第87話
アカネは手を伸ばしたまま、封筒を握るでもなくぽかんとたまかを見返した。
たまかとアカネが初めて出会った時、アカネは取引の真っ最中だった。その後乱入した『ブルー』によって、取引相手は殺害されてしまった。しかしアカネ曰く、取引相手の組織は仲間が『レッド』に殺されたと主張せず、素直に予定通り取引をしたようだった。取引で優位に事を運ぼうとせず、誠心誠意、公平な取引に徹したこととなる。アカネや『レッド』が因縁を付けられることもなく、アカネの責任が問われるような事態にもならなかった。
「取引と言っても商いの面が強そうでしたから、普通有利に事が運べそうなら飛びつく状況だったはずです。ですが、なぜか相手側はそのようにはしませんでした。どうしてかと考えた時、取引相手にとって二つの理由があったと考えられます。一つ目は、自組織の人間を『レッド』が殺すはずがないという確信があったこと。二つ目は、相手側に取引を優位に進めようとする気がそもそもなかったこと」
差し出された封筒は、いつまでも宙に浮いたままだ。
「ということは、取引相手の組織は、『レッド』に対して良い感情を持っていたと推測出来ます。『ブルー』や『ラビット』を始め、様々な組織と敵対し、どこよりも畏怖の念を抱かれていた『レッド』に対して持つ感情としては、かなり珍しいものです。つまり取引相手の組織は、何かによって『レッド』への印象を改めた。そしてそれは恐らく、私もまさに現場に遭遇した、『取引』によってだったと考えられます」
噴水が、光を浴びて溢れ続けている。休憩スペースには、相変わらずたまかとアカネ以外の人影は現れない。
「服装からして、取引相手は『ブルー』や『ラビット』の者ではありませんでした。つまり、あの取引相手は有象無象の弱小組織の一つということになります。少人数で資金も力もない、三組織が少し突けばすぐに消し飛んでしまうような、そんな組織」
アカネは口を挟まなかった。手を伸ばしたままの体勢で、止まって動かない。
「では、そんな組織が力を持った組織である『レッド』と一体何を取引していたのか。取引相手が『レッド』を好意的に思うほどのものとは、一体何か。……今ならわかります。林檎さんが陰で、一体どのような行動を取るのか」
「……。言っておくけど、あんたの思っているようなものじゃないよ」
たまかの手から、白い縦長の封筒が離れていった。アカネは受け取った封筒を開け、中身を覗き込んだ。
「ええ、わかっていますよ。……きっと林檎さんは、物資の確保が難しい組織に対して、食糧を提供していたんです。潰す方が遥かに簡単なはずなのに、彼女は小規模組織を支援していた」
「……」
他の者達から血も涙もないと畏怖の念を抱かれている『レッド』、そしてその長。しかし彼女の真に目指す先は、『平和な世界』だった。ならばきっと、彼女はそのように行動していたはずだ。たまかは照明の輝く天井へ顔をあげ、足をぷらぷらと動かした。
「相手側は完全に身を隠していましたし、アカネさんも人目に付かない場所を選んで取引していました。つまり、あれは非公式の取引、隠れてこっそりと行っていたということになります。小規模組織の援助だなんて、『ブルー』や『ラビット』を始めとした他の組織に知られれば、『レッド』の威厳に関わりますからね。メンツを重んじる組織にとって、情けを掛ける行為は絶対に知られたくないでしょう。アカネさんが行っていた任務は他言厳禁、口外禁止の極秘任務だったというわけです」
アカネは封筒を手にしたまま、じっとたまかを睨んでいた。たまかはアカネへと顔を戻した。
「ですがそれを私に知られてしまいました。特大大目玉です。どうしますか?」
たまかは笑みを見せて、小さく舌を出した。
「黙ってはおけないね。『ブルー』や『ラビット』はもちろん、『レッド』内へも絶対に知られてはいけないときつく言われていたんだ。口外するのなら、お前を殺すしかなくなる」
アカネは目を細めたまま、厳かにそう言った。これは脅しではない。アカネを始め三組織の者は、息をするように相手のことを殺せるのだ。
「なるほど」
たまかは観念したとばかりに頷いた。
「それならば、私が他の組織へ告げ口するか見張る必要が出てきますよね? 『レッド』を離れるわけには、いかないのではないですか」
「今ここで殺せばいいだけの話でしょ」
「そう来ますか……」
たまかは苦笑を漏らした。三組織の者は、相変わらず血の気が多い。
「……アカネさんはどう思っていたんですか?」
「ん?」
「小規模組織への食糧提供について」
アカネは睨むことをやめ、逡巡するように視線を動かした。少し言いにくそうに続ける。
「……理解出来ないと思ってた。いくら朱宮さまのお考えとはいえ……他組織への支援だなんて。毒入りってわけでもないようだったし、食糧の供給経路の操作や掌握が目的でもないみたいだった。それでも朱宮さまのことだから、絶対に何か裏があるんだって思ってた。私では思慮が及ばないようなことを水面下で実行していて、それはきっと他組織の奴らに大打撃を与えるはずだ、って……。でも、任務を続けていても、いつまで経ってもそんなことは起こらなかった」
アカネはたまかへと顔をあげた。
「あんたは……朱宮さまがなぜこのようなことをしたのか、わかるの?」
「……恐らく、答えはそこに書いてありますよ」
アカネの手中に収まる封筒を指差す。
「……中身を読んだの?」
「読んでませんよ?」
アカネは複雑そうな顔をしたあと、黙って封筒の中へ手を突っ込んだ。中の便箋を広げ、無言で読み始める。その目は一字一句を漏らさないようにするかのように、真剣だった。
たまかは天井を見上げた。眩しい照明に目を細める。たまかもアカネも口を噤んでいると、水の流れる音がその輪郭を露にする。さらさらという音に耳を澄ませながら、たまかは再び足をぷらぷらと動かした。
(林檎さんは私を長へ据えようとしていました。恐らく、『レッド』の皆さんへ宛てた手紙でも、皆さんを説得しようとしているはず)
たまかは自分が優れているとは思っていないが、林檎の優秀さは理解し、信用している。林檎の手紙はきっと、アカネの弱点を的確に捉え、確実に前へと後押しさせる言葉が書かれているだろう。ならばたまかのやるべきことは一つ、確実に林檎の手紙を読ませることだ。
「……」
水が噴水を何往復したかわからない頃、読み終えたアカネが顔をあげた。手紙を持ったまま両手を後ろに回し、アカネは腕に体重を預けて天を仰いだ。反らした身体で、「はあ~」という特大のため息を漏らしたあと、ぽつりと呟く。
「……なんで、死んじゃったんだろ」
「……」
噴水の上から、水が零れ落ちていく。飛沫が照明に反射して、白く光った。
「……そんなことないのに。これまでだって今だって、あなたは私の理想だ」
その言葉は、たまかに向けられたものではなかった。だから、たまかも返事をしなかった。
しばらく、二人は無言だった。水の音だけが休憩スペースに小さく響く。アカネは天を見上げ続けていたが、やがて身体を起こした。
「気が変わった」
簡潔に、一言。そう、アカネはいつも判断が早い。
「私は『レッド』に残る」
たまかを振り向く。珊瑚朱色の小さい三つ編みが、併せて跳ねた。
「お前の導く『レッド』に興味が湧いた。朱宮さまを超えるらしいお前が、どこまでやるのか見てみたい」
「ええ……? 一体、どんなことが書いてあったんですか?」
「秘密」
アカネは歯を見せて笑った。それから、「あくまでも朱宮さまの言葉に従うのであって、お前に従うわけではないから」と釘を刺される。たまかは「わかってますよ」と苦笑を返した。
「朱宮さまの意向だからね……私のことは、遠慮なく使って欲しい。交渉系よりは、機敏さが求められる任務の方が得意かな。後は隠密行動にも慣れてる」
「なるほど。……では、今後小動物の捜索の機会があれば、アカネさんに任せましょう」
「……え?」
真面目な顔で考え込むたまかを前にして、「小動物?」と返すと、アカネは呆れた表情を浮かべた。
「……お前やっぱり、馬鹿だろ」




