10.クールー
私がクールー行きを決めたのは、惑星クールーのほぼ全域が海だという事に魅力を感じたわけでも、またクールーの惑星管理官の給料が高給だったからでもない。
ただ……ただどこか遠くへ行ってしまいたかった、それだけだった。
そんな事を思ってしまうだなんて、まるで感傷的なハイティーンの子供でもあるまいし、とも思いはしたが……しかしあの時の自分の状態を考えてみれば、エリと暮らしたあの街から離れることは、まちがいではなかったと思う。
エリ……エリ。
彼女と結婚して三年後、やっと彼女のお腹に宿った私たちの子供の事で、あの日、私たちはつまらない喧嘩をしてしまった。
その頃、私は惑星レイテのユーロフォン大陸·サザニア自治区の、湖沼担当の自然管理官をしていて、そこでエリと知り合い、結婚した。
そして自然排卵では無理なのでは、と医師から言われていた子供にやっと恵まれて、私は子供のために、自然が豊かなサザニアでの勤務を継続したいと言うと、エリは自然に囲まれている環境もいいが、子供のためには、もう少し大きな街で暮らしたいと言った。そこで私たちはちょっとした言い争いをして――それからエリは怒ったまま、気晴らしに買い物へと出かけて
交通事故に遭った。
彼女も、彼女のお腹の中の子も、ほぼ即死に近い状態だったらしい。
『残念ですが』
救急病院の廊下で、呆然と立ちつくす私に、医師は言った。
『お子さんだけでも人工羊水槽に入れてなんとか助けようとしたのですが、ここに着いた時には、すでにお子さんも亡くなっておられました。……坊やでしたよ』
人が気をつかって、いくらお悔やみの言葉を言ってくれたとしても、何のなぐさめにもなりやしない。ただ悲しみが増すばかりだ?
エリ。そして私たちの子供。
やっと恵まれた私たちの子供の事で、つまらない喧嘩をしたまま、お互いに『ごめん』の一言も言わないまま、エリとはもう永遠に別たれてしまった。もう謝る事さえできやしない……
“取り返しがつかない”というのは、きっとこういう事なのだな、と、その時、私には初めてわかったような気がした。
そしてその二ヵ月後、私は契約期間の切れたレイテから、クールーへとやって来たのだった。
惑星クールーは元々は大半が氷に覆われた星だったが、五十年ほど前に惑星活性化に失敗して、その氷がみんな溶けて水浸しになってしまった星だった。
しかし水浸しになったらなったで、ほんのいくつかの島々以外はほぼ全域が海だという惑星なら、海洋生物を繁殖させるにはもってこいだという事で、地球ですでに絶滅してしまった海洋生物の人工受精卵などをクローン培養して、クールーで実験的に繁殖させていた。
しかし、研究の事しか頭にない海洋生物学者になら魅力的に思えるこの惑星も、普通の街暮らしがしたいと思っている者たちにとっては、海と、数えるばかりの小島と、管理施設以外には何もない、退屈きわまりないところであったため、給料中の手当てが少しばかり高額であっても、その管理官のなり手はなかなかに現れないらしかった。
が、私にはその“海以外には何もない”といったところがなぜか気に入って、次の任地にクールーを選んだのだった。
「来てくれて嬉しいよ。よろしくな」
惑星管理官兼自然管理官としてクールーに着いた時、クールーの総管理責任者のスダン所長は、年老いてきた顔にひとなつこい笑顔を浮かべて、私を出迎えてくれた。
「ここはいいとこなんだが、この星域一帯で一番人口密度の低いところでな。あんたが来てくれた事で、少し密度が上がったね」
そしてそれは所長の言うとおり、私がクールーに来たことによって、クールーはこの星域一帯で、人口密度の低さにおいては一位から二位に下がったのだった。
惑星管理官兼自然管理官とはいっても、見渡すかぎり海しかないクールーにおいては、レイテで湖沼担当員をしていた時よりも、仕事の内容はもっと単調になった。
レイテでは陸地も水辺も見回らねばならなかったが、クールーでは日に数回、ボートか水上離発着用の飛行艇で海上を見回るだけだった。
そして海中の見回りは、防水防塩の機器を背負ったイルカたちが補佐してくれるのだった。
私はもちろん、自然や、その中にいる動物たちが好きで自然管理官になったので、そのイルカたちや管理施設にいる他の動物たちとも、すぐに仲良くなれた。
そして私が<クールー>に出会ったのは、クールーへ来てから、五日目の事だった。
その日、一回目の見回りを終えて帰って来た頃には、空は何やらあやしい雲行きになってきていて、もうしばらくすれば土砂降りの雨になりそうな気配だった。
ひどい暴風雨になれば、次の見回りは中止だなと思いながら、私が食堂のまずいコーヒーでも飲みに行こうとしていると、
「すみません」
クールーではまだ聞いた事のない声が、私を呼び止めた。
私はその声に振り向いた。が、
「?」
振り向いたところには、誰もいなかった。しかし、
「すみません」
ともう一度声がして、足元を見下ろすと――
そこには、今までに見た事のない生き物がいた。
なんとそれは、ショッキング·ピンクの長い毛におおわれた、小型犬の様な動物だった。
小型犬の様な……そう、大きさは女性が胸元に抱えられるくらいの大きさで、くるりとした大きなつぶらな瞳をして、長いふさふさとした毛におおわれていて……
が、そのつぶらな瞳と、長い毛の色が問題だった。その小動物は、なんと瞳はオレンジがかった明るい朱色で、口先と胸と腹と四足の先は白い体毛なのだが、他の、鼻面、額、背中、そして尻尾の部分は、目にも鮮やかなショッキング·ピンクをしていた。
「??!」
遺伝子改造された新種のペットだろうか?それにしても、今この動物は言葉をしゃべった?ということはアンドロイドなのだろうか?それなら言葉を話すぐらいの事は…
「あの……」
驚きながら見つめている私に、その動物は言った。
「あ、ああ?」
私はまだ驚いた表情のまま、わけのわからない返事をした。
「すみません、ちょっと手を貸していただきたいのですが」
「ああ?」
「あそこの……」
その動物は、私たちが見回りに使う、幾つかのボートが繋がれてある船着場を振り向いて言った。
「ボートの綱を解いて下さいませんか?海に出たいので」
「ボートの綱を?」
「はい。お願いします」
その動物は、ピンクの小さな頭でこっくりとうなずいた。
「海に出るって言ったって……」
私は暗い空を眺めて言った。
「この様子じゃあ、じきにひどい天気になるぜ?急ぎの用なら、飛行艇で行くほうが……」
「私の機器操作能力では、飛行機類の操縦は能力不足なのです。私なら大丈夫です。私は防水加工済です。初期仕様以外に、防塩加工も追加処理されていますし。天候が悪くなれば、すぐに戻ってまいります」
「私はって……君一人で?他に……」
私はあたりを見回した。しかし、船着場には、私とそのピンクの動物以外に、誰もいなかった。
「ええ。私一人です。お願いします」
その動物は、再び小さな頭をこっくりとさせた。と、その時、
「おーい、いいんだよ」
と、私たちの後ろの方で、誰かの声がした。振り向いてみると、所長が私たちの方へとやって来ていた。
「ボートを出してやってくれ。悪いな」
「……」
私はこちらへとやって来る所長と、足元で私を見上げているショッキング·ピンクの小動物を見つめた。そしてボートの係留綱を解いて、海へと出してやった。
「ありがとうございます」
その動物はボートに飛び乗ると、私にそう言って、自分の体内内蔵リモコンでボートのソーラーエンジンを起動させると、海へと出て行ってしまった。
じきに暴風雨になるだろう海へ、小さなボートで、小さな動物が、たった一人……いや、一匹で。
「すまんな」
ピンクの小さな姿を乗せたボートを見送っている私の横にやって来て、所長は言った。
「何ですか?あれは?」
私はたずねた。
「あれか?ありゃあな」
所長は言った。
「以前ここにいた所員の、“メンタル·パートナー”ってやつさ。ペットの姿をしたアンドロイドだよ」
「“メンタル”……?」
「ああ」
所長はうなずいた。
「ほれ、お前さんも知ってるだろう。精神的や身体的に問題のある人たちの話し相手や世話役になってくれて、何かあった時には病院や周りの者に知らせてくれる、あの動物型介護用アンドロイドさ」
「…………」
そういえば……以前ニュースか何かで見た事がある?なんでも、犬や猿などの、生きた本物の動物を介護動物にするのは、訓練に時間と費用がかかってしまい、その上、動物の寿命は人間よりもずっと短いため、そこで、訓練など必要もなく、メンテナンスに気を付ければ、我々人間の寿命よりも長く稼働が可能な動物型アンドロイドが開発されたとか……
「で、あれの飼い主、いや持ち主は?」
その私の言葉に、所長は一度ちらりと私を見つめ、そしてため息混じりに言った。
「行方不明さ。半年前からな」
「行方不明?」
「ああ。さっき、あのアンドロイドが乗っていったボートで沖へ出て行ったきりな」
「沖へって……事故か何かで?」
「うん……」
私の言葉に、所長は小さく首をふった。
「警察の捜査報告では事故か……自殺の可能性もありってことになってる。海に落ちたか、自分で飛び込んだかしてな。遺書が残されていたわけでもないし、そいつの遺体さえ今もまだ見つかっていないから、確かな事はわからないままなんだがね。しかし、ここの他の者も、あいつは自分で飛び込んだんじゃないかって思ってるようだよ。私の立場上、そんな事は軽々しく噂するんじゃないって、言いはしてるんだが」
「遺体が見つからないって……発信信号もわからないんですか?」
(見回り中の事故の場合などにそなえて、我々は常時、小型の発信器を身につけて作業をしている)
「ああ。そいつが自分で発信信号を切っちまったのか、発信器が壊れちまったのか……それとも、よっぽど深い海の底にでも沈んじまったのか、わからないんだけどね。あちこち探してみたが、探査機にも全く反応無しでな」
「でも、自殺かもしれないって……また、どうして?」
正直言えば、エリたちを亡くして以来、“自殺”という言葉は、何度か私の中にもよぎったものなので、何か妙な気持ちで私はたずねた。
「聞いた話によるとな」
所長は言った。
「一年前、そいつは嫁さんも一緒に連れてここに赴任してきたんだが……その嫁さんはここに来る前から、浮気をしてたらしくてな。
それでそいつは嫁さんをここへと連れて来たのさ。そうすりゃ、嫁さんの浮気がおさまるんじゃないかってな。
でも、ここに来て一ヶ月もしないうちに、結局嫁さんは浮気相手の所へ行っちまったらしくて。
で、嫁さんが浮気しだした頃からノイローゼ気味だったそいつは、それでほんとにノイローゼになっちまって……で、医者にすすめられて、あのアンドロイドを買ったのさ。
それでしばらくはそいつのノイローゼもましになったようだったんだが……でも結局は駄目だったらしくてね。で、そいつはとうとう半年前、あのボートで一人で沖へ出て行ったきり帰って来ないままになっちまって、後にはあのアンドロイドだけが残ったってわけさ」
「…………」
「私はなんだかあのアンドロイドが可哀相でな」
所長は再びため息まじりに言った。
「だから好きにさせてあるんだよ。他の者もなんとも言わんし」
「で、あいつはボートでどこへ……?」
私はたずねた。
「帰らない飼い主を探しに行ってるのさ」
それに所長は、何やらやりきれない様に言った。
「そいつがいなくなってから、ああやって、毎日な」
行方不明だという持ち主が、あのアンドロイドに付けた名前は、この惑星と同じ、クールー、という名前らしかった。
翌朝、クールーをまた船着場で見かけたので、私が声をかけて名前をたずねると、クールーは自分でそう言った。
クールーは持ち主が自分に名前をつけてくれた時の、持ち主の音声をいまだに消さずにとっていて、それを私に聞かせてくれた。
『名前?名前か。そうだな……クールー、クールーがいい。お前はここの海みたいに、穏やかに俺の話を聞いてくれそうだから』
クールーの胸のあたりに内蔵された小型スピーカーから聞こえてきたその声は、それからしばらくの後、入水自殺するほど精神を病んでいる者の声の様には思えなかった。
しかし、自分のアンドロイドに、ちょっとした可愛らしい名前を考えてやれる様な余裕は、その時すでに、この男にはなかったのかもしれない。
「今日もまた海へ出るのかい?一人で?」
「ええ」
私の言葉に、クールーは言った。
「ボートの綱を解くのを、またお願いできますか。私はどうもあれがうまくできなくて」
「ああ」
私は言った。そしてふと……私は思った。
「なあ」
「はい?」
「私も一緒に……行っていいかな?」
私の言葉に、クールーは少し不思議そうな顔をした。
「ええ、どうぞ。どこかへお出かけなのですか?」
「いや。別にどこかへ行くってわけじゃないんだけど……今日は昼から非番で、退屈なんだ」
自分でもよくわからないが、私はそう言い、そしてクールーと一緒に沖に出た。
クールーが操っているボートから、ただぼんやりと波間を眺めていると、なんだか急に、私は自分がだだっ広い大海原に浮かんだ木の葉のかけらの様な気分になった。
私は毎日、飛行艇やボートでこのクールーの海の見回りをしているのだから、沖へ出るのはもちろん初めての事ではなかった。しかし見回りの時は仕事に気をとられていて、海の広がりをこんなふうに感じる事はなかったが、今は、見渡すばかりのこの風景が、なんだか途方もない様なものに思えた。
「…………」
広い――
私は水平線しか目に入らない、海と空の青い大きな広がりを眺めて思った。
広い……他には何もありはしない?
私にはその虚無感が、エリと私たちの子供を亡くしてからの、自分の生活状態ととても似ている様に思えた。
そして穏やかな波に揺られて、その何もない海の彼方をぼんやりと眺めているうちに、不意に涙があふれてきた。
その何もないひどく広い空間の中で、自分はたった一人でぽっかりと浮かんで……
「…………」
私は涙をぬぐい、幼い子供の様に鼻をすすった。
「どうされたのですか?」
それにクールーは私の顔をのぞきこみ、心配そうに言った。
「いや」
私は言った。泣くのをやめようとは思ったが、涙は止まってくれなかった。が、相手がクールーなので、泣いているところを見られても、別に恥ずかしいとは思わなかった。
「何かおっしゃりたい事があれば、どうぞおっしゃってください。私でよければ」
その私にクールーは言った。
「私はそのために造られたアンドロイドです。気になさる事はありません。あなたのおっしゃった事を他の方に話す事もありません」
「ああ……ありがとう」
そのクールーが見つめているなか、私はしばらく一人ですすり泣いていた。
「あいつはいい話し相手だろう?」
私がクールーと船着場で話し込んでいたり、クールーと一緒に時々沖へと出たりしているのを見て、所長は言った。
「ええ、そうですね」
私はそれにうなずいた。
実際、クールーは私にとってはいい話し相手だった。
エリと子供を亡くした事を詳しくクールーに話したわけではなかったが、クールーはどんな話でも、じっと私の話をよく聞いてくれる良い聞き手役になってくれて、そして気がつけば、私の思っている事に、私が自分で結論を出せるように話を持っていってくれるのだった。
そのあたりはさすがに介護用としてプログラムされたアンドロイドだとは思ったが……しかし私にはクールーが、ただのアンドロイドやペット以上のものに思えていた。
「私はここで家内を亡くしていてな」
所長は言った。
「心臓発作だったんだが……で、その家内を葬った後も、家内の可愛がっていた犬が、家内の帰って来るのをずっと待っておってな。家内が、ただどこかへ出かけているだけだと思っていたらしくて」
所長はため息をついた。
「で、その犬は、家内を待ちつづけたまま、家内が死んで一年ほどして死んじまった。もう年寄り犬だったからな」
「…………」
「クールーはアンドロイドだから、自分の主人が、もう生きてはいないだろうという事はもちろんわかっているだろう。しかしそれでも主人を探し続けているだなんて、私にはなんだかあれが、本物の、生きた犬や猫の様にも思えてな。
なかには、あれのハードだかプログラムだかが駄目になっているのかもしれない、なんて言っている者もいるがね。でも、こないだの定期検査では、どこにも異常はなかったらしい」
「…………」
「まあ……あいつなら、お前さんのいい話相手にもなるさ」
所長は言った。そして私を見つめた。その時、ふと私には、その所長の表情が、私を心配している様にも見えた。
私が最近配偶者を亡くした事は、私がここに赴任する時、登録データに目を通して所長もすでに知っているだろうから、所長は私が、そのうちクールーの持ち主の様に精神的に不安定になるのでは、と心配しているのだろうかと私は思った。
それから数日後。
その日も、いつも通りに中型ボートで見回りに出ていたのだが……途中でボートがエンジントラブルを起こしてしまった。
時刻はもう夕暮れで、あたりは暗くなりはじめるしで、私はしかたなく他のエリアの見回りをしている管理官に拾いに来てくれるよう、連絡をとった。と、そこへ、
「どうされたのですか?」
主人探しをしていたクールーのボートが通りかかり、こちらへとやって来た。
「エンストさ」
私は言った。
「出かける時の点検では、なんともなかったんだけど。もう少ししたら、隣のエリアの飛行艇が、牽引しにきてくれるらしい」
「こちらに移って下さい。動かないボートで、なにかあってはいけません」
クールーは、自分のボートの綱を私によこした。
「でも……そっちはまだ、探しているところなんだろう?いいよ、しばらく待っているから」
「いえ。今日はもう帰る事にしますから。さあ、そちらに綱を結んでください」
「……」
私は、なんだかクールーに悪いことをした様に思えた。
「今曰は……何か見つかったか?」
ボートの先に綱をくくりつけながら、私は言った。
「いえ、何も」
それにクールーは首をふった。
「海はとても広くて、深いですから」
「何か手伝ってやれたら、いいんだけど。でも、探査機でもわからないようじゃ、人間にはお手上げだし」
「お気遣い、ありがとうございます。でも、私は発見を急いでいるわけではありません。ただ、どれだけの時間がかかっても、私の主人が見つかるまで、探し続けるだけです。私たちは、そうプログラムされていますので。……これについては、ここの方々の中には、私が壊れていると思っていらっしゃる人もいるようですが、しかし、私は別にプログラムのループ·エラーを起こしているわけではありません」
クールーは言った。
「…………」
私はクールーを見つめた。プログラム……しかし私には、そのクールーが、やはり所長が言っていたように、飼い主を探し続けている、本物の犬や猫の様に思えた。
「さあ、帰りましょう?」
その私にクールーは言った。
「もう暗くなってきましたよ」
と、その時……
どこかで、何かの啼き声が聞こえた。
「?」
私はあたりを見回した。
そしてその、オレンジと金に揺らめいている波間の向こうで、パシャン、と何かが水面をたたくのが見えた。大きな魚が飛び跳ねた様にも見えたが、しかし、よく見れば……
それは、イルカか何かであるらしかった。
「なあ、あそこに行ってくれないか?」
私はクールーに言った。
「はい」
クールーはボートを出した。
近づいてみれば、それはフタイロイルカの子供だった。いや、まだ赤ん坊、と言うべきか。
その、まだ幼いイルカの子供が、水面近くを何やら苦しげにふらふらとしていて、その周りを群れの仲間のイルカたちが、心配そうにぐるぐると取り巻いて泳いでいた。
「あれは……だいぶ具合が悪そうだな。保護して施設に連れて帰ろう」
私は子イルカの様子を見ながら、ボートに常備されている捕獲用の投網を取り出した。
イルカたちは私たちのボートに気がつくと、群れのうちの何頭かがボートの周りに集まって来た。ここの動物たちのおおかたは人工保育で育てられたため、人間にはよくなついていて、具合が悪くなったりすると助けてもらおうと、自分から人間のそばによって来る事がよくある。
「大丈夫だよ」
私はイルカたちに声をかけて、そのイルカたちのうちのどれが、子イルカの母親なのだろうかと思った。
まだ離乳していない様な幼体は、母親から離さないほうがいい。人間に慣れている母親なら、母親も一緒に連れて帰ったほうが……
「クールー」
私は言った。
「施設に連絡をして、調子の悪い赤ん坊のイルカと、母イルカを保護するから、母イルカを運ぶ応援をよこしてくれと言ってくれ」
「はい」
それにクールーは、ボートの無線器で連絡をとりだした。
「さあ、こっちへおいで」
これの母親は……あの、子イルカのそばをぐるぐると回っているイルカだろうか、と思いながら、私は子イルカを捕獲するための投網を構え……そして投げた。子イルカはうまい具合に網の中におさまり、驚いて、声をあげて暴れた。
「よしよし」
私はその子イルカをゆっくりと引き寄せ、投網の端をボートにくくりつけた。
「ちょっと我慢してくれよ……」
と、
どこかで、子イルカとはまた違う金切り声がしたかと思うや――
ガツン、とボートが大きく揺れた。
「!」
見れば、ボートの横腹に、黒い影が……子イルカの母親が?力いっぱいに体当たりをしていた。子供が弱って神経質になっていたところを、よけいに気を立てさせてしまったらしい。
そして母イルカは、私が見ているなか、再び、猛スピードでいきおいをつけてボートに体当たりをして……
その衝撃で、私はボートから海に投げ出されてしまった。
大きな水音とともに、私は頭から水に吞み込まれた。私の耳と鼻と口に塩辛い海水が溢れて、私はむせこんだ。が、それが水の中であったため、私の喉にはよけいに海水が殺到した。そして次には、もがいてる私の右の太股にいきなり激痛が走り、これまたどういったわけか、私は水の中を、猛烈な勢いで引っ張られはじめた。
「??!」
すっかりパニックに陥りながら見れば――私のすぐそばには、何か、黒い大きなものがいた。それは……あの母イルカであるらしかった。
母イルカが、私の足をくわえ、水中を猛スピードで引っ張っていた!
私は水の中で、声になっていない悲鳴をあげた。
そしてイルカは、私をしばらく引っ張りまわすと私の足を放し、私は海面に浮き上がった。
「……!!」
常装している救命胴衣のおかげで私はなんとか波間に浮かび、水を吐き出しながら、必死で息をついだ。
しかし、その私に再び母イルカが突進してきて、今度は私の左足首に嚙みついた。その拍子に、私はがばりと水の中に引き込まれた。が、その時、
イルカは突如悲鳴をあげて、大きな口から私の足を放した。
「大丈夫ですかっ?!」
私の前に、
クールーが泳いできた。
クールーはイルカに電気ショックを与えたらしかった。
それにイルカは飛び上がって、逃げていった。
しかし、それが水の中であったため、電流はイルカだけではなく、私とクールーにまでビリビリと伝わってきた。
「大丈夫ですかっ!!」
「ああ……」
私は自分でも驚くほど、息もたえだえに言った。
「そっちこそ……大丈夫か?君まで電流を……」
「大丈夫です。私のメイン回路部分は、過電流防護されています。これくらい、なんともありません」
「そうか。よかった。救難信号を……」
「もう発信しています。血が……どこを怪我なさったのですか?」
クールーは、海面を真っ赤にして広がっている、私の血を見て言った。
と、そのクールーの後ろに……
またも大きな背びれが迫ってきているのが見えた。
「クールー……!」
私は叫んだ。
クールーの、小さなピンクの姿が、宙に吹き飛ばされるのが見えた。いや、吹き飛ばされたのはクールーだけではなく、自分もだったが。
私たちは、母イルカの体当たりをまともにくらってしまった。
そして私は……気を失ってしまった。
それから私が目を覚ましたのは、救援に来てくれた所長たちが、飛行艇で私を管理施設に運んでゆく途中の事だった。
目を開けると、そこには所長の顔があった。
「気がついたか?!」
「…………」
私は返事をしようとしたが、なさけないため息の様な声しか出なかった。
「だいぶ出血してる。しっかりしろ。もうすぐ着くから」
私は横たわったまま、自分の足元を見た。
しかし私の身体は毛布に包まれていて、右足の感覚は全く無かった。そして私はふと思い出した。
私はかすれた小さな声で言った。
「クールー……クールー、は?」
「あ?ああ……」
それに所長は、困った様な顔をした。
「クールーは?」
私はあたりを見回した。
そして、あの、ショッキング·ピンクの姿が向こうの暗がりの隅に見えた。
しかし、その姿はずぶ濡れのままでぴくりとも動かず、横たわっていて……
「クールー?!」
私はそれに、思わず起き上がろうとした。
「動いちゃいかん!」
だが、所長に押さえ込まれてしまった。
しかしそれでも、私はクールーを見つめながら叫んだ。
「クールー!」
「落ちつけ」
その私に、所長は言った。
「あいつも大丈夫……だと思うよ。私たちが救助に来るまで、あいつは最高出力で救難信号を発信し続けていたものだから、予備の太陽電池まで使い切ってしまったみたいでね。あいつの製造メーカーにも連絡をとったよ。大丈夫。メンテナンスしてもらえば、きっとまた生き返るよ」
「クールー……!」
が、所長の言葉もろくに耳には入らず、私の頰には大粒の涙があふれてきていた。
それから、私は管理施設の医療区に送られ、クールーは、はるばる他星域の製造メーカーへと送られた。
助けられた時所長は言わなかったが、あとで他の者に聞けば、クールーは気を失った私を守ろうとしたのか、イルカにひどく噛みつかれていて腰部のおおかたが無くなり、他にも大きな裂け目や穴がたくさんあったらしい。
今までの出来事などを書き込んでいる記憶集積メモリさえ無事であれば、また元通りのクールーとして“再生”できるのだろうが……しかし、その様子から考えると、私は絶望的な気分になった。
やっと……
やっと、見つけたのに……
私は思った。
何でも話せて、聞いてくれる相手を。
まったくなんて事だろう。
医療区行きとなってから、私は毎日……そして今日も、病室の窓から海を眺めて、ぼんやりとしていた。
窓のずっと向こうに見える、水平線――私はいつも、クールーと沖に出て行った時の事を思っていた。
私は、あのだだっ広い空間が好きだったわけじゃない。
しかし、クールーと初めて沖に出て以来、あの何も無いところこそ、今の自分には似つかわしい、自分の行きたい場所の様に、私には思えていた。
そう、あの、何も無い……何も無いひどくがらんとした空間。
私はそこにぽつんと一人で取り残されて――取り残されて……たった一人で……エリも、生まれてくるはずだった私たちの子供も亡くして……それと一緒に、今まで自分が大事にしてきた周りの世界も、一度に無くしてしまって?
そして今や、クールーまでも。
私は本当に、そのどうしようもない世界に、一人で取り残されてしまった……
私の目に、以前よりももっと、どっとばかりの涙があふれた。
エリと子供を亡くした時よりも、クールーをなくした今の方が、もっと悲しい、というわけじゃない。
エリも私たちの子供も、クールーも、みんななくしてしまったから、よけいに悲しいのだろう。
そして思った。そうだ、私は今までにこんなに泣いた事はなかった?
人は、自分が泣いているところなど、他の者には見られたくないものだ。
私は今まで、誰かに慰められると、いつもいつも我慢してしまって、本当に泣く事はできなかった。
そして我慢してしまったぶん、悲しみは閉じ込められてしまって、表に出す事はできなかった。
別に泣いたからといって、それで悲しみが減るわけではない。
しかし、他にいったいどうすればいいというのだろう?
クールーは……私がいくら泣いたって、変には思わなかった。
私の事を、いつまでもめそめそしている奴だとは思わなかった。クールーは……。
私には、何も気にせず、何でも話せる相手が必要だったのだろう。
それがアンドロイドだったとしても。
それなのに……
私の周りからは、誰もいなくなってしまった。
ここの世界にはもう、私の居場所などないのだろう。
「…………」
私はべッドに立てかけてあった松葉杖をついて、最近やっと動くようになってきた足をひきずり、外へと出て行った。
もう夜遅くであったため誰にも出会うことなく、医療区の裏手の海がよく見渡せる崖の上に出ると、海から吹き上げてくる潮風が、私の髪をなぶった。
その日は月夜で、海を眺めると大小3つの月明かりに照らされて、海面がキラキラと光っていた。
その眺めを見つめているなか、ゴオッ、と音をたてて、離発着場から小型星間船が夜空へと飛び立って行った。
船影は見る間に小さくなってゆき、星々の中に見えなくなった。
「…………」
私もあの船みたいに、星の海の彼方にでも行っちまいたい……
真っ暗な闇の中にでも飛び込んで、そのまま、もうここには帰ってきたくない……
私は思った。
そして私は、足元のはるか崖の下を見下ろした。そこは暗い淵になっていて、白い波しぶきが崖の岩を洗っていた。
なんとも結構なながめだ?
ぽっかりと口を開けた黒い闇。
まるで私の……
私はその、暗闇の先をじっと見つめた。
と、
「危ないですよ」
私の背後で、聞き覚えのある声がした。
「そんなところで、どうされたのですか?」
私にはその声の主が誰であるのか、すぐにわかった。が、しかし、そんなはずは……そんな……?
私は振り向いた。
そこには、
あの、ショッキング·ピンクの小さな姿があった。
「クールー……!」
私は杖をつくのももどかしく、そのピンクの姿に駆け寄った。
「クールー?!」
私は杖を放り出して、足が痛むのもかわまず膝をつき、クールーに腕をのばして抱きあげた。
「クールー!いったい……?」
「さっきの船で、帰ってきました」
私の腕の中で、クールーは言った。クールーのピンクの毛皮は、今度は海水ではなく、私の涙で濡れてしまった。
「ちゃんと、元通りに再生できました。とはいっても、おおかたの部分が新品取り替えになってしまいましたが」
「…………」
私はもう、何も言う事ができなかった。
「よかったな」
その私に、もう一人の誰かが言った。
顔を上げると、そこには、所長がいた。
「心配したが……これでもう大丈夫だな。二人とも」
所長は私に、にっと笑った。
「さ、こんなとこにいたんじゃ、風邪をひいちまう。中に入ろう」
そして所長は、私を立ち上がらせた。
「帰りましょう?」
クールーは言った。
「私でよければ、これからも、ずっと私はあなたのそばにいます。これからも、ずっと」
「…………」
私は何かを言おうとしたが、言葉にはならなかった。
「あさってあたりにな」
その私に、所長は言った。
「お前さんたちをえらい目に遭わせた、あのイルカの親子を海に放す事になったよ。お前さんたちも来るか?その足じゃ、まだ無理かな?」
「……いえ、もう大丈夫です。行きます」
私は涙をぬぐいながら、わけのわからない、泣き笑いの表情で言った。
「そうか」
それに所長は、再び笑った。
私は病室へと戻って行った。
所長と……
クールーと一緒に。




