第75話
イロハの前へ近づくと、彼女にしては珍しく反応が鈍かった。その顔は複雑そうで悩まし気で、たまかの初めて見る顔だった。自身の所属する長、そして三者会談の立役者が現れたことに気付くと、彼女は我に返り、慌てて頭を下げた。いつも飄飄としている彼女の貴重な姿に、水面は一瞬眉を顰めたが、それだけだった。
「お疲れ様です。ご無事でしょうか」
「三者会談は終わった。取り急ぎ、お前には『ブルー』のアジト以外で安全を確保できる場所を探して欲しい」
「はっ」
二人の会話を横でききながら、たまかは一人思考に耽る。
(イロハさん、盗聴して三者会談の内容をきいていたから、混乱しているんじゃないでしょうか……。長三人が昔知り合いだったなんて、衝撃でしょうからね)
三組織に所属していないたまかでさえ、雷に打たれたかのような衝撃だったのだ。イロハの心情は察するに余りある。思わず密かに同情の笑みを向けた。
「あたしは一度アジトに戻る。近いうちに大きな作戦を展開するから、人手も集めないと。『ブルー』内部は朱宮の話じゃ危険らしいし、一旦たまかを預けていい? 下の抗争にも参加したいしね」
「はっ」
イロハの返事をきいたあと、「そういうわけだから、またな」とたまかに声をかけ、水面はエレベーターへと向かった。二枚歯の音が遠ざかると同時に、見送っていたたまかはイロハを振り返る。イロハは顔をあげたが、その顔はやはり晴れないものだった。納得のいかないような、不満のあるかのような、悲しさの滲む表情。たまかは不思議そうに見上げたあと、こっそりと耳打ちした。
「びっくりですよね、御三方があんな関係だったなんて……」
「えっ?」
イロハは驚きの声を小さく廊下に響かせた後、長い袖を揺らして頭を掻いた。
「いやー、実は私、知ってたんだよねえ……」
「えっ!?」
イロハのよりも幾分か大きい喫驚の声を廊下に響かせる。あの衝撃の事実を知っている者が他にいようとは、夢にも思っていなかった。たまかの声に応えたというわけではないだろうが、一際大きな轟音と衝撃が、建物の外から二人のいる場所まで伝わってきた。
(ですが確かに、イロハさんに盗聴されているって林檎さんは知っていたはずですし、元々知られていなければあの場で堂々とその話題を出さないはずですよね)
少し考えれば分かる事だったかもしれない。イロハはたまかの様子を見て勘違いしたらしく、訂正を挟んだ。
「あ、三人の関係を知っているのは、たぶん当事者以外ではたまかさんと私だけのはずだよ。皆が知っているわけじゃないから、誤解しないでね」
「いえ、皆さんが知っていたとしたら大問題ですよ……」
それはそうだろう。たまかが苦い顔でそう返すと、イロハはけらけらと笑った。すっかりいつもの調子だ。
(あれ、じゃあなんでイロハさんは晴れない顔をしていたんでしょう? 御三方の関係は元々知っていたんですよね……?)
疑問を探ろうとして、たまかは部屋の様子を思い出した。
「あ、そういえば。知っているとは思いますが、三者会議で使用した机、今いちごミルクが大量に零れている状態で……。何か拭くものを用意して頂けないでしょうか? いえそれ以前に、窓が割れて弾痕もあって室内は滅茶苦茶なんですが」
「ああ、それはもう手配済み。あとで片づけておくから、心配しないで。朱宮さまからもきいてる」
「林檎さんに会ったんですね」
林檎は水面とたまかより一足早く部屋を後にした。先に一人出ていた林檎が、廊下にいたイロハと会話をしていても不思議ではない。
「うん……」
イロハは遠くを見て、心ここにあらずの状態で生返事を返した。その時を思い起こしているのだろうか。
「……林檎さんは、なんと?」
「……まあ、いろいろと」
曖昧に暈されたあと、この話は終わりだとばかりに、イロハは淡く笑みを浮かべた。
「さあ、場所を移そうか、たまかさん。安心して、『ブルー』は全力でたまかさんを守るよ」
明るく言われ、たまかは頷くより他なかった。イロハは笑顔を向けながらたまかの背中を優しく押した。たまかもつられて、足を踏み出す。すっかり普段の調子に戻ったイロハの案内のもと、たまかは鉄樹開花の三者会談の会場を後にしたのだった。
***
三組織の長達による、三者会議から数日後。
たまかは『ブルー』の所有する建物内に身を潜めていた。『ブルー』のアジトからいくらか距離のある、都市部の端にそれは位置していた。寂れた住宅街の一角、四階建ての一見何の変哲もないアパートのような建物は、隣接する建物達と同様、抗争による傷を負いながらもよく手入れのされた建物だった。その四階の一室が、たまかに割り当てられていた。身を潜めていると言っても、ただ住んでいるのと変わりない。縄を付けられることもなく閉じ込められることもない、しかし実質出入りが制限されているというだけだ。『ブルー』の者が尋ねにきたり、近くで様子を窺ったりしていること以外は引きこもりの生活を送っているのと同等の扱いだった。仰々しい見張りは隠している以上つけることは出来ないため、表立って『ブルー』の者が建物周辺に立つことはない。それでも近隣の建物からの監視、配送業者を装った来訪などで、度々『ブルー』の面々の顔を拝むことになった。
『ブルー』に身を寄せてからの数日間、財団に動きはなかった。たまかの命が脅かされることもなく、不安や恐れは杞憂に終わった。というより、そもそもたまかには命の危険に対する心配をする暇が与えられていなかった。何せ、財団の関係する銀行の強盗計画を立てなければならなかったからである。たまかはない頭を捻り出し、自身の叡智のすべてを注ぎ、銀行に関する情報をかき集め、なんとか林檎に匹敵するほどの……いや、その足元に辛うじてタッチ出来るであろうくらいの策を企てた。
(それすらも盛り過ぎですね……。林檎さんの策と比べることすら烏滸がましいです)
ただ、形にはなった。『ラビット』が実行役、そして『ブルー』が財団員の牽引役の作戦。正面から銀行員を相手取ったところで、正体を隠す必要がある以上こちらが不利。そこでなるべく『ラビット』や『ブルー』の正体がバレないような一計を巡らす必要がある。本来ならばそこを林檎が担当するべきところだが、今回はたまかがそれを担った。
策が出来上がったことを『ブルー』に伝えると、取り急ぎ『ラビット』と『ブルー』による二組織の会議の場が設けられた。一応『レッド』にも伝えたが、林檎が三者会議で自己申告していた通り、林檎どころか『レッド』の人員すら姿を現さなかった。さらには『ラビット』側も、姫月の姿はなく『ラビット』の人員のみが参加した。言い出しっぺの本人は勿論参加するものだとばかり思っていたたまかは、会議の場に現れない長に拍子抜けしてしまった。ただ同時に、水面とのあんな別れ方を見てしまった以上、姫月が姿を現しにくいであろうことも想像がついた。彼女達の溝は、想像を絶する程深いのだ。会議では『ブルー』と『ラビット』の仲は始終極めて悪かったが、『暴れられる』『楽しいことが出来る』というそれぞれの欲望が辛うじて作戦実行の意欲へと双方を繋ぎ止めているらしかった。
そうして『ラビット』と『ブルー』、双方への作戦の共有が終わり、会議は恙無く終了した。『ラビット』や『ブルー』はもちろん、『レッド』や財団の襲撃を受けることもなかった。銀行強盗を実行するにあたって、たまかが力になれるのはここまでだ。あとは実行役と牽引役の働きに任せるのみである。




