第六十六話 遠征
誰一人いないような静寂に包まれた闇の中で、わずかに何かが動いた。それは闇に同化するよう全身を黒く塗りつぶした男であり、注意を払っても見逃してしまうほどわかりにくく擬装していた。
その男は物音を立てないように慎重に歩みを進めている。衣擦れすら起こしたくないのか衣服もほとんどに身に着けていないぐらい最低限の軽装だ。
突然男は気配を絶った。もし誰かがその光景を見ていれば、すっと闇の中へと消えていくことが比喩ではないと感じるぐらいに。その直後、人型の何かが通り過ぎる。男はじっとその人型の様子をうかがった。
人型の姿は人間にしては体躯が異様に大きすぎる。それは人型の魔物だった。軽装の男はすぐに手を武器に寄せた。軽装ゆえに武器もナイフ一つと貧弱なものだ。とてもではないが人型の魔物に通じるようなものではない。自衛のためというよりもむしろ自身の命を絶つための道具にすぎなかった。
人型の魔物は男に気づかずその場を後にした。男は十分に気配が離れたのを確認すると時には疾風のように進み、時には忍耐強く闇に潜む。その後は誰にも見咎められることもなく建物の奥へと進んでいた。
男が奥へ進んでいると闇の中で光が漏れている場所を発見した。その光に導かれるように男は歩き出す。
光の先は広い部屋があり、何かの祭壇になっているようだった。祭壇には暗闇の中でぼうっと光る奇怪な紋様の魔法陣がある。光の元はその魔法陣だ。魔法陣の紋様はすべて光ってはおらず、紋様は半分程度光っていた。男は少しばかり眺めていたが、魔法陣に変化はない。
さっき遭遇した魔物とは違う種類の小型の人型の魔物が魔法陣を取り囲んでいる。何らかの魔法陣を用いた儀式を行っているのだ。集まった魔物の数や物々しさからその儀式は魔物にとって余程重要なものだろうと男は判断した。
男はその魔法陣を詳しく調べたかった。だが小型とはいえ複数いるとなると魔法陣に近づくことすら叶わない。少なくとも武装や人数を整えなければ不可能だ。仮に近づくことができたとしても騒ぎで近くにいる魔物に気づかれかねない。
魔物が興奮している。儀式はピークを迎えているようだ。魔物は何かを祭壇に持っていき、無造作に放り投げる。それはうめき声をあげた。
生きた人間だった。恐慌して大声を張り上げようとしているが、猿ぐつわをされていてくぐもった声しか出せない。それを見て魔物はさらに興奮し声を上げていた。
罪人を断罪するように魔物が棍棒のようなものを振り上げ、人間へと一気に振り下ろした。殴打された人間は叫び声をあげ、それに気を良くするように魔物は何度も殴打する。そのたびにその光景を見守る魔物は歓声を上げた。
そして人間がぴくりとも反応しなくなると、魔物は膝をついた。するとどうだろう。魔法陣の光が激しく反応し始めたではないか。まるで魔法陣が人間の命を食らい反応しているように見えた。
男は情報を確実に持ち帰ることを優先する。男は魔物に気づかれぬようにそっと部屋から離れた。
男は建物から抜け出し、何もない広い大地を振り返らずに駆け抜けた。ずいぶんと離れたところで男とは対照的に重装備で固めた兵士たちが男を出迎える。息を切らした男を気づかうそぶりも見せず、兵士の一人は男に尋ねた。
「首尾は? 何か見つかったか?」
「奥には祭壇があり、魔物は祭壇にある魔法陣で儀式を行っている。何の儀式かはわからなかったが魔物にとって余程重要なものらしい。そして祭壇で魔物は人を殺していた。それによって魔法陣が反応していた。おそらくは人を生贄に捧げて何かを行うおぞましい儀式だ」
その言葉に兵士たちはどよめく。そしてもたらされた情報に歓喜した。
「でかした。ならばすぐにでもここから離脱するぞ。何としてもこのことを陛下にお伝えするのだ」
「それにしても伝承とは言え、まさか本当にあるとはな」
兵士と男は振り返る。
「北の大地。古の時代に神々と人が手を取り邪神や魔物と戦った最後の決戦の地。その大地にある邪神がいたとされる神殿。そして、邪神が封印された場所」
不毛の地である北の大地に似つかわしくない異様な建造物である神殿。古の時代からその神殿があるとされているが、それにしては時間の経過による劣化は少ない。おそらくは誰かが補修しているのだろう。もっとも補修の技術は拙いのか手を入れた箇所は素人が見ても雑だ。
人類は北の大地に決戦以来足を踏み入れたことがない。近年ではこの兵士たちが初めてとなる。そもそも人が邪神の住処たる場所を維持しておく必要もない。そうなれば当然この場所は魔物によって維持されていたとしか考えられなかった。
兵士の心情としてはこの地の情報はなるべく調べ上げ持ち帰りたい。だがこうも遮るものがない場所では魔物も多く悠長に監視はできなかった。
魔物の気配が静まった頃合いを見計らって、見つかる危険を冒してまでどうにか内部に侵入し重要な情報を得たのだ。この重要情報は必ず持ち帰る必要がある。兵士はこれ以上留まり調査することは高望みしすぎだと自重した。
兵士は即座に森へと向かう。森の中も安全とはいいがたい。何しろ魔物がうようよと徘徊するような魔境だからだ。どうにか血路を開きここまでたどり着いた精鋭部隊だが無事に帰れるとは限らない。だが国へと帰るにはこの森を抜けなければいけなかった。
危険だが、兵士たちは歩みを止めない。命がけで使命を果たさなければならないのだから。
そうして森へと向かう彼らの姿が見えなくなったころ、一人の少女が神殿から現れた。もはや見えなくなった彼らの足跡をたどるように視線を向けている。
「ふん、ようやく行ったわね」
侮蔑を含んだ嘲笑。
「せっかくここまで足を運んでくれたんだから、おもてなししなきゃいけなかったのに主に言われてしまっては仕方ないわね。本来であれば神殿に人間ごときが足を踏み入れるなんて恐れ多いことだし、血であがなうのが筋。それを生かして帰すのだから、十分な温情でしょ。なんて慈悲深いのかしら」
盗賊のように足を踏み入れた兵士を少女は許すことはできないが、彼女個人の考えで策を台無しにするわけにはいかない。
「お土産話をあなたたちの主に持って帰ってね。ふふふ、人間たちはそのお土産話を聞いたら目の色を変えるかしら。きっと私たちを倒そうとここに人間たちがたくさん押し寄せてくるのね。きゃー怖い、怖い」
少女は恐怖を微塵にも感じていないかのようにはしゃぐ。むしろ待ち遠しくてしょうがないといった雰囲気だ。
「たくさんの人間をここへ連れてきてね。今度はきっちりとおもてなししてあげるから。その代わりあなたたちの魂を主に捧げてちょうだい。主のための糧となるの。なんて光栄なことなのかしら」
くるりと回る少女の姿は無邪気に遊ぶ子供の姿にしか見えないが、まるで狂ったように笑い声をあげる姿は不気味さを伴っていた。
少女は踊り終えると虚空に手をさまよわせた。まるで遠くに見える何かに手を伸ばすように。
「本当に、本当に長かった。その間どれだけ私たちが辛酸をなめてきたか。でもこれで終わるわ。そうすればようやく私たちの願いが叶うのよ!」
突然の招集がかかったのにもかかわらず、会議室には各国の重要人物が集まっていた。場所はコミューン連合国にある城の会議室。カスタル王国とヴァイクセル帝国の中間の位置となるコミューン連合国は各国の要人を集めるのに立地が適していた。
三国が魔物と戦うため同盟を結んで以来、各国の交流も頻繁に行われている。だが各国の要人が交流することが多いものの、代表ともなれば自国の政務が忙しく互いに時間を調整するのも困難である。今回の招集のように各国の代表が勢ぞろいすることは珍しかった。この地に集まったのは他でもないカスタル王国の国王ウィルフレッドによる緊急の招集だったからだ。
会議に集まった代表たちを一瞥するとウィルフレッドは話を切り出した。
「忙しい中、みなに集まってもらったのは他でもない。とある緊急の報告が駐屯地よりもたらされた」
「ほう、それでどのような件ですかな? 陛下」
「現在各国が精鋭を集め、魔物の拠点の探索に力を注いでいる。北の大地は魔物の巣窟。ですがこの度、送り出した精鋭の中のひとつがようやく魔物の拠点らしき場所を発見したようだ」
一同が一斉に腰を浮かした。魔物の拠点を探すため、各国から選抜した精鋭を送り込んでいる。だが北の大地は広く、またその北の大地を遮る森林地帯は険しく魔物だらけであるため魔物の拠点の探索は難航していた。
それがようやく見つかったともなれば、この場にいる多くのものが興奮を抑えきれない。興奮しながらもより詳しく話を聞こうと飛びつかんばかりに耳を傾けている。
「猊下、魔物の拠点は北の大地の北部にある神殿らしき建造物らしい。確か伝承にもあったはずだが」
「場所は北の大地の北部にある神殿。おそらく伝承にある邪神が居城とし、封印された神殿と一致します」
衝撃的な発言に周囲はどよめきで返した。その中でも一番大仰な反応を見せていたヴァイクセル帝国の皇帝ヴィクトルが声を出した。
「まさか伝承は本当だったのか。いや猊下の言葉を疑うわけではなかったが、実際耳にしてみると驚愕しかないな。そうなると伝承は真実が含まれているものもあると考えたほうがよさそうだ。それでウィルフレッド陛下、その神殿は朽ち果てていないのであろうか? それほどの年代の経過した神殿など老朽化も激しいだろう。遺跡に住み着く魔物もいるが、以前国を襲った魔物は物資を運んでいた形跡もある。野ざらしになったような神殿では魔物が拠点にするとは思われないのだが」
「どうやら朽ち果ててはいないそうだ。魔物が補修し、その地を守っている。おそらく魔物にとっては邪神が封じられた神聖な場所なのだろう」
「魔物が補修を行っていることも驚くが、吸血鬼の一件を考えれば当然か」
やや周囲の興奮が収まったのを見計らってウィルフレッドは話を続ける。
「そして魔物たちはその神殿内で何か怪しげな魔法陣を用いた儀式を行っているようだ」
「具体的にどのような儀式かはわかりませんか?」
コミューン連合国の女王ロズリーヌが口を挟んだ。
「いや、残念だがそこまでは把握できなかったらしい。だが内容は口にするのも汚らわしいもののようだ。さらってきた人間を生贄とし魂を捧げる儀式。とてもまともな儀式とは思えぬ」
あまりにも恐ろしい儀式にこの場にいたものは眉をしかめる。口元を手で押さえるものさえ現れた。
「儀式を行うために無辜の民をさらい、命を奪うとは。何という非道な!」
ロズリーヌは憤慨して、素の口調で口を滑らせた。対してヴィクトルは反応こそ大げさなものの冷静にウィルフレッドの発言に対して意見を述べた。
「なるほど。魔物の侵攻の目的の一部はそれだったのか」
魔物が度重なる侵攻を行った理由は未だ解明できていない。だが儀式の生贄として人間が必要ならば、生贄となる人間を攫いに侵攻してきたと考えるのが道理だ。ただヴィクトル自身はどうにも信じきれず得心のいかないような顔をしていた。
「おそらくはそうであろう。北の大地は魔物しかおらぬはず。ならば人を集めるには南下するしかない。そうなると魔物の侵攻は自明の理だったのかもしれんな。ヴィクトル陛下、そなたは優秀な魔導師であるとも聞いている。魔導師の見地から、儀式の見当はつかないだろうか?」
「ウィルフレッド陛下も人が悪い。すでに自国の宮廷魔導師に確認されたのではないか? 確かにヴァイクセル帝国は魔導において他国より抜きんでていることを自負している。が、あいにく私もそのような非道な儀式は聞いたこともない。ましてや人の命を大量に生贄に捧げる儀式はな。念のために宮廷魔導師にも確認してみるが、あまり期待はしないほうがいいだろう。むしろ儀式であれば過去の歴史を調べたほうが早いかもしれんな。猊下は何かご存じあるまいか?」
「残念ながら私も聞いたことはありませんな。しかし魔物がわざわざ古い邪神の神殿を拠点にして儀式を行っているのが気になります。どこでも儀式が行えるのだとしたらもっと生贄を攫いやすい場所――人が生活する町や村の近くに拠点を構えるはずです。特に森林近くの村など狙いやすい。対して我々は魔物の領域である北の大地や森林地帯の地理に精通していない。見つけ出すのも一苦労でしょう。建築物の補修ができるのであれば、簡易の祭壇を造るぐらい造作もないこと。しかし魔物はそれをしなかった。であれば、それには理由があるのではありませんか?」
「して、その理由とは?」
「もし儀式を行う場所が邪神の神殿でなければならないとすれば、その邪神の神殿にあるものが関わっていると考えるのが道理です。この神殿は邪神を封印した忌まわしい場所。ひょっとすると封印された邪神の封印を解き、邪神を復活させるための儀式なのではないでしょうか」
教皇の飛躍した推論に周囲がざわめいた。元々魔物の活発化は邪神が原因ではないかと疑われていて何度か議論され続けていたことでもある。もしこれまでの魔物の行動がすべて邪神の封印を解くための行動であるとすれば、今後の魔物への対応も大きく変わってくることになるからだ。
「猊下、それではおかしくないだろうか? 魔物が邪神復活を目論んでいたとしたら、魔物たちの今までの行動はあまりにも不自然だ」
ヴィクトルに注目が集まる。彼は先ほどから浮かんでいた疑問と状況を整理しつつ教皇にぶつけた。
「我々が北の大地に注目したのは、魔物の度重なる侵攻が原因。魔物に侵攻されなければ我々は北の大地を調査することはなかった。だが魔物の侵攻があったせいで我々は北の大地に魔物の拠点があると推察し、神殿の発見、ひいては儀式の発覚につながっている。もし魔物が邪神復活だけを狙っていたのならば、なるべく我々に気づかれないよう密かに行いたいはずだ。あのように大々的に侵攻して存在を明かす必要はない。むしろ北の大地に近い北方の民を密かにさらうほうがよほど効率的だろう。儀式に時間がかかるならなおさらだ。わざわざ全土に被害を広げ自分たちの存在を周知させる必要はない」
「確かにその通りですね。魔物が侵攻さえしなければ儀式を目撃されることはなかったはずですし、妨害される心配はない。まるであえて私たちにその存在を知らせているような不自然さが感じられます」
ヴィクトルの疑問にロズリーヌも同調する。教皇は少し思案するとヴィクトルの疑問を解消すべく口を開く。
「おそらく儀式の生贄として数が足りないか、あるいは条件が限られているのかもしれません。もし数が足りないのであれば、侵攻の規模から考えてもよほど大量に必要なのではないかと思います。もっとも生贄がどの程度必要なのか、どういう条件かはっきりとはわかりませんが。ウィルフレッド陛下、魔法陣の様子はどのようになっていたのでしょうか?」
「報告にも魔法陣の紋様が光っているが、半分ほどしか光っていなかったようだ。もし光が満ちれば完成なのだとしたら魔法陣は未完成であり、儀式はまだ終わっていないと考えられる」
「魔法陣の完成と同時に邪神が復活する、あるいは何かおぞましい厄災が発動するかもしれないということか。そして儀式の生贄は人間でなければならない。人間を集めるために今後も魔物は侵攻してくると予想されるな。これまで静観を保っていたのも、今後の侵攻に向けた準備を行っていたということか」
魔物の侵攻はゴーレム以来行われていない。その中で魔物の侵攻は終わったのではないかと楽観視する声も一部で起こっていたぐらいだ。だが、それはあくまで一時的なものでしかないとわかってしまった。
ヴィクトルはふと思案すると、ウィルフレッドに聞いた。
「ウィルフレッド陛下、儀式は直接、忍び込んだ兵が目撃できたのですな?」
「もちろんだ。闇夜に紛れて神殿内に潜入して魔法陣を発見した。人間が生贄に捧げられる瞬間も目撃したらしい」
「追手や妨害はなかったのですか?」
「なかったと聞いている」
「魔物は感覚が人よりも鋭い。我々の行動を察知できなかったと楽観視するよりも、もしかすると我らの行動に気づいて故意に見逃したのかもしれない」
すでに様々な策を魔物たちは仕掛けてきている。ヴィクトルの言葉を否定するだけの材料はなかった。
「故意に見逃した、か。儀式が本当に邪神復活の儀式なのかは不明だ。不明ではあるが我々は人間を生贄に捧げる儀式を放置できない。必ず儀式の妨害へと動き出す。しかも儀式が終わる前にできるだけ早く神殿の制圧をしなければならず、行動の時期も予測しやすい。なるほど、我々の行動を魔物が簡単に読めてしまう。つまりこれは罠か。魔物め、いやらしい手を使ってくる」
魔物の拠点の探索は、将来的に魔物討伐の遠征に向けての準備に過ぎなかった。
だがおぞましい儀式が行われているとすれば話は別である。人類に害をもたらすような危険な儀式であれば、指をくわえて放置するわけにはいかない。
駐屯地を築き、魔物の侵攻を手ぐすねを引いて待ち構える人間と同じだ。魔物は儀式を見せ札にして、自陣に引きこもる人間を自分たちの縄張りへ誘き寄せ、安全な駐屯地から引きずり出そうとしている。
「いつ魔法陣が完成するかわからないが捨ておくわけにもいかないか。魔法陣の完成には時間はかかるはずだ。癪だが魔物の誘いに乗らざるを得ないな」
苦々しい口調がウィルフレッドの心境を表していた。
「いずれにしろ魔物の拠点を制圧することは考えていたのだ。その機会が早まったと切り替えるしかないな。無論、神殿への遠征には万全を尽くすつもりだが」
「遠征軍を編成しなければなりませんね。駐屯地から兵を出せば時間はかからないでしょうが、あの地の防衛をおろそかにすることはできないです。遠征軍の隙をついて魔物が侵攻を再開し国土を脅かすかもしれません。それに今度は魔物の本拠地を攻めるのです。遠征軍は相当な兵力が必要になるでしょう」
「うむ。すでに駐屯地への物資の搬入は済ませてある。兵を集め次第いつでも出発できるはずだ」
「ではすぐにでも遠征軍の編成に当たってほしい。事は急を要するが、今度は敵地への遠征だ。魔物もこちらの遠征を予想し備えているものと考えて、手抜かりがないように準備を進めてほしい。以上だ」
会議が終わり、各国の要人も編成のため急ぎ部屋を出る。だが、ヴィクトルはとある人物に声をかけた。
「猊下、教会の神殿騎士団も協力していただけると聞いておりますが、遠征にも参戦していただけるのでしょうな」
呼ばれた教皇は一瞬だけ呆然としたが、にこやかな笑顔を返した。
「ええ、もちろんですとも。我ら教会は魔物の撲滅に力を惜しむつもりはありません。遠征軍に参加させていただく予定です」
「神殿騎士団のオリバー殿の力もお貸しいただけると」
「そうなりますな」
「それは重畳。神殿騎士団に加え、オリバー殿の力があれば安心だ。遠征軍の士気も高まることでしょう」
「いえ、我々も戦意こそ各国の精鋭に劣るつもりはありませんが、国が保有する軍よりも戦力が少ない。我々よりも遠征軍ではヴァイクセル帝国やカスタル王国の兵が中心となるでしょう。我らとしても心強い限りです」
「もちろん我らも全力を尽くす。北の大地への行軍は我々の想定している以上に危険だ。戦力の出し惜しみをしては本末転倒になると考えている。最高の戦力を送り込むべきだ。聖女も参戦させることになるだろう」
「聖女は教会の法術師よりも味方の支援に長けている。軍を率いればその効果は絶大なものになるでしょう。ですが個人的な心情を述べさせていただければ、聖女とは言え少女を危険な地に赴かせなければならないのは、自身の無力さを痛感しますな」
教皇は苦渋に満ちた声で溜息を吐いた。
「神の啓示を受けたとはいえアレクシアを戦いに出すことは人として情けないことなのかもしれぬ。今は気づかないかもしれないが、後々今日のことを振り返ればそれに気づくものが出てくるかもしれないだろう。だが最良の選択が必要というのであれば、人でなしと罵られようと最善を尽くすしかない。そしてアレクシア自身はそれを何よりも理解していると私は信じている」
「失礼しました。ヴィクトル様のご決断に水を差すような真似をしました」
「本来であればそれが普通だ。少女を戦地に立たせることの特異さを痛感していなければならない。私もアレクシアを聖女と信奉するものたちのように聖女の力に目がくらみ、その良識を忘れてしまいそうになりがちだ。むしろ猊下は神の啓示を受けた聖女をあまり特別視されず、一人の少女として見ている。……これでは皮肉になってしまうな。すまない」
アレクシアを聖女と認定したのは教会だ。ある意味彼女の信奉者を作り出したのは教会のせいとも取れる。そうした誤解に取られる前にヴィクトルは教皇に詫びた。
「気になさならないでください。元はと言えば私が言い出したことなのですから」
「ははは、それは助かる。話を戻すが、最高の戦力と言えばあの男も今回の遠征で外すわけにはいかないだろうな」
「あの男、でございますか?」
「ああ、あの異国の英雄殿だよ」
教皇の視線が真意を測るようにヴィクトルの瞳を貫く。
「かのケイオス殿ですか。異国の魔導師の方も参戦させるのですか?」
「さて、どうであろう。何しろ異国の魔導師だからな。冒険者であるから魔物の侵攻の防衛であれば協力するように要請することができるが、敵地を攻める遠征となれば話は別だ。彼の善意に頼るほかない。英雄殿はヴァイクセル帝国に所属しているわけではないからな。私から彼へ直接命じるのは筋違いだろう」
「ならばしかるべき筋を通せばよいのではございませんか?」
「彼は冒険者だ。冒険者ギルドを通じて依頼するのが筋かもしれないな。ああ、そうそう。猊下から直接依頼することはできないだろうか? 噂に聞いたが猊下も英雄殿と交流を持たれているそうではないか」
教皇はああ、そのことかと納得したような表情で答えた。
「ええ、ケイオス殿とは以前顔を合わせました。様々な討伐に参加し、邪神の討伐に参戦したドラゴンと盟約を交わした人物。興味がありまして話がしたかったのですよ」
「なるほど、異国の人物でもあるし興味は尽きないな」
「そのため一度呼び出して少し話した程度で、噂ほど交流しているわけではありませんよ」
「おや、そうなのか。教会に所属するオリバー殿と親しいようで頻繁にケイオスと会っているとも聞いたが」
「そのようですな。私もオリバーがケイオス殿と親しいと聞き、オリバーを通じて呼び出したものでして。オリバーは彼と魔物の侵攻で共に戦った仲で個人的な友誼を結んでいるようなのです」
「ああ、そういう繋がりか」
「私からオリバーに直接ケイオス殿に依頼するように命じることもできるでしょうが、冒険者ギルドに依頼された方がよいのではありませんか? あるいは個人的に交流が多いロズリーヌ陛下に直接頼まれてはいかがでしょうか。」
「そうするとしよう。では猊下。お忙しいところ時間を取らせてすまなかった。これにて失礼する」
ヴィクトルを見送り教皇は教会へと帰る馬車へ乗る。一人になった途端、教皇は深いため息をついた。
「まさか魔物が人間に秘術の儀式をばらすとは」
話に聞いた儀式はおそらく秘術と同一のものだ。よもやそのような重要な儀式を人の目に晒すなど計算外な行動だった。もともと教会は禁忌である秘術を秘匿するために存在する組織だ。その儀式を囮に使われるなど想定の範囲外である。
だがウィルフレッド王の言う通り、これが悪辣な罠だとしたら魔物は兵の誘因のほかに理由があると考えていた。
「おそらくは兵を北の大地に誘き寄せるだけでなく、戦いによって死んだ兵士の魂を利用するつもりか」
魔物との戦闘中に魔法陣が完成し、秘術が発動する。それは神話の再現に等しい。もっとも秘術によって捻じ曲げられる理は神話と同じとは限らないが。
だが同時に神殿と儀式の場所を知られたのは非常に危険をはらむ行為だ。それでも魔物は儀式を見せたということは迎撃の用意は万全ということにほかならない。それは人間を誘引し迎撃することで儀式に必要となる魂の数が十分に集められると魔物は判断したことと同義である。魔法陣の完成はもう間近だ。
ヴィクトルの言う通り、最も被害が少なくなるように今度の遠征は最高の戦力を集めるほかない。
そして教皇を悩ませる問題は他にもあった。
「まだ誰も秘術だと気づいたものはいないようだが、秘術の真相が広まれば利用しようと企てるものが現れよう。それこそ神話のころの悪夢の再現が行われてしまうかもしれない。そうなれば秩序は崩壊し同盟も維持できなくなってしまう」
秘術だと知られてはいけない。教皇が邪神の封印を解く儀式ではないかと発言したのも、教皇に確信があったわけではない。あくまで秘術だと周囲に悟られないためのごまかしに過ぎなかった。
邪神の封印を解く儀式、あるいは魂を生贄にする危険な儀式とすることで儀式の危険性に目を向けさせ、一時的に真相から遠ざけるためである。
しかしそれも一時的なものに過ぎない。問題は遠征し魔物を倒したあとだ。神殿には秘術につながる資料が神殿に残されているかもしれない。そもそも使用した魔法陣から秘術のことが知られてしまう可能性もある。
遠征に参加する三国のうちのどこかが秘術を手に入れたら最悪だ。できればその前に秘術の痕跡はすべて消し去りたいが、教会の神聖騎士団の戦力だけで三国合同の遠征より先に神殿を制圧することは不可能だ。最悪の場合はそれこそ神殿ごと破壊することも考慮しなければならなかった。
秘術を秘匿するうえで、三国の動向にも注意を向けなければならない。三国の中でも特に注意しなければいけないのはカスタル王国とヴァイクセル帝国だ。
カスタル王国は儀式を目撃し、魔法陣の紋様も見ている。兵士がそこから秘術の秘密にたどり着く可能性は低いがゼロではない。
一方のヴァイクセルは皇帝ヴィクトルに問題があった。
「ケイオスとの接触をヴィクトルに知られたか。わずか一度の接触で知ったとはなかなかいい目と耳を持っている。少しばかりあの男のことを甘く見ていたか。ヴィクトルは奴にかなり強い関心を持っていた。それが奴の強さに対する興味だけであればいいが、我らの行動もかなり警戒している様子だ」
教皇も以前から各国の指導者がケイオスに対して強い関心を持っていたことは知っている。ロズリーヌは国と命の恩人である彼と親しい関係だが、ヴィクトルはケイオスとそれほど接点はない。
だがヴィクトルは直々にケイオスを勧誘し、先ほどのような対応を見せたことからも不自然なぐらいに執着を見せている。しかも間諜を使い情報を集めている。それが逆に教皇の不信感をあおった。
「ヴィクトルは秘術を知った上で、我らの関係に探りを入れているとは思えないが用心はしておく必要があるな。いずれにせよヴィクトルが関心を寄せていようが、今後もケイオスの力を利用することになる。連絡役はオリバーに任せた方がよさそうだ。ここでオリバーを遠ざけてしまってはむしろ疑いを強めるようなもの」
ケイオスは教会と協力体制を取っている以上、遠征には必ず参加する。彼は秘術の悪用を防ぐという点で意見が一致している。
魔物がケイオスを狙っている点から踏まえても、彼の行動は目立っている。それは敵味方問わずだ。遠征でも彼の存在は目立つだろう。そしてそれは戦場で囮として役に立つ。教会としても影で動きやすくなる。
教皇は馬車が着き次第、オリバーに伝令を送ることにした。今後の方針をケイオスとすり合わせておくために。
「遠征だって?」
急報を携えた小太りの男、オリバーから話を聞いたケイオスは怪訝な声を上げた。
北部の偵察が帰還したことは駐屯地にいる多くの兵が知っている。だが北部の情報はすべて秘密にされていたため、この地で知るものは一握りしかいない。ケイオスたちにもその情報がたらされたのはこの時が初めてだった。
「ええ、今は兵の編成している最中ですが、ここに兵が集結するはずです。おそらくですがロズリーヌ陛下からケイオス殿に遠征の参戦要請が来ると思いますぞ。できればケイオス殿には参戦していただきたい」
「そうか」
ケイオスは目をつぶった。しばらく考える仕草をしたあと、オリバーにしっかりと向き合って返答する。
「わかった。遠征には参加するよ」
「頼みましたぞ。私も参戦しますが、神聖騎士団と行動を共にしなければなりません。あまりケイオス殿の近くにはいられないでしょう。極力ケイオス殿には魔物を引きつけて欲しいのです」
オリバーは申し訳なさそうにしている。教会に所属する彼は教皇の指示に逆らうつもりはないが、それでも敵の注目を集める役目を一人の少年に背負わせるということは心苦しい思いがあるのも確かだ。
だがケイオスはそれをわかって受け入れた。受け入れられた以上、彼の思いを尊重しなければならない。謝罪するのは間違いだ。だからオリバーは謝罪の言葉を口にすることはなかった。
「魔物はケイオス殿を狙っている。おそらく遠征でもケイオス殿を再び狙ってくるでしょう。この間のように魔物が人に化け暗殺を企むかもしれません」
「任せよ。そのような真似はさせるつもりはない」
ケイオスの代わりにヴイーヴルが自信満々に答えた。一度ならともかく二度も彼女の目を掻い潜るのは非常に困難だ。
「ヴイーヴル殿が傍にいれば安心でしょう。ですが魔物の罠である以上、ただではすみますまい。それに魔物の拠点なので激戦が予想されます。ヴイーヴル殿に比肩する魔物が現れるかもしれませんぞ。ケイオス殿が孤立し、分断される危険もあります。慢心は禁物ですぞ」
「その通りじゃな。あのゴーレムのようなやつが出てくるとなると妾も手こずる。忠告感謝するぞ」
「しかし分断されるのは厄介かもしれないな。……いや待てよ。あれを使えば何とか。うん、大丈夫かな」
孤立する危険はもっともだ、と感じたケイオスは一思案して、何かを思いついたようだ。オリバーはあえて問わず話を続けた。
「そして神殿の突入後、我ら神殿騎士団は秘術につながる痕跡はすべて破壊していく予定です。神殿内部にも魔物はいるでしょう。中でも魔物の守りが厳重なのはおそらく儀式の祭壇。そこに我らがたどり着ければいいですが、必ずしもたどり着けるとは限りません。もし我らが力尽き、ケイオス殿が祭壇までたどり着いたら秘術の元である魔法陣の破壊してほしいのです」
「魔法陣の破壊か。そうなれば俺も破壊することに全力を尽くすけど、俺も必ずしも祭壇にたどり着けるかはわからないよ」
「それにのう、魔法陣の破壊は単純ではないかもしれないぞ。どのぐらい魔法陣に力が溜まっているのかはわからないが、何しろ膨大な数の魂を使った儀式じゃ。それ相応に魔法陣に力が溜まっているはず。魔法陣を破壊すれば、その力が一気に周囲に解き放たれる。行き先を失った力が暴走するやもしれん」
暴走は初耳だったらしくオリバーは慌てだす。
「暴走ですか?」
「例えば一帯が爆発するかもしれんな」
一同が静まり返った。神殿に突入した人たちがどうなるか想像したからだ。
「あくまで力の量次第じゃからな。まあ破壊できなかったときの次善策として秘術を書き換える要員を連れて行ったほうが良いぞ」
「わかりました。できれば秘術は発動させたくもありませんが、そうも言っていられないですな。さっそく猊下に報告してきますぞ」
オリバーは一礼すると、すぐに部屋を出ていった。残されたのはケイオス、ヴイーヴルだけである。
普段であれば何か談笑するのだが、ヴイーヴルはどこか冷めたような表情だ。
しばらくして、こんこんとノックの音が響く。ケイオスは入るように促すと、現れたのはアレクシアだった。ちなみにアレクシアの従者イレーヌも一緒である。
アレクシアは傍から見ても緊張しきっていて動きがぎこちなかった。頬が引きつり、笑顔の範疇なのだが、まるで絵画のように顔の表情が動かない。赤い顔のまま、小声で何かつぶやくと大きく深呼吸をしていた。
アレクシアを見たケイオスもぴくりと反応する。アレクシアの反応ほどではなく鈍いものだが、ケイオスは顔を青くしていた。
「その、先生! これからお時間をいただけないでしょうか!」
震える声でアレクシアが目の前にいるはずのケイオスに対して必要以上に叫ぶ。
対するケイオスは視線をさまよわせて言い訳を思いつこうと必死な姿を隠していない。周囲にもはっきりとわかるぐらいに。だがアレクシア自身はいっぱいいっぱいな面持ちでケイオスの様子に気がついていない。
「あの、えっとだな。悪いけど、そう。用事があるんだ。魔物との戦いに向けて鍛えなきゃと思ってさ。今から討伐に出かけようとしていたんだよ」
取ってつけたような言い訳で、アレクシアの誘いを無下に断った。アレクシアの緊張による硬さが別種の硬さへと移行する。そして見るからにしゅんと落ち込んだ。それを見たケイオスは表情こそ変わらないものの何かを耐えるようにわなわなと震えている。
だがアレクシアは落ち込んでばかりではなかった。すぐに顔を上げると声を張り上げた。
「では、せめてご一緒させていただけないでしょうか!」
再びケイオスが長考に入る。だが都合のいい言い訳はそうそう思い浮かぶものではないようで返事に窮していた。
「……わかった。一緒に行こう」
観念したケイオスとは裏腹に、アレクシアは一気に弛緩し喜びをあらわにする。まるで敗者と勝者の構図である。
魔物討伐中もアレクシアは積極的にケイオスに話しかけていた。ただそのたびにケイオスは素気無い反応を見せ、話が広がらずに一言二言で会話は終了してしまう。
何度も落ち込むアレクシア。その主の姿を見て眉を吊り上げるイレーヌ。そして、どこか苦しげな表情のケイオス。
それでもアレクシアは健気にも終始めげずに何度も話しかけた。けれどもそれは討伐が終わるまで変わることはなかった。
討伐が終わり、見るも無残にしょげるアレクシアと明らかに怒りに満ちているイレーヌの主従関係が部屋に帰るのを見送ったヴイーヴルはぼそりとつぶやいた。
「どうしてこうなったんじゃ」
ケイオスがアレクシアに恋情を抱いていることを指摘して以降、ケイオスはあからさまにアレクシアを遠ざけようとしていた。
何があったのかケイオスは黙して話さないので、てっきりアレクシアに振られたのだとヴイーヴルは思っていた。さすがにけしかけた罪悪感もあり、できるだけケイオスには優しくしようと思っていたのである。
が、当のアレクシアはケイオスとは真逆の反応を見せていた。積極的にケイオスへアプローチしてきている。さすがに振った相手に積極的になるような行為は人間の恋愛の機微に疎いヴイーヴルでも不自然と断言できた。
そんなことするような人物はそれこそ男をたぶらかす悪女だ。ケイオスたちと比べると過ごした期間は短くてもヴイーヴルが知っているアレクシアの性質とかなりずれていた。どちらかと言えば彼女は恋愛事に対して非常に初心で純情である。でなければ、ケイオスの前であんなに緊張したり一喜一憂したりしない。
原因がケイオス自身にあることは明白であった。
「いい加減話したらどうじゃ? さすがにこの空気は耐えられんぞ」
非難めいた口調でヴイーヴルはケイオスに詰問する。ケイオスが本気でアレクシアを嫌っているとは思えない。むしろ自分から彼女を遠ざけるように努めているようにしか見えなかった。
そのせいで積極的なアレクシアと消極的なケイオスの間にすれ違いが続いていて微妙な雰囲気になってしまっている。従者の怒りとヴイーヴルたちの忍耐力はもう限界だ。
さすがに自分が周囲に迷惑をかけているのを自覚しているのかケイオスはしぶしぶ心の内をヴイーヴルに打ち明けた。
「アレクシアのことは好きだ。それは恥ずかしいけど認める。けど彼女と恋人になるつもりはないよ」
「はあ、何故じゃ?」
「俺はいつまでこの世界にいられるかわからないからさ」
「なぬ? じゃあお主、もうこの世界に来られないのか? いつじゃ? 遠征はどうするのじゃ?」
「言葉が足りなかったな。少なくとも明日明後日っていう近日中に起きる可能性は低い。けど必ずという保証はないんだ。だって俺がこの世界に転移できる手段はゲームをプレイすることでこの世界に転移できる。裏を返せばゲームが終了してしまえば俺自身この世界へ転移する手段がなくなってしまうんだ。この世界の転移は他人任せによるところが多くて、自力でこの世界に転移する方法は今のところ存在しない。ヴイーヴルだってアバターを解析したんだからわかるだろう。俺は元の世界に自分の本当の身体を残しているんだ。元の世界に身体を残している限り、元の世界を捨て去ることはできない。そんな不安定な状況でアレクシアと恋人にはなれないよ。いつこの世界に来られなくなるかわからないし、何より万が一恋仲になってアレクシア様と会えなくなってしまったらって考えると、自分がどうなってしまうのか考えるだけで怖いんだ。でも今はまだ恋人同士じゃない。始まったわけじゃないんだ。なら引き返せる……はずだ」
ヴイーヴルは熟考して、それでもやはり腑に落ちないところがあるのかケイオスに聞き返した。
「そういうことか。しかし恋人になることを諦めた理屈がそれであるのならば、お主が今この世界にいる理屈はどうなる? それでは筋が通らんではないか?」
「そこは以前ヴイーヴルに話した通りだよ。この世界のことは好きなんだ。だから運営が何らかの形で悪事を働いているのだとしたら見過ごせないし、力になりたい。遠征には参加する。一度始めたことだ。途中でいなくなる可能性もあるけど、自分から放り出すつもりはない。それにこの魔物との戦いの裏で秘術なんて非道が行われていることを知ってしまった。この世界で知り合った人がそれの犠牲になんかなってほしくないよ。特に一番大切なアレクシアには。あの子は幸せであってほしい。恋人にはなれないけど、それでもあの子が不幸な目にあうのは嫌だ。好きな女の子のために何かしておきたいんだ」
自分がどこまで力になれるかわからない。だが何もせずにはいられないのだ。いつか自分が去るそのときまで、彼女のためにできる限りのことをしておきたい。
「たとえ俺がいなくなってもヴイーヴルやオリバーさんがいる。この世界の名も知れない誰かが魔物と戦っているんだ。俺がいなくなっても誰かが引き継いでくれる。これからってときに途中離脱なんてしちゃったら、無責任で格好悪いかもしれないけどね。でも心配する必要はない。英雄だともてはやされても、別に英雄は俺じゃなくてもいい。けど俺が好きなのはアレクシア様で他の誰かじゃダメなんだ」
アレクシアの傍にいたい気持ちはある。苦痛できしむ胸は相反する思いを抱えていることをケイオスに告げている。だが、それ以上に失う怖さがケイオスに彼女と一線を引くことを選択させていた。
ヴイーヴルは難しい顔をしたまま考え込んでいる。
「恋愛のことは仕方あるまい。当人同士の問題じゃ。だがお主は相手にもきちんとそれを伝えなければならんぞ。時間が解決すると思っているのならばそれは独りよがりじゃ。それと一つだけ訂正しておく」
「何をだ?」
「お主は以前からどうも自分が英雄と呼ばれることを身分不相応に感じているようじゃな。降ってわいた力が自分の実力によるものではないからなのじゃろうか。だが、それは違う。お主が成し遂げてきたことを思い出せ。たとえ自分がそのつもりではなかったとしても、お主の歩んできた道のりはまさしく英雄が歩む道のり。誰もがそれを認めよう。それに妾はお主か妾の友人であるエルフのティメオでなければ力を貸さなかったじゃろう。だが実際に頼んだのはお主だけ。他の誰でもない。お主は正しく英雄であり、替えはどこにもおらんよ」
もはや言うことはないとばかりにヴイーヴルは黙り込んだ。
正式に遠征が決まり、ケイオスも遠征軍に加わった。完全に敵地への遠征であり三国合同で編成された軍とあって、ケイオスが共に戦った軍の中でも最も兵の数が多い。多勢の分、移動にも時間がかかる。
北の大地へと向かう道中の森林地帯は避けて通ることができない場所だ。人が足を踏み入れることがない場所であり、当然ながら未舗装でせいぜいあるとすれば獣道ぐらいである。
その獣道の中でも大軍が行軍できそうな大きな獣道を偵察した兵が発見していた。人間の領地まで侵攻した魔物の大群はこの獣道を作ったのではないかと考えられている。遠征軍はその獣道を広げつつ北の大地へと向かっていた。
普通大軍が行軍すれば魔物は警戒して近づかない。だがこの北部の森林地帯は周辺どちらを向いても魔物の住処だ。行軍中の魔物の襲撃は頻繁に起きた。そのため行軍に多少なりとも遅れが生じている。
「いやひっきりなしに襲ってくるっすね、魔物」
ケイオスの護衛として行動を共にしている剣士の青年、リーアムがぼやいた。
「連中の住処だもの。仕様がないわ。魔物が群れで襲ってきても小規模なやつばかりだったのは不幸中の幸いよね。いつかみたいに統率されたような大規模な魔物の群れが襲ってきたら大変だわ」
リーアムたちとパーティーを組むエルフの少女・コーネリア、通称ネルは肩をすくめた。
遠征軍を襲った魔物は獣のような野生の魔物ばかりだ。凶暴な魔物ばかりであったが、ここまで戦力に開きがあると鎧袖一触であっという間に片付いてしまう。
「それにしてもこれ便利っすよね。最上級霊薬」
「そうね、最近マナの回復が普通のマナポーションじゃ追いつかなくなっているから助かるわ」
パーティーの回復役でもある法術師で妙齢の女性のエミリアはごくりと一口瓶に入っていた霊薬を飲んだ。
霊薬は傷を癒すポーションと魔法などを扱う際に消耗するマナを回復するマナポーションの両方の効果がある薬だ。その品質は最下級から最上級と分類されている。最上級ともなれば体力もマナも一飲みするだけでほぼ完全に回復するぐらいの劇的な効果があった。
遠征軍では兵にポーションや霊薬は支給されている。大抵は中級ほどで事足りるのだが、リーアムたちは強くなり過ぎた分、一度全力を出して戦えば傷つくことは少なくてもマナの消耗も激しい。マナは時間が経てば自然に回復するが自然回復を待つ時間もかかるし、中級や上級のマナポーションではもはやすぐに回復が追いつかないという問題も抱えていたのだ。
「霊薬は新薬っすよね。でもポーションもマナポーションも最上級まで取り揃えているじゃないっすか。普通店頭に上級ですらなかなか並ばないのに。最上級なんてあったんすね」
「駐屯地の周辺にも素材が豊富にあったみたいで、駐屯地でも作っているみたいね。ただ支給されている分は各国共同で作ったらしいわ。上級が店頭に並びにくいのは当然よ。だって需要はあるけど高いもの。普通の魔物相手に使うものじゃないしね」
「上級は確かに高かったなあ。最上級っていくらぐらいなんすかね」
「さすがにわからないわ。まあ上級よりも高級なのは確実ね。カスタル王国が製法を広めたそうね」
「最上級のポーションやマナポーションの製法は失伝していたはずですけどね。カスタル王国で資料でも見つかったんでしょうか?」
「どうしたの、霊薬なんかじっと見て?」
物珍しさから見るにしては怪訝な顔をしているケイオスにコーネリアは不思議に思い声をかける。
「いや、前にカスタル王国でとある道具屋に霊薬や最上級のポーションの材料を教えたことがあったんだけど、まさかなって思って」
「……ああ、またケイオスの仕業だったんすか」
「あんた絡みなら納得だわ」
「それが巡り巡ってこんなところにまで関わってくるなんて。人生何が影響するかわかりませんね」
「なんだよ、その納得の仕方は」
仲間のあまりの言い分にケイオスは口を尖らせた。
「もうじきこの森も抜けるらしい。目標の神殿はそこからさらに北部になるそうだ。その前に一度陣を構えて、明日には神殿へ着くようだな」
リーアムたちのパーティーの中で最年長のまとめ役であるハボックが目を細めて遠くをじっと眺める。
「それにしてもこのあたりは夏なのに涼しいですね」
エミリアはぶるりと体を震わせた。
駐屯地と比べてもだいぶ気温が低い。周囲の森林も針葉樹が多く、森の奥へ進めば進むほど大陸でも最北に近いことを実感させる。
「あっ、どうやらついたんじゃないっすか?」
遠征軍の先頭に立つ部隊が騒がしい。戦闘中の音が混じっていないため、何か見つけたのだろうとリーアムたちは予感する。
騒ぎが起きて歩き続けるとケイオスたちもやっと森を抜けることができた。そこでケイオスたちが見たものは、むき出しの肌を露出した草ひとつ生えていない無限に広がる大地だった。
「ひゃあ、北の大地って何もないっすね」
「まさか昔の戦争の影響で不毛の大地にでもなったのかしら」
不毛の大地と称するにふさわしく、岩がごろごろと転がっているぐらいだ。生命に満ち溢れている森林とは正反対とでもいうぐらい風情が異なった殺風景な大地。少人数であれば岩陰に隠れることもできそうだが、こうも何もない大地では遠征軍いや一部隊ですらも姿を隠すのは難しい。
「よくこんな何もないところに拠点を構えたな」
「植物一つすら生えていないなんて。まるで生物を拒絶しているような場所ですね。本当にこんな場所に魔物なんているのかしら?」
エミリアのつぶやきが妙にケイオスの耳に残った。
ゲームであれば永久凍土の氷の世界や溶岩が溢れる灼熱地獄の世界といった、それこそ生物では足を踏み入れられないような危険な地帯でも、設定上配置されているのならば魔物がいてもおかしくはない。何故ならゲームの魔物は生物ではないからだ。
しかし魔物とてこの世界では生物の一種なのだ。現実世界の生物と同じように肉食の魔物や草食の魔物は肉や草など食料となるものがなければ生きていけない。一時的にいるならばともかく、こんな不毛の地で生物である魔物が生活できるというのはいささか不自然なのだ。
もちろん森林まで行けば食料を集めるのは難しくない。もしここを魔物が生活の拠点にしているのであれば、森林から食料を運びだしているのだろうと予測はできる。
だがわざわざ食料を取りに行く手間を増やすよりは森林内部で生活する獣の魔物と同じように、森林内部で生活すれば無駄な労苦を味合わずに済む。
何しろ北の大地は積雪が多かった駐屯地よりも北方に位置するのだ。冬場はそれこそここ一帯は白銀の世界になり、いくら人よりも強靭な生命力を持つ魔物だとしても生きていくには過酷すぎる世界になってしまう。
ふと思いついた疑問から魔物の生態について考察していたケイオスだったが、突如空から飛来するドラゴンの姿が現れ、彼は考察を中断した。
「やめよ、そやつは敵ではない!」
「皆のもの、武器を収めよ!」
兵たちを真っ先に制止したのはヴイーヴルだった。慌てて軍を指揮していたロズリーヌが兵を一喝して止める。
ドラゴンは旋回しながら大きく鳴き声を上げた。それに返事をしているのかヴイーヴルもまた高い鳴き声を上げ始める。一通り話し終えたあと、ドラゴンはそのまま飛び去って行った。
「すまぬな。人間たちが妾を連れているのを見て、邪神との決戦でも共に戦った昔の顔なじみが警戒していたようじゃ。事情を話したら納得して帰ってくれたがの」
「他のドラゴンもこの近くにいるのか?」
「いや魔物の動向が気になって元住んでいた縄張りを見回りにきたみたいじゃ。妾と同じように魔物の大群が現れて他所へ移住したそうじゃがな。妾も全員がどこに住んでいるか明確には把握しておらん。ドラゴンは自由に飛べるから行動範囲が広いし、相手の縄張りを荒らさないようにしているからの。いないものと思い込んでいた。先にこちらから話を通しておけばよかった。その辺りは妾の落ち度じゃな」
ヴイーヴルの話が気になり、ケイオスも二人の会話に混ざる。
「そんなに長い間、同族と顔を合わさなかったのか?」
「もちろん何かあれば顔を合わせるが、互いに寿命が気にならんとなかなか顔を合わすことはないぞ。あやつも邪神の戦いには参加した古参のドラゴンじゃからな」
「神話時代のドラゴンって結構いるものなんだな」
「まあの。そういうわけで縄張りさえ荒らさなければそうそう会うこともないのじゃ。縄張りに見知らぬ他のドラゴンが住み着くようなことがあれば、自分の獲物がとられてしまうことになるからの」
「獲物?」
「主に魔物じゃな。妾たちは体が大きい分、食べるとなると大量に捕食しなければならんからの。それゆえ縄張りにドラゴンが増えすぎてしまうと魔物を乱獲して絶滅させてしまう恐れがある。だから基本的に相手の縄張りは無断で近づかないのが暗黙の了解という奴じゃよ。あやつの縄張りからは離れていたのじゃが、妾が人間たちと共に大勢でいたからの。妾が人間に捕まっているのではないかと心配して来てくれたそうじゃ。あやつは人間があまり好きではないからの」
ヴイーヴルは邪神の戦いで秘術を目撃した生き証人だ。ヴイーヴルと同じく邪神の戦いに参加したドラゴンであれば、同じく秘術の真相を知っている。さらにヴイーヴルとの話では邪神との戦いのあとも同族で醜く争う人間たちに呆れて戦いに嫌気がさしたドラゴンは人間との交流を絶ったのだ。
それらを加味するとむしろ人間を嫌悪するあのドラゴンがドラゴンの一般的な反応で、人間に好意的なヴイーヴルが奇特な存在である。
むしろ敵対されてなくてよかったとロズリーヌとケイオスは胸をなでおろした。
「とにかく誤解で襲われなくてよかったよ。明日には魔物との戦いが迫っているのだからな」
ほっとするロズリーヌに対してケイオスはため息をついた。
「でもいいのか? ロズリーヌ。女王陛下が遠征に参加する必要はないだろう?」
吸血鬼が引き起こした事件ではロズリーヌは最前線に立つことも多かったが、それはあくまでロズリーヌが事件の起きた当事国で唯一生き残った王族であり、責任を果たすことが念頭にあり危険でもやらざるを得なかった。
しかしロズリーヌは若く未婚であり子がいない。後継者が定まっていない女王が、こんな危険な敵地まで出陣するなど万が一彼女の身に何か起きた場合、コミューン連合国は再び混乱の渦に飲まれてしまうだろう。
特にロズリーヌはケイオスやハボックたちから比べると低レベルであり、一般人よりは強くとも、直接魔物と戦うだけの力は持ち合わせていない。もっとも彼女は女王であり、将兵を指揮する立場なので単独で戦うことなど基本的にはないが。
「遠征軍は三国から選りすぐった将兵で編成しているが、うちの国は他の国に比べて一際将兵が少ない。兵を指揮する将が少ないんだ。私も出陣しなければ示しがつかないさ」
「でもな、遠征軍なら他国の将兵だって指揮しているだろう? 代わりの人に指揮をしてもらえば」
「結局三国が合同で編成したと言っても、実質的には三国それぞれが別々に兵を率いているようなものだからな。他国に任せきりにするわけにもいかないんだ。それにヴィクトル皇帝陛下だって出陣されている。あの方も御子がいらっしゃらないという点では私と同じだぞ」
「以前から皇帝も腰が軽いとは思ってはいたけど、君主なのにみんな腰が軽すぎだろ! 君主ってもっとこう腰が重いんじゃないのかよ!」
三国のうち、ロズリーヌだけでなくヴァイクセル帝国の皇帝ヴィクトルもまた君主でありながら遠征に参加していた。そのせいでケイオスの説得は失敗に終わっている。
「カスタル王国はどうなのさ?」
唯一遠征軍に加わらず、自国に残った君主はカスタル王国のウィルフレッドだけだ。
「カスタル王国は王の代わりにチェスター伯爵が代表だそうだ。ラファエル殿はその方の補佐をしているようだがな」
かなり有力な貴族らしいのだが、カスタル王国の宮殿に招かれたはずのケイオスの記憶には聞いた覚えのない人物である。
ケイオスも遠征軍が駐屯地から出陣する際に一度だけ伯爵を目撃したが、カスタル王国の騎士団長であるラファエルよりも年上で、ひどく神経質で小心者そうな人物であった。爵位と身分の関係上ラファエルよりも上位の立場ではあるが、並ぶとラファエルのほうが頼もしく見えてしまう。それでもカスタル王国の国王の名代として軍を率いているのだ。カスタルの貴族にはいい思い出がないものの、まったくの無能というわけでもないらしい。
遠征軍全体の指揮権はヴァイクセル帝国のヴィクトルが保持している。本来であれば、同盟の盟主であるカスタル王国が指揮権を保持していても不思議ではない。同盟の盟主を譲歩したヴィクトルに対する外交的な配慮と遠征軍でも最大の兵力を誇るヴァイクセル帝国が中核になるべきだというウィルフレッドの判断であった。
「ここまで来たんだ。今から引き返そうにも転移魔法を使える魔導師ですら失うのは惜しい。このまま一緒に行動したほうが安全だろう?」
「わかったよ、もう」
これ以上言っても、ロズリーヌは説得できないと悟ったケイオスは肩をすくめて説得を諦めた。
「さて、明日に備えてそろそろ陣の設営に取り掛かってくれ。ヴイーヴル殿も兵が陣を作るのでしばらく場所を空けて欲しい」
そう言ってロズリーヌはケイオスたちを追いたて兵に陣の設営を急がせる。見送ったロズリーヌは一人になると独り言を言った。
「あいつがまたこの戦いで目立つような真似をしてしまえば、また英雄として祭り上げられてしまう。あいつが遠征に参加しなければよかったんだが、各国の要請もはねのけられないし、何より本人が望んでしまったからな。なるべく軍を活躍させてあいつが矢面に立たせないようにしなければ。それなのに私には遠征をやめろとか。私よりも自分の心配をしろよ。まったく、もう」
苦笑交じりにロズリーヌは北部をにらむ。
「だが胸騒ぎがする。杞憂であってくれればいいが」
遠征軍は陣を張り、夜を迎えようとしていた。ケイオスは自分に割り当てられた天幕に戻ろうとする。だが天幕の前に立ち待っている人物がいることに気がつく。
「アレクシア様」
ケイオスに声をかけられたアレクシアは顔を上げた。彼女の顔はここ最近までケイオスと顔を会わせたときのようなおどおどした雰囲気はない。どこか迷いの捨てた強い意志を感じてケイオスは息を飲んだ。
「先生、大事な話があります」
アレクシアは目を離そうとしない。はぐらかしを許さないよう、しっかりとケイオスの瞳を射抜く。
大事な戦いの前日だ。アレクシアに有無を言わさず後日に話そうと正論をぶつけることはできる。だがケイオスは絶対にひかない彼女の意志を感じ取った。
ケイオスはわずかに唇をかむ。
「わかった、こっちで話そう」
ケイオスは誰もいない自分の天幕へ先導する。アレクシアも静かにそれに続いた。互いに沈黙したまま声もかけない。耐えがたい空気がひしひしと重く肩にのしかかるような気分を彼は感じていた。
「それでアレクシア様、大事な話って?」
ケイオスは近くに人がいないことを知ると、単刀直入にアレクシアに聞く。彼女は顔を上気させ、一瞬心を落ち着けるように間をあけてはっきりと言った。
「私は先生のことが、あなたのことが好きです」
淀みのないアレクシアの言葉。聞くものの心を打つ少女の直情的な告白を聞いたはずのケイオスは無反応だった。告白を聞きうろたえることも、恥ずかしがることもなく、ただじっと彼女の言葉を聞いている。
「取り柄がなかった私に、あなたは魔法を教えてくれた。それからです。私の生活が一変したのは。イレーヌと一緒にいろんな所へ出かけ、たくさんのことを話しましたね。楽しかった。久しぶりに自然と笑えるようになっていたんです。自分でも心境の変化に気がつかないくらい。ヴァイクセル帝国で一緒に過ごしたことは私の大切な思い出です。それが何もなかった私の救いになった。私があなたに好意を抱くのはごく自然なことだったのかもしれません」
当時のことを思い出してアレクシアの顔がほころんだ。
「あなたがヴァイクセル帝国を去ると知り、その楽しい時期に限りがあると知ってようやく自分の気持ちに気づきました。あなたを失いたくない、と。あなたと会えなくなって私は辛かった。一緒について行きたい気持ちはありました。でも身分が、立場がそれを許さなかった。自分に身分がなければと何度この運命を呪ったことでしょう」
アレクシアは身を抱いて自身の腕をぎゅっと握った。
「それでも再び出会うことができた。運が良かったんだと思います。もうあなたを失いたくありません」
するとアレクシアの瞳は彼女の心情を表すように悲しさで揺れる。
「だから辛いのです。あなたは何故私を遠ざけようとしているのですか?」
大粒の涙がアレクシアの瞳からこぼれた。それを見たケイオスは初めて表情に変化が現れる。
「私ではだめですか? 私ではあなたの恋人にはなれませんか? あなたにとって私は生徒以上の関係になることはできませんか?」
苦しくて、切なくて。その想いがアレクシアの声を震わせる。
「お願い、答えて」
アレクシアは必死に涙をこらえている。悲痛と切願の響きを伴った彼女の訴えはようやくケイオスの口を開かせた。
「ごめん」
短く一言。だが容赦のない拒絶をアレクシアに突き付けた。
「アレクシア様とそういう関係にはなれない。俺にとってアレクシア様は生徒でしかないんだ。いまさら異性として意識できないよ」
感情を完全に捨て去った無情な言葉がアレクシアの心を突き刺す。
覚悟はしていた。自分が拒絶されることを予想はしていた。
ほろり――。
再びアレクシアの瞳から涙があふれだす。今度は堰を切ったようにとめどなく流れ落ちていく。それでも彼女は目を見開き、さめざめと泣いている。頬を伝いぽたりと地面を落ちる涙。その落ちる時間がやけに長く感じた。それが現実感を失わせ、惑わせる。
「だから、ごめん」
ケイオスは再び謝罪して、耐え切れないようにアレクシアから目をそらした。
無情だった。アレクシアを現実へ突き落す再度の謝罪。ようやく彼女は失恋したのだと現実を受け入れた。
アレクシアは天幕を飛び出した。
一秒でもその場にいたくなかった。もしその場にいたら泣き叫び、彼にすがってしまう。そんな惨めな自分の姿を見せたくなかったからだ。
ケイオスはアレクシアを追いかけることはなかった。
「アレクシア様?」
天幕から逃げ出す自分を呼び止める自分の従者の声も気にも留めず、アレクシアは走り去った。
自分の天幕に駆けるアレクシアを見送り、事態を飲み込んだイレーヌは怒気をはらませてケイオスの天幕へと駆けこむ。
「ケイオスっ!」
少年背中を向けたまま微動だにしていない。まるで抜け殻のように呆然と突っ立っているだけだ。それは普段の彼とは違う異様な雰囲気だったが、イレーヌは怒りと悲しみで我を忘れていて異様さに気がつかない。
「お前は聞いたのだろう、アレクシア様の想いを⁉ あのお方の想いを受け入れろとは言わないさ。お前の意志があるのだから。だが、あそこまで傷つけることはなかったのではないか! 言葉を選べばあの方だって」
怒りに任せてわめくイレーヌだったが、ケイオスの様子がおかしいと気づき徐々に困惑し始め、怒り声が尻すぼみになっていく。
「ケイオス、お前、泣いて」
イレーヌは口をつぐんだ。ケイオスはまったく言葉を返さない。
ぎしりとイレーヌは歯がゆさから血がにじむぐらい歯ぎしりする。
お互いに悩み抜いた結果がこれであり、自分はこの件に関して口出しできないのだと理解してしまった。
イレーヌは無言で頭を下げて天幕を出る。
どうしようもないやるせなさからイレーヌは拳を天幕の傍にあった樽にぶつけた。それでも彼女の気を晴らすことはできなかった。
翌朝、陣を引き払い遠征軍は出立する。その中にアレクシアの姿もあった。彼女は従者を従えて毅然と先へと進んでいく。昨日の出来事は本当にあったのか思わず疑ってしまうぐらい、表面上は引きずっていないようにケイオスには見えた。
「強いな、彼女は」
アレクシアよりも振った自分のほうが昨日のことを引きずっているんじゃないかと一瞬疑問に思うぐらいだ。
そんなわけがない。取り繕っているだけかもしれないのだ。だがそれを確認するわけにもいかない。
いつまでも引きずってはいられないのだ。アレクシアも、そして自分も。
気を引き締め直し、ケイオスも神殿へと急いだ。




