第三十二話 課金アイテム
【お知らせ】
この度「ヒーロー文庫」にて「最新のゲームは凄すぎだろ」で
書籍化が決定いたしました。
これも皆様の応援のおかげです。
いつも応援していただきありがとうございます。
書籍化に関する詳細や続報については、活動報告にて報告いたしますので
書籍化に関する話題はそちらでお願いします。
なお書籍化に伴うダイジェスト化や削除はありませんのでご安心ください。
学校も終業式を迎え、ようやく夏休みに入った。どっさりと出された宿題の事を考えれば憂鬱だが、『Another World』をプレイする時間が増えるのが何より嬉しい。夏休みの予定は全くないからな。ははっ、……ちょっと虚しい。
『Another World』も世間一般の夏休みに合わせ正式サービスを開始する。オンラインゲームの情報サイトを見る限りではオープンβテストからの変更点はあまりないようだ。唯一あるのは課金アイテムが解禁されたことぐらいだろうか。どんなアイテムがあるのかはあとで公式サイトを覗いてみよう。まだ正式サービス開始まで時間があるし。
と、そのままオンラインゲームの情報サイトを見ていたら、気になる記事を見つけた。それは以前俺がプレイしていたオンラインゲームのサービスが終了になったという記事だ。サービスの終了の理由について公式からの説明は無いが、度重なる仕様の変更や目新しいイベントの無さ、そして何より次世代のオンラインゲームであるVRMMORPGの台頭によりプレイヤーが激減したのが原因ではないかと記事の中で書かれていた。
そっか、あのゲーム終了したのか。今ではすっかり『Another World』ばかりプレイしていたから最近プレイしたことは無かったけれど、いざ消えてしまうとなると一抹の寂寥感を拭えない。初めてログインした日やモンスターを倒したときなどの思い出がふっと頭を過る。
とはいえオンラインゲームは慈善事業ではない。サーバーの維持費はかかるし、ゲーム運営者の人件費も馬鹿にならない。収益が見込めない場合はサービスの停止をせざるを得ないのだ。事実、年に百件から二百件近くオンラインゲームがサービスを開始するのに対し、百件近いオンラインゲームがサービスの終了に追い込まれており、それは徐々に増加傾向にあるのだ。十年以上続いているオンラインゲームは少数である。
それでもユーザーの立場にしてみたら、時間をかけ自分が苦労して育てたキャラクターや集めたアイテムを消されてしまうことを不満に思うかもしれない。だが大抵のオンラインゲームの利用規約にはきちんとサービスの終了に伴いユーザーに生じた損害について運営側は一切責任を負わないものとすると明記されているのだ。ゲームのユーザーアカウントを作成する場合、必ず利用規約の内容を承諾した上で作成するため、運営会社がサービスを終了させてユーザーのデータを消しても規約上では問題ない。
こうしたオンラインゲームの終焉は『Another World』とて例外ではない。今は世界初のVRMMORPGとして華々しいデビューを飾ってはいるが、十年二十年と経てば機能が向上した他のネットゲームが登場し、いつまでも世界初のVRMMORPGという優位性を保っていられるわけでは無い。いつか『Another World』が終焉する日も訪れるのだろう。
もっとも現在の『Another World』の人気を見れば、すぐには終焉を迎えることは無いはずだ。元々ヴァルギアの開発会社の関連会社であるし、後続のVRMMORPGも発表されていないからヴァルギアの販売を促進するためにも今しばらく『Another World』のサービスは続くだろう。
さて、そろそろ正式サービスの始まりだ。課金アイテムを購入するには公式サイトでWEBマネーやクレジットカードなどでポイントを購入して、そのポイントを使い課金アイテムが買える仕組みになっている。さすがにクレジットカードは持ち合わせていないので、WEBマネーで二千円分のポイント(一円=一ポイントとなる)を購入したけど足りればいいな。
早速どんな課金アイテムが売られているのか覗いてみる。課金アイテムはかなり種類が豊富だ。そして思ったより安い。アイテム一つ百円から二百円ぐらいだ。オープンβテストで見かけた経験値取得二倍のアイテム「祝福の書」を五本にプラス一本無料でつくセット販売なんかも行っている。商魂たくましいな。ステータスポイントやスキルポイントのリセットアイテムも販売しているが今のところこれらは必要ない。回復アイテムまであるのか。どうやら緊急使用時のデメリットがない回復アイテムの様だ。対人戦なんかだと役に立ちそうだな。今は必要ないがこれは後々買うかもしれないな。
さらには蘇生アイテム「身代わりの人形」まである。自分または他のプレイヤーが死亡状態にある時に使用できてHPも完全に回復して蘇生できるらしい。(自分に使用する場合は設定すれば自動使用されるようだ)以前まではプレイヤーが死亡状態に陥った時、蘇生できるのはヒーラーが使える蘇生スキルだけだった。もっともこの課金アイテムの場合、一度に持てる量に制限があるし課金アイテムだから毎回気軽に使えるものではないが。それでも自分も蘇生できるならこれは緊急時に便利だろう。
そして数ある課金アイテムが並ぶ中、一番気になったのが……ガチャである。ガチャ――ランダム型アイテム提供方式、つまりは一回いくらか投じるとランダムでレアアイテムが当たるという仕組みだ。ちなみに『Another World』のそれは一回二百ポイント。つまり二百円でレアアイテムが当たるのだ。
この手のガチャは碌なアイテムが手に入らないのではないかと思う人もいるだろう。その昔、携帯やスマホで遊べるソーシャルゲームでコンプリートガチャと呼ばれるアイテムを一式揃えないとレアアイテムをもらえない仕組みのガチャがあり、全て揃えるには月数十万投資しなければならないえげつない商売もあったらしい。だが一時期それが問題になり、今でははずれがないように必ずレアアイテムが当たるように規制されていて、全てのレアアイテムを手に入れるまでの推定金額の上限が細かに指定されている。とはいえ、レアアイテムにもレアリティの高低があるので取得条件が容易なアイテムが自動的にはずれアイテムとなってしまうし、全部そろえるとなると結構な額になるのだが。
しかし、このガチャ。確かに結構なレアアイテムが入っているようだ。特に貴重なのが乗り物系の課金アイテムである。アイテムの詳細によるとゲーム内で売買されている乗り物よりも早い乗り物が多いようで、中には以前乗ったことのある竜便の竜よりも豪華な装飾が施された竜や複数人乗れる馬車までガチャにある。しかもこれらはガチャ専用アイテムで他では手に入れられないらしい。しかも正式サービス開始記念で五回分が安い。くっ、プレイヤーの心理をついた有効なガチャだ。……運営の思惑に乗せられてみようじゃないか!
そうそうレアアイテムが当たることも無く(それでも祝福の書や身代わりの人形は当たったのだが)、残すところあと一回。最後ぐらいレアが当たってくれ! 願いを込めながら『Another world』のガチャは画面上のボタンを押すと、カプセルトイのレバーを回すアニメーションが流れる。普通ならカプセルがコロンと出てきて中身の表示がされるのだが、今回は少し演出が違った。レバーを回すとカプセルトイの背景が虹色に光っている。おおっ、もしかしてレアアイテムを引いた特殊演出か!? これはかなり期待ができそうだ。当たったアイテムは……馬車か! これがあればパーティーで一緒に行動できる。パーティーメンバー募集中の俺にとっては最良のアイテムと言っていいだろう。俺、いつかこの馬車の中にたくさんの仲間を乗せるのが夢なんだ……。
めぼしいアイテムも購入したしゲームを始めるか。ヴァルギアを取り、深呼吸する。うん、大丈夫。設定を終えた後、コミューン連合国の首都であるクレルモンをスタート地点に選ぶ。アレクシア様やイレーヌさんとも会えるだろうか。
スタート地点であるクレルモンのポータルに着く。基本ポータルは町のはずれなのだが、それにしては閑散としすぎていた。クレルモンはコミューンの首都のはずなのに、同じ首都であるマウクトやシュトルブリュッセンよりも静かすぎるのだ。家は窓や扉も締め切られていて、中の様子をうかがうことさえできない。うーん、コミューンではこれが普通なのか? 街中に人がおらず、活気が無い。気にはなるが取りあえず冒険者ギルドに足を運んでみよう。
冒険者ギルドは閉め切られていた。一体どうなっているんだ? 休業日……なわけないか。現に今まで休業日みたいなものは無かったもんな。となると、何らかのイレギュラーが発生しているということになるだろう。しかし、他のプレイヤーもみかけないとなるとアレクシア様たちと合流するのは無理そうだ。今度はいつ会えるのだろう。……また会えるといいな。
冒険者ギルドを出て、街中をぐるりと歩いてみるがまるで急に人が消えたゴーストタウンのような風景である。NPCが外に配置されていないバグなのか、それとも何かのイベントなのか判断がつかないな。こんな規模で起こるイベントなんて普通のMMORPGでは有り得ないことだけど、この間の街ぐるみで起きたイベントの事もあるし。
今使っているキャラクターを消して新しく作り直そうかとも考えたけど、課金アイテムを購入した以上データを移し替えることもできないし、うかつに消すこともできない。仕方ない。ここはひとつ人のいそうな場所――隣町に行ってみるか。最悪カスタル王国かヴァイクセル帝国まで行くしかない。よし馬車を使ってみるか! インベントリから馬車のアイコンを選択し、馬車を取り出す。馬車を取り出すっていう表現も改めて考えるとおかしな表現だな。
近くの空間がガラスのように割れて黒い穴の中から二頭立ての箱馬車が現れた。二頭の馬は以前に見かけたドラゴンほどの大きさではないが通常の馬より一、二回りほど大きく、全身やたてがみが漆黒で左右合わせて八本も足がある。明らかに普通の馬では無い。ハーネスは装飾が施されており、はみが金でできているのか漆黒の体にきらりと光っていた。四輪の大きな車両はいたってシンプルに黒色で、ランプには青い炎が灯っている。箱馬車といっても御者席の上も屋根で覆われていた。二頭が俺の前で止り、いななくと割れてできた穴が逆再生のようにふさがれていく。おおっ、とってもかっこいいじゃないか!
おっかなびっくりと馬に近づき撫でてみるが嫌がりもせず、つぶらな瞳をこちらに向けてくる。体格に似合わずかなり大人しいようだ。これならよく言うことを聞いてくれそうだ。
さっそく出発だ! 車両に乗って手綱を握り、テレビで見たようにぴしゃりと打って馬に動くように指示をした。
ところで――。現代社会の日本において、乗馬をたしなむ人はどのぐらいいるのだろうか。恐らく一般的には乗っても大人しくあまり早くもないポニーの体験乗馬で、せいぜい十分ぐらい乗った経験があるかないか程度ではないかと思う。実際俺も馬に乗るのは小学生時代に体験乗馬をして以来だ。ましてや馬車を操るなんて経験した人間はもっと少ないはずだろう。少なくとも俺は経験したことがない。
つまり何が言いたいかというと。自動車並みの急加速で走り出す馬。離さないと必死に手綱をつかむ俺。暴風でなびく髪。馬の気の向くままに決定される進路。暴走超特急馬車の完成である。
それが城門目掛けて爆走する。城門前には兵士らしき姿を見かけたが、正直それどころではなかった。目の前には城門の扉こそ閉まっていないものの、バリケードが敷かれている。普通ならここでUターンをしたいところだが、この暴走馬車は命令を聞くわけがなく、止まる気配は微塵も無い。俺はとにかく細い手綱にしがみついた。怖くて目を閉じた瞬間、激しい衝突音と浮遊感が全身を駆け抜ける。痛みはないけれどジェットコースターから落下した時の浮遊感をまさか馬車で味わえるとは思わなかったぞ。さすがに兵士は轢かなかったようだが、俺はこの馬車にドン引きである。
取りあえずはクレルモンの外に出たらしい。けどね。お馬よ、お馬よ、お馬さん。いったい君たちはどこへ行こうというのかね。
***
コミューン連合国。カスタル王国の西方、ヴァイクセル帝国の東方に位置する国で、領土としては東西の大国より一回りほど小さい国ではあるが、二大国に挟まれた地の利を活かした交易が活発であり、商業国家として栄えている。
元々コミューン連合国が成立する前は三つの国に分かれていた。当時魔物が少なく安全な領土を巡り戦争で領土を伸張していたカスタル王国、ヴァイクセル帝国の二国に東西を挟まれた三国はその脅威から同盟を結ぶ。しかし領土の伸張が著しく強大になる二国に対抗して三国は結びつきをより強固にするために、一つの主権国家としてまとまった。それがコミューン連合の成り立ちである。
コミューン連合国は各旧王家の血を受け継ぐものを新王家に据え、旧王家を公爵として新王家を支える体制であった。大まかに分けてコミューン連合国は中央を王家の直轄地としており、北東をヌムル公、北西をマイエヌ公、南をシャルテル公が治めている。
そして、その王家がすまうコミューン連合国の首都であるクレルモン。そこは現在、国王の命により異例の厳戒態勢が敷かれている。まるで戦時中の占領下にでもあるような状況で早朝の配給時以外は住民が外に出ることを固く禁じられていた。もし住民がみだりに外に出れば厳しく罰せられるほどである。今街を自由に闊歩できるものは時折見回りの兵ぐらいだ。
そのような状況下で一組の男女が陰に紛れながら移動していた。一人は年老いた老人で、もう一人は二十歳前の女性である。どちらの身なりも平民が着るにしては薄汚れており、どちらかといえば盗賊を連想させる身なりだった。二人は周囲を気にしながら、城壁側の家屋に入る。家屋の中は長年人が住んでいないかのように埃がたまっていたが、二人は意に介さず、戸棚側の壁を押し込む。すると床がゆっくりと音を立てながらスライドしていく。そこには地下に向かう階段があった。二人は急いでその階段を降りていく。長い長い一本道の通路を抜け、ようやく外につながる扉を開き外へ出ようかというところで老人の足が止まった。
「時間を稼ぎますゆえ、先にお逃げください。この通路は内からしか塞ぐことができないのです」
「馬鹿な事を言うな! 残ってもすぐに追手が来る! それじゃ意味が……」
「なりませぬ、コミューンの危機なのですぞ。こうなってしまっては一刻も早くこのことを外へ知らせねば。少しでも時間を稼がねばなりません。連中は国を脅かす輩。並のものでは太刀打ちできますまい。なればシャルテル公を御頼り下さい」
なおも女性は老人に説得を試みるが、老人がぴしゃりとはねつけた。老人の目に迷いはない。説得はできないのだと女性は理解し、力なくうなだれた。
「……そなたの献身に必ず私は報いる。……すまない」
瞳に涙をため後ろ髪を引かれながらも女性は駆け出した。その後ろ姿を老人は見守り扉を閉めた。
「あら、感動のお別れタイムは終了かしら?」
扉が閉まった途端に場違いな声が老人の背後から聞こえた。はっと老人は振り返る。そのさまがおかしかったのかその声の主はくすくすと笑い始める。
「貴様、何がおかしい!」
「えぇ、そこツッコミどころ? まぁいいか、教えてあげる。こんなことして全く気付かれないと思っていたの? あなたたち最初っからバレバレよ。あんなにこそこそ隠れて、まるで野良ネズミみたいだわ。私たちに知られているとも知らずに必死に隠れている姿なんか滑稽よ。今着ているものを見たらほんとドブネズミ。あとで鏡見てみる? そんなネズミに声をかけた途端にこれだもの。まるで猫に見つかっちゃったみたい。あー、おっかしー」
老人の覇気――いや殺気を受け流し平然と答える声の主である少女。年齢であれば祖父と孫ほど離れて見えるのにそこには殺伐とした空気が漂っている。しかし、老人は内心恐怖していた。
その少女がコミューンに来てからこの国は狂い始めた。初め老人は、とある北に領地を持つ貴族に連れてこられたこの少女はどこかの貴族の子女だと思っていた。しかし、それが擬態である事に宮廷の皆が気付くことはなかった。
そうしてこの国は誰一人気付かぬままに侵されていった。彼女に近付いた者はみな異質なものに変わっていく。外見が変わるのではない。纏う雰囲気が変わるのだ。高潔で知られた武人も文官も、人をまるで塵芥を見るかのような目に変わる。異変に気付き始めた時には大部分の人間がその目を宿していた。その目が老人の心胆を震え上がらせ、そして確信させた。このままでは間違いなくこの国は滅びる、と。
老人の前にいるこの少女は決して外見のような愛らしい存在ではない。間違いなく人ではないおぞましい何か。それが何なのか老人にわかる術もない。
「くそ。この国をたぶらかす魔女め!」
老人は懐に忍ばせたナイフを少女に向ける。少女の無防備に晒した身体へ吸い込まれるように――刹那、老人は視界が暗転した。老人は自身に何が起きたのか理解できなかった。しかし、己の身体から発する鈍痛と腕からほとばしる激痛に何が起きたのか理解する。自身が投げ倒され、腕があらぬ方向に折れ曲がっていることに。全てを理解した瞬間、老人はあらん限りの声で叫び声をあげた。
「あら、ごめんあそばせ。老人虐待って趣味じゃないんだけど、まあ、正当防衛? みたいな」
老人は激痛でのたうち回る中、少女はにやにやと笑いながら謝罪する。先程の少女の動き。あれは魔法で起こしたものでは無い。純粋に彼女の身体能力で起こしたものだ。老人の知覚を上回るほどの速度で動き、力任せに老人の腕をねじった結果である。化け物め――。老人は痛みで気が遠のきながら罵った。
「あ、そうそう。間違いがあったから一つだけ教えてあげる。カーミラちゃんはね、魔女じゃないの。実は――。あら、もう気絶しちゃったの。つまんないの」
横たわる老人の身体を足でつつくと、動かなくなった玩具に興味を失った赤子のように真顔に戻る少女。だが、気を取り直したのか再び笑みを浮かべ出す。
「さて、あの子に追手を送らないとね。これから忙しくなるわ」
駆ける――。クレルモンの城壁の外へ出た彼女はひたすら南のシャルテル公爵領を目指し、ひたすら森の中を駆けて行った。追手から逃れるために道なき道を進む。馬があれば彼女もここまで苦労はしなかったのだろうが、相手に悟られぬように急ぎ抜け出したためにそこまで用意周到に揃えられるものでは無かった。ただでさえ城門は封鎖され、兵士が詰めていて簡単に壁外に出ることなどできない。コミューンの陰謀に加担するものたちがどの程度いるのかも把握しきれていない今、一般の兵士すら信用できないでいるのだ。抜け道を使わなければ外に出ることなどできなかっただろう。
だからこそ両の足で懸命にひた走る。シャルテル公爵領に行くまでには街や村もある。そこで馬を買い、一刻も早く公爵領に向かわないと――彼女はただその事だけを考えていた。
だが、彼女の思いを踏みにじるように遠くから激しい音が響いてきた。恐らく追手だと彼女は予測した。老人もまた奴らの手に堕ちたのだろう。悔し涙が頬をつたう。だが彼女に悲しむ時間など許されてはいない。聞こえてくる音からして複数の馬だ。彼女は振り返らずに思考をめぐらせる。どうする――迷いが生じた。足を止めてどこかに身を伏せたほうがよいのか。しかし複数の馬をうまくやりすごすことができるのか。逡巡して、茂みに隠れ身を伏せた。いずれにせよこの速度では確実に捕まってしまう。ならば少しでも身を隠した方が正解だと彼女は判断したのだ。
追手の馬は、余程の駿馬らしく遠くから聞こえてきていたはずの音はすぐ近くから聞こえている。彼女は自分の判断に狂いはなかったと確信した。
だが、彼女の判断は間違っていた。普通の駿馬であれば確かにやりすごしていたかもしれない。しかしまさか追手のそれが、巨躯を誇る二頭立ての馬車だと誰が予想できたであろう。しかもそれは道中の木々をなぎ倒しながら何事も無いかのように平然と進む。そう木々ですらも彼らの歩みを止めることはできないのだ。そしてその進路にたまたま茂みに隠れた女性がいたとしても、それらの進行を止められるほどの障害物にはなりえない。
一般の倍以上の大きさの馬が一般的な駿馬とは比べ物にならない速度で彼女に向かってきたのだ。それをかわす暇さえない。息の荒い馬の前足が彼女の瞳に映る。彼女は死を予感した。
だがその脅威は永遠に彼女に向けられることはなかった。まるで茂みを嫌い直角に曲がったのではないかと錯覚するほど、唐突に馬車が曲がったのである。そしてその馬は急停止した。身の危険から解放されたことを知った彼女はどっと疲れが溢れ、思わずしりもちをつきながら倒れた。
そして彼女はまじまじと馬車を観察する。目を引くのは二頭の巨躯の馬――もどき。足が八本もある馬など彼女の常識には存在しない。恐らく魔物の類だ。先程までの荒々しい走行と合わせれば納得がいく。しかし先程までの気性の激しさは鳴りを潜め、調教された兵馬のように大人しくなっていた。この馬の持ち主は一体どのようにしてここまでこの魔物を大人しくさせることができたのだろう。
そして、次に目についたのは馬車の装飾だ。シンプルではあるが、とても平民が乗りこなす代物ではなく、金の装飾があつらえてある。だが貴族が乗るには黒で統一されていて少しばかり質素すぎるように見えた。仰々しすぎるその馬車は一体どのような身分の者の持ち主なのか、彼女には想像がつかない。青く灯る炎もどこか非現実味があり、むしろ死神が生者を連れ去る馬車だと言われば現実味があった。
彼女がそんな益体もない事を考えていると、馬車から一人の男が降りてくる。あまりにも仰々しい馬車であり、追手とは考えにくいが正体不明の相手だ。自然と彼女は短刀に手を伸ばす。その短刀は汚れた服を着た彼女が持つには不釣り合いなほどに見事な装飾がなされていた。
だが、彼女はその手を止めた。なぜなら降り立った男の姿は、自身が想像していた馬車の主の姿とは全く重ならない、貴族のような高貴さを感じさせず、厳しく力強い印象からかけ離れ、今にも倒れそうなほど顔色が悪く貧弱そうな、ただの黒髪の少年だったからだ。




