第96話
「てめえか」
彼女の顔には、焦燥感が滲んでいた。廊下を走って来ていたらしく、息があがっている。何かあったのかと問いかけようとしたたまかに先んじて、ミナミが口を大きく開いた。
「縹様の姿が見えないんだ」
「……水面さんが?」
つまり、ここにはいないということだろうか。作戦決行まで、あまり時間はない。
「一体どこへ行かれたんですか?」
「それが……わからなくて」
ミナミは小さく項垂れた。
「一時間くらい前は、向こうの部屋で一緒に身体を慣らしていたんだ。その時は作戦について話し合ったりしていたんだが……あっしが水を取りに行って戻ってきた時、突然部屋から飛び出してきた縹様とすれ違ったんだ。『作戦はお前らに任せる』って言って走っていってしまって……ずっと待っていたんだが、一向に戻ってこない」
「何か、急用が出来たとかですか……?」
「わからない……わからないが、縹様のあの顔……なんだか嫌な予感がするんだ」
ミナミが「一体どこに……」と唇を噛んだとき、廊下の奥から「ミナミ!」と大きな声が掛かった。群青色のショートカットの先、奥から駆けてきたのは同じく薄群青色を基調とした制服姿だった。サイドに結んだ弧を描く黒髪を跳ねさせて、呼び声の主はすぐにたまか達のもとへとやってきた。ソラの手が引いていたもう一人の少女は、カイだった。しかし、たまかが別れた時とは姿が異なっていた。
「え……カイさん、どうしたんですか!?」
顔の上部に大きな青痣がついていた。カイは頭に当てたままだった片手を離し、譫言のように「うう……」と漏らした。カイを引っ張ったままのソラが、会話へと乱入する。
「ミナミ! こいつ部屋で倒れてたんだよ」
「え……本当か? もしや敵襲があって、縹様はその対処に……?」
カイは「ああ……違います」と弱々しく訂正したあと、引っ張られたままだった体勢を整えた。
「私は縹様に任務の報告をしただけです……」
「なんでそれで倒れるんだよ」
「『レッド』の任は完了し、たまかさんの護衛の遂行、および任務途中、朱宮が死んだことを報告したのですが……」
事務的な口調でされる説明が途中なのにも拘わらず、ミナミとソラは息を呑み、そのままカイの薄い身体へと突っかかった。
「……は!? 朱宮が……死んだ!?」
「ちょっと……お前、マジなのそれ!?」
「いっ……意識を失っていた人を強く揺らさないでください!」
ミナミとソラにガクガクと揺さ振られるカイを見かねて、たまかは思わず割り込んだ。それにより二人の両手はカイから強制的に離され、長く垂れた袂が四つ、ふわりと揺れた。
「あいつ……殺したら、死ぬんだな」
ミナミが信じられないというように、ぽつりと漏らした。それは人間なら誰しも当然のことなのだが、ミナミは冗談でもなんでもなく、心の底から驚愕しているようだった。そしてその気持ちは、林檎を知っている人間なら嫌と言う程よくわかった。
「と、とにかく、それで? 報告しただけで倒れたわけじゃあないんでしょ」
「はい。……朱宮の報告をしたあと、突然縹様に突っかかられて……本当に、この場で殺されることを覚悟したぐらいの形相で……胸倉を掴まれたのですが、彼女は冷静になってくれたようで、私を乱暴に放し、部屋から出ていかれました。縹様がその後どうしたのかは知りません。私は縹様に放された勢いで、部屋にあったテーブルの角へ運悪く頭を打ち付けてしまい、打ちどころが悪かったようでそのままずっと意識を失ってしまっていた、というわけです」
話を聞き終えた瞬間、ソラがカイの顔を殴った。青痣のついた場所とは反対側だった。
「な……なぜ!?」
たまかはソラを勢い良く振り返る。
「役立たずだな……!」
イライラしたような顔で、ソラは舌打ちを零した。たまかには理解が及ばなかったが、これが『ブルー』の平常運転なのだろう。現に横のミナミは二人に全く無反応だった。
「……縹様が出て行ったのは、その報告をきいたからか。一体、どこへ……?」
腕を組んだミナミの横で、たまかは状況を頭で整理し、思わずはっとした。
(水面さんが林檎さんが死んだときいて、悲しまないわけがありません。その悲しみは、きっと誰よりも深かったはず。悲しみも、悔しさも、苦しさも……そして殺した相手への怒りも、相当だったはず)
「もしかして……水面さん、一人で財団に乗り込んで……?」
たまかが茫然としながら呟くと、その場の視線はたまかへと瞬時に集まった。
「ざ、財団? なんで……?」
ソラが困惑したようにたまかを窺う。
「それは……その」
(水面さんにとって、林檎さんは唯一無二の友人でした。せっかく一歩を踏み出して、林檎さんともう一度向き合おうとしていたというのに……その矢先に、林檎さんが殺されてしまった。彼女と話すことも、笑い合うことも、二度と出来なくなってしまった。水面さんにとって、これ以上ない程の絶望だったでしょう。殺した相手を、今すぐにでも殴り殺してやりたい気持ちに駆られたでしょう……。居ても立っても居られないくらいの怒りを抱えた水面さんが、どうするかといえば、答えは一つしかありません。財団へ乗り込んで、敵を討つ……!)
黙ってしまったたまかへ、ミナミは強張った顔で口を開いた。
「とにかくよくわからんが、縹様は一人で財団へ乗り込んだ可能性が高いんだな? それならあっしらも早く加勢に行かないと……」
ミナミの言葉をきき、慌ててたまかが首を振った。
「だ、駄目です! 銀行強盗の作戦は、もう進行しているんです。『ブルー』の方が行かなければ、実行役の『ラビット』の方達が財団員達に殺されてしまいます……!」
「……だから何? 私達にとって大事なのは、敵対組織の有象無象じゃない。縹様だ。財団の奴らは喧嘩慣れしてたし、いくら縹様でも敵の本拠地で一人は大分まずい。私達が早く加勢しないと」
ソラがさも当然だというように訴える。彼女達『ブルー』の面々にとって、水面の身は何よりも絶対だ。そんな水面が危険な状態にあるときに、大人しく黙っていられるわけがない。
(でもそれだと、『ラビット』の方達が……!)
『ラビット』のメンバーは、既に銀行の近くにいる。たまかの立てた作戦を信じ、楽しい一時を今か今かと心待ちにしながら配置についている。既に動き出している後方部隊も多い。もし『ブルー』のメンバーが警備役や財団の者を牽引しなかった場合、『ラビット』のメンバーに多大な死傷者が出ることになる。
たまかは拳を握った。覚悟を決めたように、顔をあげる。
「……私に任せてくれませんか?」
「え?」
ソラが訳が分からない、というように声を漏らした。
「水面さんのこと……私に任せてください。なんとか彼女を止めて見せます」
「な……何言ってんの?」
「私を信じて頂けませんか?」
ソラは空いた口が塞がらない、というようだった。カイもぽかんと口を半開きにしている。ミナミは目を細め、じっと探るようにたまかを見つめていた。
「お前……全然喧嘩出来ないじゃん! お前が財団に乗り込んで縹様を止めるなんて、どう考えても無理だよ」
「考えがあるんです。大丈夫……ですから、皆さんは『ラビット』の方達を守るため、そのまま作戦へ参加して頂けないでしょうか」
「む……無理無理! 信用出来ない! そこまで言うなら、ここで私を倒していきなさいよ!」
バトル漫画の敵のようなことを言って、ソラは全力で頭を振った。
その時だった。一瞬の出来事だった。ソラがその場に倒れていた。
「かはっ……」
「え?」
たまかは瞬きの内に変わってしまった状況に、脳が追いついていなかった。ソラは背中を打ち付けたことにより、その呼吸を苦し気なものに変えていた。その横で、ミナミが構えを解いた。彼女の手つきからして、どうやらミナミが一瞬のうちにソラを床に叩きつけたようだった。そのままソラの横へしゃがみ込むと、頬杖をついて、にやりと笑った。
「勝ち」
八重歯の覗く顔を見上げて、ソラは悔しそうに顔を歪めた。ミナミはその顔を確認したあと、たまかへと顔の向きを変え、見上げた。
「……信じよう。縹様は、てめえに任せる。あっしらは本来の作戦通りに動こう」
「ミ……ミナミさん。どうして……」
「あっしは頭が良くなくて、どうすればいいのかよくわからん。でも、縹様がてめえを信頼しているのはよくわかる。縹様が見込んだ相手なら、信用出来る。だから、てめえの判断に従う」
「ただし」と続け、その目を鋭く冷たいものへと変えた。
「縹様に何かあった場合、てめえの命はない。わかるよな?」
低い声は、背筋を震わせる圧力があった。それでも、たまかは気丈に頷いた。その反応を見て、ミナミは満足そうに口角をあげた。それから、まだ荒く息を吐くソラを見下ろした。
「てめえもこいつを認めかけてたじゃないか。素直になれ」
ソラは不満そうな表情をしたが、まだ苦しいらしく、反撃の言葉は出なかった。息を整え続けるソラを、突っ立ったままのカイも黙って見下ろす。
「さっさと向かいな。こっちも作戦が終わり次第、すぐに財団に向かって合流する」
ミナミの言葉に、たまかは「待ってください」と言って、この場を動かなかった。




