第66話
たまかが情報を脳内で処理しきれず、頭の中が宇宙へと旅立っている間に、三組織の長の会議参加の返事は出揃って、開催日程までも詳細に決められていた。財団の襲撃がいつ来るかわからない以上早ければ早い方がいいということで、『レッド』の提案が伝えられた翌日には開催される運びとなった。場所は三組織のいずれの息も掛かっておらず、いずれの土地にも属さない場所、かつ財団の手が入っていないところ、という基準で選ばれたらしい。結果、ほとんどテナントの入っていない一棟の高層ビル、その最上階の一室が宛がわれることになった。
たまかはチーン、という到着を告げる無機質な音が耳に入ってはっとした。ほとんど揺れや音を感じないままだったが、エレベーターの扉が開いたということは最上階へ着いたらしい。横にいた姫月がフロアへと歩いていき、やがてついてくる気配がないたまかに気付いて振り返った。姫月はガムを噛んでいて、その小さい口元をゆるく一定速度で動かし続けていた。急かすわけでもなくじっと見返してくるフェイスペイントの上の二つの瞳に、たまかは慌ててエレベーターを降りた。
昨日姫月に参加の返事をききに行った時から、会議のことを考えれば考える程、写真のことが思い起こされて何も思考が進まなくなる、ということの繰り返しだった。頭は常にそのことばかりで、一応姫月が共にいた時間が長かったはずなのに、この一日の記憶がすっぽり抜け落ちていた。たまかにとって、あの写真はそれほど衝撃的だった。いや、写真自体も衝撃的だったが、それよりもなによりもあの写真を撮った過去がある中で三人で顔を合わせようとしている事実がたまかのなかでどうしても咀嚼出来なかった。姫月の言いぶりでは、恐らく組織を立ち上げてから三人が一堂に会するのは、今回が初めてなのだろう。下手すれば対面するのはあの写真の撮られた頃以来だったりするのかもしれない。一体全体三人がどんな気持ちでいるのか、たまかにはとても想像がつかなかった。各組織の思惑や動向を推し量るべきなのに、それどころかそれ以前の話である。三人の感情がたまかにとって予想不可能で全く分からず、だからこそそれがどのように会議に影響するのか微塵も予測がつかなかった。当事者でもないのに、なんだかたまかの方が嫌に緊張してしまい、そわそわと指と指を絡めてしまう。
入っている事業者などもなく、フロアに人影はなかった。フロア全体に控えめに音楽が流れており、耳に僅かに入ってくる。小奇麗な廊下を見渡すと、照明器具の上や廊下の端にも埃一つ乗っていなかった。どうやら使われていないのに手入れはされているらしい。ふかふかのカーペットを踏み締め、先を歩く姫月に黙ってついていく。彼女は長い二つ結びとフリルの黒白スカートを揺らし、その厚底を緩やかに動かしていた。小さい背中からは、その表情は窺い知れない。
(姫月さん、今一体どんな気持ちでいるんでしょうか)
敵対している組織の長に相対する緊張でいっぱいなのか、それとも旧友に久しぶりに会う期待感で満ちているのか。そこまで考えて、姫月に緊張の二文字は似合わないな、とたまかは思った。
言葉はなく、しかしそれが居心地悪いわけでもない。一定の距離感のまま、二人は静かに廊下を歩いて行く。
「あ」
廊下の奥に、帯の御太鼓が見えた。薄群青色を基調とした衣、長く垂れる緻密な模様が彩る袂、カーペットに食い込む二枚歯。すらりとしたスタイルに、ウェーブがかったアイボリーのショートカット。編み込まれたハーフアップの髪を留めている大きな花の簪。たまかの見知った背中だった。相手も声に反応して、こちらを振り向く。近づいてきた二人に、イロハはその口角を優し気にあげた。
「桜卯様、たまかさん。こんにちは」
深くお辞儀をされる。この場は会談の場であり、抗争はご法度である。その姿勢を、礼儀で見せたのだろう。
「縹様と朱宮なら、もう到着されております」
イロハは自身の出てきた扉を掌で示した。姫月はガムを嚙みながら、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべてイロハを見上げた。
「どうも。大変だねえ、どっちのご主人様にもいい顔をする必要があって」
「何のことでしょうか?」
イロハは薄い笑みで返した。変わらず口調は柔らかい。姫月は表情を変えなかった。
「というか、一人で来いって話じゃなかったの? 部下を連れてくるなんて、早くも約束破りやがったな」
「いえ、私は道中の付き添いをしただけですので、もう失礼致します」
イロハは再びぺこりとお辞儀をし、足を動かしだす。たまかとすれ違い様、少し背を低くして、彼女はひっそりと耳打ちをした。
「たまかさん、大丈夫。君に何かありそうになったら、こっちも動くから。頑張って」
彼女は姿勢を正すと、すらりとした足を動かし、廊下の奥へと消えていった。
(ああ、ということは、この会議も盗聴されているんですね……)
イロハが味方になってくれるならば大変心強いが、三者会談が盗聴されるのは長達的にはどうなのだろうか。思わず隣を振り向く。人影もなく物音もしない廊下である、囁き声だとしてもばっちり聞かれていたはずだ。控えめなクラシック音楽は障害にもならない。
「誰も約束守ろうとしてねえな」
姫月はガムを咀嚼しながら、呆れたように言った。『盗聴をするな』と明示されたわけではないため、『レッド』的には約束を破ったとは思っていないのでは、と思ったが、たまかは口に出すことを避けた。
「姫月さん、イロハさんとお知り合いだったんですか?」
代わりに、当たり障りのないことを尋ねる。
「いや、『ブルー』に『らしくない』子がいるなあって思ってたんだよね。『ブルー』の奴がお辞儀なんてするわけないんだよなー」
姫月は言いながらすたすたと扉へ近づき、そのまま重厚そうな木製の表面を三回ノックした。話ついでという感じで、思わずたまかの方が慌てた。まだ、心の準備が出来ていないのに。姫月本人でもないのに、そんなことを思って姫月の背中へ非難の目を向けた。
「入れよ」
よく通る声が響いた。これは水面の声だ。姫月は返事を確認すると、自分の部屋を開けるかのように躊躇いなく扉を押した。
姫月の背中越しに見えた部屋は、だだっ広かった。たまかの『不可侵の医師団』の寮の部屋の、二十倍以上は軽くありそうな広さだった。近くの丸テーブルに、二つの人影があった。そのテーブルには椅子が四つ等間隔に用意されていて、そのうち二つに林檎と水面が座り、こちらを見ていた。行儀よく姿勢を正して座る林檎と足を組んで背もたれへ腕を預ける水面は、まるで対になっているかのように対極的に見えた。しかし二人共、ただ座っているだけなのにオーラや威圧感が滲み出ていた。隙を見せず、相手の隙は見逃さない、そんな気概が透けていた。
「よう」
姫月は廊下ですれ違った時の挨拶のような軽さで、片手をあげてみせた。黒白のフリルとレース、リボンに塗れた袖がふわりと揺れる。これが長としての貫禄なのか、他組織の長達を前にしても何も変わらない、堂々たる姿だった。たまかはその背中を思わずぱちくりと瞬きを挟んで見つめた。
林檎が僅かに眉を顰め、水面は眉根を寄せて姫月の全身へ嘗めるように視線を向けた。そんな二人の反応にも全く動じず、姫月はテーブルへと近づいていった。たまかも扉が閉まるのを確認したあと、小走りで姫月へと続く。二人の元へ来ると、林檎の視線が姫月からたまかへと移った。
「たまかさん、お元気そうで何よりです」
ここにいる三人の中では、林檎が一番会って久しい。彼女は相変わらず人形のように線の細い華奢な身体で、上品に笑みを浮かべてたまかを見上げていた。
「仲介役を引き受けてくださり、ありがとうございます。この会談は重要な意味を持つでしょう、どうか仲介役を全うして頂ければと思います。財団に命を狙われているということで、内心穏やかではないかと思いますが……」
「えっ? あ、は、はい。……そうですね」
「?」
想像していた反応ではなかったらしく、林檎は大きな二つの瞳で不思議そうにたまかを見上げた。
(財団に命を狙われている怖さなんて、写真と御三方の件ですっかり忘れていました)
それほど衝撃的だったのだ。たまかを始めとして、三組織が抗争ばかりしていることは周知の事実、この世の常識だ。その長達が過去面識があり、その頃は写真を撮る程仲が良くて、それだけでもびっくりなのにこれから会談をする、と言い始めたのだ。頭の中がそればかりで混乱するのも無理はないだろう、とたまかは内心頬を膨らます。
姫月は特に二人の許可を待たずに椅子へどかりと座った。黒白の膨らんだスカートは椅子に収まっていない。たまかも慌ててそれに倣い、空いた残りの一つへと座った。




