第十二話:天は違うね
天正二年(1574年)、七月。
織田軍は再び、長島へ出陣していった。
三回目の長島一向一揆“討伐”だ。
私は、岐阜城の広間で留守番だった。
五歳児は戦場には連れて行ってもらえない。当然だ。
出陣前、信長に聞かれた。
『茶々。泥に沈まぬ策はあるか』と。
私はミカンを剥きながら、パズルを解くみたいに答えた。
『戦わなきゃいいじゃん。
九鬼の水軍で海を塞いで、陸を囲んで。
出られなくして、降伏するのを待てばいい』
簡単な算数だ。
戦えば、こっちが死ぬ。
囲めば、こっちは死なない。
相手が降りるまで待てば、被害は減る。
私は自分の賢さに鼻高々だった。
(これで勝てる。甲斐への道が開く)
(信玄様……待っててね)
広間では、江が積み木遊びをしている。
初は窓の外を見て、ブツブツ言っている。
「……風が……焦げている……」
「初、焼き芋でも焼いてるんじゃない?」
「……違う……これは……魂が焼ける匂い……」
「表現が怖いってば」
私はのんきに笑っていた。
遠く離れた長島で、何が起きているかも知らずに。
*
──秋。
その頃には、私は六歳になっていた。
初は四歳。
江は二歳で、ついに歩き始めた。
岐阜城に、早馬が着いた。
廊下をドタドタと走る音がする。
現れたのは、猿(秀吉)だった。
「姫様ァァ!!」
秀吉は、土下座の勢いで滑り込んできた。
「猿! お帰り!」
私は身を乗り出した。
「どうだった? 勝った?」
「は、はい……! 織田軍の勝利でございます!!」
「やった!」
私はガッツポーズをした。
「私の策、当たったでしょ?
囲んで正解だったでしょ?」
「は、はい……姫様の策のおかげで……
敵は……一兵も逃さず……」
秀吉の声が、震えていた。
いつもの陽気なトーンじゃない。
床につけた額を上げようとしない。
「……猿? どうしたの?」
私は違和感を覚えた。
「勝ったんでしょ? 降伏したんでしょ? 捕虜は?」
秀吉は、顔を上げずに言った。
「……おりません」
「え?」
「捕虜は……一人も、おりません」
私は首をかしげた。
「逃げられたの? ま、いいか。勝ったなら」
「いいえ」
秀吉が、絞り出すように言った。
「……全員、燃やしました」
時が、止まった。
「……え?」
「殿の御命令で……柵で囲み……四方から火を……
万単位……一人残らず……」
岐阜城は静かだ。鳥の声も聞こえる。
でも、私の頭の中だけで、ゴウッという音が鳴り響いた。
「……燃やした……?」
「はい」
「全員……?」
「はい」
私の策は「囲むこと」だった。
「逃げられなくすること」だった。
それが──
逃げ場をなくして、焼き殺す準備に変わった。
(私のせい……?)
(私が……「効率的だ」って言ったから……?)
パズルだと思っていた。
盤上のコマだと思ってた。
でも、その駒は人間で──燃えると、死ぬ。
吐き気がした。
初が、耳を塞いでうずくまっている。
「……聞こえる……万の絶叫が……ここまで……」
江がキョトンとしている。
歩けるようになった足で、よちよち近寄ってくる。
「さる〜? みんな、あったかいとこ、いったの〜?」
秀吉は、泣きそうな顔で江を見た。
口が開くのに、声が出ない。
いつもの「はいぃ!!」が、喉で死んでいる。
「……はい。とても……熱いところへ……」
*
その夜。
信長が帰ってきた。
私は、出迎えの列に並ばなかった。
部屋で、膝を抱えていた。
襖が開く。
信長が入ってきた。
鎧を脱ぎ、着替えた姿は、いつも通りだった。
焦げ臭くもない。血の匂いもしない。
それが余計に怖かった。
「……茶々」
信長が、静かに呼んだ。
「……どうして」
私は顔を上げずに言った。
「……どうして殺したの。
私の策は……殺すためのやつじゃ……」
信長は、畳に座った。
「茶々。勝つとは、奪うことだ」
「違う!! 虐殺だ!!
降伏した人を……!!」
「許せば、また刃向かう。
お前の策は優秀だった。
囲んでくれたおかげで、こちらの被害はゼロだ。
……よくやった」
「褒めるな!!!」
私は叫んだ。
六歳児の金切り声が、部屋に響く。
「私が殺したみたいに言うな!!
私は……私はただ……!!」
信長は、私を見据えた。
その目は、鋭利な刃物みたいだった。
「茶々。あやつらは国に従わん。
旗にも従わん。刀にも従わん」
「……じゃあ、何に従うの」
「“宗教”だ。──いや、正確には“宗教という物語”だ」
信長は淡々と言った。
淡々としているのが一番怖い。
「あれは、命令系統が城の外にある。
外にある命令は、いつか日の本に牙を剥く」
「……牙?」
「うむ。わしが天下を“布く”なら、
あやつらも別の天下を“布く”。
なら二つは並ばぬ。──どちらかが燃える」
(そうだ……信長は……比叡山も……)
私が産まれる前。
山を焼いたって話があった。
お経も鐘も人も、まとめて燃えたって。
「魔物が出たらしい」って子供を脅す大人の嘘だと思ってた。
戦の話を盛って、怖がらせるだけだと思ってた。
でも今は分かる。
(嘘じゃなかった)
(魔王は、本当に山ごと焼くんだ)
(しかもリーゼントでやる。意味がわからない。最悪だ)
私の喉が先に乾いた。
腹の奥が冷える。
身体だけが、もう答えを知っている。
信長は続けた。
「策を出したのはお前だ。
決断したのはわしだ。
業はわしが背負う。
だが茶々──お前も、その片棒を担いだのだ」
私は言葉を失った。
片棒。
安全な場所で……
ミカンを食べながら言った「囲めばいいじゃん」。
──その言葉が、万を焼いた。
震えが止まらなかった。
戦国という時代の“重さ”が、
子供の小さな体に、のしかかってきた。
*
信長が出て行った後。
私は布団を被って震えていた。
(怖い……)
(自分の頭が……言葉が……怖い……)
ふと、布団がめくられた。
母上だった。
いつもの暴走モードじゃない。
静かな、母の顔。
「……茶々」
母上は、何も言わずに私を抱きしめた。
温かかった。
「……母上……私……」
「聞いたわ。……いい策だったそうね」
「よくない……っ! 人が……いっぱい……!」
「そうね。死んだわね」
母上の声は、優しくて、冷徹だった。
「それが、兄上のやり方。
そして──私たちが生きている、戦国の世」
母上は、私の涙を指で拭った。
「茶々。
賢いのは、辛いことよ。
見えなくていいものまで、見えてしまうから」
「……」
「でもね。
あんな地獄を作る兄上を、
それでも利用して、浅井を再興するんでしょう?」
私は、ハッとした。
母上の瞳が、私を射抜いていた。
「泣いて済むなら泣きなさい。
でも、泣いても死んだ人は戻らない。
……どうする?」
私は、鼻をすすった。
父上を失った時。
小谷城が燃えた時。
私は誓ったはずだ。
『浅井を復興する』と。
私は、母上の胸から離れた。
袖で顔をこすった。
「……進む」
声は震えていたけど、言った。
「私が……やったことだもん。
なかったことには、しない」
母上が、ふわりと笑った。
「えらい。……さすが、私の娘」
「うん……ありがとう……」
「いいのよ。じゃあ。兄上の首を取ってくるね」
母上の手にはいつの間にか木刀。
「は?」
──私が母上の顔を見上げようとすると、すでに母上の姿は無かった。
*
翌朝。
私は信長の部屋に向かった。
目は腫れている。最悪な顔だ。鏡は正直。
襖を開けた瞬間、空気が終わっていた。
信長が、鏡の前にいた。
……いた、というか、立っているだけで奇跡だった。
髪は半分ほど解けて、いつものリーゼントが、前髪パッツン。
目は虚。
何を見ているのか見えているのか分からない。
頬はこけて、唇は乾いて、指先は微妙に震えている。
もはや知らない怪しいおじさんだ。
それでも信長は、櫛を持っていた。
そして、角度を戻そうとしていた。
死んだ人は戻らないのに。
──トン。
廊下の向こうで、何かが落ちる音がした。
たぶん、湯飲み。たぶん、誰かのうっかり。
なのに。
信長の背中が、ビクッと跳ねた。
「……生まれてきてごめんなさい!?」
信長は反射みたいに首筋を押さえてから言った。
その目が、襖の向こうを刺す。
刺し方が、戦場じゃなくて──夜中の記憶を刺してる目だった。
(……母上だ)
(襲撃されたんだ)
信長は、何もない空間に向かって、低く吐き捨てた。
「……お市……?」
空中に問いかけてる。
「……いないのなら……返事をするな……」
空中の何かと話してる。
「誰も返事してないよ」
私が言った瞬間、信長はハッとして鏡の中の自分に戻った。
戻り方が雑。動揺を隠す気がない。
「……茶々か」
「うん。生きてる?」
「……生きているのか?首はあるのか?俺は?」
「残念ながら生きてる」
信長は、鏡の中の自分に向かって呟いた。
「……角度が……寝てる……起きないのだ……」
「寝かせてあげなよ……信長も寝てないじゃん」
「寝ると……天下も寝る」
「意味わかんない」
私は一歩近づいた。
「次の作戦、考えるよ」
信長の手が止まった。
止まった指が、櫛を握ったまま少しだけ震えた。
「……いいのか」
声が、昨日より低い。
低いというより、削れてる。
言いながら信長はふらっと壁に手をついた。
「うん」
私は仁王立ちした。
強がれ。利用しろ。
「茶々。
この第六天魔王は、角度と鋭さで天下を獲る。
……業も、非難も、全部このリーゼントに乗せてな」
ふらふらしながら信長は、マントを翻した。
翻せてない。ちょっと引っかかった。
なのに、顔だけは決めてる。最高にかっこ悪い。
私は、呆れてため息をついた。
「……ほんと、ムカつく男」
「褒め言葉として受け取っておく……」
そう言った直後、信長は全力で襖の方を見た。
母上への警戒を怠らない。魔王、家庭内が一番怖い。
それを誤魔化すみたいに、信長は私を見下ろしてニヤリとした。
そして、髭を触る。激しく震える手で。
私はニッと笑いを被せた。
「その角度、もっと尖らせようか。
天まで刺されば、怨念も届かないでしょ」
「ふはは!言うではないか!
茶々。この第六天魔王は、角度と鋭さで天下を獲る」
笑った瞬間、信長の瞼が一度だけ落ちかけた。
魔王、限界が近い。でも落ちない。
プライドの塊。ここは尊敬しても良い。
「頼むぞ、姪っ子」
「ふん」
私は逃げない。浅井の名前が戻るまで。
「母上の木刀はきっと天まで届くけどね」
信長の笑みが、一瞬で死んだ。
そして反射で首筋を押さえた。
「生まれてきてごめんなさい!?」
(天は違うね。……私と信長は地獄かな)
*
史実にはこう残る。
──天正二年、長島一向一揆、壊滅。
織田信長、冷酷無比な焼き討ちを行う。
その裏で、六歳の少女が一つ、大人になったことを──歴史は記さない。
(つづく)
◇◇◇
あとがき
◇◇◇
……読者諸君。
俺だ。織田信長だ。
まず言わせてくれ。
昨夜は本当に死ぬかと思った。
お市がな……
闇の中から……
無音で……
木刀を……首筋に……
ヒタッ。
あれはあかん。戦より怖い。
いや本能寺でもあそこまで追い詰められんと思う。
そのせいで朝の俺は──
リーゼントは崩れ、髭は震え、膝は笑い、魂はどこかに旅立っておった。
茶々にも言われたわ。
「魔王のくせにビビり散らかしてんじゃないわよ」
違うのだ茶々。
魔王にも恐怖はある。お市だけは本能で無理なのだ。
“理”と言っただけで飛んでくる木刀にどう勝てというのだ。
だが安心せい。
俺は、生きている。……たぶん。
首も、まだ付いておる。……たぶん。
読者よ。
この命、いつまで保つか分からん。
お市と茶々、三姉妹が揃うと、魔王でも寿命が縮む。
次話まで俺が存在してほしいと願うなら──
ブクマと★を置いていけ。
それが俺の生存祈願じゃ。
頼む。
ほんま頼む。
織田信長(震)




