がモーションに入ってからボールを投じる。
インコース、打席で構えた手首の辺りをそのボールが襲う。
そこから鋭くシュートしてストライクゾーンへと吸い込まれていった。
左打者のインコースのボールゾーンからストライクゾーンへのシュートボール。
メジャーリーグでよく使われているフロントドアと呼ばれる変化球だ。
昔の日本の投手でもこの手の投球術を使っていた投手は存在したらしいが、一般的な組み立てとして広く認知されているとは言えないものだった。
かなり危ないコースを攻めることになるが、幸い真紘のコントロールはかなり高水準であるためこのような配球も十分に実戦で使えるだろう。
それから何球か投げてもらったが、俺を置物代わりにしているだけでは不十分だ。
実際に打者と対戦させてやりたい、そんな風に考えていた。
一つ手元が狂えば死球でケガをすることもあり得る、それを考えるとあまり自軍の選手を立たせて練習させたくないという気持ちもある。
しかしやるならば十分実力のある左打者でないと全く練習にならないだろう。
そうなると候補は二人、キャッチャーの愛里か外野手の桜庭さんか。
「……お兄ちゃん、私が打とうか?」
そんな俺の考えを見透かしたかのように愛里にそう声を掛けられ驚いてしまう。
「まだ何も言ってないのに俺が考えてることが分かるのか?」
「……実際に打者を相手にして練習してもらうのが一番宍戸さんのためになるってことぐらい私だって分かるよ、それじゃ丸岡さんを探してくるから」
丸岡さんというのはドラフトで下位指名した控え捕手の名前だ。
そうして愛里が丸岡さんを探しに行こうとしたときに声を掛けられた。
「監督、私が打ちますよ。万が一にも正捕手がケガする事態は避けないといけません」
そういって名乗りを上げてくれたのは桜庭さんだった。
「桜庭さんがそういってくれるのならありがたい、技術的にも十分だ」
桜庭さんの言った通りの理由で出来れば愛里を打席に立たせたくはなかった。
正捕手が離脱するような事態が起こればチームにとって致命的すぎる。
もちろん桜庭さんも素晴らしい選手であるから離脱で困るのは同じだが、それでもどちらかを選ぶのであれば愛里をリスクから遠ざけておきたいというのが正直な所だ。
「選手にさん付けじゃ貫禄がないですよ監督、ましてや同い年なんですから」
「……分かった、頼んだぞ桜庭」
そう言って軽く肩を一度叩いて桜庭を打席へと送り出す。
左打者であり、打撃技術はかなり高い部類に入る桜庭に対応出来れば真紘にとってかなり大きな自信となるはずだ。
その初球、早速フロントドアのシュートを真紘が投げ込む。
先ほどの光景を見ていてその存在を認識していたはずの桜庭も思わず腰が引けた。
とても打ちに行けるボールではなく見逃してワンストライク。
二球目、真紘が再びインコースを攻める。
今度はシュートではなくストレートだ、桜庭が体を大きく動かして避ける。
ストレートとシュートに球速差は殆どなく見極めるのは至難の業だ。
しかし見極めることが出来ずストレートに対して踏み込めば死球は免れない。
人間は本能的にボールを恐れる、ぶつかるかもしれないインコースのボールを見極めて対応するというのは相当に難しいことだろう。
それにしても愛里も徹底して厳しい攻めを見せているのは見事だ。
チームメイトだから遠慮するといった考えは全くない、それで正解だと俺は思う。
真剣に攻めなければ有用な経験にはならないし、そんな形になればリスク覚悟でこれを引き受けてくれた桜庭に報いることは出来ないだろう。
この徹底的な攻めこそが桜庭の誠意に答える唯一の方法なのだ。
三球目、再びインコースに来たボールを反射的に桜庭が避ける。
しかし今度はシュート、ストライクゾーンに収まりワンボールツーストライク。
これだけ激しい内角攻めで追い込んだ時点で勝負は決まっていた。
最後は外いっぱいのストレート、内角を強く意識させられていた桜庭さんは腰砕けのスイングで空振り三振に倒れた。
これまでのような配球であれば、桜庭の技術でその外のストレートを逆方向に弾き返されてヒットにされていたところだ。
厳しい内角攻めによって外角を生かす、真紘の本領発揮だと言える。
「すごいピッチングですね宍戸さん、これは早々打てないですよ」
「付き合ってくれてありがとう桜庭さん、自信になりました」
そう言って真紘が微かに笑みを浮かべたのを見て俺も安堵していた。
「これを磨いていけば大きな武器になるだろう、期待しているぞ真紘」
「監督のアイデアのおかげだよ、ありがとうございます」
そういって頭を下げられる。
「真紘の力になれたのならそれだけで俺は嬉しいよ」
「……真紘、ね」
そう呟いて愛里が頭を俺の胸の辺りに押し付けてきたので軽く撫でてやる。
どこか愛里は不満気だったが、エースの真紘が手応えを掴んだことはチームとして大きな収穫になるだろうとそう予感していた。