第99話
「姫月さんのお父さんは、財団の人、なんですよね……?」
「うん」
「何かお父さんの動きで目立った変化はありませんでしたか? 帰りが遅くなったりとか、会う人が変わったりだとか……」
「……うーん」
姫月の軽い調子の唸り声は、過去を振り返っている風ではなかった。少し困ったような声色は、後部座席の客人へどう説明をすればいいのか考えあぐねているようなものだった。結局答えが見つからなかったようで、彼女は僅かに唇を嘗めただけだった。
「……どうだろ。パパに特別変わったところはないんじゃないかと思うけどな。最近うちに冷たいとか、隠し事してる感じも特にはないし。『ラビット』に……うちに不利益を被らせるようなことをやってる感じじゃないと思う。……そう、信じたい」
「ですが、『ラビット』も借金の取り立ては受けていたんですよね?」
「……そうだね、そこは『ブルー』や『レッド』と同じ。でもパパのことだから……何か手をまわしていたんじゃないかな」
姫月は窓の外へと顔を向けた。流れ続ける景色は、既に『ラビット』の縄張りの区域から外に出ている。
「パパは野心家でさ……財団がまだ小さかった頃から、いつもこの国の行く末を案じてた。どうすればよりよい国になるのかって常に考えてて……たぶんうちのことより国のことを考えてる時間の方がずっと長かったんじゃないかな。うちが小さい頃は、絵本よりもこの国の外についての話ばかりだった」
「この国の、外ですか?」
「そう。うちらはこの国しか知らないけど、世界には沢山の国がある。例えばこの国で生まれた男児が連れていかれる国は、ここみたいに荒れていなくて、学歴が重要視されるんだって。殺し合いも発生しない、銃ではなくペンと新聞紙を持つ世界だ。……うちはこの話をきくのが大嫌いだった。だって、全然楽しくないじゃん」
窓に映る姫月の顔は、本人の身体によって隠され、たまかからは見えなかった。
「それよりも龍に乗って冒険する話とか、森の奥の館を探検する話とか、うさぎと夢の世界で踊る話とかさ……そういう話の方が絶対楽しい。あるいはお化け屋敷に行くとか、不意に見つけた映画館で素敵な映画に出会うとか、誰も想像しないような味が弾けるアイスを手に入れるとか、入念に準備したサプライズパーティに招待するとか、そういうのでもいい。皆が笑顔になることなら、なんでも」
楽しいことが溢れる世界。それが姫月の理想の世界なのだと言っていた。彼女は少し、顔の角度を下げた。
「うちは、『ラビット』の子達の気持ちが痛い程よくわかる。せめて『ラビット』に入ってからは、今まで耐えてきた環境のことなんて全部忘れて、楽しさに身を委ねて欲しいんだ。親からも周りの目からも役割からも全部解放されて、心から笑って欲しい」
それは、姫月が自身に望む願いでもあるのだろう。
「例えパパだろうが、それを邪魔する権利はない。パパはうちの思ってることは絶対理解していないし、興味もないだろうけど……パパはずっと、『ラビット』に不干渉だった。好きなようにやらせてくれてたんだ。『ブルー』と『レッド』にも突っかかったりはしていなかったし、突然潰そうとするのはやっぱり解せないよ」
姫月は三者会談で、財団と明確に敵対する意思がある素振りを見せていた。銀行から金を奪うことを提案したし、財団に乗り込む気もあるような言い方をしていた。だが、心の底では違ったのだ。彼女は父親を信じ、縋っている。
(林檎さんがしつこく尋ね、警告していた理由はこれですね……)
しかしたまかには林檎のように強く言うことは出来ない。姫月にとって、きっと父親の存在は大きい。本人が信じているのに、父親のことを何も知らないたまかが『家族が裏切っている』と糾弾するには、あまりにも材料が足りなかった。
「ただ、パパの与り知らぬところで、三組織を潰す計画が進んでいるかもしれないこともまた事実」
姫月は窓の外から車内へと顔を戻し、視線だけを後ろへと投げた。
「水面を止めるには、パパの名前を出せばいい。パパは財団内に詳しいから、きっと林檎の殺害を実行した奴も突き止められる。そいつの身柄を渡して貰えさえすれば、水面は無茶をしたりしないはず」
たまかは険しい顔のまま、自身の破れた白いニーハイソックスへと視線を落とした。
「……そんなに上手くいくでしょうか」
「大丈夫。現実的に考えれば、これが一番安全策だ」
久方ぶりに、車が緩やかに停車した。ワイパー越しに赤信号が見える。そういえば、車は止まることなくずっと走り続けていた。どうやら知らない間に高速に乗り、そして知らない間に降りていたらしかった。
「……となると、パパに財団お抱えの銀行を襲ったことがバレるのは、すごーくマズい」
姫月は桃色と紫色の混じった白髪を振り、後部座席へと顔を向けた。フェイスペイントの上で、パッチリとした睫毛に縁どられた大きな瞳がたまかを見つめる。
「計画はあんたに一任しちゃったけど、そっちは順調?」
「……はい、大丈夫です。今頃は『ブルー』も『ラビット』も動きを見せている頃です。実際に銀行に潜入しているはず」
迷いのない口調で、膝の上の拳を握ってたまかは言った。自動操縦の車が、厚底によってアクセルが踏まれることのないまま、一人でに走り出した。
「林檎さんには劣るものですが、私なりに最善を尽くした策です。『ブルー』と『ラビット』の方々のことも信じています。きっと、バレることなく成功します」
姫月はそんなたまかを見て、一瞬だけ呆けた。それから何かに気付いたかのように、その瞳を揺らした。
「……ああ、そっか」
ぽつりと漏れた言葉は、しみじみとしたものだった。
「そっか……そういうことか。林檎は……あんたに『レッド』を明け渡すために」
「え……どうして」
「……あんた、『レッド』の次期長になるんだね」
姫月は少し寂し気に微笑んだ。
「わかるよ。……林檎の考えそうなことくらい」
後ろへと向けていた顔を前に戻し、ワイパーが晴らす視界の先へと目線を持っていく。
「あんた、林檎に似てるからね」
「え……」
「でも……全然似てない」
「ええ…………」
たまかは難しい顔をした。正反対のことを言われ、言わんとする意味が理解出来なかった。
「じゃあ、猶更水面を助け出さなきゃ」
姫月はシートへと倒れ込み、フリル塗れの身体を預けた。リボンが遅れて舞って、膨らんだ黒白へ着地した。
「銀行強盗は、『ラビット』と『ブルー』、そして『レッド』の初めての共同作業なんだ。祝賀会には、水面も呼ばないとね」
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