第十四話:笑ってはいけない戦国時代 岐阜城編 ― 徳川大仏、顕現
天正三年(1575年)、春。
岐阜城の大広間に、この世の終わりみたいな情けない叫び声が響き渡った。
「あ、兄上ぇぇぇ!! 助けてくだされぇぇぇ!!」
転がり込んできたのは、小太りの、茶色い着物を着た丸っこいおじさんだった。
徳川家康。
叔父上の同盟相手だ。
同盟相手のくせに、今、床に張りついている。
彼は信長の足元にすがりつき、ボロボロと涙を流していた。
「また武田です!
また筋肉が来るのです! もう嫌だぁぁ!!」
「え、武田が来てるの? 私は武田につくよ」
私がみかんを置いて身を乗り出すと、信長の顔が即座に引きつった。
「今日も謀反!? お前、隙あらば武田に寝返ろうとするのやめろ!!」
「だってマッチョだし。住民票、武田の方に移したし」
「勝手に移すな! お前は織田の、いや浅井の姫だろうが!!」
(あーうるさい。角度だけ立ててろ)
「……」
無視。
「姪っ子が無言で刺してくる!!」
「……タヌキ」
私は信長の小言を無視して、最後のみかんを食べながら、
床にへばりついた家康の背中を見下ろした。
丸い背中。びびり散らかす動き。茶色い着物。
……もう、これしかない。
「え? 今、なんと?」
「タヌキ。今日からあんたの名前はタヌキね」
「ひ、酷い! 初対面でいきなり獣扱い!?
兄上、何とか言ってください!」
信長は鏡を片手に、前髪の角度を四十五度に微調整しながら鼻で笑った。
「よいではないか。本質を突いておる。
……で、タヌキよ。何をそんなに怯えている。俺のリーゼントが眩しすぎるか?」
「眩しいのは光秀の頭だけにしてください!!」
タヌキが即答した。
光秀が無言で死んだ目になる。今日も平和だ。
「……いえ、聞いてください兄上!
武田の『筋肉ハラスメント』が、もう限界なんです!」
タヌキは床に額をこすりつけながら叫んだ。
「向こうは挨拶がタックル! 話が通じる前に体が飛んでくる!
立ち止まればタックル!
下がればタックル!
息をつけば、タックル!!
誰も何も言わない!
ただ筋肉だけが、黙ってタックル!!」
「それは“戦”っていうか……筋肉の自然災害だね」
私が言うと、タヌキがさらに泣き崩れた。
「そうなんです!
私はもっと、こう……コタツで羊羹を食べながら、
何も起きない時間を生きていたいのですぅぅ!!」
「その願い、戦国で一番贅沢だよ」
信長が扇子で口元を隠し、妙に納得した顔をした。
「ふむ。武田は“タックル”しか知らぬ。
退くという概念を、筋肉で消しておる」
「概念が筋肉で消える……うん、武田はいつも正しい」
私はタヌキの茶色い着物を指でつまんだ。
つまんだ瞬間、地味が空気に溶けた。
「……タヌキ。分かった。
あんたが筋肉に勝てないのは、戦い方が違うから」
「違う……?」
「武田は筋肉。織田はヤンキー。
徳川は……今のままだと“泥”」
「泥!?」
「泥」
信長が一瞬だけ笑った。
「茶々、ひどいぞ」
「現実」
そして私は決めた。
泥を、立たせる。
「タヌキ。改造する」
「か、改造……!?」
「うん。徳川の勝ち筋は“筋”じゃない。
“圧”でもない。
“数”と“統制”でもない。
……一番強いのは“めげない顔”」
「めげない顔……?」
「そう。武田に踏まれても、潰れたまま“かわいい”のが徳川の才能。
だったら方向性を変える。
織田の“ヤンキー様式”を取り入れる」
「ヤンキー方式!?」
タヌキが驚く。
「よし! 我が尾張の様式美でタヌキを仕上げるぞ!
まずは派手にだ! 金! 刺繍! 筆文字!」
信長が嬉しそうに胸を張った。
「やめて。話が雑」
私が止める前に、影がすっと伸びた。
初が、タヌキの後ろに立っていた。
「叔父上。順番が違う」
「初。何だ」
「ヤンキーは衣装じゃない。
髪。髪が魂。髪が覇権」
「……分かるぞ初」
信長が角度を整える。
初は一歩踏み出し、タヌキの頭頂を見下ろした。
「この髪は、逃げ腰。
逃げ腰の髪は、武田に吸われる」
「吸われる!?」
「吸われる」
初が断言した。
タヌキの顔が青くなる。
「じゃ、じゃあどうすれば……!」
初は小さく息を吸って、言った。
「反地破魔 (パンチパーマ)にする」
初が懐から小さな油瓶を出した。
「初、ちょっと待って──」
嫌な予感が、私の背骨を登った。
「……整える」
初は、タヌキの頭に手を置いた。
そして。
キュル。
「……え」
音がした。
髪が回る音。
キュル、キュル、キュルキュル。
「初?」
初は無表情のまま、指先を回し始めた。
速い。
四歳児の指が、世界の法則をねじ曲げている。
キュルキュルキュルキュルキュル!!!!
──数分後。
初の指が止まった。
静寂。
タヌキが、恐る恐る鏡を上げる。
「わ、わたし……どうなりました……?」
──その頭は。
角度でもリーゼントでもなかった。
全方向に密集した巻き。丸。詰み。大仏。
大仏の頭に、タヌキの顔がついているみたいな仕上がり。
「…………」
家康以外の全員が、同時に固まった。
困惑。理解。絶望。
そして、来る。確定の笑い。
江が両手で口を押さえた。肩が震えた。
「……んぅ」
信長は扇子を開き、口元に貼りつけ、地を見つめる。
「ち、ちょっと……あ、暑いか?……き、今日は……」
光秀は死んだ目のまま、唇を噛んだ。強く、強く。
「……ひ、ひめ、さま?」
初は──
「ち、ちょっと……た、魂が……んっ……ぐぅ……っ」
そう言いながら柱の影へ、すっと消えた。
私は目を細め、呼吸を整える。
(目の前に突然如来した、黒光り大仏。
戦……いや、合戦。これが戦国。
恐ろしい時代。人も腹筋も、すぐ死ぬ。
笑ったら負け。生き残れ、茶々)
吸え。吐け。戦だ。
(これより先、笑いは敵。
“笑ってはいけない”岐阜城、籠城開始。)
柱の影から、初の顔だけがちょこんと出る。
タヌキを見る。
目が細くなる。
肩が小刻みに跳ねる。
そして、すぐ引っ込む。
そして柱の影から、初の声が落ちてくる。
「……悟りを……っ、開いた……っぷ」
(初……っ。柱、逃げ……っ、るな……っ。お前、犯人……っ)
タヌキは何も知らず、真面目に言う。
「……強そうでしょうか……?」
江の肩が跳ねた。
「ぷ」が漏れそうになって、江は自分の膝を両手で叩いて黙らせた。
信長の扇子が震えた。
光秀は「無」の顔で天井を見た。見た瞬間、肩が揺れた。
私も頬の内側を噛んだ。痛い。助かる。
(だ……め……っ。ここで……崩れたら……外交が……っ。私が……っ)
柱の影から初がまた覗く。
覗いた瞬間、肩が震える。
危ない。
引っ込む。
(初……っ、チラ見で呼吸するな……っ。笑いの出し入れするな……っ)
──柱から、敗北宣言。
「……強すぎる」
信長が鏡片手に近づき、固まった。
「……んふ……っ、ち、茶々……っ。こ、これは……っぷ……何だ……っ」
(んふ……っじゃ……っない……っ。聞くな……っ。今、私に……っ)
光秀が咳払いをして、咳を飲み込んだ。
飲み込めず、肩だけ揺れた。
「姫様……っ、殿……っ、こ、これは……くっ」
(光秀……っ、い、今は……っぷ……しゃべるな……っ)
柱の影から、初の声が落ちてくる。
「……まさかの……っ、顕現」
(顕現……っ、言うな……っ。余計に……っ)
江が、口を押さえたまま涙目で囁いた。
「た、たぬたん……なんか……っぷ!!……お、寺に……いそう……っ」
(江……っ、言語化……っ、しないで……っ)
声が震える。笑ってない。戦だ。
タヌキが不安そうに見上げる。
「姫様……? なぜ皆様、息が……?」
来た。
誤魔化すしかない。
勢いで嘘を押し切れ。戦国は勢いが史料だ。
私は口角を押さえ、喉の奥で笑いを窒息させながら言い切った。
「……い、いい……っ? タ……っ、タヌキ……っ」
「は、はい!」
柱の影から初が覗く。
覗いた瞬間、肩が跳ねる。
引っ込む。
こいつ、反射で笑ってる。
私はタヌキの頭を指差し、必死の真顔で断言した。
「それ……っ、だい……大仏ヘア……っ」
「だ、だいぶつ……?」
「う……うん……っ、こ、神々しい……っ」
江が畳に額を押しつけた。
「んっ……」
信長の扇子がバタバタ鳴った。
「ぐっ……」
光秀の顔面が崩壊しかけて、慌てて引き締めた。
引き締めきれなかった。
「……っふ……姫様……っ、その……“神々しい”という語……っ、今ここで……っ」
(光秀……っ。黙って……っ。理屈が崩れたら……っ、私が……っ)
タヌキが震える声で聞く。
「神々しい……と申しますと……?」
「え……?」
信長が、扇子の裏から必死の顔で頷いた。
「頑張れ」みたいな顔をするな。
お前が世界を曲げる側だろ。
私は続ける。笑いが喉を削る。押し切れ。
「武田の筋肉って……基本……
殴っていいものしか……殴れないの……っ
で……っ、大仏って……っ、殴りづらい……っ。
ほら……っ、なんか……っ、バチが当たりそう……っ」
柱の影から、初の声が落ちてくる。
「……もう、か、神……っ」
(初……っ、語彙を放棄するな……っ。でも分かる……っ。腹筋が死ぬ……っ)
江が涙目で追撃した。口を押さえたまま。
「ま、まるい……ありがたい……っ」
「ぐっ……きっ……江……っ、つ、追撃……っ、すな……っ」
タヌキの目が、じわっと潤んだ。
「わ、わたし……武田の筋肉に勝てるかもしれません……!!」
「う、うん……っ、かて、勝てるよ……っ
徳川は……っ、“耐える家”……っ。
なら……っ、耐える見た目が……っ、正解……っ。
殴られても崩れない……っ、丸い……っ
ありがたい……っ、最強……っ」
私は畳みかける。息が苦しい。腹筋が死にかけてる。戦だ。
(た、武田どころじゃ……っ、ない……っ。
こ、これ……っ、天下……っ、取れる……っ)
──柱から、追い討ち。
「“耐える家”が……っ、“拝まれる家”に……っ、進化……っ」
(は、初ゥゥゥ……っ)
「最強……!」
タヌキが胸を張った。
同時に大仏が誇らしげに揺れた。
──揺れた瞬間。
世界が止まった。
柱の影から初が覗いた。
覗いた瞬間、肩が揺れた。
引っ込んだ。
また覗いた。
また揺れた。
引っ込んだ。
(初……っ。お前の覗き回数が……っ、そのまま徳川への侮辱回数……っ)
柱の影から、小さい声。
「……南無」
(ちょ……っ、初ぅぅぅ……っ)
光秀が限界に達して、低く呻いた。
「……姫様……っ。“揺れる大仏”は……っ、反則で……っ」
「光秀……っ、言語化……っ、しないで……っ!!」
信長も耐えきれず、扇子の裏で声が震えた。
「……げほっ……っ。俺は……天下人……っ。天下人は……笑わぬ……っ」
(信長……っ、その自己暗示……っ、逆に面白い……っ。やめ……っ)
江が限界で、肩を震わせながら言った。
「たぬたん……今日から……っ、“ありがたい”で……っ、いこ……っ」
信長の扇子が、ついに耐えきれず開ききって、肩が大きく揺れた。
「……茶々……っ。お前……っ、もう……っ」
「笑って……っ、ない……っ。拝んで……っ、るだけ……っ」
私の言葉が震えた瞬間、空気が崩れた。
柱の影から初の声。
「……ぷ」
さらに江がついに声を漏らした。
「ぷ……っ」
──終わった。
信長が膝を叩いた。
江が涙を拭きながらひっくひっくした。
幼子、空気を読んでよくここまで耐えた。
光秀が扇子を持たない手で顔を覆い、静かに肩を揺らした。
柱の影では、初が“無音で笑っている”。肩だけが揺れている。
顔は出さない。ずるい。
その時だった。
スパァァァァァン!!!!
障子が勢いよく開け放たれた。
凄まじい殺気が大広間に流れ込み、温度が一気に氷点下まで下がる。
母上だ。
手には木刀。目は修羅。完全に「殺る気」。
「兄上ォォォ!!」
地獄の底から響く声。
信長が「ひっ」と飛び上がった。扇子が落ちた。
「ま、待てお市! 今はそれどころじゃ──」
それでも今までのダメージで半笑いの信長。
「黙れェェェ!!浅井の仇ォォォ!!」
母上が木刀を構え、美しい顔で叫ぶ。
殺意の波動がすごい。誰も止められない。
私たちは終わったと思った。
タヌキが、恐る恐る母上に声をかける。
「あ、争いは……ダメです……」
母上はゆっくり大仏に向く。
「あら……家康、久しぶ──」
母上の視界に、タヌキが入った。
正確には、タヌキの頭上に鎮座する『黒光りする大仏ヘア』が入った。
「……っ」
母上が止まった。
振り上げた木刀が、ピタリと空中で静止した。
「……ぶっ」
天下の美女が吹き出した。
殺意が、咳になる。
「……っ、んふ……っ」
母上は口元を押さえた。
押さえても無理だった。
「ふ……ふふ……っ」
そして。
「あはははははっ!!」
爆笑。
母上が腹を抱えて爆笑した。
タヌキは正座のまま、真面目に合掌していた。
「……ありがたい……」
「やめて……っ」
私の声も震える。戦はまだ終わってない。
母上が笑いながら後ずさる。涙が出ている。
木刀が手から滑った。
「だめ……無理……っ。今日は……殺せない……っ。
顔が……っ、顔が強すぎる……っ」
母上は顔を覆ったまま、廊下の外へ逃げ出した。
去り際、振り返って一言だけ置いていく。
「……出直す。ちゃんと殺す。
でも今日は無理。無理すぎる。南無……っ」
そしてまた爆笑しながら去っていった。
──静寂。
信長が酸欠の顔で呟いた。
「……助かった……?」
私は腹を押さえたまま頷く。
「タヌキ……っ、あんた……っ、最強……っ。
母上の殺意を……っ、顔面だけで……っ、止めた……っ」
「本当ですか!?」
タヌキが嬉しそうに振り返った。
その瞬間。
柱の影から初が覗いて──即引っ込んだ。肩が震えていた。
光秀が「もうだめだ」みたいな目で天井を見た。
天井が揺れた気がした。
信長が扇子を握り潰しそうな勢いで震えた。
私たちの限界も、そこで決壊した。
「ぶふぉっ!!」
「アハハハハハ!! もう無理ぃぃぃ!!」
「……魂が……笑いで……浄化される……っ」
岐阜城に、堰を切ったような大爆笑が響き渡った。
──この日、戦国の世に新しい宗教が生まれた。
名を、徳川大仏。(仮)
(つづく)




