第四十八話 老龍ヴイーヴル
「ケイオス、そろそろ着くぞ」
野太い声が俺の意識を現実に戻した。かぶっていたフードを脱ぎ、馬車の中から外に目を向けると、広大な畑の先に集落が見えた。集落より先は広大な森林のようだ。森を切り開いて広げた集落なのだろうか。
「森林の近くとは聞いていたけど結構開けた場所にあるんだな」
「それ、偏見よ。いくらエルフが森で生活しているといっても、さすがに森の奥深くに住むのは大変だもの。大半の住人はこのあたりに住んでいるわ。日常の糧を得るのには畑は外せないもの。森の中じゃ畑を広げるにも、もっと森を切り開かない限り限界があるわね」
「エルフは少数種族っす。人間の住む町じゃなかなか会うことなんてないっすからね。俺も村を出るまでは一度も目にした機会はなかったっすよ。なんかのどかっすね。ここを見ていると村のことを思い出すっす」
「リーアムの故郷もこんな雰囲気なのか」
「雰囲気は似てるっすけど、ここよりもっと狭かったっすね。近くに魔物の縄張りがあってあまり村を大きくすることはできなかったっすから。だから仕事が少なくて家業を継げない若い奴らは都会に出ていくことが多いっすよ」
目の前の若い男の冒険者、リーアムが望郷の念が混じった視線を集落に向けている。リーアムが魔物と戦う冒険者のような危険な職業に就いたのも、故郷で仕事がなかったからなのだろうか。
「うちの故郷は代わり映えしなくて若者には退屈っすからね。都会に出るのは刺激を求めているのが大半っすよ。メールディアに着いた時は驚いたなあ。田舎じゃ見たことないぐらい広い街並みを見てすげえすげえって叫びまくってたっす」
それを聞いたエルフのコーネリアはあきれていた。御者をしているハボックとエミリアが笑い声をあげる。
「よし、着いたぞ」
馬車から降りると、旅人が物珍しいのか人の視線が集まる。特に子供は遠慮なしだ。
「わあ、あの人、髪が真っ黒だよ」
「ねー、変わってるね」
エルフの少年と少女が俺の頭を指さしながら言った。しまった。フードを下ろしたままだったのを忘れていた。
この世界で黒髪の人間は珍しいらしい。確かに今までこの世界で黒髪の人と会ったことがなかった。
どちらかといえばこの世界はRPGにありがちな中世ヨーロッパの世界観に酷似しているので、この世界の住人も髪の色こそ金髪に限らずバラエティに富んでいるが、身体的な特徴は日本人ではなく西洋人に似ている。その中で俺の容姿はひどく浮いて見えるのだろう。
もっとも俺が慌ててフードをかぶろうとしているのは、俺の容姿が物珍しいことが理由ではないのだが。
「ここまでケイオスさんの噂は広まっていないようね」
「人との交流はあってもこの集落まで来る物好きは少ないわ。せいぜい商人の行き来ぐらいだもの。だからクレルモンで起きたことなんて滅多にここまで届いてこないわ。まあ届いていたとしても集落にいる人の数なんてそこまで多くはないからあそこまでひどいことにはならないはずよ」
エルフたちの注目も俺にだけというよりはリーアムたちにも向けられている。あくまで旅人に対して注目しているだけなのだろう。クレルモンだったら大騒ぎだっただろうなと思い、胸をなでおろした。
クレルモンを吸血鬼から奪還した時点ですでに民衆にはロズリーヌを救った俺の名が広まっており、俺がケイオスだと知ると人が集まってくるぐらいだった。
そして、今度は有名になりすぎて容姿まで知られてしまったのである。道具屋に足を運ぼうとしたら民衆に見つかってしまい、大混乱になったなんて笑えない状況になったぐらいだ。
「あれはひどかったっすね。つぶされたかと思ったっすよ」
リーアムは乾いた笑顔になった。彼に助けてもらわなければ、俺はそのまま人の波に飲み込まれていただろう。あとで事情を知ったロズリーヌがあきれて、王宮に商人を呼びつけたぐらいだ。
ちなみにその商人曰く、黒いローブ、玩具の杖がやたらと売れているらしい。
……グッズ商法って異世界にもあるんだな。商魂たくましい商人のしたたかさを感じてしまい、何とも言えない気持ちにさせられた。
そういうわけで人前に出るときはフードをかぶり素性がばれないようにしているのだ。
「姉さん! 帰ってきたのね!」
「セリア!」
こちらの様子をうかがっていたエルフの輪から、一人の明るく素朴さを感じさせる少女が飛び出てきた。コーネリアはぎこちなくも笑顔で少女を迎える。その少女も笑顔で応えた。
二人の顔を見比べてみると、少女のほうがコーネリアより年下なのだろう。下手をするとアレクシア様と同じかちょっと年上ぐらいの幼さを残している。
ん? あれ?
「なあ、リーアム。もしかしてあの子が」
「そうみたいっすね」
マジか――思わず心の中で問い返す。
もともとコーネリアから聞いてはいたが、顔を合わせてみれば衝撃を抑えきれなかった。昔はそうだった時代もあるが、現代の日本に住む俺の常識では有り得ないことだと思ってしまう。
まさか、あの子が花嫁だなんて。
「ケイオス、お前の住んでいるところでは珍しいのかもしれないが、この周辺の国じゃ若い女でも結婚していることはそう不思議ではないぞ。特にエルフは寿命が人間より長く、若い期間が長いからな。見た目に反して年を取っている可能性だってある」
遅れて馬車から降りてきたハボックが指摘する。言われてみれば集まっているエルフたちは老人も多いが若く見える。
あとエルフのイメージにありがちな線が細く、みな美形というエルフではなく、太った人もいればたくましい体つきのエルフも多い。むしろ人にエルフ耳が付いているようなものだった。耳が長いのも個人差があるのか、若い人には短い耳を持つものも多い。このあたりはコーネリアが典型的なイメージ通りのエルフであり、スレンダーできれいだったから誤解していたが、人と同じように個人差があるようだ。
「えっ、じゃあコーネリアも?」
「あまり女性の年齢を聞くのは感心しませんね。ネルはリーアムより一つ下よ。エルフといっても、成人するまでは人間と同じぐらいに成長するそうです。ただ老いるのが緩やかなんだとか。……女性からしたら、うらやましい種族ですね」
エミリアはどこかねばつくような視線をエルフに向けていた。まあ成長したいと思うならともかく、老いたいと思う人はあまりいないだろうし、若い時間が長いのは誰だって憧れるだろう。
……そう思うことにした。
「姉さん、今日はうちに泊まっていくの?」
「……いいえ、どこか別のところに泊めさせてもらうわ。あいつと顔を合わせたら何を言ってしまうかわからないもの」
「姉さん……」
セリアは悲しそうだ。
「大丈夫、結婚式ではおとなしくするわ。あなたに私が来るまで結婚式を挙げないなんて言われてしまったら、祝うしかないじゃない。最悪、私が暴走したらみんなに止めてもらうから」
苦笑してコーネリアが答える。セリアの視線が俺たちに向けられる。
「この件に関してはネルに同情しているっすからね」
リーアムがセリアに聞こえないようにぼそりとつぶやいた。
どうしても知り合いのコーネリアの目線に立ってしまうから、やはりこの結婚を素直な気持ちで祝うのは難しかった。ハボックやエミリアは比較的中立ではあるが、特にリーアムは完全にコーネリア寄りだ。
言ってしまえば、この俺がコーネリアの故郷に来たのも結婚を祝いに来たことよりもコーネリアが期待している暴走したときの抑止力として呼ばれたのが正しい。
セリアはコーネリアの幼馴染であり、妹のようにかわいがってきた子だと聞いている。だから本来彼女の結婚は祝福すべき慶事なのだろう。
しかし、問題は彼女の結婚相手である。
セリアの結婚相手、それは――コーネリアの父親なのだ。
異世界は結婚できる年齢が比較的若年でも問題ないそうだが、こういったケースはいくら異世界でも心情的な面であまりよろしくはないらしい。自分より年下の母というのも心中は複雑になるのだろうが、ほぼ家族同然だった妹分が義母になるというのはコーネリアにとって許しがたい一線だったようだ。
どうやらコーネリアは自分の父親に対してあまりよい感情を持っていないらしく、二人が結婚することを知って怒り、故郷を後にしたそうだ。
ようやくコーネリアも自身に折り合いをつけて故郷に帰ってきたが、それでもくすぶる思いが消えたわけじゃないようである。
やっぱり場違いだよな、俺。ぎくしゃくしているコーネリアとセリアが元の関係に戻るにはまだまだ時間がかかりそうだ。
がさがさと騒がしく森の中に響く。黒い体毛をした手の長い牙をはやした猿が木を伝って逃走していた。
「逃すな! ネル! ケイオス!」
ハボックの指示を受けてようやく俺は魔法を唱える。でも、まごつく俺よりもコーネリアのほうが早い。彼女が放った矢が正確に猿の手を貫いた。悲鳴を上げて手を滑らせた猿は木の上から落下する。
木々に隠れて猿の姿は見えなかったが、どしんと落ちた音からしばらくして一際甲高い声が耳に届くと俺は顔をしかめた。
「お疲れ様っす」
鮮血に染まった剣を携えてリーアムが戻ってきた。味方がやられ逃走し始めた猿を追って、いち早く駆け出していた彼がとどめを刺したようだ。これでこの周辺の敵をすべて倒した。
「しかし、やはりこの辺りにも魔物がいるのね」
「この辺りに専任の冒険者なんていないもの。集落に住む住人が魔物を駆除するしかないわ。でも普段の生活もあるから魔物ばかり相手にするわけにもいかないし、命の危険もある。毛皮ぐらいしか取れなくてここじゃそれだけで生計を立てられるほど儲かるわけでもないわ。けど放置すれば農作物に被害が出るしね」
「そのへんの事情はどこでも一緒なんすね」
倒した魔物は雑魚だ。それこそ俺のレベルならば例え囲まれても一人でも倒せるぐらいの強さでしかない。それでも住人からすれば生活を脅かす害獣であり、戦うには危険な生き物なのである。
「だからみんなが駆除を手伝ってくれるのは助かるわ」
「代わりにうまい飯も食わせてもらっているし、当然っすよ」
「働かざる者食うべからず、ってな」
この森の中で魔物と戦っているのは住人から受けた恩を返すためだ。
コーネリアの故郷の集落に着いて以降、彼女の実家ではなくいくつかあった集落の空き家を借りて宿泊している。住人たちはコーネリアが連れてきた客だと知ると集落を上げて歓待してくれた。その恩を返すため集落周辺に出没する魔物を駆除しようとハボックが提案して、他のみんなが賛同したのだ。
しかし、役に立ってないな。魔物のほとんどはハボックたちが倒したし、せいぜい援護するぐらいしかできなかった。それも『チェインバインド』のような敵の動きを封じるような魔法ばかりで直接攻撃するような魔法は一切使っていない。
ゲームだとパーティーメンバーが魔物を倒したら、パーティーメンバー全員に経験値が分配される。だからパーティーで活躍しなくても、極端に言えば一歩も動かず一度も攻撃しなくとも経験値を得ることができる。
このルールは異世界であるこの世界でも同様だ。ハボックたちが魔物を倒せば俺にも経験値が分配される。例え俺が魔物に一撃すら与えていなくても。
戦闘で貢献できていないのに、経験値などの恩恵だけ受けている人をゲームでは寄生と呼んで嫌われるが、今の俺はまさにそれに近い存在になっている。いやむしろ彼らの命に関わる仕事であるし、ゲームよりもたちの悪い存在だ。
それでもまだ魔物に対して直接攻撃することに抵抗がある。ここに来るまでにも極力馬車を急がせて戦闘を避けてきたが、状態異常による行動の阻害といった形ならば何とか魔法が使える。
しかし、いくらそうしたところで敵は倒せない。実際に手を汚しているのはハボックたちだ。俺は他人に汚れ仕事を押し付けているだけに過ぎない。
あのとき、クレルモンでヴァイクセルの兵士と遭遇したら、俺は同じように魔法で足止めするつもりだった。しかし、あのときは戦争中なのだ。身動きの取れない兵士なんて鴨も同然である。もしヴァイクセルの兵士と遭遇して、その際コミューンの兵士が傍にいたらきっと無防備になったヴァイクセルの兵士はとどめを刺されていただろう。
いかに自分が浅慮だったかを思い知らされる。あの時は頭がいっぱいになって視野が狭くなっていたようだ。ひとつでも歯車がかみ合わなかったら、今こうしてこの場にいなかったのかもしれない。
だめだ、考え出すとネガティブな思考ばっかりが頭に浮かぶ。気持ちを切り替えていかなきゃ。
「あの糞親父どこをほっつき歩いているんだか」
集落に帰る道すがら、コーネリアは心底不機嫌そうに悪態をついた。
彼女の父親であり、結婚式の花婿である人物は集落から出て旅をしているらしい。何も式の前に旅へ出なくてもと思ったが、コーネリアの帰還に合わせて式を行う予定だったそうだ。そのコーネリアの帰還の時期が不明だったから、こちらのタイミングも悪かったとしか言いようがない。
「ネルの親父さんって族長なんすよね。大丈夫なんすか? 集落をほっぽり出して」
「長老たちもいるし、そうそう族長が必要になることなんて起きないから集落の運営には問題ないわ。もうあいつが集落を離れるなんて昔からあったし慣れっこよ」
「なんつうか自由奔放な親父さんだな」
ハボックの呆れ声に、コーネリアは同調した。
「わかる⁉ もうね、あの糞親父奔放すぎるのよ! いつもふらっと出かけたと思ったらどこかで女ひっかけているの! たまに知らない女が集落に来ていたことだってあるのよ! 私が知らない間に妹や弟ができていてもおかしくないわ! 髪の色とか目元があの糞親父にそっくりな子供を見るたびにどれだけ私が戦々恐々としたことか!」
彼女の言葉通りなら典型的な浮気癖のあるダメな父親だ。
「話が変わるけど、エルフと人間の間に生まれたらやはり耳とかエルフのように長くなるのか?」
ふと疑問に思ったことを聞いてみた。ちょっとでも父親の話から話題転換させようという裏もある。
「人間とエルフの間に生まれても必ずしも耳が長くなるとは限らないわ。身体的な特徴は人間の特徴を色濃く残すか、エルフの特徴を色濃く残すかは生まれてくるまでわからないものなのよ。だからハーフかどうか見分けがつかないこともあるの。ハーフエルフだって気がつかずに人間だと思い込んでいたこともあるらしいわ。ただ一般的に寿命は人間より長いわよ」
「じゃあ、ハーフエルフは結構いるんだな」
「そうね。この集落にも移り住んできた人がいるわ。年寄連中は純粋なエルフが多いけれどね。昔は人とエルフが交わるのは忌避されていたそうよ。でも生まれてきた子に罪はないもの。それよりも不特定多数の女を作ったり、娘が妹のようにかわいがってきた少女に手を出したりする奴のほうが問題あるわ」
あ、藪蛇だった。
「リーアムもわかるでしょ。自分が目に入れてもいたくないほどかわいがっていた妹が女たらしのダメ男の下に嫁ぐなんて。しかも妹の小さいころからの知り合いの父親よ」
「わかる、そいつは絶対に許せねえ」
実の妹がいるリーアムは完全にコーネリアの味方である。まあ彼女の話を聞く限り、その父親に同情の余地もない。
いくらなんでも式の最中に二人が暴走するとは思えないけれど、ピリピリと伝わるこの空気は胃にこたえる。
どうしてコーネリアじゃなくて、ハボックが先にこの集落へ俺を招待したのかわかった。ハボックにちょっとだけ恨みがましい視線を向けたら音にもならない口笛を吹きながらとぼけていやがった。あの野郎。
「あなたの妹分が選んだ人ですもの。祝福してあげなきゃだめですよ」
さすがはパーティーの癒し役であるエミリアである。燃え上がる彼らの怒りを沈下させようと動いている。株が絶賛下降中のハボックよりもよほど頼りになるな。
「でも、落ち着いていたからと言ってまた浮気癖が再発したら心配だわ」
コーネリアもどうにか結婚には同意したものの、不安は尽きないらしい。エミリアは少し思案して言った。
「うーん、そうね。その子を泣かしたそのときは」
「そのときは?」
「すりつぶしましょう」
自然と彼女が普段使っているメイスに目を落とす。
エミリアさん、何で何をすりつぶすのでしょうかと問い質す気になれなかった。顔を上げた際に目の合ったハボックとリーアムの顔が歪んでいる。きっと俺も同じ表情をしていたに違いない。
突然強風にあおられた。全員が空を見上げる。
「ん? あいつは……」
木々の隙間から小さな黒点を捉える。
「ドラゴン?」
「そうね。普通のドラゴンよりもかなり大きいわ。竜便のドラゴンならこんな所を飛ぶわけがないもの。多分野生のドラゴンだわ」
ドラゴンかどうかはわからなかったが、かなり巨大なものが飛来している。マップで確認すると巨大な緑のマーカーが表示されていた。
本来マップ上に表示される緑色のマーカーはNPCやプレイヤーなど敵対していない友好的な存在であることを意味する。通常の魔物だと赤色のマーカーで示されるはずだ。
だとするとこのドラゴンは友好的な存在なのだろうか。もちろん幽霊だったエリザベスのように友好的な存在もいる。
このドラゴンが本当に友好的な魔物か、俺も断言ができない。どうして友好的な魔物であるのを知っているのか説明に困るし、なによりマップで認識されている友好的な存在が必ずしも攻撃を仕掛けてこないとは限らないからだ。
この間のクレルモンで起きた人間同士の戦争。これはヴァイクセルとコミューンが入り乱れて戦闘を行っていたが、その中でアレクシア様や他のヴァイクセルの兵は、マップ上で緑色の友好的な存在であると識別されていた。もちろんコミューンの兵も緑色で識別されているのでマップ上でどちらが敵味方か判別できなかったことがあった。
つまりこのマップの友好的な存在の識別する基準が非常にあいまいなのだ。その基準が俺に対してのみならば、必ずしもハボックたちに対して敵意を持っていないとは限らず、安全な存在だと断言できなかった。
「あのドラゴン、こっちに来てないっすか」
リーアムの震え声にみんな顔面が蒼白になる。確かに朧げに見えていた黒点はくっきりと鮮明になってきているし、マップを確認してもドラゴンらしき緑のマーカーが近づいてきている。
ドラゴンは種族的に見てもかなり強い魔物である。ゲームでもピンキリではあるが上位のドラゴンになればそれこそ今の俺のレベルで瞬殺されるぐらいの強さだ。転職して二次職になっているならともかく、同程度のレベルでしかないハボックたちと一緒に戦っても太刀打ちできないだろう。
「に、逃げるぞ!」
ハボックの言葉に脱兎のごとく逃げ出す。
――が、もう遅かった。
表示していたマップに急速に迫る緑色のマーカーがあった。とても人間に出せる速度ではない。
確信とともに空を見上げる。間違いない、あのとき目撃したドラゴンだ。
「来た、来た、来たあああ! 逃げるっすよ!」
「集落に逃げちゃだめよ! 住人まで巻き添えにしちゃう!」
「でもどこに逃げろって言うんですか!」
火事場の馬鹿力なのか、行きよりも俺たちは速く走っていただろう。それでも安心できるものではなかった。飛翔するドラゴンは人間よりも圧倒的に速いのだから。
樹木の多く生い茂るところへ逃げ込むが、視界が悪い。だが振り向いてドラゴンを確認する暇さえないのだ。一陣の風が吹き荒れ木々を激しく揺らした。頭上を何かが飛び去ったのがわかる。
ダメだ。これはまずい。慌てて方向転換をするが、めきめきと音を立てて樹木が押し倒された。森の隙間をこじ開けるように巨体をすべり込ませて押しつぶす姿は圧巻の一言だった。
四本足で立つ黒ずんだ色合いの肌を持つドラゴンは深紅の目でぎろりと見下ろす。そして翼を天にかざして雄々しく咆哮した。その咆哮は周囲の木々を揺らすほどの大音量である。俺たちは尻餅をつくほかなかった。
「いや、すまんな。お主ら、ここの住人か?」
ドラゴンが暴れるのかと思ったら、急に誰ともしない声が響く。
女性特有の高い声。コーネリアやエミリアのものではない。不審に思ったがきょろきょろと周囲を見回してもやはり他の女性はいない。
威嚇していたドラゴンが翼をおろし、ぐいっと首を下げた。
「あー、驚かせてすまんな。妾じゃ。目の前のドラゴンじゃよ」
済まなさそうな声でドラゴンは頭を下げた。
「はあ、つまり危害を加えるつもりはなかったと」
「人は妾を見ると怯えるからの。勘違いしてしまうのも仕方ない。基本的に知性のあるドラゴンは人を嫌っているやつは少ない。だが人嫌いのドラゴンもおる。国を焼いたドラゴンの話ぐらいはそれほど昔でもないし定命の人でも伝わっておろう。妾は進んで人と争いたくはないし、面倒事を避けるために普段は森の奥深く人里から離れて過ごしておるのじゃ」
「それほど昔じゃないって、もうずいぶんと昔のことなんすけど……」
リーアムは頭痛がするのかこめかみを押している。
「妾の名はヴイーヴル。最近北が騒がしくなってきたのでな。だから上空から人が少ない巣を作るのに最適な場所を探しとったんじゃよ」
「騒がしくなったって北で何かあったのか? もしかして吸血鬼が暴れているとか」
「妾は人が住む土地と北の大地を挟んだ森林で過ごしておったんじゃがの。北の大地から魔物が大群で押し寄せたのじゃ。北の大地に住む魔物は妾とは敵対しておる。遭遇したら戦わねばならん。さすがの妾も負けることはないが、いかんせん敵の数が多すぎてうっとおしかったからの。じゃから南に逃げたのじゃ」
魔物の動きは活発化しているらしく、それは北の大地にいる魔物たちも同じでヴイーヴルを襲ったということだろうか。
「北の大地って邪神と決戦した場所っすよね」
「ああ、そうじゃの。あまり思い出したくはないが妾もその決戦の場におったのでな。おそらく魔物には妾のことが伝わっておったのじゃろう」
「ちょっ、神話時代の生き残りっすか⁉」
聞き捨てならないことをさらっというヴイーヴルにリーアムが驚く。
「妾の名を知らぬのか。当時は妾も若く――、いや今でもピッチピチじゃぞ」
「いや、神話時代から生きているのにそれはないだろ」
ぼそりとハボックが呟く。でもなぜかヴイーヴルではなくてエミリアが睨んでいた。口を挟んだことをとがめる視線ではない。明らかに私怨を含んだものだ。
ハボックはあっさりと口を閉じる。どうやらヴイーヴルは聞き流したようで話を続けた。
「魔物相手に一歩も引かず奮戦したからの。それで魔物に畏怖されるようになったのじゃろう。敵であった魔物は忘れてはおらんのに、味方だった人には忘れ去られているのは皮肉なことじゃがな。じゃが仕方ないのかもしれぬ。邪神との戦いが終わってすぐに人は土地を奪い合い、戦争を始めてしもうた。ドラゴンは人よりも強い。じゃから妾たちを利用しようとした輩もいての。戦いに嫌気がさしていたドラゴンは人から離れて交流を断っていったのじゃ」
「ドラゴンを利用するだなんて。なんか人間って悪い存在にしか思えませんね」
エミリアの言葉にヴイーヴルは反論する。
「そのような輩は一部だけじゃ。そやつらの悪行だけで人を測ってはいかん。かつては共に邪神や魔物と戦った戦友の姿は今でも鮮明なほど妾の目に焼きついておる。あやつらは生き残るのに懸命で決して悪ではなく、共に戦ったことを誇らしく思えるぐらい勇敢な奴らじゃった。それを知っていれば人を嫌いになどなり切れぬ。人と敵意を持たぬドラゴンが多いのも、その思いがあるからじゃろう。しかしな、悲しい話じゃがそれはあくまで個人の話。人を嫌悪する奴もおるでな」
ヴイーヴルの表情はわかりづらく、本人がどのような心境なのかはわからない。だが声色がひどく優しく、そして悲しいものに聞こえた。
「うむ? お主、少し変わっておるの」
沈んでいたヴイーヴルは急に長い首を下ろして俺に顔を近づけ、鼻孔を膨らませてくんくんと嗅いだ。
「変わっている? 何かおかしいところでもあるか?」
視線を落として自分の体を見ながら、自分の匂いを嗅ぐ。もしかして、俺って臭うのか。他人の匂いはわかるが、自分の匂いってわからないからな。
「人は神によって創り出されたものじゃ。もちろん妾のようなドラゴンも同じこと。この世界で生きているものはみな神によって創り出されておる」
いかにもファンタジーらしい話だ。実際に神様と戦ったと豪語するヴイーヴルが言うなら信憑性が高い。この世界で進化論は通用しないようだ。
「それなのに、お主の体は神によって創り出されたものとは少し違うようじゃ。まるで人に似せて精巧に作られたゴーレムのようじゃの」
胸を貫かれたような衝撃を受けた。
この世界にはゴーレムと呼ばれる魔物が存在する。邪神によって創り出された泥や岩でできた人形の魔物で、倒すには人形の内部にある宝石にダメージを与えて壊す必要がある少し特殊な魔物のことである。
そんなゴーレムのようだと評したということは、もしかしてヴイーヴルはキャラクターとして創り出されたこの体に違和感を覚えているということか?
ヴイーヴルの疑問は間違いなく正しい。外見だけ見れば現実と変わらないけれど、どれだけ走っても疲労しない、ゲームで設定されたスキルが使えるなど現実の世界の体では実現不可能なことができるのだから。
外見だけ似せた人形を動かしているといったほうが正しいように思える。
「しかし魂は人のように思えるがの。しかもその魂、どこか懐かしいような。いや、まさかそんなはずは……。ううむ、なんじゃこれは」
ヴイーヴルは戸惑っているようだった。要領を得ない言葉に、コーネリアたちも怪しげな表情を見せる。
「ゴーレム? おかしなことを言うわね。どう見ても人間にしか見えないじゃない」
「外見で判断しておるのではない。妾が言うておるのは器である肉体と器の中身である魂が放つ匂いじゃな。妾はそれを嗅ぎ分けることができる。これは個体差があるが種族によってその匂いは似ているのじゃ。獣が人とは違って嗅覚が鋭敏なように、妾もまた人とは感覚が違うからの。特にドラゴンは神から創りだされた種族の中でも与えられた力も大きい。おそらくこの感覚も人にはないか、あるいは鈍いやもしれぬな。ともかくその匂いに人の手が加わったような違いがあるのじゃ」
「魂にも匂いってのがあるんすね」
気になってもう一度自分の匂いを嗅ぐが、やはりヴイーヴルの言うような匂いは感じられなかった。ゲームにもそんな不思議なスキルは存在しない。少なくとも嗅覚に関してはこの世界の人間と同じぐらいのようだ。
ヴイーヴルは長い首を上げた。
「まあよい。気にはなるがお主の出生に関わることならば、お主が知らなくても当然かもしれぬしの。それに妾も人間とまともに話すのは久しぶりじゃ。感覚が鈍っているのやもしれぬ」
顔にこそ出さないように努めて平坦な表情にしていたが、内心はほっとしていた。
みんなに俺が異世界人であることを打ち明けたらこんなことで悩まなくてもいいのかもしれない。けれど打ち明けることでどういう影響を及ぼすのかわからなかった。
だから話すかどうか迷ったまま、結局そのことを打ち明けられずにいる。それが後ろめたい。
「そろそろ戻らないか。きっと集落からヴイーヴルの姿を見た連中もいるはずだぜ。大騒ぎのままになっているだろう。ヴイーヴルが無害であることを集落の奴らに伝えておかないと厄介なことになるかもしれないぞ」
「そうね。集落のみんなもドラゴンに襲い掛かるなんて馬鹿な真似はしないでしょうけど、不安になっているかもしれないわ。早めに帰りましょ」
ハボックとコーネリアの言葉に納得する。友好的なドラゴンが来ているのだ。厄介事は避けてドラゴンと共存できるならば共存したほうがいい。
「そうだな。ヴイーヴル、悪いけど俺たちはこれで帰るよ。みんなが心配している」
「妾が送ってやれればよいが却って騒ぎを大きくしてしまうからの。すまんが、お主らから事の顛末をこの森の近くで生活している者たちに伝えてほしい。妾をこの森に住まわせてほしいと。妾は危害を加えられぬ限り、集落に住むものに危害を加えぬとな」
「わかった、約束しよう。ただ俺たちは集落の住人ではないから、正式な返答は追って知らせるが」
「構わぬ。妾では住人たちもおびえよう。お主たちには借りができたな。何かあれば妾も力になることを約束しよう。用があるならばこの森で妾を呼ぶといい。ではな!」
そう言い残すとヴイーヴルは飛び立った。俺さっきまでドラゴンと話していたんだよな。ファンタジーにどっぷりつかっていくのを実感しながら集落へと引き返す。
「はあ、思ったより温厚で理性的なドラゴンでよかったっすね」
「まったくだ。威嚇されたときはもう終わりかと思ったぞ」
よっぽど怖かったのかハボックは深く息を吐き出した。まあ機嫌を損なえば確実に殺されるほどの圧倒的な存在がついさっきまで目の前にいたのだ。無理もない。
ヴイーヴルに正体を気づかれそうになった瞬間を思い出す。
もしヴイーヴルのように誰かが俺の正体に気づいたら、俺はどんな行動をとるべきなのだろうか。




