第58話
しばらくして、たまかはナナの横から立ち上がった。ノアの治療はかなりの時間を要したが、ナナの治療は然程時間を掛けずに終えた。本格的な治療を後にした分、今の段階でやれることは少ない。
ナナは器具によって固定された手首を矯めつ眇めつ見て、ぼそりと零した。
「スターターロープは怪我していない方で引っ張ればいいか……」
「え、まさかその手で戦う気ですか?」
たまかは向かいのソファに戻ろうとしていたのを思わず止め、横を振り向いた。ナナは当たり前だ、という顔で手首から顔をあげた。
「今、『ラビット』のアジトに『ブルー』と『レッド』の奴らがいるんだよ? さらには『ラビット』の子達の個室を全部開けられる鍵があって、それが怪我をしているナナの手元にあるんだよ? あいつらがナナを襲って鍵を奪うなんて、火を見るよりも明らかでしょ」
「今のお二人は『ラビット』の襲撃が目的ではありませんよ」
「たまかちゃんは何か勘違いしているみたいだけど、三組織同士の仲ってそう単純じゃないよ。隙あらば殺す、殺さなきゃ殺られる、そういう世界だよ」
ナナはそう言うと、警戒するように部屋を見渡した。
「……特に『レッド』。『ブルー』は正面から拳で来るからわかりやすいけど、『レッド』は陰湿で狡猾だから。『レッド』が監視対象であるたまかちゃんをこうやって一人出歩かせているのもすっごく不自然。恐らくだけどこの会話、全部盗聴されてるよ」
「えっ!?」
たまかも慌てて部屋を見渡し、そして自身のボロボロの制服を見下ろした。素人の目視だけでは、盗聴器のようなものは見つけられなかった。
「『レッド』はこの機会に『ラビット』の内部の情報を盗もうとしてる。だから『ラビット』にたまかちゃんを置いていく、なんて言い出したんだ」
ナナはため息をついた。たまかは何か思案するような顔で、自身の膝を見下ろした。大部分が破けたり焦げたりしていて、おまけに血に染まっているが、たまかの瞳はそれらを映していなかった。ナナはそこではっとして、少し心配そうにたまかを窺った。
「こ、怖がらせた?」
「怖がってはいません」
「怖がってはいないんだ……」
「ちょっと、いろいろ考え事をですね」
そう言って気難しい顔で黙ってしまったたまかの隣で、ナナは自身の人差し指をちょんちょんとくっつけた。レモン色の長い横髪が合わせて揺れる。それからたまかを見、顔を戻し、再度たまかへと振り向いた。
「あ、あのさたまかちゃん」
「はい、なんでしょう」
「その……ポポの部屋で言ったこと……」
ナナは言いにくそうに、そう続けた。たまかは思考を切り上げ、ナナへと身体を向き直した。ナナの目は部屋中を泳いだ。
「……あの言葉は撤回させて。ナナ、たまかちゃんとお話したいよ。遊びもしたいけど……まあ、我慢する。キツキちゃんに言われたから。たまかちゃんと友達になりたいなら、こうしろって」
ナナは切実な目をしていた。心の中を一生懸命伝えるかのように、必死に言葉を紡ぐ。
「ナナ、ナナが近づくことで、たまかちゃんに嫌われたり嫌な思いをさせたら嫌だって思いはある。でもたぶん同じくらい、ナナと一緒に話して欲しいって気持ちもある。苦痛を与えた状態じゃない人と接するのは怖い、すごく怖いけど……でもこれは同時にチャンスでもあるって、キツキちゃんは言ってた。たまかちゃんみたいな人が傍に来ることなんて、滅多にない。だから……新しい形の『友達』を作るチャンスなんだ、って」
ナナは緊張のあまり少し泣きそうな顔をしながら、続けた。
「たまかちゃんは、どう? ナナの友達に、なってくれる?」
たまかは笑みを作って即答した。
「喜んで」
「ほ、本当に……? いいの?」
「もちろんです。人を無闇に傷つけたりしないと誓ってくれれば、なおいいのですが」
「ごめん、それは無理……」
「まあ、三組織の人間にそれを求めるのが酷なのも、ここ最近で嫌と言う程身に染みて理解しましたからね」
各々に戦う理由があり、それはたまかの願い如きで止めることは出来ないほど強い。それを実感する瞬間が多々あったことを思い出す。
「相手を嫌な気持ちにさせることなんて、人間誰しもあります。あまり気負い過ぎないでいる方がいいですよ。私だって、ナナさんに麻酔打っちゃいましたしね」
「あれは嫌な気持ちとはちょっと違うと思う……」
あははと決まり悪く笑ってみせるたまかへ、ナナはじっとりとした目線を送った。そしてどこか気を許すような苦笑を挟んだ後、ナナははにかんだ。幼さの残る、けれど心から嬉しそうな顔だった。
「さて、それじゃあ……戻りましょうか」
満足そうなナナを見て、たまかは片手を差し出した。『ラビット』側へ鍵の返却も完了し、ナナの応急処置も完了した。これ以上ここに留まる理由もない。ナナも笑みで応じ、固定されていない方の手を差し出す。たまかの手を取り、立ち上がって隣へと並んだ。
「戻るついでにチェーンソー、取ってきていい? 傍に置いておきたいんだ」
「いえ。必要ありません」
ふるふると首を振るたまかへ、ナナは不思議そうな顔で首を傾けた。頭上のボロボロのヘッドドレスの糸がその衝撃で切れ、途中からだらんと垂れ下がった。
「ナナさん。『新しい友達』を、もっと増やしに行きませんか」
にやりと笑うたまかの言っていることがわからず、ナナは眉を寄せたのだった。
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