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第七十三話 長い時を経て

 郊外にある屋敷の扉が開かれる。開けたのは元気そうな雰囲気を醸し出す若い侍女だ。


「コーネリア様! お久しぶりです!」


 笑顔で侍女が出迎えた相手は美しい女性だった。精巧な人形のような容姿の彼女は耳長く人間とは明らかに異なる種族であることを示している。


「ええ、久しぶりね。クロエ。何年ぶりなのかしら。あんな小さな子供だったのに、もう侍女として働いているなんて時間が経つのは早いわね」


 コーネリアと呼ばれた女性は懐かしむ視線を若い侍女クロエに向けた。以前会ったときにコーネリアになついた彼女のことを昨日のように思い出す。そのころはまだ背丈も低く、抱き上げることもあった。

 今では侍女服に着られている感は強くても、袖を通して働いている。背丈が自分に迫るほど成長していて抱き上げることも難しい。


 手紙でやり取りはしていたために近況は知っていたが、コーネリアにとって否が応でも時間の経過を改めて感じさせられるものがあった。


「ええ? もう十分私は大人ですよう」

「まったく、前言撤回ね。そうやって大人ぶるうちはまだまだ子供よ」


 不満そうにクロエは唇を尖らせる。その反応にコーネリアはくすりと笑った。


「積もる話をしていたいけど、あまり長くはいられないの。さっそくあなたの主の所へ案内してもらってもいいかしら?」

「はい、わかりました。奥様がお待ちです」


 コーネリアが通された部屋はこの屋敷の中ではやや狭い部屋だ。しかしコーネリアを蔑ろにしているわけではなく、調度品も落ち着いた雰囲気で居心地の良さを優先している部屋に合わせたもので揃えられている。来客用というよりも、普段から使用している部屋であり、余程襟元を開くような親しい間柄でなければ、この部屋に客が通されることはない。

 元々平民であるコーネリアには豪華絢爛な部屋に通されても返って萎縮するだけだ。


 通された部屋には部屋の主である白髪の老婦人がいた。少しやつれているが穏やかながらも凛とした気丈な雰囲気を漂わせていた。優雅に椅子に腰かけ、コーネリアに穏やかに微笑みかける。


「いらっしゃい、ネル。ああ、随分と会っていなかったのにあなたは変わらず以前と同じ姿のまま。昔を思い出しますね」

「エルフでも老齢になれば多少は老けるんだけどね。私の家系はどうやら老いにくいらしいわ。でもあなたも元気そうでよかったわ」

「どうにか過ごせていますが、さすがにもう年ですもの。体が思うように動かなくなることもあるぐらい。今だって友人を出迎えるのに立ち上がるのも一苦労よ。クロエがいてくれて本当に助かります」

「無理しないでちょうだい。倒れられたら私が困るわ。久しぶりの再会ですもの。思い出話にでも花を咲かせましょう」

「そうですね。こうして会う機会もなかなかありませんから。今日はゆっくりと話しましょうか。それにしても不思議ですね。若々しい姿で、昔を懐かしんでいる姿を見るととちぐはぐに感じますね」

「何よそれ、私はあなたより年上なのよ。これぐらい不思議じゃないわ」


 くすくすと上品に笑う老婦人に対して、コーネリアは苦笑した。


「それにしてもクロエがあなたの侍女になるなんて思わなかったけどね」

「ええ、私も最初は断ったのですが、どうにも聞いてくれなくて。あの子の母と同じようにザヴァリッシュ家の侍女として働く気はないのでしょうか」

「それ以上にあなたに仕えたかったんじゃないのかしら。実の孫のようにかわいがっていたのだから当然よ。だいたいクロエの母だって元々は貴女のもとに仕えていて離れようとしなかったじゃない。あなたが説得したから涙をのんだみたいだけれど娘が仕えることになって安心しているんじゃないかしら」

「先の短い私よりもザヴァリッシュ家に仕えたほうが、彼女たちのためになると思ったのですが」


 老婦人は憂いを帯びた目をしている。


「そんなことないわ。あなたに仕えることで学べることもあるはずよ。それにあなたに仕えた経歴はとても価値があることだわ」

「もう私は隠居した身ですよ。貴族に対する影響力もありません。社交界にも顔を出さなくなって久しいですから」

「何言っているのよ。あなたは世界に名を残した偉人じゃない。この国じゃなくても国賓待遇でもてなされるぐらいよ。もっともクロエはそんなことを考えず、ただおばあちゃんのような間柄と一緒に過ごしたいって気持ちなんでしょうけどね。あなたが断り切れなかったのもそれが原因でしょう?」


 老婦人は溜息を吐いた。長年の友人である彼女の言葉は老婦人の心中を的確にとらえていた。

 クロエは純粋な善意で自分に仕えている。もっとも彼女だけではなく彼女の母や祖母、そして曾祖母もまた何の打算もなく彼女に仕えてくれていた。


 だからこそ今後の展望も考えた上で自分から突き放そうとは考えたものの、結局は押し切られる結果となってしまった。それを心苦しく思う反面、どこかでうれしく思う気持ちがあるのも確かだ。


「あの子の一族には本当に世話になってばかりですね。普段の性格は違うのに、肝心なところで頑固なところは昔の彼女とそっくり」

「クロエも外見なら曾祖母である彼女の面影が残っているものね。まあ私にとっては厳しく険しい顔をしている思い出が多くて、クロエとは全然違う印象が強いけど」

「あれで少女趣味もあったのですよ。娘のおもちゃにと大量のぬいぐるみを作ってあげていたぐらいですから」


 自分に似合わないからと自分の娘にはそれこそ少女趣味全開の衣装を着させていたぐらいだ。実際は自分が着たかったに違いない。

 そう思うとその衣装を着たクロエの曾祖母の姿を想像してしまい、二人は笑いをこらえきれなかった。きっとその顔は恥ずかしさで引きつっているからだ。


「それでネルの村はどうなのですか?」

「にぎやかなものよ。廃村寸前だった他のエルフの集落や戦争に巻き込まれた難民を集めて大きくなったわ。これはうちの旦那のおかげね。私じゃこうはいかなかったわ」


 コーネリアの故郷も元々は限界集落に近いエルフの集落だった。各地のエルフの集落を転居させ、戦争の難民であった人間すらも受け入れたのだ。

 閉鎖的なエルフや人間たちの不和を取り持ち、周囲を説得したコーネリアの夫がいたからこそ現在の村ができた。

 元々感情的なコーネリアではこうもうまくいかなかっただろう。弁が立つわけではないが、人柄が朗らかで自然と周囲との距離を詰めるのが上手い彼女の夫だったからこそ実現できたのだ。


「私の父であるあの馬鹿は楽隠居しちゃったから大変だったわ。私じゃ一時的にはできても、村のみんなをまとめるだけの器なんてなかったし。結局、旦那が村長の座について村のみんなを率いてくれたおかげで何とかなったのよ」

「あら、惚気ですか?」

「私の旦那の功績ですもの。ちゃんと胸を張って誇らなきゃ」


 お互い色恋や惚気で一喜一憂するような年でもない。惚気を聞かされても大して気分を害することもない。


「それでリーアムは元気なのですか?」

「……先日亡くなったわ」

「……そうですか、にぎやかな人でしたから。寂しくなりますね」


 老婦人は目を伏せた。

 人間であるリーアムと、その妻でありエルフであるコーネリア。年を重ねればいつかはこの別れが訪れることは予想できたことだ。

 ここしばらくコーネリアがこの地に訪れることができなかったのも、彼女の夫の体調が思わしくなく動くわけにはいかなかったからだ。


「人間でこの年まで生きたんだもの。大往生よ」

「申し訳ありません。そんなときに私が立ち会うことができなくて」

「いいのよ。あなたが転移魔法なんて使って国外に出たことを知られたら、今の無能帝じゃ何を言われるか分かったものじゃないわ。村のみんなが旦那を見送ってくれた。それだけで十分だわ」


 老婦人の影響力は未だ残っている。いくら彼女が隠居した身だとしても、現在のよからぬ連中が嘘を見抜けぬ無能な皇帝に讒言(ざんげん)して、彼女の身に危険が及ぶとも限らない。

 現在の皇帝はそれぐらい信頼できなかった。


「ヴィクトル帝並の知略と度量があれば問題ないのでしょうけどね」

「その代わりあの方のように周囲を巻き込むほどの大望もありませんから」


 コーネリアの故郷であるコミューン連合国と、老婦人がいるヴァイクセル帝国は一時期戦争にまで発展する事態に陥った。

 当時の皇帝であるヴィクトルが野心を持ち領土を広げようと画策したからだ。彼の策謀によってコミューン連合国は国土を大きく奪われた。

 それを止めたのはコミューン連合国の軍ではない。他でもない内部の犯行。父の傀儡と化すのを良しとしなかった実の息子に討ち取られたのだ。コミューンを平らげ、大陸全土に覇を唱えようと戦果を広げ続けるヴィクトルについて行けないと考えた貴族が嗾けたのだ。


 実質的なクーデターによりヴィクトルや他の皇位継承者を始末し、ヴィクトル派の貴族を粛清してまで帝位を簒奪した男は残念ながらヴィクトルほど有能ではなかった。どうにかコミューン連合国との和議を結んだときには奪った領土はほとんどコミューン連合国へと返還されてしまった。

 あまりの自体に帝国の国民はその男を陰で簒奪帝と呼び蔑んだ。


 簒奪帝と蔑まれたその皇帝の子も猜疑心が強く祖父の才能を引き継ぐことはできなかった。クーデターによって勢力を強めた貴族たちが専横する中で凡庸なりにやっているのだが、貴族たちの抑えきることができず国力を落としている現状を考えると無能に等しい。


 ヴィクトルに仕え、貴族や国民にも影響力の強い老婦人がその粛清に巻き込まれなかったのも、コミューンへの出兵に反対しヴィクトルに謹慎を申し付けられていたこと、そして過去の彼女の功績が大き過ぎるためだった。


「思えば昔の戦友はみんな逝ってしまいましたね」

「あと残っているのはヴィーヴルぐらいなものね。たまに会うこともあるけど滅多には会えないから」


 戦友だったイレーヌやハボックやエミリアも天寿を全うし、コミューン連合国の女王ロズリーヌも戦争が終わってしばらくして病で倒れた。コミューン連合国にとって激動の時代を生きた女王は、苛烈な人生がゆえに無理がたたり命を燃やし尽くしたのかもしれない。最期の瞬間まで民のために奮闘し、眠るように亡くなったのだという。

 国土を何度も侵され波乱な運命をたどった女王だったが、最後まで抗い続けた彼女の死をなげく国民は多かった。


 そして彼らの大事な戦友の一人であるヴイーヴルはコーネリアたちと一緒に戦った魔物との決戦のあと、自身の存在が人間に利用されることを恐れてすぐさま姿を消してしまった。彼女が盟約をかわした人物はもうこの世界にはいない。彼女を引き留められる人物など一人もいなかった。

 けれども完全に消息不明というわけではない。コーネリアの父の所へたまに遊びに来ており、コーネリアも何度か顔をあわせたこともある。現在は元々住んでいた北の森林地帯で暮らしているらしい。


「年を重ねるというのは残酷ですね。イレーヌを失ったときは嘆き悲しみましたが、年を重ねるごとに感情が摩耗していってしまう。寂しく悲しいとは思っても、昔のような激しい感情が出せなくなってしまいますから」


 コーネリアも老婦人の言葉にコーネリアも感じるところがあった。口では大往生だと強がったが、夫を失ったときの辛さは激しかった。けれどそれは一時的なものであり、夫の死を受け容れ立ち直ることができた。

 何しろ自分にはまだやらなければならないことがある。夫が人生をかけて育てた村があった。夫が病に倒れる前に村長は息子夫婦に代替わりしたものの、村長だった夫の仕事に携わることもあった経験から意見を求められることもあるぐらいだ。いつまでも息子夫婦に心配されるわけにはいかない。


「あーあ、暗い話はもうお終い。いつまでも悲しんでばかりはいられないわ」

「そうですね、せっかくですからここまでの旅の話でも聞かせてください」


 暗い雰囲気に耐え切れず、コーネリアは強引に話を切り替えた。老婦人もしんみりとした雰囲気をかき消すように明るく声を出す。

 二人は久しぶりの再会に思い出話に花を咲かす。気づけばすでに夕暮れどきに差し掛かっていた。


「あら、もうこんな時間ですか」

「時間が経つのは早いものね」


 話に夢中だったからか二人は時間の経過がやけに早く感じていた。しかしいつまでも楽しい時間を過ごしているわけにはいかない。


「じゃあそろそろ帰るわ」

「帰るのですか? 今からでは近くの宿に泊まるとしても遅くなると思いますが。何なら泊まっていってはどうですか?」

「ごめんね、あまりここに長居できないの。また来るわ」

「そうですか。ではそのときを楽しみにしておきます」


 若干残念そうな老婦人だったが、コーネリアを強く引き留めることはなかった。会話が途絶え一区切りついた瞬間、老婦人は口元を抑え激しくせき込む。コーネリアは老婦人の背中をさすった。


「大丈夫?」

「ええ、久しぶりで年甲斐もなくはしゃいでしまったのでしょうか。もう大丈夫ですよ」

「体がふらついているじゃない。もう座っていなさい。あまり無理をしちゃいけないわ。見送りしなくていいわよ。クロエもいることだしね」

「そうですね。ではまた」

「ええ、またね」


 別れを告げ、クロエとともにコーネリアは部屋から出ていく。部屋から離れるとコーネリアはクロエに尋ねた。


「クロエ、あの子の体はいつまで持つの?」


 直截な問いにクロエはためらいながらも小声で打ち明ける。


「お医者様のお話ですと奥様の体はもうそれほど長くはもたないそうです」

「そう」


 クロエの涙交じりの声に、コーネリアは実に平坦な声で返した。


 コーネリアはエルフである。純粋なエルフではないがそれでも人間よりも長命だ。

 当時一緒に戦った仲間でヴイーヴルを除けば最後に残るのは長命であるエルフの自分だけだ。

 そしていつかは、より人間の血が濃い子もまた自分よりも先に亡くなるのだろう。


 いつからだろうか。知り合いが逝ってしまうということに慣れてしまったのは。

 いつからだろうか。知り合いを失う悲しさが自分だけ取り残される寂しさへと変容したのは。


 コーネリアがこの屋敷に宿泊しなかったのは彼女に用事があったのは確かだが、この想いを老婦人に知られたくなかったからだ。

 いずれ老婦人との別れが必ず訪れる。見送る側が自分の寂しさを押し付けてはいけないとコーネリアは思ったからだ。


 だから別れを告げるときわずかに見せた彼女の寂しそうな顔を振り切った。

 なんてことはない。邪神と戦った一人として少しは名前が知られているコーネリアでも、心の弱さはあるのだ。


(あいつだったら、どうするのかしらね)


 ふと思い出すのは彼女のとある戦友。あの男ならば真の意味で老婦人の支えになるだろう。

 しかしそれは叶わぬこと。彼はもうこの世界にはいない。共に戦った最後の戦いで死別同然の別れがあった。二度と会うことはできない。


 結局屋敷を出る短い間ではまともな答えを出せそうもない。

 少なくとも現状でコーネリアが老婦人に対して出来ることと言えば再会を約束することぐらいだった。


「クロエ、あの子のことよろしく頼むわね」

「はい、任せてください。また何かあれば連絡します」

「ええ、すぐにでも飛んでくるわ」


 コーネリアは老婦人がいるであろう窓に視線をしばらく向けると、そのまま振り返らずに屋敷を去った。



 老婦人は窓からその光景を眺めていた。

 そしてテーブルへと向かい、一冊の古い表紙の本を開く。それは老婦人が綴っている日記だった。

 最近は毎日綴っているようではなく、日付も飛び飛びだ。書かれていても短い記述しかないことも多い。

 久しぶりの友人との再会は日記を綴る十分な理由になった。ペンを走らせ一通り書き終えると、ふと老婦人は今までに書いた日記を数冊読み返す。コーネリアと思い出話をしたせいで懐古の念を刺激されたからだ。


 自分が若いころの日記は書きたいことがびっしりと綴られていた。思い返してみればそれだけの思い出がいっぱい詰まって、それを赤裸々に語っている。過去に抱いた夢や恋心さえも綴られていた。事実であるし他人に見せることはないとはいえ、少し気恥しくなる。このときだけは童女のように心が若返ったような気分を味わっていた。


 過去に抱いた夢は叶った。魔法の師から学んだことを活かし、一般にもその教えを説こうと「魔道概論」やその他の著書も今日の魔法学に強い影響を及ぼしている。「才無し」と蔑まれた自分のように思い悩む魔導師の助力になっているそうだ。


 それでも思い出のすべてを日記に記載しているわけではない。特に邪神や魔法の師の正体、名前すらも一切書いていなかった。邪神や師の正体については最後に残した師との約束だったからだ。

 そのため二度とあのときの真実につながることは公表するつもりはないし、その秘密は墓場まで持っていくつもりだ。


 唯一ブランデンブルグでの真相は日記に記載した。自分の死後であればもはや自分の聖女である役目も終わっている。ならば公表しても大した弊害にはならない。願わくは自分の死後、この事実が公表されてほしい。そのために証拠としてこの日記を残していた。


 日記に読みふける老婦人の意識を取り戻させたのは、扉のノックの音だった。


「奥様、こんな時間に申し訳ありません」

「いえ、どうしたのです?」


 申し訳なさそうにクロエが部屋に入ってきた。ただ若干怒りが混じっているように見える。不思議に思い、老婦人はクロエに尋ねる。


「実は奥様に話があるというご老人がいらっしゃいまして」

「こんな遅くにですか?」


 クロエは首を縦に振った。ごくたまにだが高名な老婦人に会いに来る客はいる。しかしながら夕方に来るのは珍しいし、先触れも事前の連絡も受けていない。

 クロエの反応からしても一度も会ったことがない親しい間柄の人物のようではなかった。


「男性で白髪の御老人です。顔つきがこの大陸の御方ではありませんね。外国の方だと思います。衣服は変わった服を着ておられますけど、かなり上品な服なのでどこかの貴人ではないでしょうか。時間も時間ですし何度お断りしても一言でもいいから奥様に伝えてほしいとおっしゃって」

「それでどのようなことを伝えるようにおっしゃったのですか?」

「それが名前を伝えればすべてがわかるからとおっしゃっていました」

「名前?」

「確か――と」


 がたんと椅子が倒れる音がする。


「今なんと?」

「ええっ、――です。もしかしてお知り合いの方ですか?」


 椅子から立ち上がり鬼気迫る主人の姿に、クロエは怒りも忘れ戸惑う。


「奥様!?」


 老婦人は急いで部屋を出た。自由に動かない体に無理矢理鞭を打ち、少しでも早くその人物に会うために。


 クロエが言った名前は老婦人にとって特別な相手の名だ。その名を知るもので存命しているのはヴイーヴルかコーネリアぐらいしかいない。彼女たちがそれを誰かに話すことは有り得なかった。


 エントランスに着くころにはすでに老婦人は息切れしていた。乱れた髪と息を整えて扉を開ける。

 扉を開けた前には痩せた老人がいた。年齢は老婦人と同年代だろうか。


 老婦人は思わず口を手で覆う。長い時を経ても、その人物が誰かわかったからだ。


「どうしてあなたがここに……?」


 老婦人の独り言に律儀に老人は答えた。


「海野が、邪神が使った方法とは他の方法でこの世界に転移できないか探してみた。でもすべて手探りだったから、こんな年になるまで時間がかかってしまった」


 老人は頭をかいた。


「いまさら俺がこの世界に来ても君の迷惑になるんじゃないかと思った。けれど一度だけでも顔を合わせたかったんだ」


 老人の声は老婦人にも届いているが、なんと返せばいいのか言葉も出なかった。老人は老婦人から目を離さない。長い年月を経て、二人は当時の面影を残すぐらいに老いた。


「未練がましいよな」

「いえ、私は嬉しいです。あなたがこの世界に帰ってきてくれたことが」


 しかしそれでもどれだけの年月を重ねようとも二人は相手のことを片時も忘れたことはない。


「……ただいま、アレクシア」

「おかえりなさい、――」


 長い時を経て、二人はようやく再会を果たしたのだった。


最後までお付き合いいただきありがとうございました

なお、書籍版とエンディングは異なります

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― 新着の感想 ―
書籍も読みましたがweb版の方が綺麗な終わり方でしっくりきますね。 とてもよかったです。話の長さもダレずに読めていい感じでした。
[一言] 中学生の時に小説で読ませて頂きました。 とても遅い感想ですがとてもいい作品でした。 今でも机に飾っていて読んでいる作品です、 色んな人に見てもらいたいと心から思います。
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