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第二十七話 決意

ケイオスと別れて三日、アレクシアはヴァイクセル帝国魔法学園から一歩も出ることなく過ごしてる。あの忙しくも充実した日々に比べれば平穏な日々の中にいた。

そんな平穏さとは裏腹に彼女の表情はまるで憂いがあるかのように何処か浮かないものに見える。


そんな彼女の頭に去来するのは三日前の出来事。

その日、いつものようにブランデンブルグに戻り、そしていつもと違うケイオスの一言から始まる。


「すまん。しばらく会うことが出来ない」


「え――」


今、師は何と言った?――唐突なケイオスの言葉にアレクシアは頭が真っ白になり、聞き返す事もできずに言葉を失った。


「どういう事だ?ケイオス」


遅れてイレーヌが問いかける。


「実は試験があってしばらくの間こちらにいることができない」


確かケイオスは学生だと聞いたことがある。その時は博識な師が未だ学生の身分である事に驚くと同時に異国の魔法学園とは如何なるものかと思いを馳せたものだ。

密かにケイオスと共に学校に通うことを考えた事もある。

尤もそれは夢のようなものだ。他国の貴族であり、両親からは見離されているとはいえ未だ彼等の庇護下にいる身なのだからたやすく留学などできない。


「でしたら試験が終われば会えますね」


「そうだな。五日後にはこちらに来ることもできるが……」


ケイオスが言葉を濁す。試験による一時的な別れだと知り内心安堵しかけたアレクシアの心に再び不安が広がっていく。


「コミューンに行こうと思っている」


アレクシアは一度も訪れた事はないがコミューン連合国――ヴァイクセル帝国の東に位置する通商国家である。

ヴァイクセル帝国とカスタル王国というこの大陸でも屈指の大国に囲まれ、かつ南は海に面している事からコミューンは帝国と王国の交易や海易に関わる要所だ。


「アレクシア様、イレーヌさん」


ケイオスの意を決したような瞳が二人を捉える。


「一緒にコミューンに行かないか」


その言葉が彼女の心を高鳴らせる。

どうしてこんなに高鳴るのだろう。歓喜で占める頭の隅にそんな疑問が過ぎる。

おそらくそれは彼が自分と一緒にいたいのだと、はっきりと言葉にしたからだ。

今まで学園や家族でさえ自分を必要としてくれる言葉をかけてもらう事などなかった。

魔法が無能な落ちこぼれの自分は無価値でしかなかったけれど――今ではいくら魔法が使えてもそんな事など関係無く彼は本心から自分を必要としてくれる。

それがわかるから嬉しくて胸が高鳴るのだと、そう思った。


思わず頷いてしまいそうになるほどの魅力的な誘いの言葉。

落ちこぼれの貴族の娘でしかない自分を、ただの少女でしかない自分を必要としてくれる言葉。


――だが。


「……少し考えさせて下さい」


結局即答できず、試験が終わり次にケイオスと会える五日後まで答えを先延ばしにする事しかできなかった。




自分はどうしたいのだろう――それからはずっとそんな事を自問自答しながら悶々とした日々が続いている。

答えは――ずっと前から決まっているのに。


ケイオスとずっと一緒にいられない事は最初から決まっていたことだ。

学生である今はまだいいだろう。仮にケイオスがコミューンに行っても学業との両立は可能だ。

隣国のコミューンだとしても距離や時間の問題は殆ど発生しない。何故ならケイオスが使用している転移魔法『ワープ・ポータル』はアレクシアも習得していた。

最近はシュトルブリュッセンから転移してブランデンブルグでケイオスと合流、更にケイオスが遠方のポータルへ転移し狩りを行っている。

だから一度コミューンの『ポータル』に行きさえすればいつでも行けるだろう。


しかし、課外授業が終了してしまえばケイオスと会う頻度は少なくならざるをえない。そして学生を終えれば更に容易に会えなくなるはずだ。

つまり彼女の立場が問題なのだ。

アレクシアはただのアレクシアではない。

ヴァイクセル帝国の名門貴族であるザヴァリッシュ家の娘。マリー・アレクシア・フォン・ザヴァリッシュなのだから。

その身分故に自由気ままに行動することはできない。

ケイオスがただのアレクシアを欲したと感じた時にその事に気付いた――いや思い出したのだった。

それを認識した途端、ケイオスの言葉で舞い上がっていた熱が冷や水をかけられたように急速に熱を失う。

代わりに現れたのは激しいほどの焦燥感、そして行き場の無い不明瞭な感情。それらが彼女の決断を鈍らせ、どうしてよいのかわからず答えを引き延ばしたのだった。


元々ケイオスと別れるのはずっと前から決まっていたのだ。――頭では理解していた。そうなれば悲しいけれど別れられるはずだとそう思っていたのである。

しかしいざそれが現実のものに成りかけ、終わりがあるのだと思い知らされた時簡単に心が揺らぎ、更には彼の誘惑にのって付いて行こうとさえ考えてしまった。

では彼がコミューンから更に離れる時、課外授業や学生の期間が過ぎた時――自分は本当に彼と別れる事ができるのだろうか、また彼の言葉を拒める事ができるのだろうか。

未だにその判断を下すことができずにいた。


「アレクシア様」


そんな出口のない思考の渦に飲まれていると従者であるイレーヌが声をかけてきた。


「アレクシア様はどうなさるおつもりですか」


「……どうとは?」


「ケイオスの事です。コミューンには行かれるのですか?」


「……イレーヌはどう思う?」


もしかしたらこの難題を長年付き添っていた彼女ならばわかるかもしれないとアレクシアは問い掛ける。


「……畏れながら率直に申し上げますと、今更ですが既に課外授業の範疇を越えております。それに、他国ともなると平時とは言え伯爵令嬢が頻繁に訪れるのは些か問題があるかと。となると御当主様にお伺いを立てる必要があります」


「父は……許してはくれないでしょうね」


自分に関心がない父でもそう簡単に許可などくれないだろう。

仮に許可を得ても護衛や同行者についても言及されるはずだ。そうなると貴族の若い娘の側に若い男がいることは外聞が悪い。

下手をすれば師に迷惑をかけることになる。恩を仇で返すことになりそれだけは絶対に避けたかった。


結局言葉にしてわかったことは幾ら悩んだとて結果は決まっているのだと改めて認識しただけだった。

だから彼女はあえて言葉にすることで迷いを断とうとした。


「決めました。私は……」


目を閉じ、まるで言い聞かせるかのように暫く間を置き、ゆっくり目を開け躊躇いがちに言葉を絞り出していく。


「コミューンには行きません。今度先生にお会いする時に……お別れします」


「……本当にそれでよろしいのですか?」


「……ええ」


弱々しい主の決断の言葉にイレーヌは一言だけ主に返答する。


「私はアレクシア様が決断なされた事に従います。例えどのような決断をなされたとしても」


イレーヌは一礼し部屋を出た。




なんと無力なのだろう――イレーヌは自身の不甲斐無さで胸が張り裂けんばかりだった。

従者としてはケイオスと別れさせるのが正しいだろう。

だがそれならばアレクシアが深く情を抱く前に諌言すべきであり今更それを突き付けるのは徒に傷口を広げるだけだ。


それでもこの一ヶ月は主従にとって心安まる日々だったのだ。

ようやく心を許せる相手であり、特に主にとって大事な人なのだから。

いつしかその暖かな日々の中にいて当たり前にになってしまい、挙げ句いつか訪れる岐路に目を遠ざけてしまった。

ケイオスも直前までいつでも会えるかのようにこの国を去る予兆すら見せなかったのだから――恐らく転移魔法で気軽に移動できるからかもしれないが――気付けなかったのも仕方なかったのだが。


しかしアレクシアは本心から別れると決断したのではないだろう。あくまで自分の立場を鑑みて決めただけの脆い決意だとイレーヌは思った。

恐らくではあるが主はまだケイオスに対する気持ちに気付いていない。

しかしだからといって彼女の想いを気付かせる事が果たしてそれは良いことなのか。


仮に気付いたとてケイオスと一緒になれる可能性は低い。

異国の平民――ケイオスの立ち振る舞いをみるかぎり貴人には見えない――と貴族の令嬢が報われる恋物語など空想でしかないのだ。

アレクシアが一緒になるには貴族という身分を捨て駆け落ちでもしなければならない。

異国で平民として暮らす――それがどれ程困難かなど恋物語の続きには書かれていないのだ。


それにケイオス自身の気持ちもわからない。少なくとも嫌われている事は無いが仲間以上の気持ちを抱いているかは判断できなかった。

しかし国を離れるとなった時、一緒に行きたいとはどういうつもりで言ったのだろう。勿論信頼できる相手を連れるというのは重要だが彼程の腕があればわざわざ他国から仲間を呼ばなくても引く手数多なはずだ。

もしかすると彼は主かそれともまさか自分に懸想したとでも言うのだろうか。

いや主はともかく男勝りな自分は無いだろうとイレーヌは即座に否定した。


いずれにせよこの選択はアレクシアにとって重大な選択であり、例えどのような結末になったとて自身はアレクシアの傍で仕える。

それがイレーヌの侍従としての決断だった。








ケイオスと再会する当日――結局アレクシアは心が晴れないままケイオスと別れる為にブランデンブルグへ転移した。

ブランデンブルグのポータルもシュトルブリュッセンと同様街の中にある。

これは街が成立する前から存在する貴重な遺跡であると同時に真偽はわからないが失伝された魔法によって周辺に魔物があまり近付かず、だからこそ街を造ることができたのだと聞いている。

ポータルの名称や転移先であることはケイオスから教わった事だ。

それももう終わりなのだと思うとアレクシアは鼻の奥からツンと込み上げるものを感じた。


感慨に耽っていたいが時間は待ってはくれない。ケイオスの待つ冒険者ギルドへと足を運ぶ。

いつも賑やかな街中を沈んだ気持ちで歩くが何故か様子がおかしい。確かに騒がしいのではあるが活気があるというよりも慌ただしく悲壮感を帯びたものだった。

イレーヌも不審に思い辺りを見渡すと家財道具を詰め込んだ荷馬車が先を急ぐように大通りを走り、子供と手を繋ぎながら大きな袋を背負う母親や老人が長蛇の列をなして歩いている。

いずれも街から逃げ出すような状況だった。


いよいよ大事ではないかと感じたイレーヌは列をいた年かさの女性を引き留めた。


「おい、一体なにがあった?」


「あんた何も知らないのかい?あれだけ街中が大騒ぎだったってのに」


子供を連れの女性はやや呆れた声を出す。


「ああ先程着いたばかりでな。状況がわからん」


「そうかい。そりゃ運がいいのか悪いのか……。実はアイゼンシュタット城塞が魔物達に陥落おとされたのさ」


「なっ、そんな馬鹿な!?」


北東のアイゼンシュタット城塞は帝国の要所の一つであり魔物の動向が活発になる中、悉く魔物の侵攻を食い止めてきた場所だ。

それが魔物の手によって陥落したなど信じられず思わず声を荒げる。

まだコミューンが侵攻してきたほうが信憑性があった。


「詳しくは知らないけどとにかく魔物の大群がこっちに向かってる。悪い事は言わないから嬢ちゃん達も早くお逃げ!」


よりによってこんな時に、こんな主の大切な決断の時にこのような大事件が起こるなど一体何の冗談だと内心イレーヌは吐き捨てた。

しかしそうも言っていられない。どの位時間があるのかわからないが幸い転移魔法であれば直ぐさま逃げる事が出来る。

転移魔法も万全ではない。

ケイオス曰く一度に六名しか運ぶ事ができないのだ。五万近い住民を転移するには時間が相当必要となる。

助けられるにも限りがあり仮に転移魔法の事を知られれば住民はこぞって主を頼るだろう。

住民を見捨て逃げ出すのは心苦しく歯痒いが、主の命には代えられない。


「アレクシア様、急いでここから」


離れましょう――そう言い終わる前にアレクシアは駆け出していた。


「お待ち下さい!アレクシア様!」


イレーヌは呼び止めても止まる気配の無い。引き止めようと駆け出した主を追い掛ける。

アレクシアは顔を青ざめぶつぶつと呟きながらとある場所へ向かう。


「落ち着いてください、アレクシア様!」


強引に手を延ばしイレーヌはアレクシアの手を掴む。


「離してイレーヌ!先生が、先生が!」


アレクシアは錯乱しながら力の限りイレーヌを振り払った。


「先生――!」


冒険者ギルドに駆け込むなりケイオスを探すアレクシア。冒険者ギルドにはギルドからの要請で召集されていた十数名ほどの冒険者が集まっていたがそこにケイオスの姿は見当たらなかった。

まだ来ていないのか――とアレクシアはほっと胸を撫で下ろす。

しかし待ち合わせしているいつもの時間に比べれば早くこれから来ないとは限らない。


ケイオスがブランデンブルグに訪れればどうなるか。

異国の人間であるケイオスが本来こうした他国を守る義務は無い。

だが冒険者ギルドに所属している以上ギルド要請があれば強制的に参加せざるを得ないのだ。


ケイオスが来ないという事は無いだろう。いつも時間通りに律儀に来ていた人だ。ならば必ず逃げ出す民を見るはずである。そうなればケイオスが民を見て逃げ出すとは到底考えられない。

彼女から見てケイオスは見知らぬ人間ですら見捨てない優しい人物だった。

そうでなければ無能と烙印を押された人間の面倒など見るだろうか。

そして勇敢で強い人だ。

両手で数える程の魔物を相手取りながら息切れ一つせず簡単に屠る人なのだから。

だからきっとこの窮地においても民に手を差し延べ毅然と魔物の軍勢に立ち向かうだろう。


しかし魔物の軍勢相手に幾ら師が強く優れているといっても勝てるのだろうか。

いつも一緒にいる時でもケイオスは決して無傷とはいかなかった。それでもほぼ軽傷でいられたのはアレクシアやイレーヌがいたからこそである。

もしかするとケイオスが死んでしまうかもしれない。


嫌。そんなのはいや――。


ケイオスと永遠に会えなくなる――想像しただけで身を引き裂かれるような痛みを感じる。

胸が苦しくてぶるぶると身体の震えが治まらない。自然と目の奥から熱いものが込み上げてきた。


死なせたくない。師をケイオスを失いたくない。あの優しい人は生きていてほしい。

その為だったら自分の全てを差し出してもいい。


(――ああ、そうだったんですね)


どうしてあの時迷ったのか、あの時の気持ちはなんだったのかといった疑問が次々と氷解していく。

今まではっきりとしなかった自身の気持ちにアレクシアはようやく気付いたのだった。


自分はケイオスを異性として愛しているのだという自分の気持ちに――。





「アレクシア様!」


自身の従者に声をかけられ振り返る。先程まで頭を占めていた焦燥感が大分治まり冷静に考える事ができた。


ここ数日不明瞭な気持ちに振り回されていたのがはっきりとわかったおかげで心に余裕が生まれたのだろうか。

恋をしたら女は強くなると何かの本で読んだがもしかするとこれもそうなのかしら――だったら素敵かもしれないとアレクシアは顔を緩めた。

だがそれを愉しむのは後回しだとアレクシアは表情を引き締める。何より今は護りたい人がいるのだから。


「イレーヌ。先生を救いたいのです」


ケイオスだけでは勝てないかもしれない。けれど三人ならばアレクシアはどんな苦難にも決して負ける気はしなかった。


「貴女の力を貸してください」


決意の篭る目でイレーヌをしかと見据える。

揺るぎ無い強い眼差しにイレーヌは息を飲んだ。自分が目を離したほんの僅かな隙に一体なにがあったと言うのだろう。


だがそこには確かに何かを決意した主の姿があった。

その強い眼はすぐにでも安全な場所に連れていかねばなるまいと考えていたイレーヌが気圧されるほどである。


アレクシア自身がここまで自分を顕にして決意したのは初めてだ。

その上でイレーヌの力を必要としている――ようやく主の役に立てる。

ザヴァリッシュ家の者としては間違いなく間違った選択だろう。けれどアレクシアの従者であるイレーヌとしてこの選択は違えたく無かった。


「アレクシア様の御心のままに」


イレーヌは跪き頭を垂れる。


そこには周囲が見とれる程の主従の姿があった。

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