第6話 主婦、ホワイトボードと格闘する
落ち着け。落ち着け私。
あの目の前でぷるんぷるんしてるゼリーもどき――ルミナ曰く「下級魔獣ジェルム」とかいうやつは、きっとRPGでいう序盤の敵だ。絶対そうだ。弱いはず。だって序盤からいきなりラスボス級が出たらゲームバランスが崩壊するでしょ!?
つまり、これはチュートリアル戦。負けイベントであったとしても、戦闘不能になったらちゃんと助けてもらえるはず。ほら、そういうのあるじゃん。戦ったら強制的に負けて、ストーリーが進むやつ。
――そう思い込もうと必死になっているのに、手の中のバトルアックスがやたらと現実味を持って重たい。金属の冷たさが掌に食い込み、柄の木目が汗でしっとりしている。どう考えても、これ人間を半分にできる重量感だよね!?
湖畔の風は優しく吹いているのに、心臓はドラムロールみたいに暴れて止まらない。
ああ、帰りたい。炊飯器の保温スイッチを切ってない気がする。冷蔵庫の卵はあと二つしか残ってないし、夕飯の献立どうするんだっけ。――こんなこと考えてる場合じゃないのに、現実逃避が止まらない。
「サナ様!」
ふわりと宙に舞うルミナが、こちらに満面の笑顔を向ける。
「大丈夫大丈夫っ!」
「……ちょっと待った。いまの“大丈夫”は何にかかってるの? ジェルムが弱いから大丈夫? 私が強いから大丈夫? それとも、最悪死んでも蘇生ポイントがあるから大丈夫って意味!?」
「えーっと……全部ですっ!」
「まとめすぎぃぃぃっ!」
叫んだ私の声が、湖面に反響して鳥たちを飛び立たせた。爽やかな大自然の中で一人ツッコミを入れる主婦。なんだこの状況。
「仕方ないですね……」
ルミナがひとつため息をつき、くるりと後ろを向いた。
「ほんの少しだけ、気脈の扱い方を教えて差し上げます」
「ほんの少し!? いやフルコースで頼むから! むしろそれを教えなきゃ戦闘開始すらできないから!」
私の抗議をよそに、ルミナはどこからともなく真っ白な板を取り出した。木枠に囲まれ、キャスター付き、さらにはペン差しまで完備されたそれは――どう見てもホワイトボード。
「…………」
私は目を細め、唇を噛んだ。
「……ねえ、それ絶対この世界のファンタジーアイテムじゃないよね?」
「失礼な! これは《知識顕現板アルビス》といって、どんな理論も図解でわかりやすく伝えられる神具なのです!」
「ただのプレゼン用具じゃん!!」
思わず斧を投げ捨てたくなるほどの突っ込みである。
ルミナは得意げにペンを走らせ始めた。カキカキと心地よい音が湖畔に響き、ホワイトボードにはいきなり人体の落書きのような図が描かれていく。頭から足先まで、線でつながれた何本ものルート。
「はい、こちらが“気脈”です!」
「いやいやいや、そんなバス路線図みたいに簡単に書かれても!」
「気脈は全身に巡っています。呼吸を合わせて意識を集中させると、エーテルが血液のように循環し、力が高まります! サナ様の場合は魔法に変換できないので――」
「なので?」
「そのまま筋肉に直送されますっ!」
「ただのステロイドじゃん!!」
もう何もかもがバカバカしくて、笑いそうになる。けど笑えない。だって目の前のジェルムは、さっきからぷるんぷるん揺れてこちらをじっと睨んでるんだから。いや、睨んでるかどうかはわからないけど、目っぽい部分がこっち向いてる!
ルミナはさらにボードに「気脈→筋肉→神器」と矢印を書き加えた。
「つまり! サナ様は気脈の流れを武器に伝えることで、常人離れした力を扱えるのです! さあ、やってみましょう!」
「いや待て、説明ざっくりすぎる! “やってみましょう”って、小学校の家庭科実習じゃないんだから!」
「大丈夫です大丈夫ですっ!」
「だからその大丈夫の根拠を出せぇぇぇぇぇ!」
息を荒げながら、私は斧を握り直した。
肩越しに見える湖はきらきらと輝き、遠くの大樹は悠然と天を突いている。
足元ではぷるんと揺れるジェルム。
落ち着け。下級魔獣だ。負けるはずがない。負けたとしても……うん、負けたらどうなるんだろ。死ぬ? 消える? それとも……?
考えるだけで胃が痛くなりそうだ。
けれど、逃げても仕方ない。目の前に現れた以上、どうにかしないと始まらない。
「……よし」
私は斧の柄を両手で握り、深呼吸をした。胸の奥で何かが確かに脈打っている。鼓動とは違う。もっと熱く、光を帯びたもの。これが――気脈?
ルミナが小さくうなずいた。
「そうです、その感覚を忘れないで。あとは……振り下ろすだけですっ!」
「いやいやいや! “だけですっ!”の軽さが命の重さと釣り合ってないんだけど!?」
私の悲鳴をかき消すように、ジェルムがぷるりと跳ねた。




