第8話 前夜
神聖パルティノン帝国領スラエヴォ離宮。
古くからパルティノン皇室の保養地として知られ、観光の名所としても名をはせる中都市である。
大親征の失敗とその後の大飢饉による国土の荒廃や治安の乱れの中、休息を知らぬまま日々を過ごしてきた皇室の人間達も、政情が安定に向かうこのころになると、ようやく休息の時を迎えることができていた。
しかし、休息と言っても、その期間のすべてを休息に充てられるとは限らない。国家元首ともなればよけいであり、むしろ日常業務から解放されたからこそできる職責というものある。
「――――以上であります。万事抜かりなく、事は進んでおります」
神聖パルティノン帝国皇帝ゼノディウス・ラトル・パルティヌスは、帝都からもたらされた宰相メルティリア・ティラ・パルティヌスからの報告書からゆっくりと目を離すと、報告を終えた使者に対してうなづく。
「うむ。メルティリアや腹心たちには苦労を掛ける。こののちはゆっくり休んでくれと伝えてくれ。あと、最低1日は休息にあてるように命令する。ともな」
「ははっ!!」
今のことも、帝都の執務室では為すこともできぬ業務に一環である。
帝都は味方も多い反面敵も多い。
ここでいう敵とは、武器を持って立ち向かってくる者たちだけを指すのではなく、表向きな服従や書類上の忠誠を誓っているだけの人間も含まれる。
そういった人間たちは、自身の利益に支障をきたすか、日々の業務を狂わせるようなことを嫌う。
今回の『事』は、間違いなくそういった者たちの益を害すことにもつながるのである。
「さてと。リアネイアか……? どうかしたのか?」
ゼノスは書類を整えて体を軽く伸ばすと、幕の間から姿を現したリアネイアに対して向き直った。
「ほう、飛天魔の姫とな」
はじめは捨て置いても構わぬことと思ったが、話を聞いてみると思いのほか重大事になりそうな話である。
一国の姫とその護衛が奴隷に堕ちる。戦における虜囚や国家の滅亡がかかわっていないということが余計に不思議に思えた。
「はっ。子どもの悪戯の結果とはいえ、労せずして質を手に入れたようなものかと」
「とはいえ、質をとったところで意味があるわけではないがな。かの国を侵す利点は今のところは無い」
「はい……」
たしかに、姫を奴隷から解放したことで飛天魔達には恩を売れるであろう。
しかし、それに対する見返りは期待できない。戦場にて彼らを味方にするという選択肢もあるが、それでは光の飛天魔という利点を放棄しているのと同じである。
彼らが自らの判断し、味方してこその大義であり、人質の見返りに戦に参加させたところで、有力な部隊が一つ加わるに過ぎない。
「これといった資源もなく、作物にも乏しい山岳地帯。それゆえに、他国からの干渉はなく、常に中立の地位から大義を持つ勢力に加担する。彼らが清廉で義理堅くなったのは、種族性というよりも地域性故なのかもしれんな」
「ですが、そのための反発もいくつか。件の姫もおそらくは……」
「うむ……。なんにせよ、姫はすでにこちらの手にある。それに、あいつの相手にはちょうど良いかもしれん」
「……それは、まだまだお早い話かと思われますが」
「はは、お前はあいつのことになると、途端に母親の顔になるな」
「当然です」
真面目な表情でそう言ったリアネイアに対して笑みを浮かべると、ゼノスは席を立ち、窓辺へと足を向ける。
「今回の事。あやつらに禍根を残すことになるのかな?」
そう呟いたゼノスに対し、リアネイアは答えない。窓辺に立ってからの呟きは、基本的に独り言であることを知っているためである。
慣れた彼女からすれば微笑ましい光景であるが、他人が見たらただのかっこつけにしか見えないのが玉に瑕であるが。
「まあ、俺もフェスティアやアルテアをつまらん男にくれてやるつもりはないし、お前が馬鹿な女にアイアースをとられたくないという気持ちも分かるぞ。リア」
「当然です。少なくとも、私を倒せる者でなければ認めませぬ」
「おお、怖い怖い。まあ、姫のことはお前らに任せる。飛天魔の王が返せと行って来てから対応を考えても遅くはないしな。シュネシスならともかく、アイアースは馬鹿なことはしないだろ」
「シュネシス様も大丈夫だとは思いますよ。なにしろ、あなた様にもっともよく似ていらっしゃる」
「おっ? どうした? いつもと呼び方が違うじゃないか? 息子がとられそうになって人恋しくなったか?」
そう言って、ゼノスは口元に笑みを浮かべる。
夕餉の時を知らせる鐘がスラエヴォの街に鳴り響いたのは、ちょうどその時であった。
まもなく、この盆地に栄える杜の都に夜の帳が降りようとしていた。
◇◆◇
「ほう、その子が……。私の古着が、よく似合っているではないか」
「はい。状況が状況ですし、同席させてもよろしいでしょうか? 姉上」
「かまわぬ。近衛用の食堂だ。気を遣う必要もないだろう。そなた達も良いだろう?」
夕餉の鐘を聞いたアイアースは、フェルミナを連れて近衛兵が集まる食堂へと足を向けた。
昨日のように、皇族だけがそろって食事をとるのは、全員の手が空いているという稀な時だけであり、基本的にこども達はこの場で近衛兵に混ざって食事をとるのが慣例である。
戦場における信頼関係の構築には、食事の席が最適という判断からのようで、これは草創の時代から続く伝統でもあった。
「あ、あの……、本当に同席させていただいてよろしいのですか?」
「かまわぬ。奴隷の一人や二人、気にしているほどヒマでもない」
アイアースがフェスティアの姿を見つけ、腰を下ろすと気を遣ったのか近くにいたキーリアが席を空けてくれた。
それを気にしてか、フェルミナがどこかおどおどしながら口を開いた。しかし、フェスティアの突き放したかのような言い方に、どこかショックを受けたようにも見受けられる。
「そうですよ。俺だって奴隷ですし、気にしたら負けですぜ、お嬢さん」
「キーリアにまで上り詰めたヤツが何言ってんだよ。だけど、お嬢ちゃん、こいつの言っていることは間違っちゃいないぜ?」
そんなフェルミナの様子を気にしたのか、席を空けてくれたキーリアが苦笑しながら声をかけてくる。仲がよいのか、相席していた近衛兵も同様に声をかけてくれた。
「まあ、そうだな。今の様子を見ただろ? 皇帝直属の衛士であるキーリアと近衛の一般兵が対等に口をきいている。ここは、そういう場なんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。それに、お前の主人は私だ。私が一緒に食べると言ったんだから、黙ってそれに従えばいい」
「わ、分かりました」
「それと、あいたっ!?」
「そのぐらいにしておけ。騒がしいと、飯がまずくなる」
まわりの気遣いに安心したアイアースは、少し居丈高な態度でフェルミナに告げる。その様子に驚いたのか、身体を強ばらせながら頷くフェルミナであった。
そして、少し悪戯心が芽生えたアイアースは、少しからかってやろうと話を続けようとするが、フェスティアのフォークにピシリと一撃された。
「はっはっはっは、さすがの四皇子殿下も一皇女殿下にはかなわないようですな」
「ふん、当たり前だ。皇子と皇女の前に弟と姉だ。ハイン、貴様もその軽口を直せ」
「いやあ、このハイン・ド・カテーリアン。口先と突撃だけを頼りにここまで生きてきた身でありやして」
普段見ることのできない光景がツボにはまったのか、ハインをはじめとするキーリアや近衛兵達が盛り上がる。
「…………ふふ」
「お?」
「あ、ごめんなさい」
昨日の身内でのものとはことなる盛り上がりに、アイアースも自然と笑みが浮かんでいるのが分かったが、ちょうど同じようにフェルミナも笑みを浮かべ、慌てて頭を下げる。
「いいさ。実際のところ、私もこう言うのははじめてだ。でも、不快は思いはない。一緒に楽しめばいいよ」
「はい。……でも」
そんな健気な様子になにやら胸の奥がチクリとしたが、笑顔で頷いたフェルミナの小さな声が耳に届く。
「うん?」
「できればシャルも一緒にいて欲しかったです」
その、どこか悲しげな声色が耳に残った。
たしかに、昨日の様子を見れば、ただの主従ではない何かが二人の間にはあるように思えるのだった。
◇◆◇
食事を終えたアイアースは、居室へと戻ると子ども一人には少々広すぎるように思える部屋の中央に立つ。
夕食が思いのほか盛り上がったため、夜も更けているがすぐに寝付けるとは思えなかった。
そして、フェルミナをベッドに座らせ、今まで幾度となく手にした訓練用の片手剣を両の手に取る。
ふっと、息を一つ吐くと左腕に持った剣を正眼に構える。精神を集中し、存在するはずのない敵へと意識を集中させていくと、両の腕に剣の重みが伝わりはじめる。
鎧を着こんでもいないし、実際に敵と相対しているわけではないし、訓練であっても相手と剣を打ちあうなど遙かに先のことだ。
こうして、構えたままどれほど時間が経とうと構えを崩さずにいられる事。実際に剣を振るうのは、それが出来てからであった。
「はぁはぁ…………」
普段とは異なり、人の目があるせいか、息が上がるのが早い気がする。剣を下げると、額に浮かんだ汗を拭う。
「……すごいです」
「どうした突然?」
「まるで、シャルがこの場に居るみたいでした。殿下は、私と同い年のはずなのに」
「それは褒めすぎだ。私は、丸太を細切れにはできないぞ?」
「それでも、とても声がかけられるようには思えませんでした」
「だから褒めすぎだ…………。ふう、フェルミナ、ちょっと話でもしようか」
「えっ!? は、はい……」
そう言うと、アイアースは再び剣を構え、フェルミナに対して自身が学んだパルティノンについて話し始めた。
話をしていても、剣を取り落とさない。それだけの集中力を養うためである。もちろん、意味があるのかは分からない。
そして、アイアースの意識は剣から話の内容へと向けられていった。
大陸と海原の統一。
すなわち、世界制覇がパルティノンが掲げる国策である。
北方の雪原地帯に起こった遊牧騎馬民族を起源とする国家であったが、東西に広がる高大なるステップ地帯を制し、現パルティノン本国に当たるアルテナ内海を中心とした温暖地帯、帝国本国とステップ地帯に挟まれた肥沃な黒土地帯、湖沼と湿地からなる湿潤地帯、荒涼たる荒野と砂漠に僅かな水と植生の点在するオアシス地帯、大海に浮かぶ無数の島々からなる群島地帯。
気候区分も異なり、文化や風習、種族、人種などが異なり、共生と争乱に包まれていた大陸を制し、今では大海を越えて異なる大陸へと足を伸ばそうとしていた。
しかし、その第一歩は最悪の結果皇帝の死をはじめとする親征軍の壊滅をもたらすことになった。
当時の皇帝は、3代続いた「究極平和」と呼ばれる奇跡の100年の後に登場した。
皇帝への即位はわずか5歳の時であり、親征にて戦死したのは実に95歳の時である。5歳で即位、6歳で強勢退位の末に追放。25歳で帝位を奪い返すといった20年の乱世。
そして、70年の治世の大半を国内の平穏と親征のための準備期間へと当てていたのである。
100年以上の長きに渡る平和は、争乱に包まれ続けた大陸から一切の戦争を奪い取った。しかし、平和とは永遠ならざるもの。安定はやがて混乱を生むものである。
その結果が、帝位を争った20年の乱世である。
そして、70年の治世の中で、その歪みを感じ取ったのであろう。
結果として、新たな目的として親征を決断をしたことは特段の過ちではない。
少なくとも、戦火に晒されるのは国内ではなく。巨大な消費が発生するため、経済も大きく動くことになるのである。
だが、待っていたのは敗北。それも、皇帝を失い、随伴した戦力の過半以上を喪失する大敗北である。
それまで、不敗であることを信じていた民は大きな失望を。随伴しながらも生き残った傘下の国々は、再びの飛躍を期待させることになる。
そして、皇位を継いだのは、放蕩の皇子ということも相まって、国内は大きなが巻き起こることになる。
とはいえ、先代皇帝は、敗死したとはいえ失った帝位を自力で取り戻し、50年以上の平和な御代を作り出し、極めつけは空前の親征を実現させるという、卓越した政治手腕とカリスマ性を備えた君主であった。
つまりは、万一の際の備えを怠らぬほど、愚かな君主ではなかったのである。
新帝の即位と同時に宰相に就いたのは、新皇后であるメルティリア。帝国近衛軍「キーリア」のNo4であり、混乱の極みにあった帝国中枢をまとめ上げると、大親征を生き残った若手将軍達を各地に派遣し、反乱を鎮圧。
治安維持には、当千に値すると謳われる「キーリア」の衛士達を派遣し、わずか一年の間に全土に平穏をもたらしたのであった。
それでも、平穏はあってもそれまでの平和は訪れることはない。実際に、国内に赴いてみても、アイアースをはじめとする皇族全員がその事実を突き付けられてだけであったのだ。
(見て回った都市や町村は平和そうだった……、だが、満足に食べられていないんだろうという人が大半だった)
そんなことを考えたアイアースの脳裏には、行啓の際に歓声を上げ、笑顔を迎えてくる民衆の姿とそれに相反するように荒廃する国土の様子が写っていた。
敗戦、反乱、そして、異常気象による食糧難。
(皇族に生まれたときは、ついてるとも思ったんだけどなあ……。滅亡の危機ってのはどうにもなあ……)
「アイアース。剣が下がっていますよ」
「えっ!?」
そんなことを考えていたアイアースであったが、背後からの声に我に返る。慌てて両腕に目を向けると、右腕の剣が床スレスレにまで下がってしまっていた。
「ふふ、部屋から灯りが漏れているかと思えば…………。無理はよくありませんよ。それに、フェルミナ様も疲れて眠ってしまったようです」
リアネイアの言を受けて、先ほどまでベッドに腰掛けていたフェルミナへと視線を向ける。
すると、自身の黒い翼に包まれるように、寝息を立てるフェルミナの姿があった。
「安心したのでしょうね。それまで、これからの自分の人生を呪うしかなかったのでしょうけど……」
「母上、申し訳ありません」
「あら? 突然、どうしたの?」
ちょうど部屋の前を通りかかったのか、リアネイアがいつの間にか室内に入ってきたようであった。
軍馬を乗りこなし、行啓にて目にした国土の荒廃を顧みて亡国の危機を察する。一成人などであればそれほど違和感はないのかもしれないが、彼はまだ七歳の少年。
聡明と言えば聞こえはよいが、それが夜更かしが許される理由にはならない。
「それは……」
「あなたが、他のこども達とは違っていることは分かっていますよ。それに、ティグの血が流れる故に、武術に際して気が高揚することも当然でありましょう。ですが、よく休むこともあなたには必要なことですよ。……それに、せっかくできたお友達に迷惑をかけるのはよくないわ」
口ごもるアイアースに対し、リアネイアは優しげな笑みを浮かべてそう告げると、懐からハンカチを取り出すと、額に浮かぶ汗を拭う。
「友達……ですか」
「お金で買った。というのは、少し情けないですが。そうでもなければ、同年代の者と知り合う機会もなかったかも知れませんからね」
「友達……」
おかしな話である。奴隷として売られていた少女を金にもを言わせて買い取った。恥じることはあれど、誇ることではない。
どの口で友達。等という者を口にするというのだろうか?
そう思うと、頭がなにかに揺すられるような気がした。
(なんだ??)
浮かんでくるどこか懐かしい光景。
舗装された街路を笑顔で練り歩く若者達。スポーツで汗を流す若者達。ノートを睨みながら頭を抱える若者達。
それは、アイアースが、十川和将であったころに幾度も経験した光景であった。
しかし、そのような大切な思い出を、無理矢理に壊そうという者はいつの時代にも存在する。
それは、アイアースがリアネイアに対して、何かを告げようとしていたその時であった。
部屋が、離宮が、いや、大地が揺れたのである。
「――な、なんだっ!?」
「――――アイアースっ、ここにいなさいっ!!」
「母上っ!! うわっ!?」
咄嗟のことに、部屋を飛び出す母の後を追おうとしたアイアースであったが、続く揺れと爆発音に思わずバランスを崩す。
身を起こしたときにはすでにリアネイアの姿はなく、仕方なしにアイアースは窓辺により、窓を開け放つ。
離宮の中にはでは、松明を持った兵士達がせわしなく走り回りはじめ、緊急事態を告げる銅鑼の音が周囲に轟はじめている。
(3つ…………反乱っ!? しかし…………っ!!)
突然の事態に、考えがまとまらないアイアースであったが、今は鳴り続ける銅鑼の音に耳を傾けるしかなかった。




