第84話
たまかはアンティーク調の重厚な扉をゆっくりと閉めると、入った部屋の中を見渡した。壁に沿うようにして並ぶ本棚には、分厚い本がびっしりと収まっていた。その手前には大きなエグゼクティブデスクが鎮座している。天井の中央から垂れ下がった球体の照明器具の下を、白い靴を鳴らしてゆっくりと通り過ぎる。デスクの木面に指を這わせ、椅子へと腰を下ろした。疲れた身体を預けるように、背もたれにもたれ掛かる。顔をあげた視線の先、白いレースカーテンの引かれた窓の外は、街並みが広がっていた。防音がしっかりしているらしく、窓の外からも廊下からも音は聞こえてこない。無音の中、ぼうっと白い空の下に広がる光景に目を奪われる。そしてたまかは身体を起こすと、デスクの横のランプへ手を乗せた。灯りをつけると、温かみのある優しい色合いの光が淡く机の上を照らした。
たまかはデスクの引き出しを上から順に数えた。三番目で人差し指が止まり、その取っ手を掴む。ゆっくりと開けると、そこにはサクラから教えられた通り、いくつかの封筒が収まっていた。一番上の、『たまかさんへ』と綴られた封筒を取り出す。他の縦長の封筒達とは違い、正式な書類を入れる時に使うような大きい封筒だった。何枚も紙が入っているようで、片手だけで持つのは難しかった。机へと乗せる。その封筒には封がされていなかった。手を突っ込んで中身を取り出すと、空になった封筒の上へぶ厚い束を乗せた。たまかは読み始める前に、一度顔をあげた。生前、林檎のプライベートな書斎だったというこの部屋を、改めてゆっくりと見渡した。それから顔を戻し、紙の束に視線を下ろす。
(林檎さんの寝不足そうな肌の色、それに指の胼……)
車の中、隣に座っていた彼女の様子を思い起こす。彼女は今まさに自分が座っているこの席で、夜通しこれを書いていたのだろうか。たまかは一番上の一枚を掴んだ。そこには、達筆な文字が一定間隔で綴られていた。黒のインクが躍る様は、芸術品のようだった。
『たまかさんへ』
出だしは封筒の宛名と同様だった。
『これをあなたが読んでいる時、わたしはこの世にいないのでしょう』
たまかは思わず目を疑った。再度読み込む。しかし、誤読でもなければ、文字が変わることもなかった。
「林檎さん……自分が死ぬって、わかってたんですか?」
答える者はいなかった。返事のない静かな室内で、たまかは一人手紙を読む作業へと戻っていく。
『長に任命されたあなたは、怒りに震えているでしょうか。あるいは、わたしを軽蔑しているでしょうか。喫驚して、空を仰いでいるかもしれません』
端整な文字達からは、林檎がどのような気持ちでこの文章を書いていたのかを汲み取ることは出来なかった。
『ですが、この『レッド』の長という席は、あなたの身の保険になります』
猫探しの最後、林檎がたまかの身を案じて言葉を掛けてくれたことを思い出した。猫の行方を知らず、さらには再度会うことが不可能と財団に知られた場合、たまかは財団にとって用済みであり、消されてしまう。努々お忘れなきよう、という淡々とした声の忠告を反芻する。
『いくら財団であろうと、『レッド』の長を易々と手に掛けることは出来ません。『ブルー』や『ラビット』も同様です。目に見えて手を出し辛くなります。『不可侵の医師団』の一個人を殺めるのとは、霄壌の差があるのですから。加えて、『レッド』の長となれば、『レッド』の者達が身命を賭してあなたの身を守ってくれます。あなたは聡明で厖大な、忠実な騎士を手に入れることが出来るのです。これであなたは外部の攻撃に対して、盤石な布陣を築いて備えることが出来ます。財団の脅威が消散するまでの間、他の組織が手を出せないこの唯一無二の席に座ることは、たまかさんにとっても莫大なメリットがあるのです』
彼女らしい話法だ。いかにこちらにメリットがあるかを強調して、提示する。しかしもちろん、ただ単にたまかの身を案じただけで次期リーダーに据えたというわけではないだろう。たまかは読み終えた紙を横に広げ、次の紙へと読み進めた。
『たまかさんは、三組織のいずれにも属していない、『よそ者』でした。完全中立でどこの組織にも肩入れをしない、何色にも染まらない異端分子。しかしあなたは不運にも事件の渦中の人物となってしまいました。たまかさんは三組織を渡り歩き、三組織の人員や長と接触し、三組織との関わり合いを深めていったことでしょう。それと同時に、わたし達もたまかさんという人物を知っていきました。たまかさんは人を傷つけることを極端に嫌がり、人のために臆せず行動を起こし、そしてなにより目的のために自身の知恵を使い、最後まで粘り強く立ち向かうことが出来るお方です』
内巻きの薄桃色の毛先を、僅かに揺らす。大きな瞳は、林檎の文字を何処までも追い続ける。
『三組織の内情に関与しない、そして人を傷つけることをしない……そんなあなたなら、平和を実現できる。そんなあなただからこそ、今の状況を変えられる。わたしはあなたと出会った時から、そう確信しておりました』
紙を持ち上げ、横へとスライドさせる。新しい文字の洪水に、その目を走らせる。
『わたしは昔から、平和な世界を望んでおりました。争いのない、そして生きている人達が皆『自分らしく』生きることが出来るような世界をです。そのために組織を立ち上げ、同志を募り、日夜研鑽して参りました。しかしながら、それは途方もない、先の見えない道のりでした。襲い掛かる武力や狂気に対して、知恵だけでは犠牲が出るばかりでした。そのうちわたしは考え方を変え、理想とする目的のためなら、代償は仕方ないと割り切るようになりました。そして手を取り合うような夢物語を捨て、他組織の殲滅に舵を切りました。それが平和な世界に繋がると、わたしは信じていました。ですがたまかさんに出会って、わたしのやり方は理想とする世界への道に本当に繋がっていたのかと、そう思案するようになりました。きっとあなたは、わたしの辿り着くことの出来ない道を知っています。それはわたしと同じ目的地を目指していて、けれどその道のりはわたしのものとは全く異なる景色が広がっていることでしょう』
紙を捲る。乱雑に放り出され、横へと滑っていった。
『わたしはこれまでずっと、『平和な世界』を追い求めてきました。それを嘲笑うかのように三組織の抗争は止まることを知らず、今日も昨日と同じ様に『レッド』の子達の命が失われていきます。それでも、わたしは理想の世界を追い求め続けることを止めたりしません。そうしなければ、望んだ未来を得ることは出来ませんから』
猫探しの後、二人きりになった時の光景が広がった。林檎の珍しく少し強張った顔が、脳裏に蘇る。彼女の中で何か大事なことをたまかに伝えようとしていたこと。彼女が等身大の表情で、その紅色の髪を揺らし、たまかを大きな瞳で見つめて——紙に無機質に踊る、この文章と同じことを口にしていたときのことを。
『ですが、平和な世界を望み追い求めるのは、何もわたしでなくてもいい』
結局最後まで口に出来なかった言葉の先が、こんなに絶望で染まったものだったのなら、たまかは死ぬまで知りたくはなかった。
『たまかさん。あなたこそ相応しい』
「……」
たまかは一度文字から顔をあげた。頼る先を失ったように、忙しなく視線が泳ぐ。やがて視界がぼやけ、たまかの瞳から大粒の涙が零れて紙の端を濡らした。ナース服から伸びる腕で目元を拭い、再び達筆の先を追う。




