第三十九話 世界でたった一人のプレイヤー
反響が大きかったので加筆してます。
大まかな流れは変更していません。(2014/09/01)
「ふぅ、まだまだあるか。これじゃいつ終わるのやら」
クレルモンの王宮の執務室でロズリーヌはひたすら書類の決裁に追われていた。
吸血鬼からクレルモンを奪還できたものの、その傷跡は大きい。クレルモンにいた臣下のほぼすべてが吸血鬼と化していたために、宮中は慢性的に人手不足だ。内政担当の文官の手が足りず、王女であるロズリーヌにかかる負担は大きかった。愚痴は吐きたくなるが、彼女以上に目まぐるしく働く文官たちの姿を目にしては、彼女も我慢せざるを得ない。
それにロズリーヌからしてみれば、この忙しさに救われている面もあった。
伯父・ラウルの死。精神的な支柱であった伯父が死んでしまったことはロズリーヌに深い悲しみを与えた。だが悲しみに暮れている暇はない。王女たるロズリーヌは国の再建を優先しなくてはならない義務がある。職務に忙殺されている間は辛いことを思い出す機会も少なくて済んだ。
魔物によって殺された人間はアンデッドと化す可能性があるため、基本的に火葬を行い弔われる。公爵たるラウルもまた例外では無い。公爵としてはあまりにも質素なものであったが、ラウルの遺体はすでに弔われた。公爵でありクレルモン解放に尽力した立役者として改めて国葬を執り行うつもりではあるが、今のままでは到底行えそうにない。
人手不足のほかにロズリーヌの頭を悩ませるのが、クレルモンの住人たちの感情だ。
クレルモンに残った臣下の中には吸血鬼にならなかったものもいる。しかし、知らなかったとはいえ魔物に加担していた事実は重い。ただでさえ、一月近く都市の機能が麻痺したのだ。
民も黙ってはいなかった。散発的に暴動が起きたがすべて武力によって鎮圧され、少なくない被害が出ていた。
その上、まだ吸血鬼がクレルモンに潜伏しているのではないかという不安も解消されていない。これは彼女の臣下だけに限らず、住民たちの中にもいるのではないかと住民たちは疑心暗鬼に駆られているのである。
それでもクレルモンの住民が暴発せずに済んだのは、王女ロズリーヌがクレルモンを吸血鬼の手から取り返した事実によるものだ。クレルモンの兵士は信用できなくともロズリーヌとシャラントの兵士は信頼できる。そのおかげでなんとか秩序を保てている状況だった。
しかしシャラントの兵士をいつまでもクレルモンに留め置くことなどできない。治安維持のために未だ残ってもらっているが、クレルモンの兵士が再編でき次第、彼らは領地へ戻る予定だ。シャラントにはラウルの息子であり、ロズリーヌの従兄にあたる人物が領内を治めている。彼に伯父の事をどうわびればよいのか。それもロズリーヌの頭痛の種だ。
最後にロズリーヌを悩ませること。それはケイオスのことである。
「まさか、あんなに取り乱すなんてな」
ロズリーヌはぽつりとつぶやいた。伯父が目の前で亡くなりケイオスが錯乱するなど思いもよらなかったのである。彼の醜態を見て彼女は一周回って冷静になることができた。
「冷静に考えれば、あいつは戦いを嫌っていたんじゃないか」
いくら優秀な魔導師だとしても、必ずしも好戦的な性格とは限らない。もともとケイオスと出会ったのはクレルモンの近隣の森の中。彼は厄介ごとを避けてクレルモンから逃げ出したところで出くわしたのだ。
けれど彼の力がロズリーヌの目を曇らせた。吸血鬼に対して果敢に戦い、転移魔法が使えるぐらい優秀な彼の力に。
彼がどんな思いで戦いに参加したのかはわからない。本来であればクレルモンの奪還に外国人の彼が力を貸したことのほうが不思議なのである。それでも参加したのには彼には譲れない理由があったのだろう。
しかし王宮に彼を連れていくべきではなかったのかもしれないと、ロズリーヌは後悔している。
結果、ケイオスは憔悴している。彼にとって伯父の死はロズリーヌ以上に重く受け止めてしまったのかもしれない。思い返せばラウルは何かとケイオスを気にかけていたし、二人きりで会っていたこともある。自分が知らない間に二人は親交を深めていたのであろうとロズリーヌは思った。
落ち込むケイオスを元気づけたいのだが、彼と一緒に行動する時間はない。話す時間を作ろうにも王女としての職務を放棄するわけにもいかなかった。もどかしいまま現在に至る。
代わりに少しでも気分が晴れればと思い、クレルモン解放に尽力したお礼と称していくらかのお金を渡した。クレルモンを見物するように従者を通じて提案したが、果たして彼は伯父の死から立ち直ることができるのであろうか。
「ロズリーヌ様! 火急のお知らせが!」
急報を携えた文官にロズリーヌは頭を切り替える。その文官の報告が再びクレルモンを脅かす未曾有の大事件になるとは彼女も予測していなかった。
***
この世界はゲームの仮想世界じゃない。実在する異世界だ。
それを知ってもなお俺はこの世界に訪れていた。いや、頭のどこかではまだ疑っているのかもしれない。この世界はゲームであり、俺は勘違いしているだけに過ぎないんじゃないかって。
普通に考えればゲームをプレイすると異世界につながっていたなんて想像もつかないだろう。そんな常識と言うフィルターがどうあっても認めたくない気持ちにつながっている。
でも現実世界でいくら調べようとも、プレイヤーが蘇生できないバグは存在しなかった。課金アイテムで所持者は限られるとはいえ、他のプレイヤーが所持していないはずがない。正式サービスも始まってから大分経つ。バグがあるのならプレイヤーが騒ぐし、運営が修正なり行うだろう。少なくとも他のプレイヤーとは全く違う状況にいるのはほぼ間違いない。
けれども俺はそれを認めたくなくて、異世界ではないことを証明したいがためにこの世界にいる。どうやって証明すればいいのかもわからずに。
誰かに相談することもできない。こんな非現実的な話など誰が信じるというのだろう。自分ですら未だ半信半疑なのだ。現実世界の誰かに説明しても立証できなければ頭がおかしいと断じられてしまうだろうし、この異世界の誰かに説明してもそもそも中世ファンタジー世界の住人であればゲームを通じてこの世界に来ていることなんて、理解の範疇にない。
街の外に出て調べるわけにもいかない。外に出れば高確率でモンスターに襲われてしまう。今はとてもじゃないが戦う気にはなれない。もしこの世界が実在する異世界なら、たとえモンスターだとしても俺は多くの命を奪ったことになる。その中には吸血鬼のような人型モンスターもいたのだ。そのことを考えると頭がおかしくなりそうだった。
今まで普通に見えていたキャラクターの手が、自分の手が血にまみれているように思えたから。モンスターの死骸を前にしてほとんど平然としていた俺が今更何を言っているんだろうと自嘲したくなったが。
もっともこの世界ではモンスターは完全な害獣として扱われているから、この世界でいくら手にかけようとも誰も責めることはない。
それはわかっている。この世界に住まう彼らにとっては死活問題なのだから。
だが理性と感情は別だ。害獣であるのだとしても、自分に対して害獣であったかと言われるとさほど害を受けているわけではない。襲い掛かられたという点では害を受けたと言えなくもないのだが、むしろわざわざ彼らのテリトリーまで侵入しているのだから、自業自得な面もある。
ゲームだと思っていたから倒せたのであって、それが実在の生き物であることを知っていれば間違いなく躊躇していたであろう。
たとえば遊園地のアトラクションで襲ってくるゾンビを倒すシューティングのアトラクションがあったとしよう。それが実は全部本物だと知ったとき、ためらわずに戦うことができ、それを割り切れるものだろうか。
いずれにせよ失ったものは戻らない。こんな感傷に意味はないのかもしれないが、少なくとも今の俺には竹を割ったようにすっぱりと割り切れるものではなかった。
だから、クレルモンの街中を闊歩する。この世界は本当に実在する異世界なのか確証を得るために。
クレルモンは活気に満ち溢れていた。それでもきちんと戦いの爪痕が残っている。人々はその修復に追われていた。
明暗分かれているが様々な表情を見せる街の住人たちはそのどれもが前に進もうとしている。羨ましかった。今、俺は何をすべきなのかまったくわからない。
とりあえず行ったことは自分の身の保身ぐらいだった。ロズリーヌからもらったお金でポーションなどの薬を買いあさる。ブランデンブルグやこの街でも起きたように街中でも戦闘は起こり得る。絶対な安全地帯などあり得ない。いつ自分のHPが0になるかもわからないのだ。万全の態勢を整えておかなければいけない。
しかし店で販売されているポーションは中級までしかないのが辛い。この世界ではもっと上位のポーションは販売されていないのだろうか。
「あれ、ケイオスじゃないっすか?」
買い物を済ませ、店を出た直後だった。名前を呼ばれて声の主を探す。
「リーアム!」
「いや、久しぶりっすね。元気にしてたっすか?」
リーアム。カスタル王国のメールディアで一緒にパーティーを組んだ仲だ。他の連中も一緒らしい。見覚えのある面子が彼の周りにいる。
エルフでアーチャーのコーネリア。ヒーラーのエミリア。それからハボック。クローズドβテストで会った連中は今でも一緒に行動しているようだ。
ちょっと前のことなのに懐かしかった。彼らのことをPKと勘違いして恥ずかしく思い、俺は街を離れそれ以来彼らとは会っていなかった。
「まさかこんなところでケイオスと会うなんてね。正直びっくりしたわ」
コーネリアの言葉に俺も頷く。もともと親しい人が少ないこの世界で、彼らと再会できたのは奇跡に近い。
「どうしてクレルモンに?」
もしかすると彼らはプレイヤーであり、クレルモンをスタート地点にしたばかりでこの世界の異常に気付いていないだけじゃないか。そんな浅ましく都合のいい身勝手な想像を働かせていた。
「まあ、ちょっとね。私の用事でこっちまできたのよ。ついさっきついたばかりだわ」
「この国がネルの出身らしいっす。彼女の知り合いが結婚するらしくて、それに参加してほしいっていう招待状が届いたんで、せっかくだからみんなで一緒に行動しているんすよ」
「まだ参加するか渋っているんだぜ。もういい加減腹をくくればいいのに」
「何よ、もううるさいわね。私だって内心複雑なのよ! でもあの子のたっての願いと言われたら仕方ないじゃない」
「いやまあ確かに同情する点はあるっすけど……」
ここがコーネリアの出身か。ということはやはり彼らもプレイヤーではないのか。
「なあ、リーアム。お前たちはプレイヤーなのか?」
「プレイヤー? どういう意味っすか?」
「いや、気にしなくていい」
一縷の望みを賭けたが、リーアムは言葉の意味が理解できなかったようで戸惑っている。自分に都合のいい妄想はそこで止まってしまった。
彼らと会ったのはクローズドβテストである。つまり俺がゲームを開始した当初からこの異世界に来ていることになる。正式サービスが開始されるまで異世界であることに気付かないなんて、なんて鈍感だ、俺は。
それにしてもこの異世界はいったいなんなんだろう。スキルやクエスト情報などはほとんどwikiに記載されているものばかり。ログアウトもできるしおおよそゲームでできることはできていた。だからこそ俺が気付くのに時間がかかったのだ。ゲームとまったく無関係とも思えない。
もしかしてこの世界をベースに『Another World』が作られたのだろうか。ということは運営も関係しているのか?
確かにクレルモンに着いた途端イベントが始まったことも考えて、運営が俺のログインしたタイミングに合わせた可能性も考えられなくはない。
ううん、情報が少なすぎる。
「そう言えば、ケイオスさん。あの噂って本当なの?」
「噂?」
エミリアの言葉に疑問を抱く。
「俺も聞きたかったんだ。なんでも北の森で邪神の配下を倒したとか」
「ああ、エルダートレントのことか」
カスタル王国の北部の森林地帯にいたボスのエルダートレントと戦ったことがある。ハボックたちが聞きたいのはそのことだろう。
反論しようと口を開きかけた時にリーアムたちのきらきらとした視線を見てためらった。
「やっぱり! 俺は本当だと信じてたんすよ!」
「いや、リーアム。あれは」
「メールディアですら凄い噂になっていたのよ。邪神の配下を倒した謎の魔導師。一時期は冒険者ギルドにケイオスの探索の依頼もあったぐらいなんだから。もう国中がケイオスのことを英雄扱いよ」
「実際、金目当てにケイオスになりすました奴らもいたらしいっすからね。目立つ黒髪を誤魔化すためにインクや煤を髪に塗りたくったやつもいたらしいっすよ。そのせいで探索は打ち切られたんすけどね」
「ふえっ?」
すっとんきょうな声を上げてしまう。何でそんな誤解が生じるんだ?
そもそもエルダートレントはボスだから強いには強いが、ボスの中でも弱い部類に入るボスである。それを倒したからと言って英雄扱いされるようなものでは無い。
それに俺が倒したのは語弊がある。あの時はエルダートレントと戦っていた集団がいて、実質的には彼らが倒したようなものだ。最後のとどめを俺がかっさらってはいるが、彼らに加勢しただけに過ぎない。
いや、待てよ。俺はどうしてもゲーム寄りで考えてしまう。彼らにしてみれば現実なのだ。ひょっとしたら俺とは認識が異なるのではないだろうか。
エルダートレントはゲームでは大したことのないボスだとしても、この世界では強力なボスとして認識されているのかもしれない。なんたって肩書きが邪神の配下だ。神様の配下なんてかなりの大物じゃないか。というか、この世界は本当に神様までいるのか?
そして俺の認識では一番ダメージを与えたプレイヤーがもっとも戦闘で活躍した人物になる。その人にボスのドロップアイテムを取得する権利が与えられるからだ。
だが、彼らの認識ではとどめを刺した人物が一番活躍したように見えるのではないだろうか。戦国時代でも戦功を認めてもらうために手柄首を持ち帰るように、彼らにしてみればとどめを刺した人物こそが一番の活躍した人物にあたるのかもしれない。
もしかして、俺は知らないうちにとんでもないことをしてきたのではないだろうか。
自分ではゲームだと思い込んで大したことをしていないように思えても、この世界ではとんでもないことをしでかしているのかもしれない。
俺はこの世界で何をしてきた? 思い出せ。
クローズドβテスト。カスタル王国の幽霊屋敷で出会った幽霊少女・エリザベス。
幽霊である彼女を屋敷から解放するために宝珠を砕いた。いくら彼女から頼まれたと言っても、彼女がこの世から消え去る原因を作ったのは俺じゃないか。
その上、悲しいシナリオのイベントとしか考えていなかったんだ。彼女がどんな気持ちで俺に頼んだのか一つも理解していなかったのに。
オープンβテスト。ヴァイクセル帝国で出会ったアレクシア様とイレーヌさん。
アレクシア様ぐらいのいたいけな少女や女性のイレーヌさんをモンスターがひしめく危険地帯に連れて行っていたんだ。そうとも知らず、俺は初めての固定パーティーにただ浮かれているだけだった。命の危険がある上にその行為はモンスターの命を奪うことじゃないか。
ブランデンブルグでアレクシア様がライノスにはねられたとき、あの子は本当に命を落としかけたんだぞ。そもそもブランデンブルグにいたのだって、俺が彼女を連れていかなければあの子はあんな目にあわなくて済んだんだのに。
正式サービス。コミューン連合国で出会ったロズリーヌ。
あの吸血鬼が言っていたことが真実ならば、俺は彼女の実の両親の身体を奪った相手と戦っていたことになる。
実の両親を亡くし、バルコニーから自殺を図った王の姿を見てロズリーヌは何を思ったのだろう。
そして、ラウルさん。
ロズリーヌを支えて欲しい。ラウルさんはどんな思いで俺にそれを告げたのだろう。わからないけどきっと王女である彼女を支えるなんて生半可な覚悟で関わってほしくはなかっただろう。それでも俺は彼の言葉を安請け合いした。そんな覚悟なんて持ち合わせていなかったのに。
ラウルさんから死ぬ間際に託された言葉。
それは俺にあてたラウルさんの最期の遺言だったんだ。死にゆく自分の代わりに、大切な姪のことを託して。その重さを俺は十分理解していただろうか。
愕然とした。全然気づいていなかった。俺はもうすでにやらかしていたんだ。ずしりと両肩に重圧がのしかかる。目の前が真っ暗になった。
「お、おい! ケイオス!? 大丈夫か?」
ハボックが血相を変えて倒れそうになった俺の肩を抱く。俺はそれを無言で払いのけた。
「吸血鬼から助けてくれたお兄さんだ!」
いつの間にか衆目が俺に集まっていたらしい。集まった人の中から一人の幼い子供の声が聞こえた。うつむく顔を上げてみると、子供の姿をとらえた。その子供の姿は記憶にあった。確かここで吸血鬼と戦いの時に助けた子供だ。
「あの時は助けてくれてありがとう!」
母親も深々とお辞儀する。笑顔の子供が俺に向ける純真な目がまぶしい。思わず目をそむけたくなった。
周囲の人も感嘆の声を上げる。
「あいつ、誰だ?」
「さっきそこの連中がケイオスって呼んでたぞ」
「黒髪のケイオス。あれじゃないか、吸血鬼の偽王を討った魔導師っていう」
「ロズリーヌ様を助けたっていう魔導師か!」
「あの人がこの国を救ったお方!」
なんで俺の名前を知っているの!? それに俺に対する誤解も広がっていっている。
否定したくて彼らの言葉を反芻する。
見方を変えれば彼らの言っていることは正しいのか? 吸血鬼の王様を倒したわけじゃないけれど、他の人たちと共に追い込んだのは確かだ。ロズリーヌの件も彼女をシャラントに送っただけだが、王女を護衛していたとも言えなくもない。
「へえ、ケイオス。コミューンでも有名だったんすね」
「まあカスタルでも邪神の配下を倒す活躍をしたんだもの。こっちで活躍していてもおかしくないかもしれないわね」
「お兄さん、凄い人だったんだね。まるでお話の英雄みたいだ」
「ち、違……!」
でも、英雄なんて高尚なものじゃない。どうしてだかゲームのスキルが使えるだけのプレイヤーに過ぎないんだ。すべてがゲームだと思っていたから取れた行動であって、現実であれば絶対にこんな行動はとらなかっただろう。
俺の思いとは裏腹にリーアムたちの話を聞いた民衆は手放しに俺を称賛する。
違う、みんなが称賛しているのは本当の俺じゃない。俺を通して、もっと別の得体の知れない何かを見ているようにしか思えない。
ありもしない英雄の虚像が知らない間に肥大化していく。そしてその虚像が本来の俺を塗りつぶしている。
恐ろしい。彼らに悪意はないのは俺にだってわかる。真実を知らないからそう見えているに過ぎないんだ。それでも湧き上がる恐怖心を押さえることはできなかった。
「もう吸血鬼なんて怖くないよね。だってお兄さんがいてくれるんだもん」
そういって少年がほほ笑んだ。
怖かった。
子供の真っ直ぐに信じる心が怖かった。
周囲からの重い期待が怖かった。
だからその場から逃げ出した。
ハボックたちの声が遠ざかっていく。振り向くことすらできなかった。
どれだけ走ったのだろう。気が付くと膝をついて息切れしていた。いくら走ろうとも肉体的な疲労をしない身体なのに動悸が激しく、ひどく疲労している。こうしていると本当にこの世界に生身でいるかのような気分だ。
もしこの身体で死亡したらどうなるのだろう。やっぱりラウルさんと同じく死んでしまうのだろうか。そう思うと震えるほど怖かった。
つい先日までゲームであると疑おうともしなかったのに、この世界がいかに恐ろしい場所であるか改めて実感する。
あの子やハボックたちに悪いことをしたなと思うけど、とてもじゃないが今会う気分にはなれなかった。
城に行くか……。ラウルさんに頼まれたんだ。ロズリーヌのことを頼むって。
ロズリーヌはあれから書類の決裁ばかりやっていて、ずっと忙しいままだ。王がいないこの国ではロズリーヌがトップだ。そのトップに回される仕事量が多いのだろう。書類仕事を手伝えればいいだろうけど、異邦人の俺がこの国の機密をむやみに触れるのはいけないだろうし、そもそもこの世界の文字は読めない。
はは、戦う以外俺は何の役にも立たないや。もともと現実世界じゃただの高校生で特別頭のいい方ではない。政務をしろと言われてもちんぷんかんぷんだ。この世界の一般的な政治や歴史など知っているわけでは無いし、学校で覚えた程度の知識が役に立つとは思えない。
唯一この世界で役に立ちそうなものと言えばwiki頼りのゲーム知識だが、ラウルさんを蘇生できなかったことを踏まえると必ずしもそのまますべての知識が通用するとは限らない。参考にこそすれ過信は禁物だろう。
自分でも手伝えることを恥ずかしいけどロズリーヌに直接聞いてみよう。下手に自分で動くよりも彼女の言うことを聞いて動いたほうがまだましなはずだ。
城の中へは自由に行き来できる。ゲームでは疑問に思わないけれど、現実だったらこんなことって有り得ないよな。王女であるロズリーヌはこの国の最重要人物だ。日本で言えば首相官邸を自由に行き来しているようなものだから。セキュリティ的に大丈夫なんだろうか、と少し心配になった。
いや、ロズリーヌと親しいから衛兵も信頼を置いているのだろう。……それはそれで責任が重いのではないかと思ったがすぐに頭から掻き消した。
ロズリーヌがいる部屋へ案内されると、部屋から声が漏れている。聞いちゃいけないと思ったがよほど慌てているのか声が大きく扉越しにでも聞こえてきた。
「マイエヌ公爵が討たれただと!?」
マイエヌ公爵? いったい誰だろう? 公爵と言えばラウルさんと同格であり、かなり地位の高い貴族のはずだ。その人が討たれたって、殺されたってことか!?
「まさか吸血鬼の手によって討たれたのか?」
「いえ、ヴァイクセル帝国がマイエヌ公爵領へ侵攻し、一日で制圧したようです。周辺地域もすでに制圧されている模様。そしてクレルモンへ向け進軍中とのこと!」
「なに!? どうしてヴァイクセル帝国が侵攻してくるんだ!?」
「それが……ヴァイクセル帝国は聖戦を唱えているようです。吸血鬼を撃滅し、コミューンの地を魔物の手から奪い返すのが目的だと」
ヴァイクセル帝国。アレクシア様とイレーヌさんと出会った国だ。そこがクレルモンへ進軍? まさか戦争が始まるのか? いいや、違う。もう戦争じゃないか!
「そんな……! 吸血鬼たちの暗躍がヴァイクセルに知られていたのか? しかし、マイエヌ公爵の兵も精強な軍を持っていたはずだ。それがたった一日で制圧されるなどそれは真なのか?」
「敵は未知の魔法を使い、強化された兵を前線に投入しているとのこと。その兵を率いている敵指揮官の名はマリー・アレクシア・フォン・ザヴァリッシュ」
頭の中が真っ白になる。今、なんて言った?
部屋の扉を勢いよく開ける。驚愕するロズリーヌと一瞬視線が重なったが、すぐさま彼女の対面にいた男に聞き返した。
「今なんて言ったんだ?」
「て、敵は未知の魔法を使い、強化された兵を前線に投入しているとのこと。その兵を率いている敵指揮官の名はマリー・アレクシア・フォン・ザヴァリッシュと呼ばれる少女です」
――私はマリー・アレクシア・フォン・ザヴァリッシュです。アレクシアで構いません。ケイオス、今日はよろしくお願いします。
唐突に彼女との思い出がフラッシュバックする。長い名前だったが間違いない。彼女はマリー・アレクシア・フォン・ザヴァリッシュと名乗っていた。でも彼女は戦争に参加するはずがない。
「アレクシアは、可憐で優しい少女なんだ。そんな彼女が戦争なんて残虐なことを行うはずがない。ましてや十二、三歳ぐらいの少女だぞ。そんな彼女が指揮官だなんて周りが納得するわけないじゃないか」
たった一ヶ月ちょっとだが一緒に過ごしてきたんだ。彼女の気質ぐらいはわかる。戦争なんかに身を投じるような子じゃない。そうだ。何かの間違いだよ。中学生ぐらいの少女が指揮するような軍隊だなんて常識で考えてもありえなさすぎる。
「確かに少女が指揮官と言うのは珍しいが、若い貴族が戦争に行くことは珍しくはないぞ。それにザヴァリッシュ家はヴァイクセル帝国の名門貴族だ。決しておかしくはない」
ロズリーヌが反論する。その言葉に俺は戦慄した。この世界じゃそれが当たり前なのか?
「そんな彼女が人を……。マイエヌ公爵って人を討つわけがないよ!」
「いえ、マイエヌ公爵を直接討ったのはイレーヌと呼ばれる女騎士です」
そんなイレーヌさんまで。さすがに人違いとは考えにくい。
それでも聞いた話と彼女たちに対する俺の中のイメージは結びつかなかった。モンスターを倒すことには抵抗は無かったが、人を殺すことに抵抗がない人間には思えない。
それに彼女たちはまだ転職仕立てのレベル50ぐらいの強さだ。とてもじゃないが対人戦を行えるほど強いとは思えない。
いや、これはゲームじゃないんだ。ひょっとするとレベル50の人間はこの世界でとてつもない強者とみなされるのではないだろうか?
邪神の配下と名乗ったエルダートレントを倒したときはまだ転職できないぐらいのレベルだった。それにブランデンブルグのときも二次職のスキルを一度も目にしていない。先日のクレルモン奪還のときも『ワープ・ポータル』を使えるマジシャンは少なかった。
つまり、この世界は基本的に一般人のレベルが低いのではないだろうか。
転職条件を満たさないレベルでも英雄だなんだと騒ぎ立てられる。ならレベル50以上でしかも転職済みの人間はもはや人知を超えるレベルの強さになってしまう。
もしかすると彼女たちを戦争に駆り立てたのはそのレベルのせいか?
彼女たちが戦争に率先して参戦するようにはどうしても思えない。だとすると誰かから強制されたことになる。
強制された理由は何だ? もしかすると人知を超えるほどの強さを二人が持ったからじゃないのか?
彼女たちをゲーム感覚で転職までするほどレベルアップさせたことが原因じゃないか。つまり、それは俺の責任じゃないのか。
「違う。俺はそんなつもりじゃ……」
「ケイオス?」
否定したかった。だけど否定できるだけの根拠を持ち合わせていなかった。
俺は彼女たちと一緒にゲームを楽しんでいただけなんだ。良かれと思ってやったことが今になってことごとく裏目になっている。それだけは混乱する頭の中で理解できた。
事実を知って、追い詰められた俺は逃げ出すしかなかった。でももう街も城も外にも逃げ場所はない。この世界に異世界人の俺の居場所なんてなかった。
必要とされていても英雄なんていう有りもしない虚像だけだった。
だからもう。
この世界からログアウトするしか俺に逃げ道はなかったんだ。




