第一話 石投げ水車村の相続争い6
村の中央、集会小屋が開かれたのは昼過ぎだった。
水車小屋の前で争っていた両陣営に加え、野次馬半分の村人まで集まっている。こういう時、人は自分と無関係なはずの揉め事ほど見たがる。
小屋の中央に長机が置かれ、エレノアはその端に書類を並べた。
右にミラ。左にガレス。
その少し後ろに、村役人オルド。
そして入口脇の壁に寄りかかるように、カイルが立っている。
立っているだけなのに、石を投げようと考える者が一人もいないのだから、あの男の便利さはもはや認めざるを得ない。
「では、確認します」
エレノアは紙束の一枚を持ち上げた。
「こちらは村の租税帳簿です。水車小屋および付属畑の維持費、修繕費、納入記録。過去三年ぶんを確認しました。実務上、帳面を付け、納入を管理し、修繕に立ち会っていたのはミラさんです」
ざわ、と村人が揺れる。
「また、親方ベルン氏本人の筆跡と思われる書付が見つかっています。形式上、正式な遺言とは認めにくいものの、意思の存在を示す補助資料としては十分に価値があります」
ガレスが顔をしかめた。
「補助資料だか何だか知らねえが、正式じゃねえなら意味ねえってことだろ」
「いいえ。意味がないのではありません。正式記録へ移されるべき意思が存在した可能性を示します」
「言葉遊びだ」
「違います」
エレノアはガレスから目を逸らさない。
「問題は、この意思表示が、なぜ正式な届け出に結びつかなかったかです」
そして、ゆっくりとオルドへ視線を向けた。
「一昨年、ベルン氏とミラさんが後見登録、あるいは養育者届に類する書類を提出した記録はありますか」
オルドは咳払いした。
「いや、その……探したのですが、どうにも見当たらず」
「受理台帳に仮番号すらありませんでした」
「だから、出されていないのでは」
「では、こちらは何でしょう」
エレノアは別の紙片を机へ置いた。
それは小屋の帳場から見つけた控えの断片だった。日付、ベルンの署名、村役所受理予定の走り書き。正式様式ではないが、提出準備の痕跡としては十分だ。
オルドの額に汗が滲む。
「た、たまたま下書きがあっただけで――」
「では次に、受理印について伺います。通常、提出された控えの右下に押される村印が、ベルン氏の控えにはない。ですが、同時期の租税申請控えには押されている。これはなぜです?」
「そ、それは……」
「オルドさん」
エレノアの声は静かだった。
「預かると言って、受理せず止めましたね」
集会小屋の空気が、ぴたりと止まった。
誰かが唾を飲む音がした。
オルドの目が左右へ泳ぐ。助けを求める先を探している。
だが、村人たちの表情はもう先ほどまでと違っていた。血縁か養女か、という単純な対立から、一つ別の種類の怒りへ移りかけている。
「ち、違う、わしはただ、正式な養子縁組ではない以上、軽々しく印は押せんと――」
「ではなぜ、保留の記録も残していないのですか」
「それは……」
「なぜ、ガレスさんが到着したその日に、急に血筋が穏当だと周囲へ触れて回ったのですか」
オルドの喉が鳴る。
ガレスが、ぎょっとした顔で振り返った。
「……何だよ、それ」
エレノアはそちらを見ずに続ける。
「水車小屋の管理者が正式記録を持たぬまま宙に浮けば、相続を巡って仲裁料、書類整理料、名義更新の便宜、いくらでも口を挟める。違いますか」
「わしを罪人みたいに言うな!」
オルドがついに声を荒げた。
「村のためだ! よそ者の娘に水車を握らせるより、血のある者に戻したほうが――」
「その村のために、いくら受け取るつもりでしたか?」
しん、と静まる。
その一拍で、勝負はついた。
オルドは否定の言葉を口にしようとして、出せなかった。
否定するには、もう遅すぎた。
代わりに後ろの村人の一人が叫んだ。
「やっぱりかよ!」
すると別の声が重なる。
「親方が死んだとたん、やけに早かったもんな!」
「うちの畑の境界ん時もこいつ、話を長引かせやがった!」
一つ怒りが開けば、押さえ込まれていた別の不満も雪崩れる。
こうなると危うい。真実と私刑は、時に同じ勢いで走る。
「静かに!」
エレノアが声を張る。
だが、その瞬間にはもう遅かった。
オルドに掴みかかろうとした若者を押し返し、反対側からガレス側の男が怒鳴り返し、椅子が倒れ、誰かが拳を振り上げる。
「下がってろ」
短く言ったのはカイルだった。
彼は壁際から離れると、まず最初に拳を振り上げた男の手首を取った。
捻る。半歩踏み込む。肩を落とす。
その男は自分が投げられたことも分からないまま、床へ転がっていた。
次に椅子を持ち上げた男の脚を払う。
ぶつかりそうになった老人を横へ押し出し、突っ込んできた二人のあいだに体を滑り込ませる。
殴らない。斬らない。だが、確実に全員の体勢と呼吸だけを壊していく。
見事、という言葉はたぶん違う。
鮮やかすぎるのだ。争いを止める手際として。
「うわ、っ」
「待、ま――」
「床を舐めたい奴からくれば良い」
声は低いのに、妙によく通る。
そして誰も、本当に来はしなかった。
小屋の中央に、数息で空白ができる。
エレノアはその隙へ一歩踏み込んだ。
「全員、席へ戻ってください」
先ほどより、よほど静かな声で言う。なのに今度は、誰も逆らわない。
「これは村の裁きではありません。私刑でも、力自慢でもない。今から行うのは、この村でこれから先も人が暮らしていくために、何をどう残すべきかを決める話です」
彼女は机の上の書付を持ち上げた。
「親方ベルン氏の意思は、完全な形式では残っていませんでした。ですが、残っていた。そして残らなかった部分については、手続きを止めた人間がいる可能性が高い。この時点で、単純な血縁相続だけを正当として処理することはできません」
エレノアはガレスを見る。
「あなたには血縁があります。それは無視できません。ですが、水車小屋を回し、畑を維持し、取引先と繋ぎ、実務を担ってきたのはミラさんです。あなたが相続を主張するなら、本来はその実態を引き継ぐ能力と責任の証明が必要です」
ガレスは歯を食いしばったまま、何も言わない。
「一方でミラさんには、生活実態と親方の意思、そして後見登録を試みた痕跡があります。これも無視できません。したがって本件について、私は次のように裁定案を提示します」
村人たちの視線が集まる。
エレノアは紙面を見ることなく告げた。
「第一に、水車小屋および粉挽きの運営権は、当面ミラさんに認めます。現に回せる者を外せば、村全体が困るからです」
ミラが息を呑む。
「第二に、付属畑の名義については暫定共有とし、秋の収穫までの実務実績を見た上で再確認します。ガレスさんが本当に継ぐ意思を持つなら、その間に帳場、取引、修繕、納税を学んでください。できないなら、主張の重みもそれ相応になります」
ガレスの顔が歪んだ。だが、さっきまでの怒りだけではない。
自分がやるべきことを初めて突きつけられた男の顔だった。
「第三に、オルドさん。あなたの受理遅延と記録不備については、王都法務局へ報告します。今後この件は単独では扱えません。異論があるなら、書面で述べてください。正式に検討します」
オルドは青ざめた。
だが、それ以上は何も言わなかった。言い逃れではなく記録で争えと告げられた以上、もうこの場の声の大きさでは押し切れないと分かったのだろう。
エレノアもそれ以上オルドを追い詰めなかった。
この場で誰か一人を打ちのめすことより、二度と同じ曖昧さを通させない形を残すほうが大事だと思った。
あとついでに懲りてほしい。
「最後に」
エレノアは村人全体を見渡した。
「神は真実をご存じでしょう。ですが、知っているだけでは水車は回りません。回すのは、人です。誰が何を願っていたかを、確かめもせずに石を投げて決めるなら、この村は来年も同じことで血を流します」
誰も口を開かなかった。
川の音だけが、外からゆるやかに聞こえる。
止まっていた水車輪が、風に押されて、きし、と小さく鳴った。
最初に声を出したのは、意外にもガレスだった。
「……水車も畑のことも、俺は正直、よく分かってねえ」
ぼそりと言う。
負けを認める声ではない。だが、初めて本当のことを言う声だった。
「伯父貴が死んだって聞いて、俺の母親が、血筋なんだから行けって。オルドさんも、いま押さえれば間に合うって……」
そこで口を閉ざす。
村人の視線がまたオルドへ刺さるが、今度はもう爆発しない。エレノアが先に火を抜いたのが効いている。
「分かりました」
エレノアは頷いた。
「では、あなたには三日後から水車小屋での補助に入ってもらいます。嫌なら辞退もできます」
「は?」
「学ぶ気があるなら、主張を支える根拠になります。学ぶ気がないなら、今後の判断材料になります」
ガレスは呆然としたあと、悔しそうに眉を寄せた。
「……あんた、性格きついな」
エレノアは少しだけ首を傾げた。
「心外です」
あまりに迷いのない純粋な声色でエレノアの返答が響いた。
かえってその場に一拍ぶんの静けさが落ちた。
横で、カイルが露骨に吹き出した。
つられるようにミラも控えめながら、くすくすと笑いだす。
周囲の村民たちにも笑いが伝染していき、終いにはガレスでさえも顎をさすりながら苦笑いしていた。
エレノアは怪訝そうに周囲を一瞥する。
なんだなんだ、皆して、失礼にもほどがある。
が、こうして笑って終われるなら、それでいいのかもしれない。
エレノアはそう思った。




